2016年9月22日木曜日

はつくにしらすすめらみこと 「崇神天皇」 【巻向王統 その11】 第二章



開化」が女王「臺與」にいざなわれて西晋訪台(AD266年)したときの唯一成果は、魏から帝位を奪いとった「司馬炎」の強烈な独善と中央集権支配体制の絶大さをまざまざと見せつけられたことであった。と、同時に任那縁辺が夷狄(濊貊)に蚕食されつつある中、宗主国「倭」が共立する女王の下、皮肉にも旧態依然たる神託政治の後進体制に危機感(内憂外患)を覚え、そのもどかしい意思決定とは裏腹に「炎晋」の専制がいつまでも脳裏から離れず、日夜祭政脱却に向けた思いを巡らせて焦慮していた。それが父「開化」の背を観て育った世子「崇神」によって為された必然的維新断行(統治改革)であり、邪馬台国女王「臺與」廃位へと繋がった。 
而して「崇神」が「大和」(倭)の「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)と称揚されるに到った所以である。


〚 私論仮説 倭大王誕生 〛

皇紀元年(西暦紀元前660年)を『記紀』は初代天皇「神武」即位年に据えた。この作為は日本の開闢起源をそこまで遡らせる古代史が実際に実在していたことを逆説的に物語っている。
西暦8世紀の大和朝廷の国史編纂者たちは、それを知っていたがゆえに出雲王朝を神代へと祭り上げ、欠史八代といわれる綏靖から開化までの天皇とそれに伴立していた女王の国際的事蹟までも同時に抹殺封印した。この抹殺封印した紀元前660年から開化没年までの凡そ935年間に生じた日本史の空白を如何に埋めるかで彼らは腐心した。そして稚拙にも兄弟を父子関係に仕立て上げ、何代にも亘りそれを繰り返した。
しかもその生没年も生態学的には当時あり得ない歳まで引き延ばすだけ引き伸ばし、935年間の長き空白を無理矢理穴埋めして先史を「神話の世界」へと追いやった。この不自然さがどこまでもつきまとう倭国草創期の『記紀』矛盾は、繰り返しになるが「出雲王朝」皇紀元年を「神武即位」元年にすり替えたところから既に始まっていた。このことから日本の黎明期が説明のつかない論理矛盾を孕んでどこまでも混沌と混乱を招いた。この混沌と混乱は支配者側(当時の為政者)の一方的な歴史史観に立った未必の故意から生じた。
以上は私論仮説に過ぎないが敢えてそれを踏まえたうえで以下、改めて日本の黎明期を一市井の視点から一石を投じてみたいと思う。


出雲王朝の発祥(起源)の地は大和「葛城」であった。紀元前660年にその王朝は成立した。その成立過程は、さらに400年を遡ること(縄文晩期~弥生早期)始祖「葛城氏」は畿内の邑族首長らと縁戚関係を結び、その紐帯する血脈の強固な絆から更に地域的連帯を深めて何代にも亘って徐々に勢力を伸ばしていった。その血統は始め必ずしも覇権を競って相手を従えさせるというものではなく互いに自治自衛と共存を尊重しながら個々の恒常的な物々交換(実物経済)によって得る相互互恵関係から成り立っていた。やがてその物々交換の輪(市場)は海人たちを介して或は自ら海人の頭梁となって任那へも乗り出し、その血脈は交易と交流を深めながら任那の国邑首長らともさらなる閨閥を拡大し、「葛城氏」本宗家の尊貴性(名声)をいやが上にも高めた。この血統の尊貴性はやがて倭人社会の統合の絆(連帯意識)となっていつしか列島の津々浦々まで浸透(求心力)していき、広く尊崇の的「倭大王」(現人神)となっていった。

神武東征前の大和国における話になるが、宇摩志麻治(始祖・物部氏)は、父「大国主命」(出雲王朝最後の大王)と母「御炊屋媛」(みかしきやひめ)との間で生まれた。御炊屋媛の兄は「長髄彦」で神武東征軍を河内で一旦は撃退した登美国の王であった。この兄妹の母方(宇摩志麻治にとっては祖母に当たる)の出が淡海(近江)湖南の支配者「三上氏」の娘という関係であった。この物部氏のその後の当主も「初代・宇摩志麻治」を含めて六代に亘り三上氏と通婚を重ねて母系血脈で強く結ばれていた。その母系血脈はやがて第九代「開化」を生み(生母は物部氏の欝色謎命・うつしこめのみこと)、開化は長じて巻向王統を切り拓いた。

大国主命は「葛城氏」の出であり、「三上氏」(天津彦根命)は若狭玖賀国(狗奴国)の「海部氏」(天御蔭命)の傍流(分家)という関係であった。これらの氏族は遡ればみな国邑首長らとの閨閥で繋がっていた優に700年間続いた「出雲王朝」の末裔たちであった。
(※ 物部氏が三上氏へ通婚したのはなにも「宇摩志麻治」が初めてではなく、またその逆のケースとして三上氏から物部氏への通婚もあった筈だ。)

女王「日女命」(在位AD188-247)の治世60年間は倭にとって最も長期安定期を迎えていた時代であった。この治世後期(AD238年、御年68才)、甥で大丹波王「由碁理」(第七代尾張氏当主・建諸隅・当時40才)を副使(漢風名:都市牛利)に、正使は中臣氏・梨迹臣・淡海湖北の宰(漢風名:難升米・当時47才)を立てて魏へ遣使させていた。
 この一行は遣使途上、司馬懿が公孫淵親子を討伐した「遼隧の戦い」に遭遇、凄まじい戦跡を目の当たりにしながら訪台し、魏の明帝「曹叡」から「銅鏡百枚」を賜わり、次世代の女王「臺與」訪晋への道標を築くものとなった。

同女王の治世中期には、六代前の先祖に当たる「大国主命」を奉斎して出雲大社で雄大な「巨木神殿」を創建した。一方で、通航すこぶる多い海の回廊任那西岸の多島海に面した辺山半島の岬に御屋「竹幕神殿」を建立して海の安全と交易の繁栄を祈願した。ここでも女王「日女命」の神託政治は如何なく発揮されていた。
(※ 荘厳な巨木神殿は台風か地震で倒壊したが以後何度か再建も試みられたと思われる。)

第二代「邪馬台国」(大和国)女王「臺與」(在位AD250-275)は、帯方郡太守「張政」の知己を得て(臺與13才のとき、同女王戴冠の儀に張政も立ち会っていた)魏の状況が伊都国を通じてつぶさに伝達されていた。そのことが西晋成立後の女王訪台へと機敏な動きに繋がった。臺與は日女命に倣い、新たな中国王朝に対して友邦の契りを交わす親善外交「化外慕礼」(華を兄・倭を弟)を目指して自ら進んで臨んだ。だが、禅譲間もない猛々しい華夷西晋はこれに馴染まず女王に同道した男弟「開化」はその拙速に思わぬ苦杯を舐めた。恐らく「親魏倭王」に代わる「親晋倭王」の印綬交換時に「化外慕礼」で臨む倭の対等的外交姿勢が障壁となってトラブったものと思われてならない。
“汝、忍びずして吾羞(はじみ)、吾 還りて汝を羞せむ” 怖ろしい言霊である。

この西晋訪台のつまずきが遠因となって倭は西晋との距離を置くようになった。そして崇神朝の御世になって臺與の事蹟が一切封印されたまま「女王臺與」廃位が断行され、それまでの出雲王朝伝統伝来の文化文物までも全国規模で仮借なく廃棄一掃された。
女王「臺與」のシンボルであり臺與にとってなによりも大切であった先代女王のレガシィ「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」(神器)までもが非情にも破却された。この破却された鉄鏡は何者かによって密かに都から持ち去られ「帥升」所縁の地「北部九州の生誕地」に埋められた。
後世の廃仏毀釈「明治初期」と同じ構図がここでも時代を遡って起こっていたのである。

天豊姫(女王臺與)はその後、父「建諸隅」の故地「丹後・余社郡」で無冠のまま廃位15年後(AD290年)に54才で身罷った。


「臺與」廃位(AD276年)以来このかた、崇神紀10年(AD285年)に天御蔭を祖とする「海部氏本宗家」(狗奴国/若狭の玖賀国)を討伐、「武埴安彦の乱」(豪族河内青玉繁の孫で孝元の長子)を討伐するなど数々の有力氏族との間で雌雄を決する険しい内戦が相次ぎ、加えて深刻な飢饉地獄が帝都を襲いそれが來る年も来る年も何年もつづいた。
さすがの崇神も度重なる凶事に女王「臺與」「日女命」二神の祟り(神霊)を意識して震撼(漢風諡号「崇神」はこれに由来)した。
崇神は国家鎮護を願って帝都のど真ん中に「臺與御陵」(大市古墳)の造営を勅命した。その造営奉行は「臺與」を伯母にもつ先の尾張王統嫡嗣「彦太忍信 / ひこふつおしのまこと」(孝元次子)に命じた。
こうして共立女王お二方は倭(大和)の歴史に確たる痕跡を今に遺した。この揺るぎない天照の霊威はその後の「神功皇后」や「飯豊女王」それに「手白香皇女」「皇極女帝」「持統天皇」へと受け継がれ、それら皇女が担った役割(事蹟)は倭国国難(皇統断絶の危機)をその度に救った。
それに引き換え男帝「雄略」期前後、雄略は任那倭人に優る百済王族救済に立ち上がり、その配下の一将に過ぎなかった「継体」は任那四郡の倭人を結果として棄民した。為に「吉備田狭」「星川皇子」「武烈天皇」(河内王統断絶)ほか「市辺押磐皇子」(弑逆)「眉輪王」「大臣円」(葛城氏本宗家滅亡)など皇族や巻向王統に起源(大彦)を持つ臣ら、毛野や紀ノ國・吉備の任那派遣兵などが多大の犠牲を強いられ塗炭の苦しみを味わっていた。 ※(1~2世紀ころ、任那へ渡った邪馬台国の歩兵と北方騎馬兵との戦力格差は歴然であった。4~5世紀になってヤマト王権も甲冑を装着して騎馬民族と戦っていた。)

『西晋』は司馬炎の孫「愍帝」(びんてい)18歳(AD317年)の時、滅亡した。
司馬炎皇統のその惨めな末路は、先帝「懐帝」と同様、『前趙』(匈奴系)の捕虜となって「伝印璽」を持ち去られ、后妃を猟奪された挙句の果て、散々生き恥を晒して二帝は殺害された。
なお、倭は女王「臺與」の西晋訪台以後、「倭の五王」まで約150年間、倭は遣使を閉ざしていた。






半島「任那」の先住民族は紛れもなく倭人であった。倭人の先祖は遠くBC3000年を遡ること縄文中期には既に任那に土着して広く分布していた。そのころの北方民族(夷狄)は任那半島には全く存在しておらず、それらの移住が顕著に見え始めるのは西暦元年を境にしたたかだか前後100年ころからで、中国前漢の四郡設置(BC108年)とその後の三郡廃止(BC75年)ころにかけて半島の中原「漢山」(ソウルの北)まで一部少数民族の南下が見られ、公孫氏が帯方郡を分置した(AD204年)ころには任那の北部縁辺(半島の中原)には「伯済」国(後の百済)が歴史上にはじめて現れ、任那の東部縁辺(半島の東岸)では先住民族の倭族と漢族亡命流民・東夷南下諸族の濊貊からなる混成合衆族「斯盧」国(後の新羅)が胎動しつつあった。
こうしてこの時期以降、任那辺境では北方民族の急速な流入によって次々と蚕食が進み、それまで緩やかな繋がりで営まれていた任那の倭人社会もそれと共に急激な変容をみせ、人々は地域的混住と混血同化(雑種)が進み、いわゆる馬韓と辰韓地域(開放的先進地域)がそれに当たり、逆にそれへの抵抗を意識する地域、主として出雲王朝との紐帯濃い連帯地域(保守的排外地域)いわゆる弁韓地域がそれに当たり、この相容れない二つの勢力は当然のごとく摩擦が生じた。それが時代が下ると共に更に人口爆発が生じてそれと共に一層の鉄需要も況して、鉄鉱石産出地と農耕地確保を巡って熾烈な領土争奪の様相を呈した。
これによって倭は好と好まざるとに関らず夷狄(百濟・新羅・高句麗)との間でしのぎを削る争いの場へと巻き込まれていった。そして任那倭人らはそれら扶余族や濊貊族の南下圧力に次第に抗しきれなくなり、時代が更に下ると遂に「白村江の戦い」(AD663年・天智2年)に到って唐・新羅連合軍を相手に戦いを挑み大敗を喫した。そしてとうとう父祖伝来の地であった任那半島(これ以後を朝鮮半島と云う)を手放すまでに至った。その後の大和朝廷は半島任那から手を引き、やがて時代は飛鳥・奈良・平安へと時代は移り、国号も「倭」から「日本」へと変えて内なる固有文化の爛熟期を迎えた。



縄文人(倭人)は14000年を遡ること遥か昔(旧石器時代)、日本列島各地に広く薄く分布して住み着いていた。そして、BC3000年からAD663年までの半島任那における流れをこれまで一気に概観してきた。この間、列島では王朝の交代劇があった。出雲王朝の終焉とヤマト王権の出現がそれである。それは突然にやってきた。それが如何なる状況であったか・・・は前章「その十九」で既に詳述しているのでここでは省く。では、それが如何なる背景の下で、如何なる勢力によって為されたか、そして斯くも容易く出雲王朝が瓦解したのはなぜか・・・についてはいま少し時系列的捕捉を必要とする。 



神奈川県大和市「上野遺跡」出土の隆起線文土器は今から12000年前~10000年前のものである。青森県の「大平山元遺跡」出土の土器は1万6500年前のもので世界最古とされている。また、福井県若狭の「鳥浜貝塚遺跡」出土の「赤色漆塗りクシ」も12000年~5000年前のもので漆製品としても世界最古のものと云われている。
木造建築に至っては1万3000年前から縄文晩期までつづいた富山県の「桜町遺跡」からは高床式建物(約4000年前の建築)や精巧な木組み・加工材が多数出土している。青森県の「三内丸山遺跡」は紀元前3000年~紀元前2200年前の間に栄えた大規模集落跡地であり、とりわけ巨木六本柱の三層構造物はあたかも出雲大社の巨大神殿(3世紀前半に実在した高さ48メートルの巨木構造)を連想させて倭人社会における御柱(おんばしら)信仰と伝統工法の融合が見事に結実していて大変興味深い。
また、稲作についても岡山市津島東の「朝寝鼻遺跡」土壌からは6400年前の栽培種の稲の細胞化石が検出され、当時すでに熱帯ジャポニカ(陸稲)が収穫されていたことを知った。また縄文晩期には唐津の「菜畑遺跡」から温帯ジャポニカ(水稲栽培)が収穫されていたことも明らかとなった。

※ 菜畑遺跡(なばたいせき)はBC930年ころの水田跡地(放射性炭素14の較正年代)を示す。同遺跡からは水路・堰・取水排水口・木杭・矢板を用いた畦畔が発掘され、今から2946年前の水田耕作による稲作農業が北部九州で本格的に行われ(普及)ていたことを実証した。

※ 縄文文化14000年の倭人社会(軌跡)は気候の変動による深刻な影響(三内丸山は寒冷化によって崩壊した)こそあれ消滅することなく持続した。これは世界史に類例を見ない穏やかで長期に亙る倭人社会が営まれていたことを物語る。「出雲王朝」の出現は、この倭人社会の精神風土と伝統文化の上に根付いた縄文晩期から弥生時代にかけて約700年間つづいた云わば必然的王朝であった。

韓国・朝鮮民族が、そのルーツを北方ツングース狩猟民族に遡るとすれば、木造建築は元来彼らの文化ではない。同様に焼畑・水耕いずれの稲作をとってみても彼らが半島任那へ南下する遥か以前から日本列島と任那半島(現・朝鮮半島)において倭人(縄文から弥生にかけて)の人々の手によって栽培がなされていた。この事実は広範な発掘調査や科学的年代測定によって今や周知自明の事実となっている。この厳然たる事実を韓国朝鮮人の人々は謙虚に受け止める勇気を持たなければならない。
5000年前の縄文式火焔土器






◆BC700年頃の倭◆

紀元前700年(中国東周)ころの倭(日本列島)では、東に有力な部族集団「葛城氏」が存在し、西には「筑紫氏」がほぼ拮抗して存在していた。この九州北部を束ねる首長「筑紫王」もまた半島任那と深く関わり、渤海湾の北の強国「燕」へもしばしば朝貢していた。
「葛城氏」は「出雲」に拠点(副都)を置き、半島任那の内陸部に深く浸透(降臨)して、当時既に盟主的存在となっていた。片や、「筑紫氏」もまた「奴国」に拠点を置き、遣使(交易)ルートである任那南岸の金海・固城・そして唐津・金浦に到る任那西岸の倭族邑長らとも深く交わっていた。葛城氏と筑紫氏は玄界灘の一大国(壱岐)を介して接点をもっていた。一大国は当時の交易流通の倭におけるハブ的存在であった。
この当時(BC709)、中国周王朝第14代「桓王」は、蔡・衛・陳と連合して隣国の小国「鄭」を攻撃(繻葛の戦い)して逆に撃退されてしまった。そのため周王室の権威は大きく失墜した。それを目の当たりにした他の諸侯は周王朝を冠しながらも独自路線を歩みだし、互いに覇権を競う春秋時代へと突入していった。 

倭の海人のDNAは何代にも亘って手慣れた海路を往来する海の隊商でもあった。それはシルクロードをラクダで往来していたキャラバン交易となんら変わるところはなく、海人(倭人)たちは「環古代倭地圏」を凡そ俯瞰できていてペルシャ商人のそれと同様、古の倭の海人たちもまた複数の船艘または船団を組んで海洋を跨いで交易していた。




◆皇紀元年(BC660年)頃の倭◆

葛城氏の同宗「出雲氏」は、任那の国邑各首長から推戴され、それを契機に筑紫氏を一気呵成に糾合(併呑)して「出雲王朝」を打ち建てた。これを嫌った「筑紫王」は双頭並び立たず、筑紫のヒムカ峠を越えて日向(ひゅうが)の国へと遁れた。当時、日向という国はなく、筑紫王が辿った「筑紫ヒムカ」の峠越えに由来してその名が付けられた。ところがその地は火山灰地であったため水耕稲作に適さず、このことが伝え聞く東方の「豊葦原瑞穂国」(とよあしはらのみずほのくに)「大和」へのヒムカの人々のこよなく憧れの地となっていった。

一方、出雲王朝に併呑された北部九州ではその「筑紫氏」を母体とする分枝氏族「中臣氏」(奴国大夫)や「久米氏」(伊都国大夫)、「大伴氏」(末蘆国大夫),「宗像氏」(不弥国大夫)などの遠祖がそれぞれその地に留まり、「筑紫氏」本貫地である筑紫平野でも「筑紫氏」傍系が引き続き統治親任(親任すれど親政せず)の形で付託されていた。このことは出雲王朝による間接統治「筑紫版にんな」(自治自存)と捉えている。

日向に遷った「筑紫王」(以後はヒムカ王という)は「出雲王朝」に組み込まれることを由としない偉丈夫な「ヒムカ倭王」(現人神)でありつづけた。

伊都国に一つの大率を置いて諸国を監察させた。諸国はこれを畏れて従った・・・、いわゆる『魏志倭人伝』のこの一節は、先史時代にもその役割に似た(担った)官が既にそこに置かれていて(神話でいう降臨した神々)その地でその任に能っていた。

後年、筑紫氏がヒムカ王を戴いて東征したとき、「筑紫にんな」は出雲王朝の瓦解と共にその意味が無くなり、半島「任那」(にんな)は「邪馬台国」がこれに取って代わって宗主国となった。

「邪馬台国」を引き継いだ第二代大王「綏靖」は「神武」を父とするが同時に「事代主」(三輪氏)の孫であり「大国主命」(葛城氏)の曾孫でもあった。
たとえ出雲王朝から邪馬台国へ国譲りが為されたと言えども「葛城氏」本宗家の高貴な血脈(后妃供給)はその後も依然として引き継がれ、その王統は暴虐大王第21代「雄略天皇」が出現するまで途絶えることなくつづいた。

片や東征した筑紫ヒムカ王統の庶子で神武の長子「手研耳」は「綏靖」によって誅殺(タギシミミの変)され神武一身の血以外の筑紫ヒムカ王統の血は以後一切絶たれた。この事態に直面した東征組諸侯面々はむしろ亡き神武の正当な継承者で皇后(三輪氏・媛蹈鞴五十鈴媛)を生母とする「綏靖」の下に結集して、邪馬台国大王に臣従する立場を一層鮮明にした。
ところがこれとは逆に、この王朝交代劇に必ずしも馴染まない国々が現れ「邪馬台国」と一線を画して旧「出雲王朝」の再興(守旧本流)を望む首長たちもいた。それが最も対立して尖鋭化したのが崇神紀10年の「海部氏」本宗家(狗奴国)討伐であった。神武即位年を下ること192年間もかかって漸く決着を見たこの覇権争いは、「国譲り」が今日考えられているほどに生易しいものではなかったことを如実に物語っていた。

「タギシミミの変」後、神武の世子「綏靖」は、庶兄「手研耳」誅殺で揺れる筑紫九州へ次兄「日子八井」(ひこやい)を派遣した。「日子八井」は筑紫氏の女を娶り(入り婿婚)伊都国に倭府を置き自ら宰(みこともち)となって北部九州に睨みを利かし(一大率)、人心を鎮めた。彼はまた火の国(熊襲)へも足を延ばしてその地でも重きをなしていた。阿蘇神社・草部吉見神社は彼を祭神としてこんにちもなお奉っている。

「箕子朝鮮」が燕の侵略から逃れて半島の地(現・平壌)へ足を踏み入れたのがBC284年、それは漢人(中国人)による初めての半島における建国であった。皇紀元年から376年後の出来事である。また高句麗始祖「朱蒙」が卒本(現・遼寧省北辺)で建国したBC32年は更にそれから344年後の出来事である。

その「朱蒙」の子である「温祚」が漢山(現・ソウルの北)で十済(後の百済)を起こしたのがBC18年。当時この地は任那中原に位置し「馬韓」と称した。その馬韓の祖形は先住倭人(縄文人)と漢族亡命流民からなる合衆族が点在する雑種部族を形成していた。温祚はその地へ北から逃避してきた云わば新参移住者であった。後世、百済が倭に異常接近したのもその先祖のルーツが「馬韓」に受け容れられたことによる倭へのシンパシーであったのかもしれない。

BC660年当時、山川草木する任那中原において、北方モンゴル高原の乾燥した台地で遊牧する騎馬民族が群雄割拠していた事実はない。

また、北東アジアの寒冷地に定住していたツングース系狩猟民族が部族(邑落)挙げて任那中原に出現していたという事実もこれまた全くない。在るのは倭人の痕跡だけである。


殷出自の王「箕子朝鮮」の後裔が半島付け根の処女地へ足を踏み入れたのがBC284年、それまで半島中原以南の地、即ち任那へ如何なる中国系王権と言えども或はその系累と言えども進出した痕跡は全くない。(亡命して帰化した貴族は多くいた。)
帰化した漢人たちはそれぞれ文化文物を任那へもたらして自らの活路を切り拓いていったことは想像に難くない、またその子孫もそれらを受け継いでその地で骨を埋めていった。弥生文化の中味とはそうした彼らの技術を同化吸収しながらも同時に縄文以来の手先の器用な物づくりと結実して、その精神風土は漢風(宦官制度)とも異なるあらゆる神羅万象を崇める特異な和風文化をつくりあげていった。それが倭のもつやさしい国風であった。

「馬韓」は秦が中国統一を目指した時代(BC246-BC221)にも、戦乱の漢土から逃れてきた亡命漢族の多くを受け容れて住まわせ、東方の「辰」へも土地を割いて植民させていた。その馬韓支配者は辺境の地「辰」をも治めていた。このことから、当時の馬韓は任那宗主国「出雲王朝」に内属する倭種が馬韓人の領帥「臣智」であったことが認められる。それを傍証するに足る倭の五王の上表文が間接的にそれを示唆していた。

この時代の任那のエリアは少なくとも現在の京畿道(京城)から江原南道(江陵)を結ぶラインを境としてそれ以南と観られる。
(※ それ以前は前漢時代の楽浪郡に当たる地域にも倭人は何ヵ所にも亘り多く集住していたが公孫氏が進出した後、その倭人社会は公孫子の支配下に入りその後の消息は途絶えた。このことは箕子朝鮮の時代にも楽浪郡一帯には先史以来倭人の邑々が点在していたことを傍証する。『山海経』にも蓋国は燕の南、倭の北にあると記す。)

馬韓は流民の溜まり場「辰」(馬韓は後に王を立ててその地を辰国とした)へ漢族を移住させていたが、漢三郡(半島中原以北)が半島から失せた(解かれた)後は北方民族が南下しはじめそれら異民族同士が複雑に混住交雑しあい、やがてその膨張した人口エネルギー「辰韓」は新たなはけ口(新天地)を求めて必然的に半島東岸を南下(現・慶尚北道)していった。

    BC660年(皇紀元年)から、「衛満」が朝鮮国(箕子氏)を簒奪して王険城で建国したBC195年に到るまでの凡そ465年間において、その間の長きに亘って東北ツングース系の人々が日本海北岸の半島を陸続と南下、現・咸鏡南道(咸興)には沃沮(よくそ)が、江原北道(元山)には濊貊(わいはく)が根を下ろして定着するのが見られ、人口も次第に増えてそれぞれが幾つさもの邑落を形成しつつあった。
『三国志・魏書』(成立時期/西晋時代)穢伝によれば、「濊。南の辰韓、北の高句麗、沃沮に接し、東は大海(日本海)に尽きる。現在は朝鮮の東は皆 濊である。戸数二万。」(広大な山間地帯に極めて薄い人口密度)と記した。彼らは独自の国家を持たなかった。



王険城を乗っ取られた「箕準」(BC195年)は海へ遁れて「馬韓」へ上陸、馬韓を襲って一旦は「韓王」を名乗ったが次の代で早くも馬韓から追放されていた。衛氏朝鮮もまたBC109年に前漢「武帝」によって滅ぼされていた。

今日常用語「韓半島」や「朝鮮」という名称は全てその謂れはこれら漢人の爵号・人称名から由来する。故にこの「韓・朝鮮」という語源は元来現代コリアン(朝鮮韓国人)を直接表すものではない。そしてその後に登場する「温祚」(百濟始祖)も「朱蒙」(高句麗始祖)も元々扶余から分枝した二種でモンゴルとツングースの雑種から為る。従ってその祖形は今日でいう中国史に属さず、強いて言うなら「扶余」と「肅慎」からなる「高麗」史に属す。中国が「高麗」を中国史に取り込む詭弁は、チベット族・ウイグル族・内モンゴル族・台湾族を中国史に取り込んでいるのと同様に、独善錯誤も甚だしい華夷思想というほかない。

一方、「高麗」こそがアイデンティティであるはずの誇り高き現代コリアンが、中華を語源とする「韓・朝鮮」を有難く冠しているところをみるにつけ、そのことが先の華夷説に妙に説得力を持たせる。彼らが民族の始祖王と仰ぐ「壇君神話」は13世紀に一介の僧によって描かれたものでそれを裏付ける他の古代文献資料(傍証古文書)は一切存在しない。だがそれでもなお彼らの立場に寄り添って云うならば檀君神話の根源がツングースの獣祖神話をベースにした創作神話ではあるもののその民族がもつ帰趨本能(ルーツ)がツングースであることをなによりも雄弁に物語っている。この中華と高麗が交錯する彼らにとって相容れない歴史的民族的精神構造は複雑怪奇でそれを取り繕うために捏造された現代朝鮮韓国史は股裂き状態にあり真に気の毒というほかない。



◆徐福渡来(BC219年)頃の倭◆

〚徐福の渡来〛紀元前219年、斉の方士「徐福」ら言う、海中に三神山あり、蓬莱・方丈・瀛州と、 曰く “僊人これに居る。童男女と之(仙薬)を求むることを得ん” ・・と。 「徐福」は秦始皇帝を言葉巧みに唆(そそのか)しその実、秦の圧政から逃れて東海の国を目指して船出した。時に徐福59歳、予て覚悟の邑ぐるみの壮挙(民族移動)であった。徐福は僊人の国に辿り着き平原大沢の地を得てその地の邑王(筑後川河口流域の肥洲)となって倭に帰化した。

徐福の船団は渡海途上で潮に流されて分散離散した。或る者は半島任那に辿り着き、或る者は山口や岡山・紀伊に流れ着きその地で各々根を下ろした。徐福に限らず秦に滅ぼされた幾多の難民流民もまた同様に新天地を求めて海を渡ってやってきた。それにつづく前漢時代にもやはり、国を追われて人々はやってきていた。そのボートピープルの殆どは小人数ながら伝説の新天地「蓬莱」(倭)を目指して波状的に海を渡ってやってきた。その冒険心に富んだ僅かな人々は命辛々倭国へ辿り着き、その後、倭人と混血することによってその子孫は爆発的に増えた。

※ 『論衡』曰く、“周のとき、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず”・・と。始皇帝は海の彼方の仙薬伝承を信奉するあまり蓬莱(海東の国)へ巨万を費やして徐福に求めさせた、・・だが終にその不老長寿の霊薬を得ず、その9年後に水銀を霊薬と信じて服用しながら巡行先で崩じた。
尽きることのない無限の欲望も瞬く間に尽きる寿命の前では抗する術がなく、どんなに偉大な権力者も天地自然の摂理の前ではただの生身の人間であるに過ぎない。

BC219年は始皇帝第二回目の天下巡行であった。最期の巡行となる五回目はBC211年で年を越えて翌年都「咸陽」へ還る途中、沙丘の平台で崩じた。享年49歳。不死の霊薬を求めて皮肉にも逆に命を縮めてしまった。

秦が天下統一するまでの間、数多くの難民流民が漢土で発生した。それら亡命漢族の中から海を渡って新天地を目指した人々がいた。

「馬韓」は元々倭人の地であった。漢土における相次ぐ戦乱は敗者の逃避地として海東に国があるのを彼らは知っていた。時折、海東の彼方から海人(倭人)が海路往来(交易あるいは遣使)していたことを彼らは知っていた。

「馬韓」はそれら漢人の難民を有史以来、地政学的にも受け容れてきた土地であった。「馬韓」とは、倭族とそれら漢族からなる雑種化した「人種」である。それはあたかも沃沮と濊貊が同じツングース系でありながら人種的差異があるのと同様に、「馬韓」と「任那倭人」も祖形を同じくしながら倭人とも漢人とも異なる独自の人種を形成していた。

BC209年、モンゴル高原の匈奴がツングースの東胡を滅ぼした。BC206年、劉邦が秦朝を滅ぼして前漢の皇帝「高祖」に即位した。BC200年、その劉邦は親政軍を率いて匈奴討伐に赴いたが白登山(山西省の山塊)で思わぬ大敗を喫し、匈奴を兄・前漢を弟とする屈辱的な盟約を結んでその戦場を辛くも脱した。遊牧民の彼らは漢土に居据わって経営することに当時としては馴染まず、劉邦の首一つ獲るよりか漢から通貢の美名のもと、毎年収奪できるものは収奪し、その関心は既にユーラシア大陸を跨いで他の遊牧諸民族を支配下へおくことに彼らは血潮が滾(たぎ)っていた。おかげで劉邦の首は繋がった。

BC195年、劉邦(高祖)の親友だった燕王「盧綰」が劉邦に叛いて匈奴へ走った。蘆綰の武将「衛満」も事件に連座して東方へ脱出、箕子朝鮮を倒して「衛氏朝鮮」を打ち建てた。後に遼東太守はこの衛氏朝鮮を便宜上外臣に取り立てて支援を与え蛮夷からの盾とした。衛氏朝鮮はそれをよいことに周辺の異民族を征服(東夷の濊貊や沃沮)して方数千里を支配下に置いた。

BC128年、濊君「南閭」らは右渠(衛氏朝鮮)に叛き遼東郡に内属した。前漢「武帝」は右渠(衛の孫)の反漢台頭を許さずその勢力を削ぐため同年、遼東太守「彭呉」に命じて東夷諸族を右渠から離反させる策を授けて功を奏した。遼東に内属した東夷諸族の数は延べ28万の人口(戸数4~5万戸)を数えたという。武帝は東夷のその地を「蒼海郡」と定めた。だがしかし、南方で騒動が生じたため(濊貊と辰国の騒乱を指す)三年後に廃止した。



◆BC108年 漢四郡設置と倭◆

前漢第七代の皇帝「武帝」は、皇祖「劉邦」の屈辱を晴らすため宿敵「匈奴」へ遠征して塞外(長城)の北方へ追い払った。更に返す刀で「衛氏朝鮮」を滅ぼして漢四郡をその地に置いた。ここに前漢の全盛期を迎えた。
馬韓の領帥(王)は代々、中国の難民流民を馬韓に住まわせ或は東の地の果てへも多くを住まわせていた。秦王朝の時代も秦の苦役から逃れてきた亡命難民をその「地の果て」へ移住させていた。いつのころかその地を人は「秦韓」と呼んだ。「秦」も「韓」も漢族の別称(爵号または苗名)から採ったものであり実態として「秦韓」の呼称はその土地柄をよく反映していた。「馬韓」の名もまた「韓」は漢族の別称であるが「馬」が縄文人BC3000年このかた先住民族であることに「陳寿」は思いが到らず、陳寿はその起源の理解し難い民族として「馬」(殆ど山海経のイメージ)とした。「馬韓」とはこの「馬」と「韓」二つの異なる民族が合衆して成り立った倭族系雑種民族の国名であった。

「陳寿」は益州・蜀漢(現・四川省重慶の西北西)の出で内陸育ち。彼は大河は知っていたが大海を知らず、大海の方位感覚がまるで解らず「倭国女王」の坐ます国や狗奴国の方角が全く真逆な記述となっていた。その彼が任那中原を史書するときどこまでその地の起源を深く認識できていたか甚だ疑問である。
因みに、箕準が馬韓で束の間の「韓王」を名乗ったBC195年は陳寿生誕の428年前の出来事であり、倭の女王「日女命」が魏へ使者を遣わした景初二年(AD238年)は彼5才の時の出来事であった。絶海の地「半島の任那」に関する彼の知識はまるで「山海経」が表す魑魅魍魎の世界であって倭の実像に非常に疎かったと断じて憚らない。
※ 〚 陳寿の表した史書はその後の中国史書が概ねそれに倣い、記述された陳寿の半島認識(宗主国倭による任那国勢の推移、その欠如と無知)に準拠していた。因みに陳寿が著した『三国志』から約100年後に范曄が著した『後漢書』が世に出た。〛


◆BC108年 前漢武帝の時世と半島任那の倭◆

前漢「武帝」が置いた「蒼海郡」が僅か三年で廃止された。その遠因は、濊貊への郡治圧政が右渠(衛氏朝鮮)のときよりもひどく、そのため一部の人々は郡治管轄を逃れて南の地へ流れた。当然その地は「秦韓」(辰国)の地であり秦韓人との間で摩擦が生じて騒動となった。郡治はその反動から濊貊の反感を買って機能しなくなった。「武帝」はこの遠隔地の騒動に巻き込まれることを嫌気して蒼海郡治を廃止(BC125年)した。

ところがその武帝がそれから17年後のBC108年、右渠朝鮮を滅ぼした跡地に漢四郡を又しても設置した。その結果、濊君「南閭」は武帝の裏切り(蒼海郡治の再来)に激怒して憤死した。そしてその後の東夷は前漢に対して抵抗した。
元来、前漢は遼東以東は絶海の地と見做していた。半島四郡の設置はやはり広げ過ぎた版図であった。ゆえに後に楽浪郡治ただ一つのみ残して玄莵郡治は北方の高句麗県へ移さざるを得なくなっていた。
後漢末期、遼東で興起した公孫氏はこの絶域とされた地域に進出して後漢に代わって北の扶余や高句麗を抑え、南に隣接する馬韓や倭(任那)を帰属させたという。

ここで注目したいのは、倭五王の上表文の中味についてである。
曰く “・・、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓(辰韓)・慕韓(馬韓)六国諸軍事、安東大将軍 倭国王と称し表して除正されんことを求む” という箇所についてである。
この上表時期(漢称倭王・珍)は、南朝「宗」438年(5世紀)の時代になってからの出来事であるが、ここで謳う辰韓・馬韓・とは当然漢四郡(BC108年)とその後の半島三郡廃止に到る当時において、半島中原以南に存在していた宗主国「出雲王朝」が包含する地域の中で夫々存在していた国名であること。その国名がヤマト王権にも引き継がれ今に続く百済(馬韓)・新羅(辰韓)の地であること。しかもこれら馬韓・辰韓・百済・新羅・任那の国々は今日もなお依然として倭(ヤマト王権)に臣属する国々の国名であること。
倭はこれらの歴史的経過の事実を踏まえた上で安東大将軍たる資格を有していることを誇り高く宣言しているのである。
だが、不幸にして大陸中国から絶界した遥か彼方の「出雲王朝」の存在やそれにつづく「ヤマト王権」は彼ら(臺與西晋訪台以降 倭は永らく中国王朝とは疎遠となっていた)にとっては直接脅威のない慮外の地の出来事であり遠くて疎い存在と言えた。
特に半島中原以南の任那の地に至っては、そこが古来より全体倭圏であることすら知らず(山海経では僅かにその記録が見え隠れしているが)、異なる民族同士が流動して複雑に交雑していた長い歴史的経過についても殆ど関心が薄く全くと言っていいほどの白痴的認識に止まっていた。倭の五王の爵位の低さとこの過小評価は同時にこの絶海の国の理解度の低さ(無知)を端的に示し(曝し)ていた。

この任那半島の時代背景を俯瞰すれば、“ 馬韓も辰韓もそして伯済(扶余族)や斯蘆(濊貊族)も当時「出雲王朝」が宗主国であった任那半島(現・朝鮮半島)という舞台で、それぞれの民族が移動と混合を繰り返しながら ” 時間的空間的激動の中で、あたかも走馬灯のように目まぐるしく変化していたということに尽きる。

この絶海の国の「倭」が縄文文化につづく弥生文化と古墳文化という固有の文化をもって営まれていた極東古代史は、中国王朝史とは別格に倭独自の「環古代倭地圏」として独立した文化圏を形成していた事実を世界史の視点から改めて見直さなければならない。



◆西暦紀元前後の華夷半島史◆

❖ BC82年、前漢は臨屯郡・真番郡を廃止して、楽浪郡・玄菟郡に併合した。

❖ BC75年、沃沮城に玄菟郡治を置いていたが夷貊に侵略され、郡治を北方の高句麗県へ移した。その空白を埋めるため不耐城に都尉(治所)官を置いて七県を統治した。

❖ AD8~23年、前漢の外戚「王莽」が帝位を簒奪して「新」王朝を建てた。王莽の周代への復古調回帰政策は当時の実情に合わず、また周辺の国々を侮辱して徒に反抗を招いた。これら「新」の統治失政は国内を混乱させ「赤眉の乱」を誘引し大規模に膨らんだ反乱軍は王莽を斬殺して「新」王朝は短命に終わった。

おもしろいことにこの時代の王莽銭が日本列島各地からも少なからず出土している。当時、一般に貨幣経済を持たなかった倭地でこの現象は一体何を物語っているのであろうか。恐らく「新」亡命漢人たちが海人(倭の海邑)との接触(交易)の場でそれなりに貨幣が通用していたものと思われる。たとえ内地が実物交換経済であっても交易を生業とする海人たちは海外での他民族との折衝では貨幣経済が成り立っていた筈だ。当時、鉄塊は同時に貨幣でもあった。今でいう金の兌換性と同じ働きを鉄に観る。

❖ AD25年、劉秀は後漢初代皇帝「光武帝」に即位し、元号を建武、洛陽を首都とした。

❖ AD30年、光武帝による楽浪郡接収の同年、前漢の嶺東(馬息嶺山脈以東)七県を廃止して原住民の穢(濊)人領帥らを県侯に任命して独立させた。

❖ AD313年、二郡(楽浪・帯方)は高句麗によって滅ぼされ、後に高句麗は楽浪の跡地へ遷都した。

 
◆倭から観た紀元前後の半島史◆

❖ BC130年、辰国(秦韓)の王は天子(前漢・武帝)にまみえんと欲したが右渠朝鮮が妨害して通さなかった。

❖ 「馬韓」は代々辰国の上に辰王を立てる慣わしであった。だがBC82年の領東三郡廃止(玄菟・臨屯・真番)によって東界の地「辰国」は力の空白地帯が生じて北方から民族南下を招くことになりその地は「夷狄相攻伐」する苛烈な場と化していきその中で辰国は分裂した。その分裂した中から新たな種族「辰韓」(後の新羅)が勃興し、その辰韓はそれまでの辰王(馬韓の倭種)とは相容れない存在となり、以後「辰韓」は馬韓から離反して馬韓と覇を競うまでに力をつけていった。



❖ この馬韓と覇を競うまでになった異種「辰韓」とは一体何ぞや・・である。
一時期、馬韓で韓王を名乗った「箕準朝鮮」は馬韓を追われてその裔も族滅したと聞く。しかしその裔が辰国から立って「辰韓」と為ったとするのが現在の中国説である。果たしてそうであろうか?、
辰韓になる前の辰国は元六国から成り立っていたが辰韓になってからは十二国に増えたという。このことは「馬韓」を第二の故国(親国)とする「辰国」の人々が俄かに馬韓へ敵対するとは考え難く、また新たに増えた六国が辰国人そのものが内部分裂して数が増えたとするのも考えにくい。だとするなら辰国が分裂した主たる原因は外部環境の激変に求めるのがまず至当であろう。その外部環境の激変とはそも何ぞやである。

BC108年に濊君南閭が前漢武帝の漢四郡設置に激昂して憤死した如く、王を持たない彼ら東夷諸族は漢王朝に虐げられていく中、いつしか反抗勢力に成長していた。

BC82年にそれまで前漢の支配下にあった半島東部の東夷諸族(濊貊・沃沮)は、郡治撤廃(臨屯郡・玄菟郡)によって漸く解放され、それらの人々は堰を切って無秩序(無政府状態)に拡散流動化した。そして殆ど力の空白地帯であった南の辰国(秦韓)へ一気に流れ込んだ。当然、原住民である辰国人と濊貊・沃沮からなる北方異民族との間で騒乱状態を呈した。そうした相攻伐する中で馬韓にアイデンティティを持たない勢力によって次第に収斂していった。それが「辰韓という国風」を形成した。
だがその「辰韓」は馬韓を征服する勢力までに至らず馬韓と拮抗した。必然的にその新生合衆族「辰韓」なる膨張エネルギー(人口圧力)は捌け口を求めて慶尚道へと南下していった。

仮に、この辰韓の領帥が箕準の子が収まったとする見方は勝れて優勢なツングース系東夷諸族の頂点に君臨する確率は非常に低い。なぜなら現代「韓国・朝鮮人」は檀君神話を国史誕生の拠りどころとしており、それはまさに北方ツングースを祖形とするDNAそのものの民族の雄叫びであり、決して漢族出自である箕準の子が領袖の尼師今(イサグム)に収まったとする見解にはどうみても無理があるからだ。

❖ 任那中原の東部「辰国」から派生して慶尚道へと滲出していった「辰韓」族は、六国から十二国に数を増した。
その十二国の中の一国に後の新羅へと変貌していく「斯蘆国」が存在していた。この斯蘆はその地が「辰韓」と呼ばれる以前から元々その慶北の地に在った邑落の一つであった。その「斯蘆国」の始祖は宗主国の倭人「赫居世」であった。赫居世はBC69年に初代「斯蘆王」となった。

❖ BC50年、任那宗主国「出雲王朝」は兵を起こし、“尋問有之”として「赫居世」の坐ます斯蘆を攻めた。斯蘆は「始祖に神徳があります」と答えたので倭兵は理解して引き上げたという。この神徳が何を指すのかしらないが、恐らく妃の外戚(濊貊)が王室を牛耳り出雲王朝を軽んじる振る舞いが数々あったのではないか、それを懲らしめるために起きた出来事だったと観る。当時の斯蘆は辰韓十二国の一国に過ぎなかった。

❖ BC20年、斯蘆(国)は瓢公を馬韓に派遣して外交関係を結ぼうとした。瓢公(金氏)もまた倭人であった。
斯蘆国の王姓は「朴」から「昔」へ、「昔」から「金」へと遷り変わっていく。この過程でもなぜか母系血脈が連綿とつづいた。そしていつしか斯蘆王室の血統は気付いてみればみな濊貊で占められ国風もすっかりツングース一色に染まっていた。

❖ AD14年、出雲王朝は兵船100余隻を仕立てて斯蘆の海辺(現・迎日湾)に進駐した。その顛末は今となっては知る術がないが、この船艘の数は尋常でなく、少なくとも云えることは後代に起こった神功皇后(AD363年)の「新羅征伐」の規模に劣らない明白な斯蘆(新羅)懲罰を目的とした軍事行動であったことは疑いない。その兵船の集結港は出雲の港でも九州の伊都国でもなく同王朝の出先機関「倭府」(任那日本府)があった「金官伽耶」近くの金海の港湾であった。この100艘規模の兵船を集結させた倭府の威令(勅令)は当然それに畏服する将兵がおり、畏服させる大王がいた筈だ。それは紛れもなく「出雲王朝」の大王であり、出雲王朝を置いて外に半島でそれに匹敵する如何なる王朝も存在していなかった。それをこの事変は雄弁に物語っている。

❖ AD42年、金官伽耶の地に首露王が生まれた。この地は「魏志倭人伝」に記されている「狗邪韓国」を指す。狗邪韓国は有史以前から倭の地(BC3000年を遡る縄文人の地祖)であった。首露王は出雲王朝に内属する王家出自の倭人として生まれた。

❖ AD57年、斯蘆では「脱解尼師今」が高齢を推して王となった。彼もまた丹波を出自とする高貴な倭人であった。だが彼はなぜか幼くして国を追われて斯蘆で拾われた。彼には徳が具わり、先王の遺命によって第四代斯蘆王となった。そして彼は斯蘆の国風に従って馬韓(伯済)や出雲王朝から国を護る強い姿勢を貫いた。AD59年に彼は、倭へ使者を送り修交を求めた。倭(出雲王朝)からも斯蘆へ親善使を遣わした。

❖ 同年(AD57年)、倭の国邑の一つ九州「奴国」の大夫(天児屋根)が貢物を献じて後漢へ朝貢した。「奴国」は永年、中国との朝貢外交を通じて交易が伝統的に行われていた。今回もその一環であったが光武帝最晩年の同年、光武帝は周朝以来つづくこの朝貢に対し倭国の極南海にある奴国の律義さに感銘し、友誼の証しとして「漢委奴国王」の金印を授けた。奴国(遠祖・中臣氏)は経済的に豊かな国であった。この北部九州の筑紫氏苗裔らはその富める力を背景にヒムカ王を担ぎやがて東征に乗り出していくのである。この年はまさにその18年前の出来事である。

❖ AD64年、その脱解は伯済の多婁王(初代「百濟王」温祚の子)との間で蛙山城(現・忠清北道あざんじょう)とその辺々の領地を巡って争っていた。

❖ AD73年、倭兵は「大加羅」(高霊)を侵す斯蘆を牽制すべく木出島(蔚山)へ進出、これに対し脱解は羽鳥を将とする一軍を差し向けるが羽鳥は戦死した。AD77年に脱解は伽耶と戦って大勝したという。

❖ そのAD77年の時の伽耶(金官)国の王はあの首露王(35才)であった。この首露王を始祖とする金官伽耶の王統系譜のなかで一際注目すべきは独り「首露王」だけが異常なまでに生没年が長く「158才」を数えた。本よりこの年齢は明らかに作為が潜んでおりその作為に潜む重要な史実を解明することこそ、そもそも本稿の目指している役割(ミッション)である。

「神武」が北部九州から東征に向けて進発したのがAD75年のことである。そして大和橿原の地で即位したのがAD93年である。ところがこのときから大国主命の后で同時に母でもある「御炊屋媛」の遺命に従い「宇摩志麻治」が「神武」へ国譲りが行われたAD108年までの約15年間は、出雲王朝からヤマト王権へ権力が移行する過渡期に当たり、この王権委譲期は出雲王朝にとってまさしく混乱する渦中の真っ只中であった。
AD77年はその混乱する「出雲王朝」にとって任那を顧みる余裕がなかったまさにその時期と重なり伽耶金官国の敗退はその混乱の最中で起こっていた。

この宗主国混乱に乗じて斯蘆の騰勢拡大は更に況して任那の鉄産地や農耕地は度々脅かされるようになった。このため首露王は出雲王朝に代わって任那各国邑の領帥(首長)らと図りつつ敵対勢力となった斯蘆から任那を護らなければならない立場となっていた。またヤマト王権に国譲りがなされた後も、列島では新たに嫡統王家の間で皇位継承を巡って争いが起こりそれが容易に決着せず、いわゆる『倭国大乱』によって任那へ兵力を差し向ける余力がなくなっていた。このため首露王独りが何代にも亘って任那経営(任那の盟主的代役)の過大な重責を負担していた。

首露王一代158才と括ったこの異常は、宗主国「出雲王朝」の瓦解とそれにつづく「倭国大乱」の終息まで、時系列には「神武」東征開始AD75年から共立女王「日女命」政権誕生前夜のAD183年までの約108年間は、ヤマト王権と言えども宗主国としての任那救援には遅れをとり(統治後退)この間の非常時を「首露王」一人が担っていた。158才の中味は、この間、歴代何人にも跨った集合名詞「首露王」の合算年齢であった。

繰り返しになるがこの158年間は、宗主国「倭」の「任那」への影響力が著しく弱まる中、首露王は金官伽耶に在って任那諸国の首長を結束させ東の新興勢力「斯蘆」の度重なる侵入に備えた。そして侵入を繰り返す斯蘆国を懲罰するため首露王は宗主国に代わって「金官倭府」即ち「任那日本府」において「任那会議」を主宰して各首長(旱岐)を督励する傍ら「斯蘆」へ兵を派遣していた。この救国の雄が一人称で語らりる所以は「出雲王朝」に内属する皇族「首露王の系譜」もまたこの間「ヤマト王権」へ王権が遷っていく中で非常に混乱状態に陥っていたに違いなく、金官伽耶国第二代「居登王」に到る158年の間で出雲王統「三輪氏」皇統の首露王からヤマト王権「尾張氏」嫡系(入り婿)へと同王室系譜もまた変貌していたかも知れないのである。

※ この当時の「金官倭府」(任那日本府)の存在と役割は、神武東征と出雲王朝が崩壊する過渡期の混乱が同時並行して進行していた最中において、出雲王朝(倭王)の意志が任那へ十分伝わらない(出兵派遣要請に応えられない)中、斯蘆国が任那各地(狗耶諸国)へ侵入する危機的状況に対処しなければならない現地非常事態対策本部の役割を担った必然的に置かれた任那自主防衛機関(組織)であった

この1世紀後半に置かれていた「金官倭府」と、6世紀前半に置かれた常設機関「安羅倭府」(安羅日本府)とでは明らかに状況も組織も一変していた。これもまた当然のことである。


顧みれば、半島の任那倭人にとって最大の不幸は、出雲王朝からヤマト王権へ遷り変わる中で宗主国が混乱して任那を顧みる余裕がなくなっていたことである。そのため半島を南下してきた異民族「百濟・新羅・高句麗」との間でパワーバランスが崩れて劣勢が挽回できず、任那の最期は彼ら異民族に呑み込まれていった歴史でもあった。

(※ 一世代の治世がせいぜい平均35年前後とすれば、それから推すと金官伽耶の首露王は四人が一人称で譬えられている。だとするなら金官伽耶二代目とされる「居登王」は実は少なくとも五代目に相当する筈だ。)
※ 上の図は、「出雲王朝」を出自とする首露王が4人一人称で譬えられる「金官伽耶国」とその時代の各国々の王名を表わす。


イワレヒコ(神武)45才のとき、筑紫族ヒムカ王は国を挙げて東方の豊葦原瑞穂の国「やまと」を目指して船出した。時にAD86年。ところがヒムカ王率いる東征軍は途中、出雲王朝に行く手を阻まれ山陽山陰で一進一退の血みどろの戦いを繰り広げながら次第に消耗していった。一方、出雲王朝もまた宗主国任那の大加羅が北方異民族(夷狄)の侵入を受け、そちらへも兵力を割かれる中、二正面の敵と同時に戦うという真に険しい局面に立たされていた。双方そうした苦戦を強いられるなか均衡を破ったのがイワレヒコ率いる残存部隊であった。
イワレヒコは乾坤一擲出雲王朝の本貫地大和南部の「葛城」を背後の紀伊山塊から僅かな手兵をもって奇襲をかけ漸くにしてその地の制圧に成功した。時にAD92年、「イワレヒコ」このとき51才、筑紫を進発してこの間 6年間が費いやされていた。

このAD92年の年は、出雲王朝の大王「大国主命」は御歳56才、子息長男「事代主命」(三輪氏)は34才、次男「味耜高彦根」(尾張氏)は30才、三男「宇摩志麻治」(物部氏)は21才、という血気盛んな青壮年の皇子からなる構成がみられ、東征軍の襲来に備えて主に生駒山脈を跨いで大和盆地西部から河内・北摂にかけて布陣していて大和川以南の王家の桃源郷(葛城山東麓)「現・御所市」は殆ど無警戒無防備であった。(「御所市」とは言い得て妙である。当にここは古代日本の開闢の地であるからだ。)

この虚を突いた「イワレヒコ」の戦術は功を奏し、明けてAD93年、「橿原」で即位した。翌94年に匿っていた「事代主」の娘「媛蹈鞴五十鈴媛」との間で「綏靖」を儲けた。
「イワレヒコ」(神武)53才の時の児であった。
その後、「イワレヒコ」は「事代主命」の娘を皇后に立后して「出雲王朝」と和解を図った。「出雲王朝」は「神武」の世子「綏靖」が14才(AD108年)に成長したとき、今は亡き「大国主命」の后で物部氏の本貫地で薨御した「御炊屋媛」が今わの際に発した遺命によって倭の王権ははじめて委譲され和解が進められた。すなわち倭はこのときから事実上「出雲王朝」から「邪馬台国」(大和国)へと遷っていったのである。
AD204年、公孫度の嫡子「康」は楽浪郡を割いて帯方郡を設置した。そして陸続きの韓(馬韓)や倭(任那)を帰属させた。これがため倭の女王「日女命」(同年33歳)は中国王朝への遣使を取り止めて「公孫氏」との関係をまず維持優先した。同時に中国王朝の動静も注視していた。「日女命」の政治はこのように沈着冷静でしなやかな外交を敷いていた。公孫康が分置した帯方郡は遡ること312年前の真番郡(BC108年)に位置し、その地には倭種倭系が分散集住していた。

漢風諡号 第十代 崇神天皇

御  名 御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらのみこと)
父は、  第九代「開化天皇」
母は、  伊香色謎命(物部氏)
皇后は、御間城姫(開化の同母兄の娘)
〚私論編年 生没年 AD257~300年、 在位25年、崩御44歳〛
※ 前方後円墳「臺與御陵」(とよおんみささぎ)の規模 :  墳丘長 278メートル 
高さ 30メートル 出土品(特殊器台形埴輪・壺形埴輪/吉備文化伝播) 
陵墓祖形は女王「日女命」(漢風名 / 卑弥呼)を起源とする。


著者・制作  小川正武  2016/9/22



〚追記雑感〛
一、日本の史書『記紀』が何が故に「出雲王朝」の存在を隠したか?、いまもその謎が完全に払拭されたとは思わないが、少なくとも云えることは倭国草創期以来の名門「葛城氏」本宗家を滅亡させ「任那」を滅失に至らしめた禍根は、この国の生い立ちを汚して国体(屋台骨)を台無しにした。この悔恨が先史をいっそのこと無かったことにしたかった(不都合な真実)時の為政者や国史編纂者たちは、蘇我蝦夷の古史『国記』『天皇記』の焼却をむしろ奇禍として捉え「神武」即位を皇紀元年とした。それが神武から始まる『記紀』に秘された哲理であった。
この結果、先史「出雲王朝」が宗主国であった「任那半島史」が歴史から完全に消し去られ、その逆作用として神武東征以後の「倭」があたかも朝鮮半島へ一方的に侵略したかのような誤った印象を内外の歴史家に植え付けてしまった。
このことが今日の日本の古代史を徒に混迷の淵へ落とし込め、不覚にも隣国に歴史捏造のつけ入る隙を与える一因ともなった。

二、九州玄界灘のど真ん中に「沖ノ島」がある。島全体が神宿る島とされ宗像三神(女神)が祭祀されている。神功皇后が新羅征伐(AD363年)のとき神功神輿を担いで「加羅」へ渡御した海人「宗像氏」がいた。宗像氏は凱旋後、その孤高の島を海の守り神として奉った。
その女神三神(めがみさんじん)を『記紀』は天孫降臨に仮託しているがその実態は「日女命」「臺與」「神功皇后」三女王を暗に指し示している。単なる地方神ではない。
この「神宿る島」沖ノ島へは今日もなお男子はみな海で禊をしてからでなければ上陸することができない。沖ノ島の祭神「女神三神」はこの国を今も見守り(天照)つづけているのである。

三、『記紀』は、神代の神々の名に「天」(あま)の文字を冠する。この「天」は邪馬台国の有力な皇族の名にも散見(冒頭にも現れる命の面々はその一部に過ぎない)する。
このことは先史「出雲王朝」(神代)から「邪馬台国」(人代)へ遷った後も出雲王朝の皇統とそれに因果関係を共有する豪族(地祇)たちがそのままヤマト王権へも引き継がれていたことを意味する。
『記紀』編纂者たちは、神代に置き換えた先史の人々を「天の何某のミコト」として描きその系譜継続性に意味を持たせた。また、欠史八代の人々も神々の名に仮託してその事績を語っていた。そこに太安万侶はじめ大和朝廷歴史編纂者たちのせめてもの贖罪(シグナル)を観る。

四、「漢委奴国王」(九州博多)の金印は奴国大夫を後漢へ遣わした当時の「筑紫王」に属し、時が流れて「親魏倭王」の金印は「邪馬台国」(大和の大王)に属す。
前者は倭の一地方を示すに過ぎないが後者は倭の全域を表わす。当然と云えば当然であるが、そこから異なる意志(勢力)が倭に存在していたことが分る。その異質の意志を訪ねていけば神武東征と国譲りに遷る大和を舞台にした出雲王朝から邪馬台国へ移行する過渡的歴史背景が時系列的に見えてくる。

五、古モンゴロイド(Proto)と新モンゴロイド(Neo)の遺伝子からみた民族の違い〚分類〛

ユーラシア大陸 東アジアの人種はNeo Mongoloidし云い、寒冷地に適応してきた形質を有する。これに対し、日本人はProto Mongoloid に属し、縄文人を起源とする。


現在の遺伝子解析の結果、日本人(琉球人、本土人、アイヌ人)は皆 縄文人の血を受継いでいるため、現在の東アジア大陸部の主要な集団(民族)とは異なる遺伝的構成であるという結果が突止められている。 






縄文式土偶

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2016年5月6日金曜日

吉備氏「稚武彦命」 【巻向王統 その10】 第二章


女王「臺與」西晋訪台(AD266年)以後のこと。
任那宗主国の倭王「開化」は西晋外交の躓きと斯盧国の台頭による任那蚕食に直面し、以って西晋との外交から距離を置き、代わって鉄資源の供給地である内なる半島任那を重視、この地を再三脅かす夷敵に対抗するため庸徴の改革を強く迫られた。
故に従前の地祇族長らが共立した女王の行う祭政の下では男弟「輔弼者倭王」の威令は如何ともしがたい脆弱性をもち、その制度的限界からこの旧弊依存から脱却して西晋の如き中央集権的支配体制を図らんとする倭王「開化」の焦りにも似た欲求が生じた。次代を担う「開化」の嫡子「崇神」がこの父の影響を強く受けていたことは当然である。

尾張王朝の終焉前後について、
孝霊の実兄「大吉備諸進」の陵は浦間茶臼山古墳だと私は観ている。この御陵は上道郡(吉備東端)に在り、大吉備諸進が吉備冠者「温羅」と対決した本営跡地と仮推する。その養子の西道将軍「彦五十狭芹彦」(孝霊の第二皇子)はこの地から西進して備中「中山」に橋頭保を築いて温羅を討った。温羅を討ったのち彦五十狭芹彦は「吉備津彦」と名乗り、養父を奉って所縁のこの地に陵を築造した。
岡山県の吉井川西方にそれは鎮座する。規模は墳長138m/高さ13.8m/の前方後円墳。
前方後円墳の祖形は邪馬台国初代女王「日女命」の陵を発祥とする。任那倭人(半島汎任那の国々)を含めたあらゆる時代の古の倭人たちは女王「日女命」の陵に倣って陵墓造営を旨とした。規模に大小はあるものの倭人悉くがこれを崇拝し祖先神を奉った。倭人、身丈は小なれど大いなる精神とエネルギーを宿す民族であった。

時代は「臺與」西晋訪台を遡ること6年前(AD260年)、当時、吉備津彦による温羅退治があった。臺與御陵(大市古墳)の築造はそれから数えて30年後の290年代前半である。この間、吉備文化(特殊器台や埴輪)が大和の地へ深く浸透していたことが分かる。このことは新興「吉備氏」の影響(勢力)が大きく都で根を下ろして大王家と結びついていたことを物語っている。

西道将軍「吉備津彦」が「温羅」を討ったAD260年は、開化5年に相当する。崇神紀10年(AD285年)はそれから25年後の出来事である。ゆえに記紀が示唆する四道将軍(派遣軍)に「吉備津彦」は当たらない。「崇神紀10年」は狗奴国討伐の大がかりな編成が都でなされ、為に畿内が手薄になる中、「吉備津彦」46才は逆に吉備国から東進して帝都警護を名目に大和へさかのぼり、その実態は、実姉「倭迹迹日百襲姫」と亡き先帝「孝元」の嫡子「彦太忍信」の身辺警護を主目的に予て不穏な動きをみせていた河内青玉繁の裔「武埴安彦」に備えていた。都の玄関口浪速の地勢を占める豊穣な豪族「河内氏」の向背は都にとって一大脅威であったからだ。

その「彦太忍信」といえば同年33才を数え、「難升米」の孫娘「稲津媛」を娶っていた。難升米(中臣氏)は魏志倭人伝に出てくる遣使で、「稲津媛」の母方は今を時めく物部氏の出であった。「彦太忍信」の事蹟は定かでないが狗奴国討伐に誉名はなく、「開化」崩御(275年)の後、相次いで「欝色謎」「大綜杵」も後を追うように亡くなり、それら陵墓築造の任を専らに尾張王統の種は雌伏して命脈を保ち息づいた。この功績は懸かって「倭迹迹日百襲姫」の庇護と献身が大きく、やがて歴史は「孝元」を曽祖父とする「彦太忍信」の孫「武内宿禰」へと繋がり、「武内宿禰」は河内王統の始祖となった。

〚武内宿禰の系図〛孝霊(高祖父)⇛孝元(曽祖父)⇛彦太忍信(祖父)⇛武雄心(父)⇛武内宿禰(本人)

〚別紙12-1〛は、“私論「孝元」と「開化」は同世代” を表わす。
『記紀』と「私論」ではここでも皇統譜が一世代異なる。「開化」「大彦」は物部系王統の兄弟、一方「孝元」「倭迹迹日百襲媛」「吉備津彦」らは尾張系王統の異母兄弟。彼らは「孝元」の遺児「武埴安彦」が引き起こした反乱によって登場してくるみな差ほど歳の変わらぬ同世代人なのである。


次代の「崇神」と「彦太忍信」もまた同世代である。世が世であれば「孝元」の皇太子と目されていた「彦太忍信」は、その血筋の高貴性から「崇神」と双璧を為し、一歩誤れば凶事を呼び込む薄氷の立場であった。叔母「倭迹迹日百媛」はこれを養子として迎え入れ幼少から育て上げた。そして同姫の弟「吉備津彦」が「武埴安彦」の乱を前後して都へ進出して以後は、その勢威に与って漸く安泰し、晩年になって「稲津媛」を娶った。この「彦太忍信」の事蹟は『記紀』に記載がないが、女王「臺與」崩御の290年代初頭、崇神の勅命によって所謂「箸墓古墳」(私はこの陵を大市古墳と呼ぶことにしている) の築造を命ぜられ総奉行を担ったと私は仮推する。
「彦太忍信」から観た「臺與」とは、曾祖母「日女命」の「建諸隅」の娘という立ち位置から一入誉れ高き伯母であった。皮肉にも「大市古墳」築造さ中に「崇神」が崩御した。「崇神」殯の後、「大市古墳」に引続き「崇神」の陵も築造が着手され「彦太忍信」がその総奉行を担った。
諄いようであるが「彦太忍信」の嫡子「武雄心」は「彦太忍信」36才にして漸く授かった児である。その「武雄心」は長じて「景行」に供奉して九州まで遠征している。また、「武雄心」の子「武内宿禰」は長じて棟梁の臣まで上り詰め、時の政を牛耳るまでに至っていた。この間、帝都の地である大和にはなぜか景行・成務・仲哀の三天皇が殆ど不在であった。この不可思議な現象をどう見るかである。

話を再び「開化」の御世AD260年に戻す。
当時、「稚武彦」18才は兄「吉備津彦」と共に出征して吉備の冠者「温羅」の首を刎ねた。そして兄は吉備国を与り、弟は針間国を与った。兄の母は弟の母の姉という関係であったから出自は同じ尾張氏で気の合った異母兄弟であった。

※ 同兄弟の幼少期は、倭国大乱の影響から都を離れて針間の伯父「大吉備諸進」に身を寄せる謂わば疎開児童の身の上であった。後継ぎのいない孝霊の兄「大吉備諸進」夫妻は孝霊の子息兄弟を我が児のように慈しみ育て上げそして後事を託した。

AD264年の斯盧国懲罰について。
AD263年、この年は「于老の変」(倭国が于老を焼殺刑に処す)後、10年目の節目に当たり、倭国の修交使が10年振りに修交のため斯盧国を訪れた。ところが于老の妻に招かれた饗応の席で騙し討ちに遭い倭臣は気の毒にも焼殺された。怒った倭国は斯盧国懲罰のために兵を出した。時に翌264年、「吉備津彦」が吉備冠者「温羅」を征伐した四年後の出来事である。
当時、倭は開化の御世で尾張氏「日本得魂」34才は既に家運凋落(版図縮減して久しく)して出兵おぼつかず、「吉備津彦」25才は封地経営に忙しく吉備国を空けること能わず、開化の兄「大彦」42才もまた嫡統王家の交代9年目と言えども未だに不測に備えて都を警護する要石であった。必然、派遣の将は南巡の謂れも深い今は亡き「和邇日子押人」の嫡子「彦国姥津」44才と新進気鋭の若武者吉備の「稚武彦」22才を置いて外になく、彼らは俄か仕立ての編成も慌しく伊都国から渡海していった。その兵力たるやたかだか500人内外であった。

無論、そこには「一大率」武官ほか「金官加羅国」の任那武人も加わり先導したことは云うまでもない。
この弔い軍は海路浦項(ポハン)に上陸し、途中斯盧国兵の抵抗を受けつつも彼の首都慶州「金城」を包囲攻撃した。時の斯盧国王「味鄒」(みすう)は素より倭軍襲来の今日あることを知り予め籠城戦に備えていた。「味鄒」王の後年の戦歴は百済と境を接する相次ぐ攻防戦でほぼ勝利していた。この「味鄒」の此度の倭軍相手の金城籠城は、倭軍の兵糧の尽きるのを待つ戦術で終始した。この「味鄒」は「金氏王統」の始祖として『三国史記』に登場し、高い評価を受けていた。

「味鄒」の遠祖は「金閼智」(あっち)である。古の或る時、倭人「瓢公」(ここう)が金色の木箱が木の枝に引っかかっているのを見つけて中から男の子を拾い上げた。この高貴な出と思われる赤子は故あって捨て子にされ「瓢公」の目の届くところへ敢えて置かれていた。「瓢公」はその子を「閼智」と名付けて育てた。「閼智」の出自は汎任那に君臨する出雲王朝所縁の男子であった。その男子は許されざる仲で密かに産み落とされた落胤であった。「瓢公」は恐らくその許されざる所縁を知っていたがゆえに亡くなるまでその出生の由来素性を明らかにすることはなかった。

「閼智」から数えて7代目が「味鄒」である。この間、混血が進み倭人の血は薄れて忘れ去られ母系氏族(濊貊)の血脈が連綿とつづきそれが斯盧国のアイデンティティとなっていた。
同様に「朴氏」の遠祖は初代斯盧国王「赫居世」である。この「赫居世」は丹波の出である。丹波は古より「尾張氏」の支配地である。出雲王朝時代は同王朝と密接不可分な王族であった。「赫居世」はその支族で汎任那に属する慶州に先住していた王族とみるのがごく自然である。

倭の弔い軍が「于老」の老妻を懲罰したかどうかは知る術がない。だが弔い軍が斯盧国の首都を震撼させ、修交使倭臣が犠牲となった殉難の地で同倭臣を鄭重に弔ったことは疑う余地がない。倭軍はそれを以って由として彼の地を堂々と引き上げていった。
AD264年、倭国修交使殉難の場で弔意に臨む吉備氏「稚武彦命」倭軍副将。

稚武彦命 (わかたけひこのみこと)

〚私論編年 AD242年~305年 享年64歳〛
父は孝霊天皇、母は「蠅伊呂杼」(はえいろど)
姉は「倭迹迹日百襲媛」、兄は「吉備津彦」、「孝元天皇」は異母兄。
母の姉は「倭国香媛」で、母の兄は第七代尾張氏当主「建諸隅」。

「開化期」で活躍した「稚武彦」は、吉備平定後は播磨の国を与り国邑の長として君臨した。
『記紀』はその娘が「景行」の后に召されたという。私はここに世代間乖離の問題を提起する。
〚別紙12-1〛は同世代に属する人名を夫々表わす。同図の「稚武彦」は「吉備津彦」「開化」「倭迹迹日百襲姫」と同じく第二世代に属し、主に260年代に活躍した人物である。目を転じれば「景行」は第五代世代に属し、その主たる活躍時期は330年代である。ここに「稚武彦」と娘「播磨稻日大郎姫」との間に、「崇神」「垂仁」「景行」三代に亘る70年間の乖離が横たわる。もし、「稚武彦」に娘がいるとすればその娘は第三世代に属し「崇神」期の人物であるはずだ。「崇神」期から観た「景行」は孫世代である。孫世代の「景行」が果たして「稚武彦」の娘(閉潮した姥桜)と結ばれて「日本武尊」を産ませたであろうか、いくら手の早い「景行」(征討途上各地で子女80人を儲けたという)といえどもそれは考えにくい。ではこの世代間の矛盾は一体どう捉えたらよいのであろうか。
「稚武彦」の孫に「吉備武彦」がいる。吉備武彦は「景行朝」の御世に「日本武尊」(18才)の東征に供奉している。そのときの吉備武彦の年齢は39才と観る。その根拠は、「播磨稻日大郎姫」がその18年前に17才にして22才の「景行」に召されて「日本武尊」を産んだ。・・だとすれば、同姫は必然的に吉備武彦とほぼ同年代の40才前後とみるのが自然である。
〚別紙12 その3〛の図は「日本武尊」東征18才のとき、「景行」40才、東征に供奉した副将「吉備武彦」39才、「播磨稻日大郎姫」35才と為る。

・・であるなら「吉備武彦」は崇神期に生まれ、垂仁期に青年期を過ごし、景行期に壮年期を迎え、脂の載りきった熟年で若き「日本武尊」に供奉して東征を輔佐した。吉備武彦が崇神期に生を受けたとみればその関連で「播磨稻日大郎女姫」もまた崇神期に生を受けたことを意味する。この二児が誕生した当時、稚武彦の年齢は既に50代半ばを過ぎている。50代中半で播磨稻日大郎姫を産ませる可能性にいささか無理がある。私見では「稚武彦」30才のとき稚武彦が「稚武彦二世」を儲けた。同二世が長じて21才のとき同二世の子「吉備武彦」が生まれ、同二世25才のとき「播磨稻日大郎姫」が生まれた・・と為れば系統に無理はなくなる。
即ち、『記紀』記載に一世代が抜け落ちたかそれとも意図的に削除隠蔽したか今では知る由もないがその名前不詳の「稚武彦二世」なる人物こそ景行・成務・仲哀・三代大王が古の都大和を飛び出して征討に明け暮れ(寧所に暇なく)或は大和の地を敢えて離れて遷都した背景を知る上で、大変重要な(都ヤマトの中枢に在って兵站の要である軍奉行を担っていた)立場ではなかったかと観られる。

〚別紙12-2〛「AD264年、斯盧国誅伐当時における大和の主要人物の年齢構成」 をまとめてみた。「開化」39才のとき「稚武彦」22才、「彦太忍信」12才、「崇神」7才、「倭迹迹日百襲姫」と女王「臺與」が27才とする各年代別年齢比較対象を概観した。

本項冒頭に「任那宗主国倭王開化」を掲げた。現在、朝鮮半島と呼ばれる半島は縄文時代は倭人が主たる先住民族であった。弥生時代に出雲王朝が成立し、半島と列島を跨る「環古代倭地圏」を形成していた。その支配体制は文物交流を通じた緩やかな親任統治であった。半島の汎呼称は「任那」とされ、その任那には多くの国々があり夫々の国には倭人の族長または邑王がいて出雲王朝と紐帯した関係で結ばれていた。この当時の半島のことを私は「任那半島」と敢えて唱える。中国の『史記』『三国志』の編纂者らは海東に隔絶して歴史の暗闇に隠れていた「任那半島」「任那先住倭人」のことを露ほども知らずその存在は認識の外であった。認識にない歴史は無かったに等しく永遠の彼方へ葬り去られてしまった。あたかも南北アメリカ大陸が発見(15世紀末)されるまでは、同大陸の存在や歴史文明が無かったかのごとく、同じようなことが任那半島においても現象面で起こっていた。この不幸な宿弊は今日に到っている。


「神武」は、筑紫(北部九州)で挙兵し出雲王朝の本拠地「ヤマト」を転戦の末、生き残った僅かな兵で急襲した。この乾坤一擲の吉野奥地からの逆さ攻めは功を奏し、出雲王朝の皇女(嫡女)を生け捕り、同皇女との間で「神武」は「綏靖」を産ませた。これがそれ以後に続く「ヤマト王権」の源流となって今日に引き継がれた。
『記紀』は日本史編纂に当たってその不都合な真実を隠蔽して〚出雲王朝〛を壮大な神話の世界へ封じ込め且つ又祟りを怖れて祖先神として篤く祭り上げて糊塗した。


紀元前、秦(始)皇帝の圧政から逃れた斉(山東省)の徐族一団は海路東渡 (紀元前219年) して倭国へ辿り着き根を下ろした。その地で帰化して倭人と交われば三代以後は徐族もまた倭人になりきる。神武はその末裔の一人でヒムカ王に繋がったと仮推する。当時、倭人は任那半島から九州~東北に跨る広範な環古代倭地圏を形成し縄文時代から引き継がれた高い文化を維持して分布していた。古代大和盆地は四周を山に囲まれた天然の要害で、数多くの水路を通じて交通が発達し倭国(出雲王朝)の政を司る中心地でもあった。この出雲王朝は同時に山陰・北陸・畿内・東北は云うに及ばず任那半島の任那諸国をも包含する交易を通じた一大海洋国家を形成していた。その王朝の発祥の地は出雲ではなく大和葛城であった。
邪馬台国の尾張氏は天足(あまたらし)・天豊姫(あめのとよひめ)・大海媛(おおあまひめ)・分家の海部氏(あまべうじ)・などと海洋民族を暗示する出雲王朝伝統の冠名を引き継いだ皇族であった。尾張氏の「氏」名は葛城(大和)の本貫地「高尾張邑」に由来する。

地祇とは、その皇族と紐帯で結ばれた大和の分岐氏族のことで各地を治める邑王あるいは族長らを差した総称であった。それらの地祇があるときから大和国に集住して政を行っていた。出雲の国はその当時の交易のハブ的存在で大いに栄えてその強大な勢力は一時期「大和国」を凌駕した。だが、冬期の日本海の気候は荒々しく特に雪害はその果たすべき統治の機能をしばしば停滞させた。為に政の中心地は気候温暖にして要害の地「大和」の地を必然とした。

(※ 紀元前に存在していた出雲王朝の首都〚葛城〛、現在の奈良県御所市。御所市の名称自体それを暗示する。この図は第一章「宇那比姫」から転用重複している)。

この安定した出雲王朝の政体系(国の姿)を覆す一大事件が紀元90年頃に皇都中核で起こった。「神武」による吉野奥地からの不意を突いた皇都襲撃がそれである。地祇らは「尾張氏」の兄「三輪氏」の嫡女「媛蹈鞴五十鈴媛」が「神武」の子「綏靖」を産んだことから、その「綏靖」を次期大王に立てて新たな体系を引き継がせた。これが出雲王朝の「国譲り」と謂われる所以である。国譲りで面目を欠いた地祇諸侯は「神武」の庶流長子「手研耳」(たぎしみみ)を「綏靖」自らが誅殺したことで、以後 地祇の系累をもってその後の血脈を織りなし、神武以外の「神武」の原郷からの血は一切絶たれた。そして地祇の合意による共立女王「日女命」(尾張氏)がやがて出現した。「日女命」の生母は紀伊氏の「中名草姫」である。名草の名で思い出されるのが「神武」東征途次の和歌の浦に上陸して糧食を奪い抵抗した同地「名草」の女酋長を切り刻んだ伝承である。「日女命」の母方の出はまさにその紀ノ國の名草邑からの出であった。「出雲王朝」に代わる「ヤマト王権」(邪馬台国)の出現は斯かる経緯を経て誕生していた。
だがこの異脈(神武)の王統に馴染まない地祇が少なからずいた。その代表格が若狭の「玖賀国」(狗奴国)であり、在出雲の神々(地祇)や任那の出雲王朝系累の邑王らであった。
若狭の「玖賀国」は尾張氏と同格の「海部氏」本宗家(分岐氏族、祖・天御蔭命)そのものであった。ゆえに尾張氏は「玖賀国」(狗奴国)を畏れていた。
私は「神武」橿原即位がAD93年、出雲王朝がその「神武」に国譲りしたのがそれから15年後のAD108年と仮推する。この間、三輪氏も海部氏も物部氏は勿論のこと、尾張氏さえも「神武」に人質として囚われていた「出雲王朝」の「嫡女」を救い出さんとして「神武」と対峙していた。そして神武の子「綏靖」は同108年、14才に成長していた・・、「神武」は「出雲王朝」が国譲りしたその翌年、69歳で崩御した・・と観ているのである。


「蘇我氏」本宗家が滅亡した「乙巳の変」(AD645年)で、嫡子「入鹿」暗殺の報に接した父「蝦夷」は悲憤のあまり、それまでの貴重な天皇紀や上古歴史書を焼却した。
『記紀』を編纂した「太安万侶」や「舎人親王」らはそのことを勿怪の幸いにこの倭国黎明期前夜の旧事に口を噤んで〚出雲王朝史〛を没却し、原史倭国を〚神代紀〛に祭り上げて事蹟の数々を記憶の彼方へ遠ざけ、微かな残像だけを今に伝えた。
(近年の埋蔵文化財発掘の目覚ましい成果がその全貌は明らかにしつつある)。


2016/5/14   著者 小川正武  

【追記雑感】
「神武東征」以前の「大和」『葛城』の地は出雲王朝の首都であった。「出雲の国」は半島任那を挟んで交易(物流・経済)中継地として倭の中心的役割を果たし、独自文化も発達して首都「大和」に比肩する副都を形成して大いに栄えていた。
「神武」襲来時の「大和」には出雲王朝の大王「大国主命」がいてその子供に異腹の皇子三人がいた。長子は「事代主」(三輪氏始祖)で、次子が「味耜高彦根」(尾張氏始祖)、次いで三子が「宇摩志麻治」(物部氏)であった。「事代主」の娘「媛蹈鞴五十鈴媛」とその妹「五十鈴依媛」が「神武」に捕らえられて人質になる中、大王「大国主命」の命でその責めを問われて詰め腹を切らされたのが宇摩志麻治の伯父「長髄彦」(大和の登美邑の族長)であった。宇摩志麻治の母「御炊屋媛」(みたきやひめ)はその長髄彦の妹であった。その母「御炊屋媛」が亡くなる前、味耜高彦根と宇摩志麻治を枕元に呼んで、神武と媛蹈鞴五十鈴媛との間で授かった「綏靖」の成長を拠りどころに、 “神武と講和して以後は「綏靖」を盛り立てよ” と遺言してこの世を去った。
(※ この前後の詳述は本稿第一章に既に記載していることからここでは紙面を省く)

ことほと左様に「神武」出現は大和の国を根底から揺さぶり出雲王朝崩壊のきっかけとなった。斯くして邪馬台国開闢は「神武」天皇を開祖とした。
第十代「崇神」天皇(宇摩志麻治を始祖とする物部系)は、この邪馬台国をぶっ壊して、改めて大和王権を打ち立てた。そして〚御肇国天皇〛(はつくにしらすすめらみこと)と称されるようになった。

※  因みに「崇神」天皇の高祖父は三輪氏系「懿徳」天皇である。
諄いようであるが「三輪氏」「尾張氏」「物部氏」の始祖三兄弟は「出雲王朝」の大王「大国主命」を父に戴く。その「大国主命」は大和の国「葛城氏」を出自とする。「大国主命」は長じて出雲国を与り、後に倭の大王となって〚環古代倭地圏〛に君臨した。後代、任那四郡を百済に譲って倭の臣民(任那先住民族)を裏切った「雄略」はその「葛城氏」本宗家をも滅亡させた。 以後の「葛城氏」は分岐氏族(分家筋)である。 
「雄略」の孫の若き「武烈」が精神を病んだのは「雄略」の非道な数々が直接間接に遠因起因する。「武烈」はまた父方の祖父「市辺押磐皇子」が「雄略」に無惨な殺されかたをした裔でもあることから深く傷つき自己嫌悪に陥り自己否定した真に心悼む〚河内王朝〛最後の大王であった。「武烈」がその血脈ゆえに懊悩して、継嗣誕生を望まず己が孕ませた妃の腹を裂いた末、破滅していった狂気の姿に私は泪する。そして時の大連「大伴金村」(遠祖は神武東征に供奉)は〚河内王統〛を見限った。その後の国史顛末は、「雄略」路線を引き継いだ「継体」王統(大和王朝)が、任那倭人に優先する百濟擁護に終始してやがて父祖伝来の任那の地、任那半島を失うことになった。