2013年4月18日木曜日

天忍男 「大国主命の曾孫」 【邪馬臺国 その十三】 第一章

天忍男(尾張氏)は天忍人の弟。妻は葛木氏の剣根(ツルギネ)の娘「賀奈良知姫」(※ 1)。この葛木氏こそ神武軍が吉野から攻めてきたとき、姫蹈鞴五十鈴姫と五十鈴依姫をいち早く匿って庇護した云わば三輪氏にとっては命の恩人の氏族。その葛木氏が今や、王位継承を巡り三輪氏と鋭く対立する尾張氏の側に立って三輪氏と対峙していた、皮肉な巡り会わせと言わざるを得ない。

天忍男の第一子は「瀛津世襲」(オキツヨソ)、第二子は「建額赤」(タケヌカアカ)、
第三子は「世襲足媛」(ヨソタラシヒメ)。

世襲足媛はカエシネ(⑤孝昭)に入后し、瀛津世襲はカエシネの大連(最高執政官)となり、建額赤は津守氏の遠祖となって大阪湾口(住吉・浪速津)の要衝を守護した。

天忍男命(アマノオシオ) 本拠地 : 葛城高尾張邑
支配地 : 丹波の国  大国主命の曾孫
【私論編年 AD110~AD184年、75歳薨去】

旧出雲王朝の流れを汲む「天忍男」 (※ 2) は、丹波の国主としてこの地方で権勢を振るい、その版図は狗耶韓国にも及び、代々盛んに交易を行っていた (※ 3)。 その主たる移入は鉄の始発原料である鉄鉱石で、その産出地は半島の南東部と中国の東北部であった。

ところが中国では後漢「霊帝」のこの時代(在位168-189)、先代桓帝からつづく宦官の専横に不満を持つ外戚や豪族たちが相次いで政権中枢から離反、地方でも賄賂行政がはびこり苛政に苦しむ民衆たちが各地で暴動を起こしていた。そして中国の北辺や遼東では鮮卑族(内モンゴルの騎馬民族)が我が物顔に跳梁跋扈していた。そのため楽浪郡や帯方郡でも後漢の影響力が急速に衰え、それまで統制の取れていた倭国との交易も頓挫した。
一方、倭国においても大王家分裂が国内勢力を二分し、時として同族間同士で誅殺しあう場面も頻発、第五代大王「孝昭」(カエシネ)は都の不穏な状況を憂いて幼き皇子たちの身の安全を図るため后の父「天忍男」の領国丹波の海士へ一時的に避難させていた。

そうした中央の逼迫した危機を背景に、「天忍男」は大連「瀛津世襲」の下で頻繁に国邑の長老会議を開き、大王家分裂の収拾策を呼びかけた。しかし議論は紛糾すれど纏まらず物別れすること暦年、時にAD180年ころであった。糸口が見出せぬまま内乱は更に長期化した。 
写真上は、当時 鮮卑が後漢の北辺を圧迫していた図。

昔、舟泊まりの浅瀬に立つ鳥居は元来艫綱を結わえておくもので同時に航海の無事を祈る神聖な門出のシンボルでもあった。
曾祖父「天忍人」の国丹後の竹野に身を寄せていた「建斗米」の娘「宇那比姫」はいつのころからか海人(※4)たちが出航する前夜、沐浴して身を清め亀卜を読み解きその航行の安全を占うようになっていた。荒波に命を張る海の男たちは彼女の吉凶を大いに歓び畏敬し勇躍船出していった。そのうち彼女の神がかり的な霊力は津々浦々に知れ渡っていた。そして彼女が15歳のとき、彼女の祖父「天戸目」を介して従兄弟の「アマタラシヒコ クニオシヒト」18歳と竹野において婚儀が営まれた。時にAD186年であった。

そのころ、中華全土では黄巾の乱が荒れ狂い、首謀者らが相次いで成敗されていたものの政治腐敗による民衆への苛政は依然としてつづき、黄巾の残党らはこの後も広範な地域を跋扈して反乱を繰り返していた。そして遼東半島以南は後漢権力の空白地帯となりそれを埋める形で新興勢力が勃興し、倭国と後漢との交易は分断された。「天忍男」をはじめとする山陰や北部九州の豪族たちは、倭国を代表する大王が対外的に定まらない中、それら新たな国々との交渉が持てないジレンマを共有していた。

(板厚30ミリ) 
略奪と殺戮の地と化した大陸の荒廃ぶりを見聞きする倭の豪族たちは、その凄まじい災禍を倦み嫌い倭国大乱を一刻も早く収束すべきとする機運に満ち満ちていた。そこで「天忍男」は、分裂した大王家の統治空白を埋めるため、それに代わる大王の祭政権能からひとまず「祭」と「政」を分離して「天地自然と祖神を崇める瑞穂の国を代表する「司祭王」たるを暫定に戴き、その王を豪族連合を代表する盟主と仰ぎ、そのことで倭の求心力を図る。一方で、統治権はあくまでも大王家に帰属するものの、それは大王家が一つに収斂するまで待つことやむなしとし、この間、事実上豪族連合において「政」の機能を持たせる、この旨、天忍男のイニシアチブによって大胆な提唱がなされた。やがて倭を構成する諸豪族はこの緩衝機構を布くことで統治の空白を暫定的に埋める、そうした気運が次第に醸成されていき合意形成をみるに至るのである。
中華の易姓革命と異なり、この国の成り立ちそのものが『天神地祇が合体した血族の統合を誓約』した起源をもち、同祖二神の兄弟何れかが一方的に族滅するということがそもそも馴染まない!そういう風土をこのヤマト王権には宿していた。


ところが、それを了と為すもその司祭王となりうる肝心要の適任者は一体誰か!この問いに応えて「天忍男」は甥の孫『宇那比姫』に白羽の矢を立てて推挙した。『宇那比姫』は「大国主命」の六世孫に当たり、その血筋の高貴なことと天女の如き慈愛に満ちた存在は倭の津々浦々にも響き渡っており居並ぶ群臣豪族たちはその人選の素晴らしさに一瞬どよめきをもって迎えた。それというのも天つ神と土着の神を結びつけた嘗ての大国主命の后で大和の女主であった登美国の「御炊屋媛」(ミカシキヤヒメ)の人柄を彷彿とさせる立ち位置にあり「宇那比姫」を以てすれば、それに代わる相応しい人選は他に見当たらず、大意はごく自然に纏まりをみせていった。「天忍男」(AD184)が薨去した直後に宇那比姫は女王に推戴されて女王たる尊称「日女命」となった。

(※ 1)
万葉集にみる「奈良」の都の地名は、この葛城氏の豪族 葛木剣根の娘「賀奈良知姫」の名からとったものであろうか!天忍男はこの賀奈良知姫を娶って世襲足姫が生まれ、同姫は長じて孝昭の后に納まっている。また同姫の兄に「瀛津世襲」がいて孝昭の大連となり朝政の重鎮となっている。孝昭の事跡で針間(播磨)における伝承があちこちに見られるが父「天忍男」の本貫地(地領)が丹波国であることからその息子のオキツヨソは孝昭の勅命を奉じて丹波の南・針間に進出して版図を広げていたのではなかったか! 
(※ 2)
 天忍男が生まれる三年前、帥升が軍舟約30~50艘に生口160人を載せて後漢遣使に赴いていた。伊都~壱岐~対馬~狗耶韓国~楽浪経由で洛陽へ威風堂々の遣使、無事成功裏に凱旋、神武の前で帰国報告を奏上 (AD108) している。
天忍男の曾姪孫「和邇日子押人」は243年、第二次遣使 (副使) として魏へ朝貢している。

 (※ 3)江戸時代、北前舟が日本の海上輸送をほぼ独占していた。その本拠地は北国加賀であった。その源流は出雲・丹波・若狭の海人たちに観られる。

 (※ 4) ここで云う「海人」とは、当時の航海に命をかけた名もなき多くの舟乗りを総称する。これら海の男たちは紀元前から「環古代倭地圏」を勇躍していた。中世にも倭寇が和船で東シナ海を暴れまわっていたが、この時代もそんなに変わらない海人の猛者たちが外洋で活躍していたとは容易に理解できる。厄除け鯨面の異相した海人らは、その起源は決して半島の民でもなければ半島からの帰化人(渡来人)から為っているものではない。生っ粋の倭の海人たちから構成された海草なのである。

AD200年ころの公孫氏の時代は、狗耶韓国への組織的な異民族の南下はまだなく当時は倭の領域であった。倭の都が北九州からヤマトへ東遷したことによって相対的に都から遠く離れた狗耶の地は、王権争いに明け暮れる中央の支配権が次第に及ばなくなっていった。そして扶余族が百済建国を望み倭に対して 狗耶の地の一部割譲を願い出た、倭は友邦の契りとしてこれを与えた。転じた今日にみる韓半島の人々の先祖とはこの狗耶に留まった倭人と北方系民族とが融合していったものと観てとれるのである。

            2013/4/18    著作者 小川正武        

2013年3月22日金曜日

天足彦国押人 【邪馬臺国 その十二】 第一章



天足彦国押人命(アマタラシヒコ クニオシヒト) 
以下略して、アマ・クニオシヒトという。
カエシネ(⑤孝昭天皇)の第一皇子。母は尾張氏の世襲足媛。  
同母弟に⑥孝安天皇(ヤマトタラシヒコ クニオシヒト)がおり、その孝安の后はこのアマ・クニオシヒトの娘 押媛とされる。
【私論編年 AD168ー199年、32歳で夭逝か!】

画像は11歳のころの天足彦国押人(アマタラシヒコ・クニオシヒト)の面影を投影す。長じて宇那比姫命(ウナビヒメ)いわゆる魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」を娶る。この宇那比姫との間に生まれた児「和邇日子押人命」(ワニヒコオシヒト)は正始四年 魏へ遣使している。(AD243年)            また、この「和邇日子押人」は「宇那比媛」(日女命)が亡くなった後、再び国が乱れるなか従妹の「台与」を擁立して時局の収拾を図った。斯くして和邇氏一族にとってこのアマ・クニオシヒトは宗祖的存在となって後裔たちは大いに雄飛して栄えた。
AD179年ころ、都の騒乱をよそに天足彦国押人 11歳はその弟「後の⑥孝安天皇・当時4歳」と共に母方の祖父・天忍男(尾張氏)の領国丹波の海士(現・京丹後市久美浜)に身を預けられていた。

それと相前後して、宇那比姫 8歳もまた都ヤマトの地を離れて曾祖父の地・天忍人(天忍男の兄)の領国丹後の竹野(タカノ)の府で同じく大切に庇護されていた。どちらの地にも海に近い良好な河川の津があり紀元前から狗耶(半島の倭地で、任那へ発展する原形の地でもある)の倭人らとも、鉄・銅・珪砂などの原材料と海産乾物・宝飾・土器・雑絹…など多岐にわたって交易がなされていた。中国王莽の「新」(AD8~23)で鋳造された貨幣「貨泉」が山陰函石浜遺跡から出土しているが、そこからも貨泉を用いた盛んな交易の様子が窺い知れる。厄除け文身した逞しくも勇ましい海の男たちの荒い息吹がいまにも川津の向こうから聞こえてきそうではないか。

〈※1〉出雲王朝の時代、山陰は青銅文化圏として大いに栄えていたがヒムカ天孫族が畿内に持ち込んだ鉄器文化によって脆くも戦いに破れ、以後山陰や大和の諸豪族らも以前にも増して競って半島から鉄を移入するようになり、その後、鉄は近江からも産するのを観て物部氏や和邇氏らは競って同地へ進出し直接調達できるようにもなった。

ところで「出雲醜の変」とは一体どういうものであったか、その真相を顧みてみよう。 一言でいうなら、それは大王位を巡る「三輪氏」と「尾張氏」との抜き差し為らない確執、深刻な覇権争いにほかならなかった。言い換えれば母系嫡流嫡孫に固執する三輪氏と、古来からの伝統である末子継承の慣習に拘る尾張氏との豪族間同士の立場の相違からくる大王位を巡る継嗣継承争いであった。物部氏の出雲醜はその渦中に巻き込まれて難しい選択を迫られた大臣であった。この三者は何れも先祖を遡れば大国主命に辿りつく皆兄弟たちであった。「三輪氏」は大国主命の第一皇子「事代主」に辿りつき、「尾張氏」は大国主命の第二皇子「味耜高彦根」に辿りつく、そして「物部氏」は大国主命の第三皇子「宇摩志麻治」にたどり着くのである。これら兄弟氏族らは「長髄彦」の妹君「御炊屋媛」の遺訓に背かず忠実に大王家に仕えて、その勢力の消長をかけて互いに繁栄を競い合っていた親族らであったのだ。

〈※2〉大王位の末子継承は遠く筑紫ヒムカ天孫族からつづく習わしであった。現にイワレヒコ(神武)は末子であった。イワレヒコの兄たちはイワレヒコの楯となって戦場で亡くなっている。このアマ・クニオシヒトも同様、弟のヤマト・クニオシヒト(⑥孝安天皇)の方が優先して大王位を継ぐ仕来たりに遵っていた。

(板厚30ミリ)

そして、出雲醜は大王家分裂の収拾を果たせぬままAD183年ころ薨去した。


2013/3/22  著者 小川正武

                     

2013年2月21日木曜日

孝昭天皇 「カエシネ」 【邪馬臺国 その十一】 第一章


観松彦香植稲尊(ミマツヒコカエシネノミコト) 
以下、カエシネと略称する。
后は、尾張氏出自の世襲足媛(ヨソタラシヒメ)。同后にとって尾張氏の始祖 味耜高彦根は曾祖父にあたる。同時に大国主命の四世孫でもある。

邪馬台国の日嗣の御子はもとより嫡系男子に限られていた、それも末子継承であった。
しかも草創期のこの王朝の性格として同時に母方の血筋が大変重く尊んじられ、母系出自 (三輪氏) の后が何代にも亘って連綿とつづいていくことが望まれていた。
事実、神武から三輪氏の母方である二代綏靖・三代安寧・四代懿徳 へとつづいていたのである。
ところが・・・


ところが・・・第五代大王「カエシネ」のとき、その母の出自がそれまでと少し異なっていた。 どう異なっていたか、その内容をつまびらかにみると、カエシネの
父は、③安寧 (シキツヒコタマテミ)。 
母は、師木(磯城)県主の祖、賦登麻和詞の娘で飯日媛(イイビヒメ)であった。
次に、カエシネの兄弟関係を見てみると、

長兄は、息石耳命(オキソミミ)。母は、鴨王(三輪氏)の娘「渟名底仲媛」で事代主の孫娘。

次兄は、④懿徳「スキトモ」尊。母は、同じく渟名底仲媛(ヌナソコナカツヒメ)。

次に本人、⑤孝昭「カエシネ」尊。スキトモとは二歳ほど年下の異母弟であった。 (※ 1)

「⑤カエシネ」の后の世襲足媛(ヨソタラシヒメ)は、父が天忍男(アメノオシオ)、曾祖父は尾張氏の始祖「 味耜高彦根」。従って、世襲足媛は始祖の三世孫にあたる。

「⑤カエシネ」は安寧の日嗣の御子であった。『先代旧事本紀』巻第七、天皇本紀に
〝観松彦香殖稲尊(カエシネ)は磯城津彦玉手看天皇(③安寧/タマテミ)の皇太子である〟と記述している。『記紀』編纂者は、父「スキトモ」、子「カエシネ」の関係に置き換えて改竄したが物部氏の書「旧事本紀」は、その真相をそっと忍ばせて今日に伝えたかったのであろう。
「カエシネ」が20歳の時、尾張氏の世襲足媛15歳を娶った。
異腹の兄「④スキトモ」はそのころ既に同母の長兄である息石耳(オキソミミ)の一人娘「天豊津媛」を娶って一子・武石彦奇友背(タケシヒコ クシトモセ )をもうけていた。

「③安寧」はAD158年に崩御した。皇太后になった「ヌナソコナカツヒメ」は後継大王に実子の次男「スキトモ」を強く推した。次男息子と長兄の娘の結びつきは母系出自の三輪氏継承を意味した。時の政権中枢にいた侍臣「大祢」と大臣「出雲醜」(イズモシコ)は皇太后の意思を忖度し、尾張氏の媛を娶った皇太子を差し置いてこれを無理やり実現させた。この大祢と出雲醜は共に兄弟で宇摩志麻治(物部氏)を始祖に戴く孫であった。 (※ 2)

■ 軍事と政事の大権を一手に握っていた時の執権者物部氏の「出雲醜」らに逆らえず「カエシネ」も「尾張氏」もこれに沈黙せざるを得なかった。しかし力でねじ伏せた王位継承には正当性がないとする不満が次第に高まり邪馬台国の中でこれに異を唱える怒れる猛者たちも現れ国を二分する争いとなった。それが先代「スキトモ」治世中の暗雲漂う出来事であった。

■ ところがスキトモ在位11年目のAD170年、スキトモは35歳で俄かに崩御した。そこでカエシネ(32歳)は第五代大王を自ら宣した。しかしこの時も「太皇太后」(60歳)になっていたヌナソコナカツヒメは尚も母系嫡孫に拘り遺児「クシトモセ」13歳をスキトモにつづく王に強く望まれ「カエシネ」の王位をまたもや阻むのである。そして事実上大王位空位のまま先代スキトモ治世時の混乱にも増して豪族内部でもいよいよ二派に分裂して大きな騒乱となった。その対立激化は一段と地域的広がりをみせ、やがて収拾がつかなくなっていった。そんな中、カエシネは橿原の宮から南西4キロの地、 后の生国 掖上池心宮へ都を移した。この倭国騒乱は遠く洛陽にまで鳴り響いていたのである。

■ そうした混沌のさ中、太皇太后はAD177年に68歳で身罷った。カエシネは人心が乱れる中、前任の大祢と出雲醜を解任し代わりの「大臣」に出石心命(イズシココロ、出雲醜の歳の隔たった異母弟)を、「大連」に尾張氏の瀛津世襲命(オキツヨソ)を親任し左右に近侍させた。しかし依然「スキトモ朝」の遺臣大祢と出雲醜は尚もクシトモセを擁立してカエシネと鋭く対立、ここに至って決定的に倭国は分裂し時として誅殺しあい、この内乱は北部九州にまで飛び火した。それが『後漢書』「桓霊の間 倭国大乱」が指し示す内乱であった。

出雲醜の軍事的脅威に対抗するためカエシネは、神武遺命でもある軍事総裁の物部職(世襲制)を出雲醜から奪い、カエシネに心を寄せる出石心に代えて任用、出雲醜の力を削いだ。継嗣争いは既に②綏靖朝のタギシミミの変があるがそれに次ぐものとしてこの⑤孝昭朝のこの内乱を私は『イズモシコの変』と仮称した。

諡号は、孝昭(こうしょう)天皇。邪馬台国/ヤマト王権第五代大王である。
【私論編年 AD138ーAD193年、在位17年間、50歳で退位、56歳崩御】

倭国大乱の只中、他方では物部氏の湖北進出がみられ、その地を婚姻を通じて中臣氏の伊香津臣(児の梨迹臣は後に遣魏正使を務めている)に与え、更に濃尾や北越方面へも進出。尾張氏などの勢力も淡海湖西へ進出、後にその地は和爾氏が支配。湖東は三上氏が若狭の本系「海部氏」から分岐して進出していた。   (※ 3)

■ 同時期 目を転ずれば、大陸では大規模な「黄巾の乱」(AD184年)が発生。AD189年 後漢朝の公孫度が遼東太守となる。公孫度は漢の威信が低下する中それに乗じて半島南部へ急速に勢力を伸ばし楽浪郡を支配下に置き郡冶を仕切って統率の拠点とした。次いで嫡子公孫康はAD204年さらに南下、帯方郡の土着の韓・濊族を討ち併せて北部九州などから交易を通じて集住していた倭地倭人


らも帰服せしめ、直接倭国をも脅かせる緊迫した情勢となった。 馬韓弁韓それに辰韓の沿岸部には既に紀元前から倭人の集落が点在していた。それは国境の定かでない古代の半島と山陰・北部九州の間に出来ていたごく自然で平和的な倭人の領域、つまり狗耶韓国という名の倭地があった。私はこれら海域を総称して環古代倭地圏と名付けている。                                 王家が分裂して内乱に明け暮れた孝昭朝であったが、やがて和解の日が訪れた。それは思いもよらない従妹の出現によってであった。その名は「宇那比姫」、宇那比姫は大国主命の六世孫として生まれてきて行き詰った王統譜の瓦解を寸前に救った。この宇那比姫こそ倭国30国から共立され女王 「日女命」(ひめみこと)その人であった。いわゆる魏志倭人伝に登場してくる邪馬台国女王「卑弥呼」(ひみこ)その人である。そしてAD193年、⑤カエシネはそれを見届けるかのように安らかに崩御した。このとき日女命は22才であった。                      


(板厚30ミリ)

(※ 1)  安寧の第三皇子の名を『記紀』は単に「磯城津彦」とうそぶく。この呼称は単に〝磯城の男子〟と云う程度のもので実名ではない。当時、皇位継承権は末子継承が当然の慣わしであった、この第三皇子もそれを約束されていた。しかし『記紀』は、その名を明かすことの甚だ不都合を感じてこれを潜に隠蔽し、それに代わる名詞「磯城津彦」を使って系譜を改竄した。その不都合な名とは「カエシネ」(第五代邪馬台国大王 孝昭)のことであった。このカエシネの時、王位継承を巡って兄スキトモとカエシネの間で熾烈な継嗣争いが起こった、『記紀』編纂者はこのことをひた隠しに隠したかった。そして懿徳と孝昭の〝親子の王統は恙なく継承された〟と謳いたかったのである。

(※ 2) 長子が司祭を司り、末子が統治権を継承したという先代「綏靖」の故事を「安寧」が踏襲し「孝昭」を当然の如く太子に立てた、これがいわゆる『桓霊の間 倭国大乱』の端緒になったのである。

(※ 3) 皇太后が崩じた後の数年間、「カエシネ」政権もやや安定期を迎え、その間、播磨の国へ勢力を伸ばしヤマトの支配権を広げていた。その名「ミマツヒコカエシネ」は飾磨郡で大三間津彦として表れ、讃容郡では弥麻都比古の名で表れている。カエシネがこの地に足場を築いていたことが後年、播磨の西の国でヤマトに奉ろわぬ原吉備国(温羅の吉備)との戦いに発展し、後年 魏志倭人伝に登場してくる魏使「梯儁」が海路はるばる來倭のまさにその時、孫で孝霊の兄に当たる「大吉備諸進」がその吉備国と内陸で戦っていたのである。

2013/2/21   著者 小川正武

2013年1月25日金曜日

事代主命 【邪馬臺国 その十】 第一章

一書に曰く〝事代主神は宮中の御巫(みかんなぎ)八神の一つにもなっています。「えびす様」が、そんなとんでもない場所に祭られているとは知らない人が多いと思いますが、それは天皇家の祖先に関するこの大きすぎる地位に根拠があるのでしょう。〟

事代主(コトシロヌシ)命 〚三輪氏始祖〛
ニギハヤヒ(大国主命)の第一王子、母は神屋楯比売(カムヤタテヒメ)神。
弟王に味耜高彦根(アジスキタカヒコネ) と 宇摩志麻治(ウマシマチ) がいる。
王女(娘)に媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ) と 五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)がいる。
人は今も親しみを込めてこの神を福の神「えびす様」と呼んでいる。
【私論編年 AD58-117  60歳で身罷る】

大和南部の地を制したイワレヒコ(神武)が事代主の娘「ヒメタタライスズヒメ」を后に迎え入れたことで事代主は神武の舅となった。この舅は出雲の国の大王で同時に出雲文化圏に属する山陰地方の盟主的存在でもあった。先代ニギハヤヒ(大国主命)の時代、その勢いは全盛であったがイワレヒコに大和の都を追われてからはその勢いもかげりをみせていた。しかし、神武東征の砌、出雲国を落とせぬまま難波津へ向かわせた当時の出雲の牙城はいまだ健在で、依然として隠然たる基盤をもって外敵に備えていた。その侮りがたい存在はヤマト王権にとって厄介な存在で、互いに覇権を争う相手が婿と舅の関係であれば尚のこと和解して平和裏に血族的統合を図りたいとするのが神武の切実な願いであり且つ又背景であった。
AD108年ころ、筑紫の豪族である天押雲は邪馬台国の大王となっていたイワレヒコの命を承けて副使ウマシマチを伴って出雲の王宮へとまかり出た。
 天押雲は後漢書でいう倭国王「帥升」その人で、記紀神話に出てくる「建御雷」で神武の外戚にあたり筑紫を与る王でもあった。前年 後漢朝貢を果たして帰朝報告のため邪馬台国へ罷り出ていた。その正使「天押雲」は副使「宇摩志麻治」と共に出雲の王「事代主」の下へ和睦の使者として遣わされていた。  (※ 1)

建御雷(51歳)の拝賀の辞は事代主(50歳)を寿ぐ言霊からはじまった。内容は、事代主は今や大王イワレヒコの舅殿でおわすこと、后の媛蹈鞴五十鈴媛(30歳)は三人の御子を授かり立派に育っていること、舅殿はその御子の祖父でおわすこと、また后の妹君「五十鈴依姫」(25歳)は同后のたっての願いから第三王子「ヌナカワミミ」(14歳)が元服するのをまって同皇子と婚儀の予定であること、等々つらつら口上し、加えて大王イワレヒコの思いとして舅殿と永遠の契りを結び、日の神(天つ神)を祖神と崇める我ら天孫族は地の神(国つ神)を祖神と崇める出雲族と和して共に栄えんと欲する、その偽りない証に代えて舅殿の弟君で大王近侍の大夫ウマシマチ(37歳)を茲に遣わせた所以なり…と奏上した。
事代主命は深く思いを巡らせたの後やおらお口を開き重々しくも〝朕(吾)に否なし・・〟と。
ここにヒムカ天孫の王は、出雲の王と同化習合に成功し記紀はこれを、天神と地祇が合体した統治する血族の統合と受け止め、以後このことを出雲の国譲りと謳った。
而して神武朝が名実ともに成立した時期は、神武が橿原へ武力進出したときでもなければ長髄彦が賜死した時でもなく、実にその15年後の宇摩志麻治が降った時なのである。神武が天降ったころの在地豪族の勢力は猛る神武の孤軍勢力よりもその総和においては遥かに凌駕していた。しかし当時はまだ相互の戦略的連帯性に欠け緩やかで穏やかな気風であったためこれを排除するまでに至らず、それよりも新たな血が婚姻を通じて融和策に転じてきたのを受け容れた。

この下りを私なりに言解せば、アマテラスの霊がニギハヤヒの霊の下へ天つ臣タカミカヅチと国つ臣ウマシマチを遣わし〝天孫イワレヒコが降臨したヤマトの地はイワレヒコへ国譲りし給え、代りにその母なる瑞穂の地は弛まぬ交配を重ね豊穣の国へと繁栄することを誓約(うけい)するでありましょう・・〟と幻示的に伝えたのである。結果、史実においても天神地祇の合体した貴種は今日まで引き継がれている。ゆえに伊勢神宮(天神)と出雲大社(地祇)は斬っても切れない相互補完の関係に今日も在る。 (※ 2)
(板厚 30ミリ) 

祟神の無血クーデターが起こったAD275年までの約400年間、この間は銅鐸を祭祀とする弥生文化の全盛時代であった。クーデター以後はその祭祀の使用を〝許さない〟とする意志をもった政治改革が中央で断行された。出雲の奥深い荒神谷とか加茂岩倉山に同青銅器が隠すように埋納されていたことは、当時それを埋葬した側(被支配者層)に深刻な事態が生じていたことを物語っている。これを前後して時代は前方後円墳へと移り、以後前方後円墳からは一切銅鐸の出土は見られなくなるのである。


(※ 1) この九州筑紫を原郷とするヒムカ族とは、そも如何なる出自であろうか?。思うに中国秦の始皇帝の時代、戦乱で荒れ果てた地を後に、徐福が船団を組んで東海に在るという蓬莱の国を目指して集団で亡命したという。紀元前220年頃であろうか!その辿り着いた先が九州の有明ではなかったか、そこへ上陸して次第に筑紫平野に根を下し在地弥生人とも次第に同化融合していった。その末裔たちがヒムカ族と称されるに至ったのではないのか?。ところが紀元前100年頃、山陰地方の出雲族(海人)が全盛期を迎えて筑紫地方をも席巻、そのためヒムカ王は難を逃れて日向へ一時身を隠した。その王こそ神武の祖母「アマテラス」だったと観る!。更に想像を逞しくすれば、神武の先祖を遡れば微かに徐福あたりへ辿り着くのではないだろうか?                             

(※ 2) 天押雲こと建雷命(タカミカヅチ)という古代神が中臣氏の氏神である春日神社に祭られている。その中臣氏の末裔である藤原氏も亦、その氏寺である興福寺に建雷命を権現様(化身)として形を変えて祀っている。仮に徐福の血を神武が引いていたとしてもそれを殊更強調するほどのことはなく、むしろ土着化して歴史の彼方へ消え去っていったそれら幾多の人々を今なお現存する氏寺や仏閣が朝な夕なに怠りなく奉っているその日本人の先祖崇拝こそ歴史遺産として大切にしていきたいものである。


2013/1/25   著者 小川正武

2013年1月12日土曜日

ウマシマチ 「物部氏の始祖」  【邪馬臺国 その九】 第一章


宇摩志麻治 (ウマシマチ)〚物部氏始祖〛
ニギハヤヒ(大国主命)の第三王子、 母はミカシキヤヒメ(御炊屋媛)。
ナガスネヒコ(長髄彦)は伯父、アジスキタカヒコネ(味耜高彦根)は義兄。
【私論編年 AD71~AD132、62歳で身罷る】


神武軍が吉野の奥から攻め込んできたとき、葛城の高尾張邑に居を構えていた味耜高彦根は防戦一方に追われ兄「事代主」の姫二姉妹を救出する暇もなく敗勢の中、辛くも登美へと逃れた。そのとき事代主は大王ニギハヤヒに近侍していて登美に居た。そして取り残された姫君二人は神武軍が制圧した葛城の地で在地長老の玉依彦(剣根の父)に匿われていた。 
(写真左は、石上神宮の石標)       

当時、長髄彦は河内に居て難波の防備に当たっていたが予期せぬ方向からの神武軍襲来に思わぬ苦戦を強いられ、城上郡に居た弟「安日彦」も敵の術中に嵌まって無残な最期を遂げていた。こうして主力の長髄彦軍と神武軍は大和川を挟んで対峙したが両軍小競り合いのなか次第に膠着状態に入った。失地回復の望みを絶たれたニギハヤヒは長髄彦将軍を更迭し、代わりに宇摩志麻治を当てた。

そして長髄彦は敗戦の責任を一身に負い賜死させられた。叔父をわが手で処断しなければならなかった宇摩志麻治は生涯悔恨と自責の念に駆られ、味耜高彦根もまた事代主の姫を救い出せなかった事でその罪をも被ってくれた長髄彦に対して同じく心の重荷を生涯背負った。   (写真左上は、石上神宮の楼門) (写真左は石上神宮の晨鶏)  
                                             
時は流れて父ニギハヤヒは既に出雲国で崩じ、母ミカシキヤ媛もAD107年ころ遺言を残して登美国で亡くなった。その頃、事代主の姫「媛蹈鞴五十鈴媛」は既に「イワレヒコ」の后に収まって吾子「ヌナカワミミ」(綏靖)も早や13歳になっていた。后はその皇子を妹「五十鈴依姫」(24歳) との婚姻によって母系嫡孫へ繫ごうと強く望むようになっていた。そうした状況の下、宇摩志麻治は母堂の遺言に従いイワレヒコと和して国を治めていくことを決心し味耜高彦根の意見を求めた。味耜高彦根は事代主の血脈が受け継がれ尚且つ国許の支配地安堵が保障されることを前提に同意した。これを受けて宇摩志麻治はイワレヒコに和を求めて自ら「橿原の宮」へ乗り込み帰順する旨奏上した。味耜高彦根は〝天雅彦の変事〟まだ覚めやらぬ蟠りを残し一歩引いた態勢で登美の地に留まり、弟「宇摩志麻治」のもしもの変事に備えた。  
イワレヒコは兄「五瀬」を失った嘗ての怨敵「長髄彦」を誅した宇摩志麻治がイワレヒコの前へ帰順してきた勇気を褒め称え領国安堵を約した。宇摩志麻治は帰順した証として父王から授かった 「天璽瑞宝」 を居並ぶ群臣の前でイワレヒコ大王に献上し忠誠を誓った。大王はそれを大いに愛でて宝剣 「布都御魂剣」 (フツノミタマノツルギ) を下賜した。そして昇殿を許し、爾後は天物部 (天孫の軍兵) を率いて本朝(邪馬台国)にまつろわぬものを斬り国内を平定するよう勅諭した。
神武が橿原で即位した(AD93)日から15年経過していた。神武朝は宇摩志麻治が神武に降ったことによってそれまで脆弱であった孤高の王朝にはじめて安定的基盤を齎せた。それは広義に出雲朝係累との大同団結を意味した。

天皇本紀によれば、宇摩志麻治はイワレヒコ大王から後の大臣・大連にあたる「食国政申」に任じられた。以来、宇摩志麻治は「物部氏」を名乗り、味耜高彦根は居所高尾張邑の名を冠して「尾張氏」と称した。

ここに至って出雲王朝は事実上瓦解し、統治の主導権は出雲から大和へ事実上移行した。

宇摩志麻治の母「御炊屋媛」は淡海の「三上氏」由縁の人とみられ、その子孫は専ら三上氏出自の姫君を娶っている。また鉄の産出する近江湖西(淡海国)とも繋がりをもち、石上郷(現・天理市)に武器庫を設置してその鉄で武器を作って蓄えた。その地はやがて神剣「布都御魂剣」をご神体とするお社が築かれ同神剣が安置された。現在の石上神宮がそれである。 (写真左は、物部神社の石標)


宇摩志麻治は綏靖の御世、息子「彦湯支」に大夫の位を譲り、自らは父祖の地出雲へ行き、ついで石見の兇賊を平定した後、その地で薨去した。後年、継体の御世になって、継体天皇は同地に社殿を創建して宇摩志麻治を厳かに祀った。現・石見一宮物部神社がそれである。古に誉れある重要な役割を果たした軍神ウマシマチへの尊崇の念がそうさせたのであろうか。はたまた自ら体現した〝天神地祇の合体した統治する血族の再統合〟と重ね合わせていたのであろうか。 (写真左は、物部神社の鳥居から見た本殿)
                        
味耜高彦根を始祖とする六世孫に丹波の大県主「尾張の由碁理」が居る。その娘の名は「天豊姫」つまり魏志倭人伝に出てくる「台与」その人である。台与は当時、第一級の国際派知識人であったが先代「日女命」(卑弥呼)からつづく約一世紀に亘る女帝の支配する祭祀的政権に対して、その統治形態に反旗を翻した祟神によって廃位させられていた。
しかし「尾張氏」は後の世、末裔の「尾張目子媛」が継体の妃となって「安閑」「宣化」の兄弟を産み皇統に繋がった。
祟神の出自といえば宇摩志麻治を始祖とする五世孫の「伊香色謎命」(イカガシコメ)を母とする。こうして大国主命の末裔たちは時代を乗り越えて互いに相克しあい、現在につづいているのである。いやさかいやさか、、
(板厚30ミリ) 

私なりに理解する出雲族とは、太古から半島南部(狗耶韓国)に住んでいた倭人たちと山陰地方に住んでいた縄文人たちとを捉えて総称したもので、これを私は環古代倭地圏と謳っている。その人々の中から有力な支配者が現れ、その支配者が求心力となって緩やかな王朝が出雲で出現していた。一方、天孫族とは、中国の相次ぐ戦乱と圧政から逃れてきた漢人たちが北部九州に流れ着きその地の縄文人と融合して繁殖した。その子孫たちであったかのかも知れない!。この二つの流れが大和の地において出会い結合し土着化した。そしてヤマト王権なるものが出来上がった。その下地に縄文人16,000年の果たしてきた役割は大きくこれら先進勢力を積極的に取り込み併呑していった歴史でもあった。無論それは概観的であって個々局地的には雄略が上表する〝闘いに明け暮れて日夜山野を駆け巡り寧所に暇あらず〟といった展開をあちこちで繰り広げそしてそれを克服してきた我ら祖先の人々の営々と築いてきた悠久の歴史でもあった。

斯くして『記紀』は、この国を開闢した誉ある始祖として大国主命(出雲)と天照大神(天孫)を誇らしく掲げて尊貴高らかに謳っているのである。


2013/1/12   著者 小川正武

2013年1月1日火曜日

ミカシキヤヒメ 「大国主命の后」 【邪馬臺国 その八】 第一章

御炊屋媛 [ミカシキヤヒメ]
ニギハヤヒ [大国主命] の后。宇摩志麻治 [ウマシマチ] の母堂。 登美国蕃王の長髄彦 [ナガスネヒコ] は実兄。
[私論編年: AD47~AD107、61歳で身罷る]

AD92年、ニギハヤヒがナガスネヒコを処断した後、事代主を従えて出雲国へ退いた。后のミカシキヤヒメは兄が処断された後、日に日に身体が弱って次第に床に臥せるようになり、領域が狭まったとはいえ、生まれ育った故里登美国に居残った。

    同年、イワレヒコは葛木の長老で剣根の祖父 三嶋溝杭のもとで庇護されていた姫を娶り、後にこの姫を后とした。その姫とは、事代主命の二人いる娘の内、姉の媛蹈鞴五十鈴姫 (ヒメタタライスズヒメ) であった。イワレヒコは東征前、日向の吾平津媛(アヒラツヒメ)を娶り既に二人の子供まで儲けていたが、事代主の姫と政略結婚することで境を接して鋭く対立する登美国との融和を優先した。 (後に乱を起こすことになる手研耳は、この吾平津媛が母にあたる。 : 本稿その二・ヌナカワミミで既述)

イワレヒコの戦力は強力であったが畿内全体の勢力図からみればまだまだ地域的勢力に留まっていた。大和に闖入したよそ者イワレヒコにとって周囲から孤立することはその存立を忽ち危うくした。ゆえに膠着して対峙する登美国とその周辺に盤踞する在地豪族らとの間で融和懐柔策を講じる必要が何よりも迫られていた。そのため神武は大和における存在感を周囲へ強烈にアピールし得る国威発揚の場面づくりを急いだ。
AD93年、イワレヒコは橿原の宮で即位し、大和の国王(邪馬台国王)すなわちヤマト王権初代大王となった。
イワレヒコは始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラノミコト)の名に相応しい国の体制を整えるまでにそれから更に十五年かかった。そして(AD106)、周辺情勢の安定を見定めたイワレヒコは臣下で九州の奴国を与る長の帥升 (建雷命) に生口160人を与えて後漢遣使の詔、すなわち大号令を発した。

すさまじい数の奴隷であったが、その多くは辺境の鬩ぎ合いの中で生け捕った者たちであった。渡海する多数の軍船は過ぐる神武東進のときにも活躍していたもので、北部九州は有史以前から朝鮮半島との行き来が盛んで筑紫ヒムカの海族はそれをやってのけるだけの航海術に長けていた。このときも統制の執れた船団を組んで遣使(AD107)が行われ 倭国の一大デモンストレーションが慣行された。

一方、遥か遠き大海の彼方から生口160人もの数を献上してきた倭国に対し、後漢の幼き皇帝 「安帝」 も驚きをもってこれを迎え入れた。「安帝」が[金銀錯嵌珠龍文鉄鏡] (きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう) を 「帥升」 に下賜したのはこのときをおいてほかにない。
(写真上は、ダンワラ古墳から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の一部分と、その下図は全体のレプリカ)

この時代、中国では皇帝しか所持を許されない同鉄鏡が同時期に同時に倭国で作られる蓋然性や偶然性はありえない。
■ この壮挙の成果は、「タケミカヅチ」(帥升)からイワレヒコ大王にもたらされ、高揚した凱旋気分は当然登美国の宇摩志麻治や味耜高彦根らの知るところとなっていやが上にも天孫族の尊貴性を高めた。
■ その5前年、ニギハヤヒは出雲国で身罷り、事代主がその跡を継いで出雲王朝の大王になっていた。 (写真上は、同鉄鏡の中央部) 

■ 御炊屋媛は床に臥せって久しく、AD107年ころ、いよいよ死を悟って宇摩志麻治と味耜高彦根を枕元に呼び寄せて遺言した。〝爾後は、汝ら兄弟力を合わせてイワレヒコを奉じてこの国を栄えさせなさい〟…と。味耜高彦根は棒立ちになったまま“ワァー”と号泣し、宇摩志麻治は膝を屈し深々とこうべを垂れて心が震えていた。 
(写真左は、同鉄鏡の辺部のディテール) 

■ 同鉄鏡のその後の変遷 : この鏡は、安帝から帥升へ、帥升から神武へ渡り、邪馬台国 の権威のシンボル (神器) となった。この神器は更に神武から五代後世の「日女命」(卑弥呼)へと繋がり、ついで「天豊姫」(台与)へと引き継がれていった。
だがやがて、ヤマト王権第十代大王になる崇神 によって突如として宮廷無血クーデター(統治改革の断行)が起こされ、それまでの女王が冠する呪術的政権であった「邪馬台国」は脆くも瓦解し、記紀はその名を意図的に歴史から抹殺した。

   
■ そのときシンボリックで不都合なこの鏡もまた大和国から忽然と消えうせ、「帥升」末裔のヒムカ天孫が住む筑紫の原郷へと潜に戻っていった。

(板厚30ミリ)

「論衡」王充(おうじゅうのろんこう)には、「周(BC1000ごろ)の時代、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸(ちょうそう)を貢す」また「成王の時(BC1115~1079)、越常雉を献じ、倭人暢(ちょう)を献ず(薬草のようなものか)」とあり、中国周の時代には既に九州や山陰から倭人が半島南部の倭地を経て中国大陸との間で交易船を通じて頻繁に往来していたことをこのことは示している。
「帥升」後漢遣使の成功裏にはそれを遡る50年前、既に倭奴国王(奴国は倭の百国の一国に過ぎない)の先例があって、彼らはそれに倣い半島に集住する倭地倭人らとの交易ルートに沿って半島西岸を北上、遼東以遠は後漢官吏の協力も得て実現されたもので、これら航海を支えた倭の海人族は絶え間ない海難に立向かう勇者の証として魔除の鯨面を印していた。 縄文土器に観る文様はその呪術的文字が潜んでいるのではあるまいか!。

この国は古代、特に紀元前から紀元七世紀にかけて大陸から その多くは小人数の難民がときどきに流入してきた。縄文人たちはこの異質な人々と接し、その文化を取り入れ融合して弥生時代をのみこんだ。その活力ある縄文人 16,000年のDNAが現代日本人にも脈々と受け継がれている。
(左は縄文土偶:宮城県恵比寿田遺跡出土)
                                    
     
      2013/1/1   著者 小川正武

2012年12月19日水曜日

ナガスネヒコ 「登美国蕃王」 【邪馬臺国 その七】 第一章

長髄彦命(ナガスネヒコノミコト)
出雲王朝を奉じる登美国蕃王  妹君に大国主命の后「御炊屋媛」がいる。
[私論編年 AD40~AD92、53歳で憤死]

長髄彦の支配地は添下郡(現・奈良市)から城上郡(現・桜井市)それに河内に及んでいた。原大和王国(土着系)のこの王は、同時に山陰一体を治める先進的な出雲王朝(銅鐸文化圏)に帰服していた。ところが、一世紀中葉ヒムカ天孫族の勢力が北部九州に勃興、出雲国を直接脅かす動きに出た。そこで出雲の国の大王ニギハヤヒはAD70年ごろ、河内の哮
ヶ峰(たけるがみね/生駒山) に下り、ついで登美の白庭山 (現・登祢神社の付近:左の写真は同本殿) に宮を移してそれに備えた。長髄彦はニギハヤヒに臣下の礼をとって登美に迎え入れ、自らは河内の国を治めた。やがてAD86年ころ、神武東征が勃発、出雲王朝は丹波・因幡・伯耆・石見など各地の支援を得て、長期に亘る敵の攻撃にも持久戦で
よく耐えた。そうした中、神武軍は突如として向きを変えて難波の津へ押し寄せてきた。長髄彦は自ら軍を率いてこれを迎え撃ち孔舎衛坂(くさえのさか)で撃退した。そのおり退却する神武軍をあえて追撃せず、これが後々、長髄彦の命取りとなった。(左の鳥居は登美神社)   一方、九州筑紫を本拠地とする神武の故国は、神武軍が河内敗戦・熊野退却・
孤軍衰亡の危機をほぼ掌握していた。記紀神話風にこの状況を言解せば、アマテラスと高木神 (筑紫ヒムカの今は亡き大王) が夢枕に現れて建御雷(タカミカズチ)に〝私の御子たちが葦原中国でひどく悩んでいるので天降って平定しなさい〟と神託 (夢のお告げ)を された。 (左の円墳は富雄丸山古墳を遠望) ■ 建御雷(※ 1)は奴国を与る同大王家の忠  
勇な臣下(外戚が降下したお身内であったか)で筑紫の護りに在って、その神託(切羽詰まった情報)を畏まって受け止め、椎根津彦に命じて救援に当たらせた。 (左の測量図は富雄丸山古墳) これによって息を吹き返した神武軍は、八咫烏を先導に嶮しい紀伊大台ヶ原を縦断、吉野から宇陀~磐余~葛城へと一気呵成に雪崩れ込んだ。長髄彦の支配地・城上 
郡(現・桜井市)をも席巻、長髄彦の弟の安日彦(アビヒコ)はなすすべもなく散華した。■  神武軍は、孔舎衛坂の戦いで一敗地にまみれたが、吉野越えからは手薄な宇陀を突き、情け容赦のない奇襲攻撃を展開した。山間僻地の俄か仕立ての安日彦のヘコ(兵)共では死に物狂いで襲いかかってくる尖鋭には刃が立たず侵入神武軍の蹂躙に為すすべもなく制圧された。
■ 神武侵入以前の原大和国の原風景は、幾つもの土豪たちが秩序ある集落(邑々を構成)を営んでいて、銅鐸文化を持ち込んだ出雲系弥生人とも同化・混血が進み、それが全体として均衡のとれたまとまりをみせ、東海北陸など遠隔地の国々とも盛んに交流が進みその社会的風土は比較的優しく争いごとの少ないのどかなものであった。(上の写真は、間近に見る富雄丸山古墳)

こうした温暖な気候風土と海の幸・山の幸に恵まれた豊葦原瑞穂の国は、新たな闖入者「筑紫ヒムカ族」によって不意を突かれ、あっと言う間にその一角を蹂躙され占拠されてしまった。長髄彦は切り裂かれた地・捕らわれた高貴な姫君たち、それらを奪還すべく神武に挑むが勝敗は決せず ついに大和川を挟んで南にイワレヒコ・北にニギハヤヒが直接対峙する局面が出現した。

 ■ 兇賊イワレヒコ軍に脾臓のごとき地を突如として突かれ孫娘(出雲王朝の皇女)二人を奪われた。蕃王ナガスネヒコはその敗戦の責を問われ死を賜った。しかもこともあろうにナガスネヒコの甥の宇摩志麻治に処断させるというまことに痛ましい結末を辿った。憤死したであろう長髄彦の塚は当時築くことが憚られ、宇摩志麻治の後裔の登美連らの代になってから漸くその築造が許され、その祟は鎮められた。その古墳は被葬者の名が今もって謎とされている富雄の丸山古墳ではなかったか!。同丸山古墳は、直径86m=高さ10.5m 近畿では最大規模の円墳だという。この墳墓こそ長髄彦王に相応しい異質の王陵なのである。

■ 序でに申せば登祢神社は本来、長髄彦命を主祭神として祀る隠された奉斎神社であると私は観る。また城上郡の等祢神社はその弟の安日彦命(アビヒコ)を主祭神として弔うこれまた隠された奉斎神社であろうと思う・・。

(板厚30ミリ) 

 (※ 1) 「建御雷」の亦の名は「天押雲」、亦の名は「帥升」という異名同人である。建御雷は記紀神話に出てくる名、天押雲は中臣氏の系図に出てくる名、帥升は漢書に出てくる名、何れも名こそ違え同時代同立場の同一人物である。因みに魏志倭人伝に出てくる「難升米」は中臣氏の「梨迹臣」である。天押雲から数えて五世孫でもある。

長髄彦王とは、ヤマト王権発祥の地で、その淵源に深く関わり、そして消えていった「原大和王国」最後の王であった。憂国と憤怒の念を懐きながらも最期は一身に全責任を被り粛然と死に赴いていったこの王に対して、私は私なりに深く哀惜と畏敬の念を表しつつ、ここに祈りの作品を奉げた。

2012/12/19    著作者 小川正武