2013年7月23日火曜日

太傅 司馬懿  【邪馬臺国 その十六】 第一章

AD204年(建安9年)公孫康は、後漢朝に恭順を示し帯方郡治を追認された。その弟 公孫恭の時代にも魏朝の臣下として、文帝(曹丕)から襄平侯に封じられた。さらに太和2年(228年)、20歳になった康の子 公孫淵(こうそんえん)は叔父の恭から位を奪い取って明帝(曹叡)から改めて遼東太守に任じられていた。

■ 倭国連合の盟主である邪馬台国は公孫康の帯方郡侵攻以来、洛陽への遣使が途絶えていたが公孫氏が魏に帰順して久しく、その定着するのを見定めて漸く魏朝遣使に向けた朝議を俎上に乗せるに至った。
時に遣使前年のAD237年のことで、実に32年振りの外交再開であった。

■ 話は溯るが倭人の漢土における痕跡の一部をここで少し垣間見てみたい。
『山海経』とは東周・春秋時代(BC789~BC221)の記録であるが、その「海内北経」に〝蓋国(後の高句麗)は、強大な燕の南、倭の北にある。倭は燕に属し…云々〟とある。上の図は同戦国時代の中国と倭地のエリアを示している。恐らく当時は列島とは別に燕の支配下にあったであろう倭人勢力が数多く半島に散在していたことをこの文献は物語っている。

■ 『倭人字磚』(わじんじせん)とは一体どういうものか。
それは「安徽省亳県」(はくけん)の曹胤(曹操の曾祖父)の墓から出土したレンガの一枚に記されていた一文のことである。曰く 「有倭人以時盟不」(倭人あり 時を以て盟するや否や) を指す。当時、倭国はカエシネ(第五代孝昭天皇)の時代で大王家が動揺していたAD170年ころに相当する。思うに、これとても列島とは無関係に漢土の内陸においても会稽太守が無視できないほどの有力な倭人がいたのであろう。ひょっとして63年前の帥升遣使の生口出自が自治集団に成長していたことを私は夢見る。周・春秋戦国・秦にかけて打ち続く戦乱で中原の人口は一説には10分の1にまで激減したとある。そうした漢土から流民として逃れ出る難民あれば逆に生口という名の入植もあったであろう、支配者にとって生口は貴重な農奴的存在であったし、鉄と干鮑に象徴される漢人と倭人の交易を手助けした有力な勢力であったかもしれない。(閑話休題)

■ AD232年、公孫淵は魏の一地方官の身分に飽き足らず魏の仇敵 呉の孫権と盟約を画策、孫権から燕王に封じられた。ところがこともあろうにその呉の使者を殺して首を明帝に送り、随行の軍隊財宝を奪った。これにより翌年 明帝から更に「楽浪公」に封じられた。
しかし魏から受けた「楽浪公」の地位を不足とし、王のごとく振舞った。こうした公孫淵の二心外交はやがて魏の強い不信を買い強行路線を招くことになるのである。

■ 青龍2年(234年)、呉と同盟して魏を攻める蜀は、五たび北伐を慣行、このため司馬懿(仲達)率いる魏軍は諸葛亮(孔明)率いる蜀漢軍と五丈原(陜西省)で対峙した。仲達は手薄になった魏の背後の公孫淵の動きを常に警戒しながら防衛戦に徹した。これに対して軍師孔明も持久戦で応えて屯田を行い長期に布陣した。ところがその孔明は陣中で病死してしまい蜀漢軍は粛々と撤退をはじめた。これを見た仲達は追っ手をかけようとするが蜀漢軍が魏軍に再度攻撃する様子をみせたので退却した。
これが後に伝わる「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の謂れとなった。

■ この「五丈原の戦い」以後、返す刀で魏は遼東における積年の脅威を取り除くべく公孫淵討伐にとりかかった。景初元年(237年)、毌丘倹(カンキュウケン)は明帝の名で公孫淵に都への出頭命令を出した。しかし公孫淵は従わず迎撃の構えを見せ、一戦に及んだ毌丘倹を撃退した。この結果、公孫淵はついに独立を宣言し遼東の襄平城で燕王を自称、楽浪・帯方二郡をそのまま領した。

■ 邪馬台国は公孫氏が魏に反旗を翻したことを露知らず同年暮れ(237年)、朝議は遣魏使に中臣氏の「梨迹臣」(ナシトミ)、副使に尾張氏の「建諸隅」(タケモロズミ)を任命し「日本足彦国押人」がこれを宰可、女王「日女命」はその無事成就を祈祭して総攬、遣使渡航の準備に入った。この建諸隅は「日女命」の兄「建田背命」の息子、 つまり甥っ子で亦の名を丹波大県主「由碁理」(タンアオオガタヌシユゴリ)と称し、この年39歳の壮年で五才の「倭得魂」(ヤマトエタマ)と一才になったばかりの「天豊姫」を儲けていた。このアメノトヨヒメこそ日女命の宗女にして邪馬台国二代目女王「台与」である。

■ 明けて景初2年(AD238年)2月1日、明帝から遼東征伐の命を受けた司馬懿の軍4万は、同月初旬洛陽を出て凡そ1300キロを行軍、五月中ごろ遼隧に到着、8月23日に襄平を陥落(遼隧の戦い)せしめる。その報は9月中旬 既に帯方郡を接収していた「劉昕」の後任「劉夏」の下へも早馬で知らされていた。
(※ 1)(※ 2)

■ そのころ邪馬台国の遣魏使一行は、伊都国を5月はじめ出航 6月帯方郡に到着、帯方郡太守着任早々の「劉夏」の出迎えを受けた。そして公孫氏がまもなく滅亡するのを一行は驚きをもって目の当たりにするのである。(※ 3)
太守「劉夏」にとっては、この戦中遣魏使はまたとない奇貨と捉え、遠く東倭からの朝献こそこの上ない明帝への徳と称え、遣使一行を篤くもてなし京都「洛陽」へ送り出した。そしてその手配はいち早く太尉「司馬懿」へ急報され、同時に「明帝」へも伝達された。遣魏使一行が洛陽に着いたのはその年の12月であった。

司馬懿 中国後漢末期から三国時代の魏にかけての武将・政治家、魏の太傳。晋の礎を築いた人物。
諡号 宣帝 AD178~251年、 72歳で歿する。

(板厚30ミリ)

(※ 1) 討伐軍本隊は、2月上旬洛陽を出発したが、戦略的に先遣隊は同時期 既に山東半島から対岸を渡海急襲して5月はじめ楽浪郡・帯方郡を接収した。これによって遼隧に布陣する本隊が背後から突かれる恐れを取り除き且つ公孫淵の退路を断った。

(※ 2) 公孫淵親子が包囲を突破して逃亡を図るが、司馬懿は追撃してこれを斬殺し、城の高官たちも悉く斬り殺して遼東を制圧した。更にその後の処置も苛烈を極めた。中原の戦乱から避難してきた人々によって占められていた遼東地方の気風は、いつまた反魏の温床になるかわからないので15歳以上の男子数千人(一説には7,000人)を殺して京観(首のピラミッド)を築いたという。『晋書』曰く、「王朝の始祖(晋)たる人物が、徒に大量の血を流したことが引いては子々孫々に報いとなって降りかかったのだ」 と批判している。

(※ 3) それまでの倭国の戦いは専ら歩戦であった。兵馬による機動的な戦場展開はこのとき遣魏使の刮目の的となった。その後、倭国はこれを積極的に取り入れ主に馬韓に住む扶余族から馬匹を狗耶韓国経由で移入していった。。。
その主たるルートは伊都国から北部九州へ、同時に丹波の府を通じて畿内へ夫々搬入され平時は伝馬に使用、祟神の時代には各地の軍役に大いに徴用された。

後の百済はこの扶余族を源とし、古くから倭国との誼を通じてその地の一部を友好的に割譲されていた。その経緯から百済王は倭国王のことを親と崇め倭へ朝貢を行い同盟を結んでいた。これは継体朝以後もつづく揺るぎない厳然たる史実である。

時代が更に下って、天智天皇は百済救援のため半島西岸の白村江で唐・新羅連合軍と戦っている。そればかりか百済滅亡に伴う多くの亡命百済人を日本は積極的に受け容れていた。
           

              一句 古希すぎて 彫る手の外や セミしぐれ                   
                                                                            2013  7  23     小川正武


2013年6月18日火曜日

孝安天皇 「日本足彦国押人」 【邪馬臺国 その十五】 第一章


女王「日女命」の夫君アマ・クニオシヒト(天足彦国押人命)はAD199年、32歳で薨去した。日女命このとき28歳、亡き夫君との間に「押媛」11歳と「和邇日子押人」9歳を授かっていた。女王は一年間喪に服した後も悲嘆にくれ、そのため朝政が滞った。この停滞を指弾して「三輪氏」を母系嫡流にもつクシトモセ王統一族が42歳の「クシトモセ」を擁立せんと大王位を画策、その最中、「日女命」は突然故地丹後の「竹野」へお隠れになった。事の重大さに憂慮した国邑の長老たちは「日女命」と「クシトモセ」の共通の地祖である「大国主命」の祖廟、出雲に参集して衆智を巡らせた。その結果、亡きアマ・クニオシヒトに代わる補佐人にその実弟「日本足彦国押人命」(24歳)をもって当てるほか「日女命」のお心を開く手立てのないことが分かり、それを受けて朝堂の重臣たちも「竹野」に赴き「日女命」の還御を強く懇請、斯くして「室秋津島の宮都」へ漸くお迎えすることができた。その結果、それまで暗く沈んでいた都は一度に明るさを取り戻して人々は大いに安堵した。時に二年後のAD201年頃。

「日女命」を補佐することになった男弟「ヤマト・クニオシヒト/略称」はもとより「孝昭天皇」(カエシネ)の皇太子、「日女命」にとって幼少期に丹後で過した夫君の弟という幼馴染の立場から非常に安定した後ろ盾を得た。この結果、嫡流王統を自負するクシトモセとそれを擁護する勢力は不満を残しつつも鳴りを潜めた。以後、「尾張氏」を遠祖にもつ「ヤマト・クニオシヒト」は、ヤマト王権(邪馬台国王)の政治の主宰者たる姿勢を堂々と振る舞い、大宰の府「伊都国」を抑え諸邑の族長(豪族)も統属せしめた。女王「日女命」もまた倭国連合の象徴的盟主として対外的顔をもって振る舞い祭政全般を総攬した。そうした連携のもとで権威のスミワケを行い以て皇統分裂の危うさを防ぎ、倭国連合の秩序と統制を巧みに図った。
AD204年、公孫康は帯方郡へ侵攻、その地に集住する倭人らを捕えて支配下に置いた。この事態に憂慮した朝堂はメンバーも次世代へと様変わりし、邇支倍(倭氏)・豊御気主(三輪氏)・大矢口宿禰(物部氏)・建田背(尾張氏)らが上席を占めて朝議を図った。

『魏志倭人伝』 有男弟佐治国 自為王以来少有見者 以婢千人自侍唯 有男子一人給食伝辞出入居処宮室 楼観城柵厳設 常有人持兵守備・・・ ここにいう「有男弟佐治国」とは言うまでもなく「ヤマト・クニオシヒト」その人を指し、「有男子一人給食辞出入居処宮室」とは、忘れ形見「アマ・クニオシヒト」の独り息子であり同時に女王の皇子でもあるこの時(201年)11歳になっていた「和邇日子押人」であることはいうまでもない。
時が下って正始四年(AD243年)、第二次遣魏使が五年振りに再開された。そのときの副使「掖邪狗」(ワキヤク)53歳がこの「和邇日子押人」その人であった。因みにこの年「日女命」は御年72歳、その四年後(247年)に日女命は病を得て亡くなっている。

女王「日女命」が都する国の治世とはそも、尊卑に差序ありて風俗は淫らならず、その人寿長命にして、よく租賦を収め、国々に市が立つ。盗窃や諍訟沙汰が少なく、屋室では父母兄弟臥処を異にし、その死するや棺に入れて土を封じて停喪すること十余日、喪主哭泣し、他者は歌舞飲酒してこれを弔う。気候風土は温暖にして山海の幸に恵まれ、下戸、もし大人と道路で相逢えば両手を地に拠りてこれが恭敬する様、謙虚。「一大率」は諸国を常に検察し、諸国はこれを畏憚して恭順。おしなべて人々は慎み深く誠実で温厚な16,000年の縄文人気質を引き継ぐ倭人社会がそこには醸成されていた。
(この文脈は「張政」が倭国滞在中に観察して体得した帰国報告書の内容である)

そのような都から遠く海を隔てた狗耶(くや)韓国とは一体どういう国であったか!。それは韓半島の南部から西部にかけての広い範囲の倭地を指す漢人の呼び名であった。「魏志韓伝」がいう〝帯方の南・倭に接し〟とは倭の半島での一国であることを意味した。緩やかな自治体制であったそれまでのその地は次第に北方民族から蚕食を受け、それに対抗する必要から倭の在地王族や豪族たちがそれぞれ国邑(郡落)ごとに分立して全体が弁韓加羅と呼ばれていた。その地に〚任那日本府〛が置かれたのは「一大率」同様、倭国に属するそれら郡立する国邑を結束させ、同時に倭地防衛の任に当たっていたからである。

古朝鮮における民族分布があまりにも雑多に交雑し過ぎてそのアイデンティティが特定できずに未だに不毛の国際論争に明け暮れていることは不幸というほかない。この地域はそもそも古代、漢族による相次ぐ戦乱から逃れてきた遺民・棄民・亡民たちの逃避地・安住の地であった。且つ又同時に、騎馬民族を含む北狄の雑多な異民族が寒冷地から南下してきて住み着いた言わば未開の植民地でもあった。それら複合しあう諸民族は或る時は覇を競って互いに戦い、或る時は和して同化し今日の朝鮮人の原形を為した。その中に倭地であった狗耶韓国も含まれ、時代が下って羅・唐連合による白村江の戦い(AD663年/天智2年)で倭国が敗れたとき、韓半島は初めて統一新羅の朝鮮に収斂した。この新羅は前身の辰韓のとき、秦からの亡民たちの流れ着いた地であったが既にそこはツングース系(現・ロシア沿海州)住民の先住地でもあったため秦の亡民らによる建国はできなかった。(※ 1)(※ 2)

〝三年汝に仕えれども我をあえて顧みるなし、ここにまさに汝を去り彼の楽土へ適(ゆ)かむとす、楽土楽土ここに我が所を得む〟「詩径より」 春秋時代戦乱の祖国を棄てて新天地を目指した漢詩の一節。この勇者たちは果たしてどこを目指して行ったであろうか、それにしても帯方に集住していた倭人たちもまたその後の行方が気懸かりでならない。

写真上は、5~6世紀の朝鮮半島における前方後円墳の分布を示す。前方後円墳は倭の独特の墳墓形態であり、このことから「倭の五王」の時代と時代を同じくする有力な倭人が韓半島においても縦横無尽に活躍していた様をよく物語っている。

古代の表日本というのは、今とは真逆で山陰地方から北部九州にかけてをいい、対馬海峡を挟んで対岸の狗耶韓国を包含したこのエリア一帯のことを私は 「環古代倭地圏」 と名づけている。
この海域は、倭の古代海人族にとっては倭寇同様 裏庭程度のものであった。

大和足彦国押人 (ヤマトタラシヒコ クニオシヒト) 尊
父は「孝昭天皇」、 母は「世襲足媛」、后は「日女命」の娘「押媛」。
同后との間に生まれた第二皇子が後の「孝霊天皇」になる。

諡号は、孝安 (こうあん) 天皇。 倭国連合を代表する邪馬台国女王「日女命」を補佐したヤマト王権第六代大王である。
【私論編年 AD175年~AD240年、在位40年、66歳で崩御】

(板厚30ミリ)

半島に集住する倭人社会は公孫氏の帯方郡からの更なる南下に怯えその阻止に懸命であった。ところが列島内にあっては伊香津臣(難升米の父)らが狗奴国と対立して近江湖北へ進出。同時期、吉備王国を征伐せんと日本足彦国押人の第一皇子でその名も大吉備諸進(オオキビノモロススミ)が祖父「孝昭」が平定した播磨の地に留まって戦っていた。このことが次代の皇子たちが吉備征伐へ向かう上で大いなる足場となって道を拓いてくれていた。AD225年ころ。

左図は、孝安天皇の初期の御陵絵図という。山丘に盛られた円墳がそれで直径が約12~13mの大きさ。正式呼び名を玉手丘上陵 (たまてのおかのうえのみささぎ) という。
都(室秋津島宮)の東北約2キロという極めて近い場所にその御陵は築かれた。同円墳の手前が前方部として設けられ、規模は小さいが既に初期の「前方後円墳」の原形がこのときから整えられた。 時にAD241年ころ。
左の写真は現在の孝安陵。
江戸幕府は幕末の文久年間、天皇陵の大幅な改修が行われた。
この修陵にあたって先の絵図面「御陵画帳」が描かれて現在に残った。
神武から孝元までの御陵は初期は斯くの如き規模であった。




(※ 1) 『広開土王碑』に、「百殘新羅舊是属民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」とある。訳すれば 〝そもそも新羅・百済は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(AD391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった〟 と刻字しているのである。その高句麗(BC37年建国)もまた羅・唐連合軍の攻撃によって滅ぼされ(AD668年)、それによって多くの高麗人が倭国へ逃れてきた。右は、広開土王碑とその御廟 

(※ 2) 『漢書地理志』曰く、〝夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国となる。歳時を以て来り献見す〟と。
右の鏡は、山陰宮津に鎮座まします海部氏の氏神「籠神社」(このじんじゃ)の秘宝「辺津鏡」(前漢の作)と「息津鏡」(後漢初期の作)である。このことから紀元前の出雲王朝時代よりこのかた、同王朝の係累であった海部氏らによって同時代漢へ頻繁に朝貢がなされていたことを物語る。

一方、北部九州においても神武東征の39年前(AD57年)、ヒムカ天孫の地からも後漢へ朝貢する者あり、曰く 「建武二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」 。いわゆる「漢委奴国王」の黄金の印綬を奴国の大夫自らが光武帝から賜ったとする史書「後漢書東夷伝」の一節である。右はその国宝「漢委奴国王」の実物写真。〔福岡市博物館蔵〕


            2013/6/18  M.O

2013年5月16日木曜日

宇那比姫 「女王 日女命」 【邪馬臺国 その十四】 第一章

倭人の言う神々とは、優れた人や先祖・自然・万物に宿っている精霊を対象に、それを畏れ敬い崇めるという到って素朴な信仰心に根ざしていた。日本の神道の原点もまたそこにあった。「宇那比媛」は竹野に在って「航海に携わる人々の身の安全を日夜願いつつ神に祈りを奉げていた。そして亀卜を使って航海の吉凶を占っていた。その祭祀する行為は大王家による統治する行為とはおよそかけ離れたところからはじまり、いつのころからか国邑間の利害を超越して倭国全体の五穀豊穣と国家安寧を祈る司祭主へとその姿は大きく成長していた。今、不幸にして倭国は大王家の皇位継承を巡って勢力が二分し、大陸中国においても苛政に苦しむ民衆が蜂起して国が乱れ、その間隙をぬって異民族が侵入、その脅威は倭国のすぐ足元にまで迫っていた。斯かる緊迫した乱世の中、大王家に代わる倭国統合の絆に「宇那比姫」を推挙していた「天忍男命」はこの年に亡くなり、本来大王家が担うべき内政・外交の最高裁治権者が空白のまま、平民レベルではそんなこととは関わりなく農耕・水産・交易・祭祀等々を営む人々の日々の暮らしは幸いにも一定の平安が保たれていた。 時にAD184年の頃。

「カエシネ」に近侍する大連「瀛津世襲」は父「天忍男」の意を受け継ぎ「クシトモセ」の全権「武速持」(倭氏)と和議を重ねていた。その結果、既に共立することで合意をみていた「宇那比姫」を倭国盟主の司祭王に担ぎ上げ、その下で首長会議を開き政を整え、司祭王たる「宇那比姫」がそれを神に伝えて神宣を下す!そういう形で最高裁治権者不在の空白を臨時に埋める、この豪族合議体制のもと「カエシネ」と懿徳の日嗣の御子「クシトモセ」は共に王位争いの場から退場していった。 時にAD187年。


















共立された「宇那比姫」は、神聖にして冒すべからざる司祭王となって室秋津島(現・御所市 室)の楼宮において神器「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を奥坐に祭り、倭国安危の吉凶を霊力をもって占いそのつど厳かに神意を下した。傍らには夫君「天足彦国押人 / アマタラシヒコ・クニオシヒト」が独り傅いて朝議の場とを行き交い神託を伝達する重要な役割を担った。
斯くして「宇那比姫」は、倭国連合の盟主にふさわしい 「大倭姫」 と称されるようになった。時に、AD188年。
写真上は、「大倭姫」の王宮があった秋津島の俯瞰図を示す。外部資料を引用。

AD189年、遼東太守に任命された「公孫度」は後漢の凋落をよそに楽浪郡をも席巻する勢いで独自に領土を広げていた。その結果、倭国は後漢との交流が隔絶し、楽浪の南の帯方郡に集住する倭人らも危険に晒され、その保護のため「公孫氏」が名乗る遼東王の「燕」へ遣使することをなにより急いでいた。

AD192年、倭国の新体制は漸く定着をみせ、「大倭姫」(21歳)は名実ともに倭国を代表する女王の位を戴冠し、その名を「日女命」(ヒメミコト)と改めた。この音読を異国の人は「卑弥呼」(ヒミコ)と表記した。

同年、遣燕の正使を大御食津臣(中臣氏)・副使を建斗米(尾張氏)とした。これを任命した朝議の主要メンバーは武速持(倭氏)・健甕尻/タケミカジリ(三輪氏)・瀛津世襲(尾張氏)のトロイカで「日女命」がこれを宰可した。それを受けて六見宿禰(物部氏)・大日命(大伴氏)・智名曾(紀氏)・久多美(葛木氏)などが遣燕使に随行した。遣使を受けた公孫度は、後漢臣下であったてまえ倭国へ印璽を与えることがさすがに憚られ、代わりに霊帝から下賜された中平年号の宝剣その他鉄鏡や武具類多数を授けてこれに応えた。しかし、AD205年、公孫度の嫡子「公孫康」は帯方郡を占領してそこに集住していた倭
人らを隷属下に置いた。ために倭国は「公孫氏」との関係が急速に冷え込み、それまで彼の地から輸入していた鉱物原材料は代わって狗耶韓国の地を切り拓き(半島東南部から鉄鉱石産出)移入するようになった。やがて山陰や近江からも鉄鉱石が産出されるに至った。

左の図面は2~3世紀の近江における製鉄遺跡( ○印)/鉄鉱石産出地及び鉄滓出土古墳( ● 印)/鍛冶滓出土古墳( ×印)等の分布を示す。

産出された鉄素材は舟で宇治川を下って更に木津川の支流を経てヤマトへも搬入されていた。


宇那比姫 (うなびひめ) 大国主命の六世孫
倭国30余国が共立した邪馬台国初代女王、 尊号〚日女命〛
【私論編年 AD171~AD247年、在位60年、崩御77歳】

丹波の竹野に居たころの名は宇那比姫、共立されて女王になってからは尊称「日女命」(ひめみこと)として人々から崇められる。魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」その人である。

「日女命」は、夫君「天足彦国押人」(アマタラシヒコ クニオシヒト)との間で和邇氏の祖となる「和邇日子押人」と後に孝安天皇の后になる「押媛命」を生んでいる。その「押媛命」はその次の世代で活躍する大吉備諸進と孝霊天皇をお産みになるのである。
(板厚30ミリ)

(※1) : 日本の異称「秋津島」の伝誦について、イワレヒコ」が掖上(わきがみ)の丘(写真の国見山)から廻望して西に金剛・葛城山、東に高取山、南に巨勢山、北に奈良盆地の広大な湿地帯が拓ける麓の田園風景を眺めて感歎し「妍哉乎(あなにや)、国を獲つること。内木綿(うつゆふ)の真乍(まき)国と雖も、蜻蛉(あきづ)の臀占(となめ)の如くあるかな」となぞらえた。訳すれば〝なんと素晴らしい国を得たことか、狭い国ではあるがトンボが交尾してつながっているような山々が連なっている〟の意。この「あきづ」の語源がもとで「秋津島」の国号が起こったといわれている。

(※2) : 倭の国は、鉄の移入交易こそが朝貢外交の主たる狙いであった。前漢後漢を通して農耕器具の素材として中国の鋳造鋳鉄を大量に移入していた。ところが途中から「公孫氏」の「燕」が勃興してきてそれを遮ってしまった。そこで倭国は当時倭国の中の一国であった狗耶韓国からそれに代わる鉄を開発移入するようになった。こうして鉄の自給を図ったがその地がやがて北方民族(高句麗・新羅)からの侵入を受けて争いが頻繁に起こった。倭がしばしば半島出兵したのは斯かる倭人保護と失地回復が背景にあったからである。
話が前後するが鉄製武器実用の面で出雲の勢力が北部九州勢にやや後れを取っていた。そのことが北部九州勢に優位に働き神武東征軍は宇陀からの奇襲と激烈な死闘を繰り広げそれが蟻の一滴となり、それまでの巨大な出雲王朝瓦解の神話(国譲り)へと繋がった。この出雲王朝に代わる新たなヤマト王権誕生こそが我が国の開闢(有史の起源)の原点となっているのである。

(※3) :  神器「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」こそその後のヤマト王権を象徴する「三種の神器」の原点となった鏡である。 

2013/5/16       著作者     小川正武


2013年4月18日木曜日

天忍男 「大国主命の曾孫」 【邪馬臺国 その十三】 第一章

天忍男(尾張氏)は天忍人の弟。妻は葛木氏の剣根(ツルギネ)の娘「賀奈良知姫」(※ 1)。この葛木氏こそ神武軍が吉野から攻めてきたとき、姫蹈鞴五十鈴姫と五十鈴依姫をいち早く匿って庇護した云わば三輪氏にとっては命の恩人の氏族。その葛木氏が今や、王位継承を巡り三輪氏と鋭く対立する尾張氏の側に立って三輪氏と対峙していた、皮肉な巡り会わせと言わざるを得ない。

天忍男の第一子は「瀛津世襲」(オキツヨソ)、第二子は「建額赤」(タケヌカアカ)、
第三子は「世襲足媛」(ヨソタラシヒメ)。

世襲足媛はカエシネ(⑤孝昭)に入后し、瀛津世襲はカエシネの大連(最高執政官)となり、建額赤は津守氏の遠祖となって大阪湾口(住吉・浪速津)の要衝を守護した。

天忍男命(アマノオシオ) 本拠地 : 葛城高尾張邑
支配地 : 丹波の国  大国主命の曾孫
【私論編年 AD110~AD184年、75歳薨去】

旧出雲王朝の流れを汲む「天忍男」 (※ 2) は、丹波の国主としてこの地方で権勢を振るい、その版図は狗耶韓国にも及び、代々盛んに交易を行っていた (※ 3)。 その主たる移入は鉄の始発原料である鉄鉱石で、その産出地は半島の南東部と中国の東北部であった。

ところが中国では後漢「霊帝」のこの時代(在位168-189)、先代桓帝からつづく宦官の専横に不満を持つ外戚や豪族たちが相次いで政権中枢から離反、地方でも賄賂行政がはびこり苛政に苦しむ民衆たちが各地で暴動を起こしていた。そして中国の北辺や遼東では鮮卑族(内モンゴルの騎馬民族)が我が物顔に跳梁跋扈していた。そのため楽浪郡や帯方郡でも後漢の影響力が急速に衰え、それまで統制の取れていた倭国との交易も頓挫した。
一方、倭国においても大王家分裂が国内勢力を二分し、時として同族間同士で誅殺しあう場面も頻発、第五代大王「孝昭」(カエシネ)は都の不穏な状況を憂いて幼き皇子たちの身の安全を図るため后の父「天忍男」の領国丹波の海士へ一時的に避難させていた。

そうした中央の逼迫した危機を背景に、「天忍男」は大連「瀛津世襲」の下で頻繁に国邑の長老会議を開き、大王家分裂の収拾策を呼びかけた。しかし議論は紛糾すれど纏まらず物別れすること暦年、時にAD180年ころであった。糸口が見出せぬまま内乱は更に長期化した。 
写真上は、当時 鮮卑が後漢の北辺を圧迫していた図。

昔、舟泊まりの浅瀬に立つ鳥居は元来艫綱を結わえておくもので同時に航海の無事を祈る神聖な門出のシンボルでもあった。
曾祖父「天忍人」の国丹後の竹野に身を寄せていた「建斗米」の娘「宇那比姫」はいつのころからか海人(※4)たちが出航する前夜、沐浴して身を清め亀卜を読み解きその航行の安全を占うようになっていた。荒波に命を張る海の男たちは彼女の吉凶を大いに歓び畏敬し勇躍船出していった。そのうち彼女の神がかり的な霊力は津々浦々に知れ渡っていた。そして彼女が15歳のとき、彼女の祖父「天戸目」を介して従兄弟の「アマタラシヒコ クニオシヒト」18歳と竹野において婚儀が営まれた。時にAD186年であった。

そのころ、中華全土では黄巾の乱が荒れ狂い、首謀者らが相次いで成敗されていたものの政治腐敗による民衆への苛政は依然としてつづき、黄巾の残党らはこの後も広範な地域を跋扈して反乱を繰り返していた。そして遼東半島以南は後漢権力の空白地帯となりそれを埋める形で新興勢力が勃興し、倭国と後漢との交易は分断された。「天忍男」をはじめとする山陰や北部九州の豪族たちは、倭国を代表する大王が対外的に定まらない中、それら新たな国々との交渉が持てないジレンマを共有していた。

(板厚30ミリ) 
略奪と殺戮の地と化した大陸の荒廃ぶりを見聞きする倭の豪族たちは、その凄まじい災禍を倦み嫌い倭国大乱を一刻も早く収束すべきとする機運に満ち満ちていた。そこで「天忍男」は、分裂した大王家の統治空白を埋めるため、それに代わる大王の祭政権能からひとまず「祭」と「政」を分離して「天地自然と祖神を崇める瑞穂の国を代表する「司祭王」たるを暫定に戴き、その王を豪族連合を代表する盟主と仰ぎ、そのことで倭の求心力を図る。一方で、統治権はあくまでも大王家に帰属するものの、それは大王家が一つに収斂するまで待つことやむなしとし、この間、事実上豪族連合において「政」の機能を持たせる、この旨、天忍男のイニシアチブによって大胆な提唱がなされた。やがて倭を構成する諸豪族はこの緩衝機構を布くことで統治の空白を暫定的に埋める、そうした気運が次第に醸成されていき合意形成をみるに至るのである。
中華の易姓革命と異なり、この国の成り立ちそのものが『天神地祇が合体した血族の統合を誓約』した起源をもち、同祖二神の兄弟何れかが一方的に族滅するということがそもそも馴染まない!そういう風土をこのヤマト王権には宿していた。


ところが、それを了と為すもその司祭王となりうる肝心要の適任者は一体誰か!この問いに応えて「天忍男」は甥の孫『宇那比姫』に白羽の矢を立てて推挙した。『宇那比姫』は「大国主命」の六世孫に当たり、その血筋の高貴なことと天女の如き慈愛に満ちた存在は倭の津々浦々にも響き渡っており居並ぶ群臣豪族たちはその人選の素晴らしさに一瞬どよめきをもって迎えた。それというのも天つ神と土着の神を結びつけた嘗ての大国主命の后で大和の女主であった登美国の「御炊屋媛」(ミカシキヤヒメ)の人柄を彷彿とさせる立ち位置にあり「宇那比姫」を以てすれば、それに代わる相応しい人選は他に見当たらず、大意はごく自然に纏まりをみせていった。「天忍男」(AD184)が薨去した直後に宇那比姫は女王に推戴されて女王たる尊称「日女命」となった。

(※ 1)
万葉集にみる「奈良」の都の地名は、この葛城氏の豪族 葛木剣根の娘「賀奈良知姫」の名からとったものであろうか!天忍男はこの賀奈良知姫を娶って世襲足姫が生まれ、同姫は長じて孝昭の后に納まっている。また同姫の兄に「瀛津世襲」がいて孝昭の大連となり朝政の重鎮となっている。孝昭の事跡で針間(播磨)における伝承があちこちに見られるが父「天忍男」の本貫地(地領)が丹波国であることからその息子のオキツヨソは孝昭の勅命を奉じて丹波の南・針間に進出して版図を広げていたのではなかったか! 
(※ 2)
 天忍男が生まれる三年前、帥升が軍舟約30~50艘に生口160人を載せて後漢遣使に赴いていた。伊都~壱岐~対馬~狗耶韓国~楽浪経由で洛陽へ威風堂々の遣使、無事成功裏に凱旋、神武の前で帰国報告を奏上 (AD108) している。
天忍男の曾姪孫「和邇日子押人」は243年、第二次遣使 (副使) として魏へ朝貢している。

 (※ 3)江戸時代、北前舟が日本の海上輸送をほぼ独占していた。その本拠地は北国加賀であった。その源流は出雲・丹波・若狭の海人たちに観られる。

 (※ 4) ここで云う「海人」とは、当時の航海に命をかけた名もなき多くの舟乗りを総称する。これら海の男たちは紀元前から「環古代倭地圏」を勇躍していた。中世にも倭寇が和船で東シナ海を暴れまわっていたが、この時代もそんなに変わらない海人の猛者たちが外洋で活躍していたとは容易に理解できる。厄除け鯨面の異相した海人らは、その起源は決して半島の民でもなければ半島からの帰化人(渡来人)から為っているものではない。生っ粋の倭の海人たちから構成された海草なのである。

AD200年ころの公孫氏の時代は、狗耶韓国への組織的な異民族の南下はまだなく当時は倭の領域であった。倭の都が北九州からヤマトへ東遷したことによって相対的に都から遠く離れた狗耶の地は、王権争いに明け暮れる中央の支配権が次第に及ばなくなっていった。そして扶余族が百済建国を望み倭に対して 狗耶の地の一部割譲を願い出た、倭は友邦の契りとしてこれを与えた。転じた今日にみる韓半島の人々の先祖とはこの狗耶に留まった倭人と北方系民族とが融合していったものと観てとれるのである。

            2013/4/18    著作者 小川正武        

2013年3月22日金曜日

天足彦国押人 【邪馬臺国 その十二】 第一章



天足彦国押人命(アマタラシヒコ クニオシヒト) 
以下略して、アマ・クニオシヒトという。
カエシネ(⑤孝昭天皇)の第一皇子。母は尾張氏の世襲足媛。  
同母弟に⑥孝安天皇(ヤマトタラシヒコ クニオシヒト)がおり、その孝安の后はこのアマ・クニオシヒトの娘 押媛とされる。
【私論編年 AD168ー199年、32歳で夭逝か!】

画像は11歳のころの天足彦国押人(アマタラシヒコ・クニオシヒト)の面影を投影す。長じて宇那比姫命(ウナビヒメ)いわゆる魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」を娶る。この宇那比姫との間に生まれた児「和邇日子押人命」(ワニヒコオシヒト)は正始四年 魏へ遣使している。(AD243年)            また、この「和邇日子押人」は「宇那比媛」(日女命)が亡くなった後、再び国が乱れるなか従妹の「台与」を擁立して時局の収拾を図った。斯くして和邇氏一族にとってこのアマ・クニオシヒトは宗祖的存在となって後裔たちは大いに雄飛して栄えた。
AD179年ころ、都の騒乱をよそに天足彦国押人 11歳はその弟「後の⑥孝安天皇・当時4歳」と共に母方の祖父・天忍男(尾張氏)の領国丹波の海士(現・京丹後市久美浜)に身を預けられていた。

それと相前後して、宇那比姫 8歳もまた都ヤマトの地を離れて曾祖父の地・天忍人(天忍男の兄)の領国丹後の竹野(タカノ)の府で同じく大切に庇護されていた。どちらの地にも海に近い良好な河川の津があり紀元前から狗耶(半島の倭地で、任那へ発展する原形の地でもある)の倭人らとも、鉄・銅・珪砂などの原材料と海産乾物・宝飾・土器・雑絹…など多岐にわたって交易がなされていた。中国王莽の「新」(AD8~23)で鋳造された貨幣「貨泉」が山陰函石浜遺跡から出土しているが、そこからも貨泉を用いた盛んな交易の様子が窺い知れる。厄除け文身した逞しくも勇ましい海の男たちの荒い息吹がいまにも川津の向こうから聞こえてきそうではないか。

〈※1〉出雲王朝の時代、山陰は青銅文化圏として大いに栄えていたがヒムカ天孫族が畿内に持ち込んだ鉄器文化によって脆くも戦いに破れ、以後山陰や大和の諸豪族らも以前にも増して競って半島から鉄を移入するようになり、その後、鉄は近江からも産するのを観て物部氏や和邇氏らは競って同地へ進出し直接調達できるようにもなった。

ところで「出雲醜の変」とは一体どういうものであったか、その真相を顧みてみよう。 一言でいうなら、それは大王位を巡る「三輪氏」と「尾張氏」との抜き差し為らない確執、深刻な覇権争いにほかならなかった。言い換えれば母系嫡流嫡孫に固執する三輪氏と、古来からの伝統である末子継承の慣習に拘る尾張氏との豪族間同士の立場の相違からくる大王位を巡る継嗣継承争いであった。物部氏の出雲醜はその渦中に巻き込まれて難しい選択を迫られた大臣であった。この三者は何れも先祖を遡れば大国主命に辿りつく皆兄弟たちであった。「三輪氏」は大国主命の第一皇子「事代主」に辿りつき、「尾張氏」は大国主命の第二皇子「味耜高彦根」に辿りつく、そして「物部氏」は大国主命の第三皇子「宇摩志麻治」にたどり着くのである。これら兄弟氏族らは「長髄彦」の妹君「御炊屋媛」の遺訓に背かず忠実に大王家に仕えて、その勢力の消長をかけて互いに繁栄を競い合っていた親族らであったのだ。

〈※2〉大王位の末子継承は遠く筑紫ヒムカ天孫族からつづく習わしであった。現にイワレヒコ(神武)は末子であった。イワレヒコの兄たちはイワレヒコの楯となって戦場で亡くなっている。このアマ・クニオシヒトも同様、弟のヤマト・クニオシヒト(⑥孝安天皇)の方が優先して大王位を継ぐ仕来たりに遵っていた。

(板厚30ミリ)

そして、出雲醜は大王家分裂の収拾を果たせぬままAD183年ころ薨去した。


2013/3/22  著者 小川正武

                     

2013年2月21日木曜日

孝昭天皇 「カエシネ」 【邪馬臺国 その十一】 第一章


観松彦香植稲尊(ミマツヒコカエシネノミコト) 
以下、カエシネと略称する。
后は、尾張氏出自の世襲足媛(ヨソタラシヒメ)。同后にとって尾張氏の始祖 味耜高彦根は曾祖父にあたる。同時に大国主命の四世孫でもある。

邪馬台国の日嗣の御子はもとより嫡系男子に限られていた、それも末子継承であった。
しかも草創期のこの王朝の性格として同時に母方の血筋が大変重く尊んじられ、母系出自 (三輪氏) の后が何代にも亘って連綿とつづいていくことが望まれていた。
事実、神武から三輪氏の母方である二代綏靖・三代安寧・四代懿徳 へとつづいていたのである。
ところが・・・


ところが・・・第五代大王「カエシネ」のとき、その母の出自がそれまでと少し異なっていた。 どう異なっていたか、その内容をつまびらかにみると、カエシネの
父は、③安寧 (シキツヒコタマテミ)。 
母は、師木(磯城)県主の祖、賦登麻和詞の娘で飯日媛(イイビヒメ)であった。
次に、カエシネの兄弟関係を見てみると、

長兄は、息石耳命(オキソミミ)。母は、鴨王(三輪氏)の娘「渟名底仲媛」で事代主の孫娘。

次兄は、④懿徳「スキトモ」尊。母は、同じく渟名底仲媛(ヌナソコナカツヒメ)。

次に本人、⑤孝昭「カエシネ」尊。スキトモとは二歳ほど年下の異母弟であった。 (※ 1)

「⑤カエシネ」の后の世襲足媛(ヨソタラシヒメ)は、父が天忍男(アメノオシオ)、曾祖父は尾張氏の始祖「 味耜高彦根」。従って、世襲足媛は始祖の三世孫にあたる。

「⑤カエシネ」は安寧の日嗣の御子であった。『先代旧事本紀』巻第七、天皇本紀に
〝観松彦香殖稲尊(カエシネ)は磯城津彦玉手看天皇(③安寧/タマテミ)の皇太子である〟と記述している。『記紀』編纂者は、父「スキトモ」、子「カエシネ」の関係に置き換えて改竄したが物部氏の書「旧事本紀」は、その真相をそっと忍ばせて今日に伝えたかったのであろう。
「カエシネ」が20歳の時、尾張氏の世襲足媛15歳を娶った。
異腹の兄「④スキトモ」はそのころ既に同母の長兄である息石耳(オキソミミ)の一人娘「天豊津媛」を娶って一子・武石彦奇友背(タケシヒコ クシトモセ )をもうけていた。

「③安寧」はAD158年に崩御した。皇太后になった「ヌナソコナカツヒメ」は後継大王に実子の次男「スキトモ」を強く推した。次男息子と長兄の娘の結びつきは母系出自の三輪氏継承を意味した。時の政権中枢にいた侍臣「大祢」と大臣「出雲醜」(イズモシコ)は皇太后の意思を忖度し、尾張氏の媛を娶った皇太子を差し置いてこれを無理やり実現させた。この大祢と出雲醜は共に兄弟で宇摩志麻治(物部氏)を始祖に戴く孫であった。 (※ 2)

■ 軍事と政事の大権を一手に握っていた時の執権者物部氏の「出雲醜」らに逆らえず「カエシネ」も「尾張氏」もこれに沈黙せざるを得なかった。しかし力でねじ伏せた王位継承には正当性がないとする不満が次第に高まり邪馬台国の中でこれに異を唱える怒れる猛者たちも現れ国を二分する争いとなった。それが先代「スキトモ」治世中の暗雲漂う出来事であった。

■ ところがスキトモ在位11年目のAD170年、スキトモは35歳で俄かに崩御した。そこでカエシネ(32歳)は第五代大王を自ら宣した。しかしこの時も「太皇太后」(60歳)になっていたヌナソコナカツヒメは尚も母系嫡孫に拘り遺児「クシトモセ」13歳をスキトモにつづく王に強く望まれ「カエシネ」の王位をまたもや阻むのである。そして事実上大王位空位のまま先代スキトモ治世時の混乱にも増して豪族内部でもいよいよ二派に分裂して大きな騒乱となった。その対立激化は一段と地域的広がりをみせ、やがて収拾がつかなくなっていった。そんな中、カエシネは橿原の宮から南西4キロの地、 后の生国 掖上池心宮へ都を移した。この倭国騒乱は遠く洛陽にまで鳴り響いていたのである。

■ そうした混沌のさ中、太皇太后はAD177年に68歳で身罷った。カエシネは人心が乱れる中、前任の大祢と出雲醜を解任し代わりの「大臣」に出石心命(イズシココロ、出雲醜の歳の隔たった異母弟)を、「大連」に尾張氏の瀛津世襲命(オキツヨソ)を親任し左右に近侍させた。しかし依然「スキトモ朝」の遺臣大祢と出雲醜は尚もクシトモセを擁立してカエシネと鋭く対立、ここに至って決定的に倭国は分裂し時として誅殺しあい、この内乱は北部九州にまで飛び火した。それが『後漢書』「桓霊の間 倭国大乱」が指し示す内乱であった。

出雲醜の軍事的脅威に対抗するためカエシネは、神武遺命でもある軍事総裁の物部職(世襲制)を出雲醜から奪い、カエシネに心を寄せる出石心に代えて任用、出雲醜の力を削いだ。継嗣争いは既に②綏靖朝のタギシミミの変があるがそれに次ぐものとしてこの⑤孝昭朝のこの内乱を私は『イズモシコの変』と仮称した。

諡号は、孝昭(こうしょう)天皇。邪馬台国/ヤマト王権第五代大王である。
【私論編年 AD138ーAD193年、在位17年間、50歳で退位、56歳崩御】

倭国大乱の只中、他方では物部氏の湖北進出がみられ、その地を婚姻を通じて中臣氏の伊香津臣(児の梨迹臣は後に遣魏正使を務めている)に与え、更に濃尾や北越方面へも進出。尾張氏などの勢力も淡海湖西へ進出、後にその地は和爾氏が支配。湖東は三上氏が若狭の本系「海部氏」から分岐して進出していた。   (※ 3)

■ 同時期 目を転ずれば、大陸では大規模な「黄巾の乱」(AD184年)が発生。AD189年 後漢朝の公孫度が遼東太守となる。公孫度は漢の威信が低下する中それに乗じて半島南部へ急速に勢力を伸ばし楽浪郡を支配下に置き郡冶を仕切って統率の拠点とした。次いで嫡子公孫康はAD204年さらに南下、帯方郡の土着の韓・濊族を討ち併せて北部九州などから交易を通じて集住していた倭地倭人


らも帰服せしめ、直接倭国をも脅かせる緊迫した情勢となった。 馬韓弁韓それに辰韓の沿岸部には既に紀元前から倭人の集落が点在していた。それは国境の定かでない古代の半島と山陰・北部九州の間に出来ていたごく自然で平和的な倭人の領域、つまり狗耶韓国という名の倭地があった。私はこれら海域を総称して環古代倭地圏と名付けている。                                 王家が分裂して内乱に明け暮れた孝昭朝であったが、やがて和解の日が訪れた。それは思いもよらない従妹の出現によってであった。その名は「宇那比姫」、宇那比姫は大国主命の六世孫として生まれてきて行き詰った王統譜の瓦解を寸前に救った。この宇那比姫こそ倭国30国から共立され女王 「日女命」(ひめみこと)その人であった。いわゆる魏志倭人伝に登場してくる邪馬台国女王「卑弥呼」(ひみこ)その人である。そしてAD193年、⑤カエシネはそれを見届けるかのように安らかに崩御した。このとき日女命は22才であった。                      


(板厚30ミリ)

(※ 1)  安寧の第三皇子の名を『記紀』は単に「磯城津彦」とうそぶく。この呼称は単に〝磯城の男子〟と云う程度のもので実名ではない。当時、皇位継承権は末子継承が当然の慣わしであった、この第三皇子もそれを約束されていた。しかし『記紀』は、その名を明かすことの甚だ不都合を感じてこれを潜に隠蔽し、それに代わる名詞「磯城津彦」を使って系譜を改竄した。その不都合な名とは「カエシネ」(第五代邪馬台国大王 孝昭)のことであった。このカエシネの時、王位継承を巡って兄スキトモとカエシネの間で熾烈な継嗣争いが起こった、『記紀』編纂者はこのことをひた隠しに隠したかった。そして懿徳と孝昭の〝親子の王統は恙なく継承された〟と謳いたかったのである。

(※ 2) 長子が司祭を司り、末子が統治権を継承したという先代「綏靖」の故事を「安寧」が踏襲し「孝昭」を当然の如く太子に立てた、これがいわゆる『桓霊の間 倭国大乱』の端緒になったのである。

(※ 3) 皇太后が崩じた後の数年間、「カエシネ」政権もやや安定期を迎え、その間、播磨の国へ勢力を伸ばしヤマトの支配権を広げていた。その名「ミマツヒコカエシネ」は飾磨郡で大三間津彦として表れ、讃容郡では弥麻都比古の名で表れている。カエシネがこの地に足場を築いていたことが後年、播磨の西の国でヤマトに奉ろわぬ原吉備国(温羅の吉備)との戦いに発展し、後年 魏志倭人伝に登場してくる魏使「梯儁」が海路はるばる來倭のまさにその時、孫で孝霊の兄に当たる「大吉備諸進」がその吉備国と内陸で戦っていたのである。

2013/2/21   著者 小川正武

2013年1月25日金曜日

事代主命 【邪馬臺国 その十】 第一章

一書に曰く〝事代主神は宮中の御巫(みかんなぎ)八神の一つにもなっています。「えびす様」が、そんなとんでもない場所に祭られているとは知らない人が多いと思いますが、それは天皇家の祖先に関するこの大きすぎる地位に根拠があるのでしょう。〟

事代主(コトシロヌシ)命 〚三輪氏始祖〛
ニギハヤヒ(大国主命)の第一王子、母は神屋楯比売(カムヤタテヒメ)神。
弟王に味耜高彦根(アジスキタカヒコネ) と 宇摩志麻治(ウマシマチ) がいる。
王女(娘)に媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ) と 五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)がいる。
人は今も親しみを込めてこの神を福の神「えびす様」と呼んでいる。
【私論編年 AD58-117  60歳で身罷る】

大和南部の地を制したイワレヒコ(神武)が事代主の娘「ヒメタタライスズヒメ」を后に迎え入れたことで事代主は神武の舅となった。この舅は出雲の国の大王で同時に出雲文化圏に属する山陰地方の盟主的存在でもあった。先代ニギハヤヒ(大国主命)の時代、その勢いは全盛であったがイワレヒコに大和の都を追われてからはその勢いもかげりをみせていた。しかし、神武東征の砌、出雲国を落とせぬまま難波津へ向かわせた当時の出雲の牙城はいまだ健在で、依然として隠然たる基盤をもって外敵に備えていた。その侮りがたい存在はヤマト王権にとって厄介な存在で、互いに覇権を争う相手が婿と舅の関係であれば尚のこと和解して平和裏に血族的統合を図りたいとするのが神武の切実な願いであり且つ又背景であった。
AD108年ころ、筑紫の豪族である天押雲は邪馬台国の大王となっていたイワレヒコの命を承けて副使ウマシマチを伴って出雲の王宮へとまかり出た。
 天押雲は後漢書でいう倭国王「帥升」その人で、記紀神話に出てくる「建御雷」で神武の外戚にあたり筑紫を与る王でもあった。前年 後漢朝貢を果たして帰朝報告のため邪馬台国へ罷り出ていた。その正使「天押雲」は副使「宇摩志麻治」と共に出雲の王「事代主」の下へ和睦の使者として遣わされていた。  (※ 1)

建御雷(51歳)の拝賀の辞は事代主(50歳)を寿ぐ言霊からはじまった。内容は、事代主は今や大王イワレヒコの舅殿でおわすこと、后の媛蹈鞴五十鈴媛(30歳)は三人の御子を授かり立派に育っていること、舅殿はその御子の祖父でおわすこと、また后の妹君「五十鈴依姫」(25歳)は同后のたっての願いから第三王子「ヌナカワミミ」(14歳)が元服するのをまって同皇子と婚儀の予定であること、等々つらつら口上し、加えて大王イワレヒコの思いとして舅殿と永遠の契りを結び、日の神(天つ神)を祖神と崇める我ら天孫族は地の神(国つ神)を祖神と崇める出雲族と和して共に栄えんと欲する、その偽りない証に代えて舅殿の弟君で大王近侍の大夫ウマシマチ(37歳)を茲に遣わせた所以なり…と奏上した。
事代主命は深く思いを巡らせたの後やおらお口を開き重々しくも〝朕(吾)に否なし・・〟と。
ここにヒムカ天孫の王は、出雲の王と同化習合に成功し記紀はこれを、天神と地祇が合体した統治する血族の統合と受け止め、以後このことを出雲の国譲りと謳った。
而して神武朝が名実ともに成立した時期は、神武が橿原へ武力進出したときでもなければ長髄彦が賜死した時でもなく、実にその15年後の宇摩志麻治が降った時なのである。神武が天降ったころの在地豪族の勢力は猛る神武の孤軍勢力よりもその総和においては遥かに凌駕していた。しかし当時はまだ相互の戦略的連帯性に欠け緩やかで穏やかな気風であったためこれを排除するまでに至らず、それよりも新たな血が婚姻を通じて融和策に転じてきたのを受け容れた。

この下りを私なりに言解せば、アマテラスの霊がニギハヤヒの霊の下へ天つ臣タカミカヅチと国つ臣ウマシマチを遣わし〝天孫イワレヒコが降臨したヤマトの地はイワレヒコへ国譲りし給え、代りにその母なる瑞穂の地は弛まぬ交配を重ね豊穣の国へと繁栄することを誓約(うけい)するでありましょう・・〟と幻示的に伝えたのである。結果、史実においても天神地祇の合体した貴種は今日まで引き継がれている。ゆえに伊勢神宮(天神)と出雲大社(地祇)は斬っても切れない相互補完の関係に今日も在る。 (※ 2)
(板厚 30ミリ) 

祟神の無血クーデターが起こったAD275年までの約400年間、この間は銅鐸を祭祀とする弥生文化の全盛時代であった。クーデター以後はその祭祀の使用を〝許さない〟とする意志をもった政治改革が中央で断行された。出雲の奥深い荒神谷とか加茂岩倉山に同青銅器が隠すように埋納されていたことは、当時それを埋葬した側(被支配者層)に深刻な事態が生じていたことを物語っている。これを前後して時代は前方後円墳へと移り、以後前方後円墳からは一切銅鐸の出土は見られなくなるのである。


(※ 1) この九州筑紫を原郷とするヒムカ族とは、そも如何なる出自であろうか?。思うに中国秦の始皇帝の時代、戦乱で荒れ果てた地を後に、徐福が船団を組んで東海に在るという蓬莱の国を目指して集団で亡命したという。紀元前220年頃であろうか!その辿り着いた先が九州の有明ではなかったか、そこへ上陸して次第に筑紫平野に根を下し在地弥生人とも次第に同化融合していった。その末裔たちがヒムカ族と称されるに至ったのではないのか?。ところが紀元前100年頃、山陰地方の出雲族(海人)が全盛期を迎えて筑紫地方をも席巻、そのためヒムカ王は難を逃れて日向へ一時身を隠した。その王こそ神武の祖母「アマテラス」だったと観る!。更に想像を逞しくすれば、神武の先祖を遡れば微かに徐福あたりへ辿り着くのではないだろうか?                             

(※ 2) 天押雲こと建雷命(タカミカヅチ)という古代神が中臣氏の氏神である春日神社に祭られている。その中臣氏の末裔である藤原氏も亦、その氏寺である興福寺に建雷命を権現様(化身)として形を変えて祀っている。仮に徐福の血を神武が引いていたとしてもそれを殊更強調するほどのことはなく、むしろ土着化して歴史の彼方へ消え去っていったそれら幾多の人々を今なお現存する氏寺や仏閣が朝な夕なに怠りなく奉っているその日本人の先祖崇拝こそ歴史遺産として大切にしていきたいものである。


2013/1/25   著者 小川正武