2013年10月19日土曜日

魏使 梯儁 【邪馬臺国 その十八】 第一章

先帝「明皇帝」の詔は新体制がこれを引き継いだ。正始元年(240年)年明け早々、先帝の詔は実行に移され帯方郡太守「弓遵」(キュウジュン) のもとへ詔書や金印・銅鏡百枚等宝物多数を鄭重に装封して勅使が遣わされた。太守弓遵はそれを承けて配下で建中校尉の「梯儁」を勅使付武官に任じ、かつ使節船の総監に当たらしめ、船三艘を仕立てて倭国へ送り出した。時に同年春四月。
(※ 1)
『魏志倭人伝』の冒頭、〝倭人は帯方の東南大海の中にあり、・・・郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を経て、あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗耶韓国に至る七千余里、・・・郡(帯方)より女王国(邪馬台国) に至ること萬二千余里〟と記す。

左図画像は、使節船をイメージした写真で、当時の動力源は主として漕櫂(そうとう)に負い、沿岸に沿ったいわゆる地乗り航法による凪の日とか追い風の日を特に選んで航行していた。


左図は、同使節船が邪馬台国へ向かったときのコースで、いわば航路往還軌跡の全容図といったところである。

左下図は、狗耶韓国から伊都国に至る地理的位置関係 (東南の方向) を主として示している。

そもそも、伊都国は神武東遷後は邪馬台国の重要な陪都(副都)となっていた。その地では「一大率」(※ 2) という名の検察機関が常置されていて、倭人の交易船はもとより半島からやってくる人々や、郡からの使いの船までも全てこの津で一旦捜露(検問) を受けねばならず、その情報は逐次都へ知らされていた。従って『魏志倭人伝』でいう「倭人は帯方の東南海中にあり」というこの漢土の人々の方向感覚とその認識は、ここまでは間違いなかった。しかし、それ以遠の女王国の所在する方向となるとまるで解らず、今次使節随員の紀行記がはじめておぼろげに明かすものとなった。そもそも陳寿は海を知らず、その使節随員もまた内陸奥地の文官で航海に疎く、陳寿は原典となったその随員の紀行文(帰国報告書) を下敷きにアバウトな里数と方向と日数を割り出して歴史書(史書)に刻んでしまったのである。
私は、この陳寿の誤謬を責めるというよりも陳寿が当時の倭国の様子をおぼろげながらも微かに捉えて残してくれたこの『魏志倭人伝』の功績こそ称えたい !

下図は、さらにズームアップして図解した末廬国から伊都国・奴国・不弥国の位置関係と、同使節船が辿った航行の軌跡を表す。
『魏志倭人伝』は、末廬国から東南(イ) の方向に伊都国を指す。そして伊都国から東南(ロ) に奴国に至るという。更に東行(ハ) して不弥国に至るというのである。ここに一つ目の大きな誤謬が生じる。
破線矢印の方向は『魏志倭人伝』が示す方向である。しかし、末廬国(唐津市) から伊都国(糸島市) の実際の方向は実線の東(X) または東北東に近い。同様に伊都国から奴国(福岡市) も東(Y) または東北東方向であり決して東南ではない。ここで既に方位角が90度乃至135度狂っている。更に奴国から不弥国(福津市) の方向を『魏志倭人伝』は東行(ハ) とのたまう。実際は北東(Z) である。この北東を東とする45度の狂いと先の90~135度の狂いを加えれば使節船の舳先(へさき)はほぼ間違いなく北へ向かって航行する。また、実際に進路もその方向なのである。

左図は、不弥国(福津) から邪馬台国に至る航路を表す。『魏志倭人伝』曰く〝南至投馬国水行二十日〟と。つまり〝東行してきた不弥国から南へ舵を切って投馬国へ至った〟と記し、即ち東行から南へ90度舵を切ったと陳寿の地理像は描いているのである。これを先と同様に補正するならば、〝使節船の舳先は不弥国の沿岸を北に向かって航行し、玄界灘から響灘へ90度舵を切って東行した〟と言い換えなければならない。それはまさに瀬戸内海を東へ航行したということを示しているのである。
以上は方位の誤謬を示した。つぎに、陳寿の二つ目の誤謬は水行陸行にある。まず陸行であるが、使節団一行はただの一度たりとも陸行はしていない。漕ぎ手を含めて総勢少なくとも100余名は寄港した島々に一旦上陸してそこで何日か仮泊こそすれ、海岸つづきの中、わざわざ船を下りて “草木茂盛して前人が見えぬ” ほど険しい末廬国を五百里それも装封夥しい宝物を担って難行苦行したあげくその先でまた使節船に乗り移って水行するナンセンスはそもそも成り立たない。一行は末廬国には上陸せず「一大国」から末廬国の沖合(松浦半島の呼子) をかすめて直接「伊都国」へ向かい、その津で大勢の人々の歓迎を受けたのである(※ 3)。なぜなら『魏志倭人伝』は末盧国に限って官も副もその名を記さない、それは単に書き忘れたのではなくそもそも陸行しなかったから名前が判らなかっただけのことであり「陸行五百里至伊都国」とは、呼子の沖から末廬国と伊都国の間を目測で測距したもので、これがまた大雑把で問題のある過大な里数だったのである。そのことはまた後で触れる。

つぎに曰く〝至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月〟この陸行一月の内容である。投馬国から邪馬台国まで確かに水行十日を費やした。一行は伊都国で大歓迎を受けたのと同様、難波津においても連日引きも切らず物珍しさ見たさに大勢の人々が入れ代わり立ち代わり詰めかけ大歓迎を受けた(※ 4)。
使節船は津の内湾 河内湾に停泊し一行は上陸して迎賓館を兼ねた宿舎「難波館」を宛がわれそこで女王からの参内許可があるまで待機した。伊都国から水先案内で同行してきた役人はここで邪馬台国の役人らと合流して女王「日女命」が使節一行を引見する日を都と行き来して調整を図った。やがて使節一行は吃水の浅い小型の倭船に乗り換えて大和川をさかのぼり邪馬台国の都「室秋津洲の宮殿」(現 御所市室) に参内した。難波津に到着してから以後「日女命」の引見を受けるまでその間一月を費やした、それが陸行一月なのである。

つぎに水行である。不弥国から投馬国(広島県東部・鞆) まで二十日も要したがこの間、ただでさえ潮の流れが速い瀬戸の海が一旦荒れれば行く先々の津に緊急避難したり寄港して潮待ち風待ち漕ぎ手の休息 糧食の積込み 果ては破損個所の応急修理等々で思わぬ日数を食ってしまった。そして鞆の東、水島(岡山県西部) では邪馬台国に必ずしも服さぬ国 吉備国 (※ 5) が存在していて、ここを倭の水軍が使節船を警護伴走して通過すること十日にして漸く難波津に到った。

蛇足であるが、この年次と時を同じくして呉の銅鏡が邪馬台国(※ 6) に奉ろわぬ国と思しき古墳から出土している。思うに、呉が同時期 吉備国と誼を通じて下賜し、吉備国王がそれを与国の首長に分賦していたのではないか、魏と呉の確執は遠くこの地にまで及んでいたのであろうか。



つぎに、陳寿の三つ目の誤謬は里数にある。『魏志倭人伝』に〚自郡至女王国萬二千余里〛と。これは往路全距離数を表す。その距離が果たして正確かどうかはひとまず置いておいて、〚郡より狗耶韓国に至る七千余里〛と記した後〚一海を渡ること千余里、対馬国〛、〚また一海を渡ること千余里、一大国〛 〚又一海を渡ること千余里、末廬国〛 〚陸行五百里にして伊都国〛 〚奴国に至ること百里〛 〚不弥国に至ること百里〛とつづく、それ以遠の邪馬台国までは何故か里数ではなく突如として日数だけに変化する。
仮にその里数に従うなら、郡(帯方) から不弥国(福津市) までの延べ里数は萬七百余里となる。すると計算上残りの里数は僅かに千三百里、つまり不弥国(福岡県の北西部) から邪馬台国(奈良県御所市) までの里数が僅か千三百里しか残ってないことを意味する。これは狗耶韓国~対馬~一大国(釜山から壱岐島) 間の距離二千余里よりも遥かに短い!?この距離感の粗雑さは甚だしい。
さらに末廬国(唐津市) から伊都国(糸島市) までが五百里に対して、伊都国から奴国(福岡市) が百里、奴国から不弥国(福津市) が百里、合わせて二百里であるというのではまるで距離は真逆である。たとえ松浦市から糸島市までを500と置き換えても糸島市から福津市までの200とでは同様にその比は成り立たない。ここにおいても陳寿の距離感覚は完全に破綻している。 
※ この項は桂川光和氏説を多く録り入れています。唯、我が私論が同氏と異なる他の多くの部分については、そのために同氏のご見識ご慧眼を些かも損なうものでないことは言うまでもありません。

(※ 1)
 『魏志倭人伝』は、「正始六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜り、郡を通じて授けた」と記述する。そしてその翌年に郡の太守「弓遵」が戦死し、その皇帝旗は同八年まで郡に留め置かれた。この間、郡では一体何が起きていて、魏はなぜ卑弥呼ではなく難升米に黄幢を授けようとしたのか!?。思うに、嶺東の濊(ワイ) が高句麗に従属したため弓遵がこれを討ち (高句麗が強盛になって第二の公孫子になることを恐れた)、それまで郡の所管だった辰韓八か国をより遠くの楽浪へ編入しようとした。ところがそれに不満をもった辰韓の大規模な反乱が起こり、これを誅伐すべく魏は同盟国 倭の率善中郎将「難升米」に対し、南(狗耶韓国) からの軍事協力を求めんと欲して(魏は前年、蜀漢出兵 ╱ 興勢の役に大敗、大損害を蒙っていた) 詔と黄幢を郡に仮賜した。それが「正始六年」の詔であり黄幢であった。しかし、同年の邪馬台国から郡治への遣使は見送られ、弓遵は戦死した。そしてその辰韓も楽浪帯方二郡によって程なく平定された。残された辰韓の遺民たちは次代になって新しく立ち上がり、その勢力は恒常的に倭地の狗耶韓国(弁韓加羅) を蚕食しつづけていった。(弁韓加羅は鉄の大産地で倭人による採掘製錬が行われ、農耕具の需要地である 山陰・九州へ搬送されていた。その狗邪韓国の地はやがて異民族らによる進出と植民地化を許す結果になってしまった。)
弓遵が戦死して120年後、神功摂政の時代になって漸くその現実の深刻さに直面したヤマト王権は、遅ればせながらも失地回復のために慌しく三韓征伐に乗り出していくのである。

(※ 2) 
往古の倭人は、環古代倭地圏とも称しうる韓半島南部から山陰・北部九州にかけての広大な版図を有していた。しかし、その領域は公孫子をはじめとする幾つもの異民族の南下によって次第に狭まり、そうした半島情勢の危機に直面していた倭はその護りに神武東遷以来の軍事拠点「伊都国」を更に強化するとともに、多くの氏族支族を半島に派遣していた。にもかかわらず魏の南からの策動(出兵要請)に対し、倭は機敏に応えられなかった。それはなぜか!?、当時、女王「日女命」を輔弼していた男弟「孝安」は既に亡く(四年前、崩御)、代わって「孝霊」が磯城の地に遷都して即位したことにより大王位の座を巡って血脈を異にする王(皇)統間でそれまでくすぶっていた相克が次第に露わとなり、その根底から揺らぎだした政権の脆弱性とも重なって魏からの援軍出兵要請にも決断を鈍らせていた。

(※ 3) 
それは前の年から倭国でも既に広く知れ渡っていた使節であった。〝国々市有り。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ〟(倭人伝の一節)。歓迎されるべき友邦国からの初の來倭とあって処々で頻繁に市が立つ倭人社会にあって人々の好奇心はいやがうえにも駆り立てられていたことであろう。

(※ 4)
 左図は『倭国』の当時の国別戸数/人口規模を表す。〝国の大人は皆四、五婦。下戸(平民) もあるいは二、三婦〟と『魏志倭人伝』は云えり。だがここでは慎ましく一戸当たり平均家族数を夫婦と子供三人、計5人とした。すると、伊都国千余戸=5,000人。奴国二萬余戸=10万人。投馬国五萬余戸=25万人。邪馬台国七萬余戸=35万人。西暦240年ころ既に人口35万の『女王の都』するところは我々が想像する以上の広がりをもった都であった。〝婢千人(女官)を以て自ら侍せしむ〟は驚く数ではない。この55年後、台与(天豊姫)が崩じ、程なく巨大な前方後円墳「箸墓」造営の大号令(詔)が発せられ多くの民草が動員された。それを可能ならしめたのは斯かる人口基盤が背景にあったからにほかならない。
地図は大和盆地南西部を示す。(現在・御所市)

(※5) 
当時、「温羅の吉備」国は邪馬台国を奉つろわぬ国で、まさに孝安の第一皇子「大吉備諸進」が吉備征伐に赴いていた真っ只中であった。遡って神武東征の砌、珍彦(ウヅヒコ)が吉備から現れて神武を先導したという幻想神話(寓話)は、大国主命が因幡で泣訴の兎を救ったおとぎ話とあまり変わりなく、本来 ウヅヒコは豊後の海人の族長であった。 即ち率いて皇船を海導し、遭難して二木島に漂着したあとも絶体絶命の淵に曝される神武を能く援け、大和侵攻時には大和の高貴な姫君を捕らえて神武に献上した。その第一等の働きによって神武から「椎根津彦」の号を賜り、真っ先に「倭国造」に任じられた。彼の存在なくして神武の東征は果たし得なかった、そういう意味において彼は最大の功労者であったと云える!。云うまでもなく当時はまだ国造という位階はなく茲は概念として譬えられている。

(※ 6)
邪馬台国の台は〚臺〛であり、台与の台も素より〚臺〛である。陳寿は原典の潮焼けした麻紙か木簡の滲んだ墨字を見て〚臺〛を〚壹〛と単純に読み違えて写し取ったのである。そのことは使節一行が目指した〚ヤマタイコク〛が〚ヤマイチコク〛でないのと同様に「日女命」の宗女「天豊姫」が〚トヨ〛であり〚イヨ〛でないのと軌を一にする。因みに〚臺〛と表す中国史書は「後漢書東夷伝」「梁書諸夷伝」「隋書東夷伝」「北史倭国伝」「翰苑」「通典」など殆どがそれで、〚壹〛と記すのは僅かに「魏志」くらいなものである。従って、「魏志倭人伝」の〚壹〛は明らかに誤記であることがここからもわかる。

加えて申せば、使節一行が「やまとの国」(大和国) をその音韻の響きから邪馬臺(ヤマト)の国、即ち「邪馬臺国」と表記したことは云うまでもない。それを現代人は崇神以前を「ヤマタイコク」と呼んで区別している。それにしても使節書記官殿が当て字に蔑称を造語する才は失笑するほかないが、道中さぞかし慣れない船旅・船酔と異邦での飲食が口にあわず大変ご労苦をなされたであろうことを偲べば 〝さこそ〟 とご同情申し上げ、ここに改めて労をねぎらいたい。

                           (板厚30ミリ)

【正始元年  太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝暇倭王、并齎詔賜金帛 錦罽 刀 鏡 采物 倭王因使上表答謝詔恩】
正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、金帛・錦ケイ・鏡・サイ物を賜う。倭王、使いに因って上表し、詔恩を答謝す。

斯くして無事大役を果たした使節一行は九月半ば、復路 伊都国の津を後に出航して郡都へと還っていった。


2013年10月19日  著作者 小川正武 
         

2013年9月11日水曜日

魏朝 明皇帝 曹叡 【邪馬臺国 その十七】第一章



遼東制圧まで足止めを食っていた遣使一行は、九月半ば漸く帯方郡から陸路洛陽へ向けて出発した。そのころ明帝は既に病を得ていたが遥か遠く倭の国から戦中来朝あることを知り、その瑞兆これ朕が仁徳の誉れと大いに慶び、その受け容れ準備に余念がなかった。(※ 1)
左の写真は、北魏洛陽城の閶闔門(しょうこうもん)復元図。
遣使一向が洛陽に着いたのは12月はじめ。そのころ明帝の容体は容易ならざるところまで進んでいた。・・にも拘らず明帝はそれを押して遣使一向を引見、倭王卑弥呼(日女命) に対して『親魏倭王』に制詔すると証書を発し、金印紫綬を仮し装封して帯方に付し、下賜の品々は装封して難升米(梨迹臣)・牛利(由碁理)に付すとした。
曹叡の上代、曹胤のころ、〝有倭人以時盟不〟の故事あり。今次、倭国遣使来朝に鑑みて曹叡(明帝)がこの故事を懐旧していたとしても不思議はない。明帝曰く〝汝がある所遥かに遠きも、乃ち使いを遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。・・・汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青授を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、・・・を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また特に汝に・・・銅鏡百枚・・・を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり〟とあり、まさに仇敵呉の遥か海東を望む倭国からの誼に想いを新たにしていたことの表れと私は見る。文中〝我れ甚だ汝を哀れむ〟とは〝我れ深く慈愛の心で接し汝を賛美する〟とした意味であろう。
(文中・・・印の箇所は魏志倭人伝の文言を省略している部分)

(※ 1) 『晋書』四夷伝「東夷条」倭人の項においても【宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帯方朝見其後貢聘不絶】と記す。その意味は、〝宣帝(司馬懿)が公孫氏を平定した其の折、女王は帯方に使いを遣わし朝廷に謁見した。その後も友邦(同盟国)として、貢物を交換しあう訪問が続いた〟と言っているのである。この〔親魏倭王〕の〔親〕は、魏の〔同盟国〕倭の王という意味であり、恐らく「司馬懿」もこの遣使一行を襄平で仮泊せしめ、翌日には戦中警護を厳重に洛陽へ馬車を仕立てて懇ろに送り出していたことであろう。 
冕冠(べんかん)を戴き、倭国遣使を引見する明帝 曹叡  (板厚30ミリ)

曹叡は、三国時代の魏の第二代皇帝。在位14年、生歿年206年~239年、
景初三年正月朔(一日)に崩御、33歳。  諡号 明皇帝。

曹叡は文帝曹不の長男に生まれ抜きんでた容貌と威厳があったという。16歳の時、母の甄氏は父の文帝に殺された。当初、文帝は曹叡を好まず、跡継ぎは他の夫人との間で儲けた子を就けようとしていた。文帝の死後 皇帝に就いた明帝は、真っ先に母・甄氏の名誉回復を行ったが後年 自らも寵愛が郭皇后に移った明帝は、毛皇后に死を賜った。皮肉にも、かつて妻を殺めた父と同様の行動を取るのである。明帝の不幸は更に我が子が次々に夭折し養子曹芳を太子に立てねばならなかったこと、加えて自ら33歳の若さで亡くなったこと、残された幼帝曹芳はこのときまだ7歳、この後見役を曹爽と司馬懿に託したこと。国家の大権をこの二者に集中させたことがやがて両者の確執を生み、この国の社稷を崩すに至った。

明帝の突然の死によって、宮廷の沸き立つ戦勝気分は一変し、一切の諸行事は中止された。これを受けて難升米ら遣使一行は幼帝曹芳が元服する四年後に再び來朝することを約して帰国の途に就いた。(※ 2) 
(※ 2) 明帝の意志は「銅鏡百枚」を卑弥呼が録受することにあり、それを來使難升米らが確実に持ち帰ることを命じていた。ところがその矢先の明帝の死であり、その行事一切は喪して中止された。代わりに翌年の正始元年(240年) に帯方郡使「梯儁」(ていしゅん) が來倭して、明帝が命じた品々と「銅鏡百枚」を邪馬台国へ齎(もたら)せた。その鏡の大半は明帝期の方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう) であったり画文帯神獣鏡であった。
(上の銅鏡は、方格規矩四神鏡)

ところが近年になって景初四年という中国に存在しない年号の鏡が古墳から出土した。思うに、百枚に僅かに不足する枚数を補うべく景初三年の服喪の中、魏の官営工房で急遽「景初三年紀年銘」を記す鏡が鋳造された。それが魏では決して出土しない特異な縁をもつ特鋳の三角縁神獣鏡であった。
明帝の意志は〝悉く以て汝が国の人に示し、汝が深く慈愛の心を持って国家に当たっていることを知らしめるべし、その標べとして汝が好むところを贈る〟と言っているのである。この場合、明帝期の年号を付した鏡でなければ詔書の意志は的確に卑弥呼に伝わらない、幼き次帝曹芳の紀年銘の鏡では意味をなさないのである。
日女命は、明帝から贈られたその鏡を権威のシンボルとして畿内近在の功臣や各地方の豪族たちへ悉く配賦して、明帝の意志に副った。 
(上の鏡は、三角縁神獣鏡のレプリカとその断面図)

  日女命が配賦した銅鏡百枚は言うまでもなくその出自は全て舶載鏡 (中国製) であった。ところが奇異なことに日女命亡き後、景初三年を含む景初四年・正始元年の紀年銘をもつ三角縁神獣鏡が相次いで古墳から出現した。これは一体どういうことであろうか!。答えは梯儁が齎した鏡の内、倭魏同盟のエポックを画した紀年銘をもつその鏡の重要性から、その全てをヤマト王権が模して造らせた云わば仿製鏡 (国産)なのであった。  孝霊から景行に至る歴代各天皇はこの間、日女命の慣例に倣い、日女命への尊崇すこぶる高いこの由緒ある鏡を殊のほか必要とした。その背景にはヤマト(倭)王権の版図が次第に拡大する中、九州南部の熊曾(熊襲)・北陸若狭の玖賀国(狗奴国)・本州中部以遠の国々を平定するごとに、働きのあった各豪族・功臣たちにこれを下賜し、位階勲章を授ける権威の象徴として、この紀年銘をもつ鏡こそが偉大なる威力と尊貴性を発揮したからである。舶載鏡に代替する足らざる鏡 (勲章) をその後の政権は仿製鏡をもって代用したということである。

当時の我が国銅鐸技術をむもってすれば原材料さえ揃えば容易に造れた。大和盆地のほぼ中央に位置する田原本町には集中して鎮座するその名も「鏡作神社」「鏡作坐天照御霊神社」「鏡作伊多神社」「鏡作麻気神社」が点在する。これらはその鏡作り集団がかつて居住していた名残りの地であり官営工房の在った地であった。
孝霊の都する黒田庵戸宮(くろだのおとのみや)はそのごく近くに所在した。 
(上の写真は、鏡作神社の鳥居) 写真は外部資料を引用
 この鏡作り集団の後裔らは、時代が下ると共にそのニーズも移り変わり「倭の五王」以降は冠や太刀に、更にもっと下れば仏像へと時の権力者の求めに応えていった。



大阪平野と淀川を見下ろす高槻の安満山(あまやま)の中腹に、安満宮山古墳(あまみやまこふん)がある。この被葬者は誰か!。思うに、魏朝遣使を務めた副使/都市牛利 こと「由碁理」の父「建田背命」であろう。「建田背」は始め丹後の宰(みこともち)であったが妹の「宇那比媛」(日女命)の政権を支えるため大和に移り住んだ。そして孝安と太子(後の孝霊)に仕え、日女命の王子「和邇日子押人」と息子「由碁理」の後ろ盾となって朝堂で重きを為した。そして由碁理が無事帰朝するのを見届けるかのこどく間もなく薨去した。日女命は兄のその死を悼み、明帝下賜の銅鏡ほか宝物宝剣多数を追贈した。その一部が遺骸と共に遣使船を遠望するここ高台に埋葬された (※ 3)。因みにこの北摂の地は和邇氏の勢力圏で後年、継体政権樹立のバックボーンともなった土地柄である。

(※ 3)  尾張氏五世孫の総領「建田背命」が後にした丹後の国は、建田背の弟「建宇那比/タケウナヒ」が当主となって治め孝霊に仕えた。現在の京丹後市峰山町に在る「赤坂今井墳墓」はその「建宇那比」の墳墓と比定されている。
また丹後半島の中央部に位置する竹野郡に「大田南5号墳」が在るがこの被葬者こそ建田背の息子「由碁理」であるともいう。更に、京都府相楽郡山城町に在る「椿井大塚山古墳」の被葬者は⑥孝安天皇の甥「和邇日子押人命」ともみられる。これら古墳は初期のもので自然の山を利用して山頂に墳丘を築造したものとみられる。

2013/9/11    著作者 小川正武 
 

2013年7月23日火曜日

太傅 司馬懿  【邪馬臺国 その十六】 第一章

AD204年(建安9年)公孫康は、後漢朝に恭順を示し帯方郡治を追認された。その弟 公孫恭の時代にも魏朝の臣下として、文帝(曹丕)から襄平侯に封じられた。さらに太和2年(228年)、20歳になった康の子 公孫淵(こうそんえん)は叔父の恭から位を奪い取って明帝(曹叡)から改めて遼東太守に任じられていた。

■ 倭国連合の盟主である邪馬台国は公孫康の帯方郡侵攻以来、洛陽への遣使が途絶えていたが公孫氏が魏に帰順して久しく、その定着するのを見定めて漸く魏朝遣使に向けた朝議を俎上に乗せるに至った。
時に遣使前年のAD237年のことで、実に32年振りの外交再開であった。

■ 話は溯るが倭人の漢土における痕跡の一部をここで少し垣間見てみたい。
『山海経』とは東周・春秋時代(BC789~BC221)の記録であるが、その「海内北経」に〝蓋国(後の高句麗)は、強大な燕の南、倭の北にある。倭は燕に属し…云々〟とある。上の図は同戦国時代の中国と倭地のエリアを示している。恐らく当時は列島とは別に燕の支配下にあったであろう倭人勢力が数多く半島に散在していたことをこの文献は物語っている。

■ 『倭人字磚』(わじんじせん)とは一体どういうものか。
それは「安徽省亳県」(はくけん)の曹胤(曹操の曾祖父)の墓から出土したレンガの一枚に記されていた一文のことである。曰く 「有倭人以時盟不」(倭人あり 時を以て盟するや否や) を指す。当時、倭国はカエシネ(第五代孝昭天皇)の時代で大王家が動揺していたAD170年ころに相当する。思うに、これとても列島とは無関係に漢土の内陸においても会稽太守が無視できないほどの有力な倭人がいたのであろう。ひょっとして63年前の帥升遣使の生口出自が自治集団に成長していたことを私は夢見る。周・春秋戦国・秦にかけて打ち続く戦乱で中原の人口は一説には10分の1にまで激減したとある。そうした漢土から流民として逃れ出る難民あれば逆に生口という名の入植もあったであろう、支配者にとって生口は貴重な農奴的存在であったし、鉄と干鮑に象徴される漢人と倭人の交易を手助けした有力な勢力であったかもしれない。(閑話休題)

■ AD232年、公孫淵は魏の一地方官の身分に飽き足らず魏の仇敵 呉の孫権と盟約を画策、孫権から燕王に封じられた。ところがこともあろうにその呉の使者を殺して首を明帝に送り、随行の軍隊財宝を奪った。これにより翌年 明帝から更に「楽浪公」に封じられた。
しかし魏から受けた「楽浪公」の地位を不足とし、王のごとく振舞った。こうした公孫淵の二心外交はやがて魏の強い不信を買い強行路線を招くことになるのである。

■ 青龍2年(234年)、呉と同盟して魏を攻める蜀は、五たび北伐を慣行、このため司馬懿(仲達)率いる魏軍は諸葛亮(孔明)率いる蜀漢軍と五丈原(陜西省)で対峙した。仲達は手薄になった魏の背後の公孫淵の動きを常に警戒しながら防衛戦に徹した。これに対して軍師孔明も持久戦で応えて屯田を行い長期に布陣した。ところがその孔明は陣中で病死してしまい蜀漢軍は粛々と撤退をはじめた。これを見た仲達は追っ手をかけようとするが蜀漢軍が魏軍に再度攻撃する様子をみせたので退却した。
これが後に伝わる「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の謂れとなった。

■ この「五丈原の戦い」以後、返す刀で魏は遼東における積年の脅威を取り除くべく公孫淵討伐にとりかかった。景初元年(237年)、毌丘倹(カンキュウケン)は明帝の名で公孫淵に都への出頭命令を出した。しかし公孫淵は従わず迎撃の構えを見せ、一戦に及んだ毌丘倹を撃退した。この結果、公孫淵はついに独立を宣言し遼東の襄平城で燕王を自称、楽浪・帯方二郡をそのまま領した。

■ 邪馬台国は公孫氏が魏に反旗を翻したことを露知らず同年暮れ(237年)、朝議は遣魏使に中臣氏の「梨迹臣」(ナシトミ)、副使に尾張氏の「建諸隅」(タケモロズミ)を任命し「日本足彦国押人」がこれを宰可、女王「日女命」はその無事成就を祈祭して総攬、遣使渡航の準備に入った。この建諸隅は「日女命」の兄「建田背命」の息子、 つまり甥っ子で亦の名を丹波大県主「由碁理」(タンアオオガタヌシユゴリ)と称し、この年39歳の壮年で五才の「倭得魂」(ヤマトエタマ)と一才になったばかりの「天豊姫」を儲けていた。このアメノトヨヒメこそ日女命の宗女にして邪馬台国二代目女王「台与」である。

■ 明けて景初2年(AD238年)2月1日、明帝から遼東征伐の命を受けた司馬懿の軍4万は、同月初旬洛陽を出て凡そ1300キロを行軍、五月中ごろ遼隧に到着、8月23日に襄平を陥落(遼隧の戦い)せしめる。その報は9月中旬 既に帯方郡を接収していた「劉昕」の後任「劉夏」の下へも早馬で知らされていた。
(※ 1)(※ 2)

■ そのころ邪馬台国の遣魏使一行は、伊都国を5月はじめ出航 6月帯方郡に到着、帯方郡太守着任早々の「劉夏」の出迎えを受けた。そして公孫氏がまもなく滅亡するのを一行は驚きをもって目の当たりにするのである。(※ 3)
太守「劉夏」にとっては、この戦中遣魏使はまたとない奇貨と捉え、遠く東倭からの朝献こそこの上ない明帝への徳と称え、遣使一行を篤くもてなし京都「洛陽」へ送り出した。そしてその手配はいち早く太尉「司馬懿」へ急報され、同時に「明帝」へも伝達された。遣魏使一行が洛陽に着いたのはその年の12月であった。

司馬懿 中国後漢末期から三国時代の魏にかけての武将・政治家、魏の太傳。晋の礎を築いた人物。
諡号 宣帝 AD178~251年、 72歳で歿する。

(板厚30ミリ)

(※ 1) 討伐軍本隊は、2月上旬洛陽を出発したが、戦略的に先遣隊は同時期 既に山東半島から対岸を渡海急襲して5月はじめ楽浪郡・帯方郡を接収した。これによって遼隧に布陣する本隊が背後から突かれる恐れを取り除き且つ公孫淵の退路を断った。

(※ 2) 公孫淵親子が包囲を突破して逃亡を図るが、司馬懿は追撃してこれを斬殺し、城の高官たちも悉く斬り殺して遼東を制圧した。更にその後の処置も苛烈を極めた。中原の戦乱から避難してきた人々によって占められていた遼東地方の気風は、いつまた反魏の温床になるかわからないので15歳以上の男子数千人(一説には7,000人)を殺して京観(首のピラミッド)を築いたという。『晋書』曰く、「王朝の始祖(晋)たる人物が、徒に大量の血を流したことが引いては子々孫々に報いとなって降りかかったのだ」 と批判している。

(※ 3) それまでの倭国の戦いは専ら歩戦であった。兵馬による機動的な戦場展開はこのとき遣魏使の刮目の的となった。その後、倭国はこれを積極的に取り入れ主に馬韓に住む扶余族から馬匹を狗耶韓国経由で移入していった。。。
その主たるルートは伊都国から北部九州へ、同時に丹波の府を通じて畿内へ夫々搬入され平時は伝馬に使用、祟神の時代には各地の軍役に大いに徴用された。

後の百済はこの扶余族を源とし、古くから倭国との誼を通じてその地の一部を友好的に割譲されていた。その経緯から百済王は倭国王のことを親と崇め倭へ朝貢を行い同盟を結んでいた。これは継体朝以後もつづく揺るぎない厳然たる史実である。

時代が更に下って、天智天皇は百済救援のため半島西岸の白村江で唐・新羅連合軍と戦っている。そればかりか百済滅亡に伴う多くの亡命百済人を日本は積極的に受け容れていた。
           

              一句 古希すぎて 彫る手の外や セミしぐれ                   
                                                                            2013  7  23     小川正武


2013年6月18日火曜日

孝安天皇 「日本足彦国押人」 【邪馬臺国 その十五】 第一章


女王「日女命」の夫君アマ・クニオシヒト(天足彦国押人命)はAD199年、32歳で薨去した。日女命このとき28歳、亡き夫君との間に「押媛」11歳と「和邇日子押人」9歳を授かっていた。女王は一年間喪に服した後も悲嘆にくれ、そのため朝政が滞った。この停滞を指弾して「三輪氏」を母系嫡流にもつクシトモセ王統一族が42歳の「クシトモセ」を擁立せんと大王位を画策、その最中、「日女命」は突然故地丹後の「竹野」へお隠れになった。事の重大さに憂慮した国邑の長老たちは「日女命」と「クシトモセ」の共通の地祖である「大国主命」の祖廟、出雲に参集して衆智を巡らせた。その結果、亡きアマ・クニオシヒトに代わる補佐人にその実弟「日本足彦国押人命」(24歳)をもって当てるほか「日女命」のお心を開く手立てのないことが分かり、それを受けて朝堂の重臣たちも「竹野」に赴き「日女命」の還御を強く懇請、斯くして「室秋津島の宮都」へ漸くお迎えすることができた。その結果、それまで暗く沈んでいた都は一度に明るさを取り戻して人々は大いに安堵した。時に二年後のAD201年頃。

「日女命」を補佐することになった男弟「ヤマト・クニオシヒト/略称」はもとより「孝昭天皇」(カエシネ)の皇太子、「日女命」にとって幼少期に丹後で過した夫君の弟という幼馴染の立場から非常に安定した後ろ盾を得た。この結果、嫡流王統を自負するクシトモセとそれを擁護する勢力は不満を残しつつも鳴りを潜めた。以後、「尾張氏」を遠祖にもつ「ヤマト・クニオシヒト」は、ヤマト王権(邪馬台国王)の政治の主宰者たる姿勢を堂々と振る舞い、大宰の府「伊都国」を抑え諸邑の族長(豪族)も統属せしめた。女王「日女命」もまた倭国連合の象徴的盟主として対外的顔をもって振る舞い祭政全般を総攬した。そうした連携のもとで権威のスミワケを行い以て皇統分裂の危うさを防ぎ、倭国連合の秩序と統制を巧みに図った。
AD204年、公孫康は帯方郡へ侵攻、その地に集住する倭人らを捕えて支配下に置いた。この事態に憂慮した朝堂はメンバーも次世代へと様変わりし、邇支倍(倭氏)・豊御気主(三輪氏)・大矢口宿禰(物部氏)・建田背(尾張氏)らが上席を占めて朝議を図った。

『魏志倭人伝』 有男弟佐治国 自為王以来少有見者 以婢千人自侍唯 有男子一人給食伝辞出入居処宮室 楼観城柵厳設 常有人持兵守備・・・ ここにいう「有男弟佐治国」とは言うまでもなく「ヤマト・クニオシヒト」その人を指し、「有男子一人給食辞出入居処宮室」とは、忘れ形見「アマ・クニオシヒト」の独り息子であり同時に女王の皇子でもあるこの時(201年)11歳になっていた「和邇日子押人」であることはいうまでもない。
時が下って正始四年(AD243年)、第二次遣魏使が五年振りに再開された。そのときの副使「掖邪狗」(ワキヤク)53歳がこの「和邇日子押人」その人であった。因みにこの年「日女命」は御年72歳、その四年後(247年)に日女命は病を得て亡くなっている。

女王「日女命」が都する国の治世とはそも、尊卑に差序ありて風俗は淫らならず、その人寿長命にして、よく租賦を収め、国々に市が立つ。盗窃や諍訟沙汰が少なく、屋室では父母兄弟臥処を異にし、その死するや棺に入れて土を封じて停喪すること十余日、喪主哭泣し、他者は歌舞飲酒してこれを弔う。気候風土は温暖にして山海の幸に恵まれ、下戸、もし大人と道路で相逢えば両手を地に拠りてこれが恭敬する様、謙虚。「一大率」は諸国を常に検察し、諸国はこれを畏憚して恭順。おしなべて人々は慎み深く誠実で温厚な16,000年の縄文人気質を引き継ぐ倭人社会がそこには醸成されていた。
(この文脈は「張政」が倭国滞在中に観察して体得した帰国報告書の内容である)

そのような都から遠く海を隔てた狗耶(くや)韓国とは一体どういう国であったか!。それは韓半島の南部から西部にかけての広い範囲の倭地を指す漢人の呼び名であった。「魏志韓伝」がいう〝帯方の南・倭に接し〟とは倭の半島での一国であることを意味した。緩やかな自治体制であったそれまでのその地は次第に北方民族から蚕食を受け、それに対抗する必要から倭の在地王族や豪族たちがそれぞれ国邑(郡落)ごとに分立して全体が弁韓加羅と呼ばれていた。その地に〚任那日本府〛が置かれたのは「一大率」同様、倭国に属するそれら郡立する国邑を結束させ、同時に倭地防衛の任に当たっていたからである。

古朝鮮における民族分布があまりにも雑多に交雑し過ぎてそのアイデンティティが特定できずに未だに不毛の国際論争に明け暮れていることは不幸というほかない。この地域はそもそも古代、漢族による相次ぐ戦乱から逃れてきた遺民・棄民・亡民たちの逃避地・安住の地であった。且つ又同時に、騎馬民族を含む北狄の雑多な異民族が寒冷地から南下してきて住み着いた言わば未開の植民地でもあった。それら複合しあう諸民族は或る時は覇を競って互いに戦い、或る時は和して同化し今日の朝鮮人の原形を為した。その中に倭地であった狗耶韓国も含まれ、時代が下って羅・唐連合による白村江の戦い(AD663年/天智2年)で倭国が敗れたとき、韓半島は初めて統一新羅の朝鮮に収斂した。この新羅は前身の辰韓のとき、秦からの亡民たちの流れ着いた地であったが既にそこはツングース系(現・ロシア沿海州)住民の先住地でもあったため秦の亡民らによる建国はできなかった。(※ 1)(※ 2)

〝三年汝に仕えれども我をあえて顧みるなし、ここにまさに汝を去り彼の楽土へ適(ゆ)かむとす、楽土楽土ここに我が所を得む〟「詩径より」 春秋時代戦乱の祖国を棄てて新天地を目指した漢詩の一節。この勇者たちは果たしてどこを目指して行ったであろうか、それにしても帯方に集住していた倭人たちもまたその後の行方が気懸かりでならない。

写真上は、5~6世紀の朝鮮半島における前方後円墳の分布を示す。前方後円墳は倭の独特の墳墓形態であり、このことから「倭の五王」の時代と時代を同じくする有力な倭人が韓半島においても縦横無尽に活躍していた様をよく物語っている。

古代の表日本というのは、今とは真逆で山陰地方から北部九州にかけてをいい、対馬海峡を挟んで対岸の狗耶韓国を包含したこのエリア一帯のことを私は 「環古代倭地圏」 と名づけている。
この海域は、倭の古代海人族にとっては倭寇同様 裏庭程度のものであった。

大和足彦国押人 (ヤマトタラシヒコ クニオシヒト) 尊
父は「孝昭天皇」、 母は「世襲足媛」、后は「日女命」の娘「押媛」。
同后との間に生まれた第二皇子が後の「孝霊天皇」になる。

諡号は、孝安 (こうあん) 天皇。 倭国連合を代表する邪馬台国女王「日女命」を補佐したヤマト王権第六代大王である。
【私論編年 AD175年~AD240年、在位40年、66歳で崩御】

(板厚30ミリ)

半島に集住する倭人社会は公孫氏の帯方郡からの更なる南下に怯えその阻止に懸命であった。ところが列島内にあっては伊香津臣(難升米の父)らが狗奴国と対立して近江湖北へ進出。同時期、吉備王国を征伐せんと日本足彦国押人の第一皇子でその名も大吉備諸進(オオキビノモロススミ)が祖父「孝昭」が平定した播磨の地に留まって戦っていた。このことが次代の皇子たちが吉備征伐へ向かう上で大いなる足場となって道を拓いてくれていた。AD225年ころ。

左図は、孝安天皇の初期の御陵絵図という。山丘に盛られた円墳がそれで直径が約12~13mの大きさ。正式呼び名を玉手丘上陵 (たまてのおかのうえのみささぎ) という。
都(室秋津島宮)の東北約2キロという極めて近い場所にその御陵は築かれた。同円墳の手前が前方部として設けられ、規模は小さいが既に初期の「前方後円墳」の原形がこのときから整えられた。 時にAD241年ころ。
左の写真は現在の孝安陵。
江戸幕府は幕末の文久年間、天皇陵の大幅な改修が行われた。
この修陵にあたって先の絵図面「御陵画帳」が描かれて現在に残った。
神武から孝元までの御陵は初期は斯くの如き規模であった。




(※ 1) 『広開土王碑』に、「百殘新羅舊是属民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」とある。訳すれば 〝そもそも新羅・百済は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(AD391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった〟 と刻字しているのである。その高句麗(BC37年建国)もまた羅・唐連合軍の攻撃によって滅ぼされ(AD668年)、それによって多くの高麗人が倭国へ逃れてきた。右は、広開土王碑とその御廟 

(※ 2) 『漢書地理志』曰く、〝夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国となる。歳時を以て来り献見す〟と。
右の鏡は、山陰宮津に鎮座まします海部氏の氏神「籠神社」(このじんじゃ)の秘宝「辺津鏡」(前漢の作)と「息津鏡」(後漢初期の作)である。このことから紀元前の出雲王朝時代よりこのかた、同王朝の係累であった海部氏らによって同時代漢へ頻繁に朝貢がなされていたことを物語る。

一方、北部九州においても神武東征の39年前(AD57年)、ヒムカ天孫の地からも後漢へ朝貢する者あり、曰く 「建武二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」 。いわゆる「漢委奴国王」の黄金の印綬を奴国の大夫自らが光武帝から賜ったとする史書「後漢書東夷伝」の一節である。右はその国宝「漢委奴国王」の実物写真。〔福岡市博物館蔵〕


            2013/6/18  M.O

2013年5月16日木曜日

宇那比姫 「女王 日女命」 【邪馬臺国 その十四】 第一章

倭人の言う神々とは、優れた人や先祖・自然・万物に宿っている精霊を対象に、それを畏れ敬い崇めるという到って素朴な信仰心に根ざしていた。日本の神道の原点もまたそこにあった。「宇那比媛」は竹野に在って「航海に携わる人々の身の安全を日夜願いつつ神に祈りを奉げていた。そして亀卜を使って航海の吉凶を占っていた。その祭祀する行為は大王家による統治する行為とはおよそかけ離れたところからはじまり、いつのころからか国邑間の利害を超越して倭国全体の五穀豊穣と国家安寧を祈る司祭主へとその姿は大きく成長していた。今、不幸にして倭国は大王家の皇位継承を巡って勢力が二分し、大陸中国においても苛政に苦しむ民衆が蜂起して国が乱れ、その間隙をぬって異民族が侵入、その脅威は倭国のすぐ足元にまで迫っていた。斯かる緊迫した乱世の中、大王家に代わる倭国統合の絆に「宇那比姫」を推挙していた「天忍男命」はこの年に亡くなり、本来大王家が担うべき内政・外交の最高裁治権者が空白のまま、平民レベルではそんなこととは関わりなく農耕・水産・交易・祭祀等々を営む人々の日々の暮らしは幸いにも一定の平安が保たれていた。 時にAD184年の頃。

「カエシネ」に近侍する大連「瀛津世襲」は父「天忍男」の意を受け継ぎ「クシトモセ」の全権「武速持」(倭氏)と和議を重ねていた。その結果、既に共立することで合意をみていた「宇那比姫」を倭国盟主の司祭王に担ぎ上げ、その下で首長会議を開き政を整え、司祭王たる「宇那比姫」がそれを神に伝えて神宣を下す!そういう形で最高裁治権者不在の空白を臨時に埋める、この豪族合議体制のもと「カエシネ」と懿徳の日嗣の御子「クシトモセ」は共に王位争いの場から退場していった。 時にAD187年。


















共立された「宇那比姫」は、神聖にして冒すべからざる司祭王となって室秋津島(現・御所市 室)の楼宮において神器「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を奥坐に祭り、倭国安危の吉凶を霊力をもって占いそのつど厳かに神意を下した。傍らには夫君「天足彦国押人 / アマタラシヒコ・クニオシヒト」が独り傅いて朝議の場とを行き交い神託を伝達する重要な役割を担った。
斯くして「宇那比姫」は、倭国連合の盟主にふさわしい 「大倭姫」 と称されるようになった。時に、AD188年。
写真上は、「大倭姫」の王宮があった秋津島の俯瞰図を示す。外部資料を引用。

AD189年、遼東太守に任命された「公孫度」は後漢の凋落をよそに楽浪郡をも席巻する勢いで独自に領土を広げていた。その結果、倭国は後漢との交流が隔絶し、楽浪の南の帯方郡に集住する倭人らも危険に晒され、その保護のため「公孫氏」が名乗る遼東王の「燕」へ遣使することをなにより急いでいた。

AD192年、倭国の新体制は漸く定着をみせ、「大倭姫」(21歳)は名実ともに倭国を代表する女王の位を戴冠し、その名を「日女命」(ヒメミコト)と改めた。この音読を異国の人は「卑弥呼」(ヒミコ)と表記した。

同年、遣燕の正使を大御食津臣(中臣氏)・副使を建斗米(尾張氏)とした。これを任命した朝議の主要メンバーは武速持(倭氏)・健甕尻/タケミカジリ(三輪氏)・瀛津世襲(尾張氏)のトロイカで「日女命」がこれを宰可した。それを受けて六見宿禰(物部氏)・大日命(大伴氏)・智名曾(紀氏)・久多美(葛木氏)などが遣燕使に随行した。遣使を受けた公孫度は、後漢臣下であったてまえ倭国へ印璽を与えることがさすがに憚られ、代わりに霊帝から下賜された中平年号の宝剣その他鉄鏡や武具類多数を授けてこれに応えた。しかし、AD205年、公孫度の嫡子「公孫康」は帯方郡を占領してそこに集住していた倭
人らを隷属下に置いた。ために倭国は「公孫氏」との関係が急速に冷え込み、それまで彼の地から輸入していた鉱物原材料は代わって狗耶韓国の地を切り拓き(半島東南部から鉄鉱石産出)移入するようになった。やがて山陰や近江からも鉄鉱石が産出されるに至った。

左の図面は2~3世紀の近江における製鉄遺跡( ○印)/鉄鉱石産出地及び鉄滓出土古墳( ● 印)/鍛冶滓出土古墳( ×印)等の分布を示す。

産出された鉄素材は舟で宇治川を下って更に木津川の支流を経てヤマトへも搬入されていた。


宇那比姫 (うなびひめ) 大国主命の六世孫
倭国30余国が共立した邪馬台国初代女王、 尊号〚日女命〛
【私論編年 AD171~AD247年、在位60年、崩御77歳】

丹波の竹野に居たころの名は宇那比姫、共立されて女王になってからは尊称「日女命」(ひめみこと)として人々から崇められる。魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」その人である。

「日女命」は、夫君「天足彦国押人」(アマタラシヒコ クニオシヒト)との間で和邇氏の祖となる「和邇日子押人」と後に孝安天皇の后になる「押媛命」を生んでいる。その「押媛命」はその次の世代で活躍する大吉備諸進と孝霊天皇をお産みになるのである。
(板厚30ミリ)

(※1) : 日本の異称「秋津島」の伝誦について、イワレヒコ」が掖上(わきがみ)の丘(写真の国見山)から廻望して西に金剛・葛城山、東に高取山、南に巨勢山、北に奈良盆地の広大な湿地帯が拓ける麓の田園風景を眺めて感歎し「妍哉乎(あなにや)、国を獲つること。内木綿(うつゆふ)の真乍(まき)国と雖も、蜻蛉(あきづ)の臀占(となめ)の如くあるかな」となぞらえた。訳すれば〝なんと素晴らしい国を得たことか、狭い国ではあるがトンボが交尾してつながっているような山々が連なっている〟の意。この「あきづ」の語源がもとで「秋津島」の国号が起こったといわれている。

(※2) : 倭の国は、鉄の移入交易こそが朝貢外交の主たる狙いであった。前漢後漢を通して農耕器具の素材として中国の鋳造鋳鉄を大量に移入していた。ところが途中から「公孫氏」の「燕」が勃興してきてそれを遮ってしまった。そこで倭国は当時倭国の中の一国であった狗耶韓国からそれに代わる鉄を開発移入するようになった。こうして鉄の自給を図ったがその地がやがて北方民族(高句麗・新羅)からの侵入を受けて争いが頻繁に起こった。倭がしばしば半島出兵したのは斯かる倭人保護と失地回復が背景にあったからである。
話が前後するが鉄製武器実用の面で出雲の勢力が北部九州勢にやや後れを取っていた。そのことが北部九州勢に優位に働き神武東征軍は宇陀からの奇襲と激烈な死闘を繰り広げそれが蟻の一滴となり、それまでの巨大な出雲王朝瓦解の神話(国譲り)へと繋がった。この出雲王朝に代わる新たなヤマト王権誕生こそが我が国の開闢(有史の起源)の原点となっているのである。

(※3) :  神器「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」こそその後のヤマト王権を象徴する「三種の神器」の原点となった鏡である。 

2013/5/16       著作者     小川正武


2013年4月18日木曜日

天忍男 「大国主命の曾孫」 【邪馬臺国 その十三】 第一章

天忍男(尾張氏)は天忍人の弟。妻は葛木氏の剣根(ツルギネ)の娘「賀奈良知姫」(※ 1)。この葛木氏こそ神武軍が吉野から攻めてきたとき、姫蹈鞴五十鈴姫と五十鈴依姫をいち早く匿って庇護した云わば三輪氏にとっては命の恩人の氏族。その葛木氏が今や、王位継承を巡り三輪氏と鋭く対立する尾張氏の側に立って三輪氏と対峙していた、皮肉な巡り会わせと言わざるを得ない。

天忍男の第一子は「瀛津世襲」(オキツヨソ)、第二子は「建額赤」(タケヌカアカ)、
第三子は「世襲足媛」(ヨソタラシヒメ)。

世襲足媛はカエシネ(⑤孝昭)に入后し、瀛津世襲はカエシネの大連(最高執政官)となり、建額赤は津守氏の遠祖となって大阪湾口(住吉・浪速津)の要衝を守護した。

天忍男命(アマノオシオ) 本拠地 : 葛城高尾張邑
支配地 : 丹波の国  大国主命の曾孫
【私論編年 AD110~AD184年、75歳薨去】

旧出雲王朝の流れを汲む「天忍男」 (※ 2) は、丹波の国主としてこの地方で権勢を振るい、その版図は狗耶韓国にも及び、代々盛んに交易を行っていた (※ 3)。 その主たる移入は鉄の始発原料である鉄鉱石で、その産出地は半島の南東部と中国の東北部であった。

ところが中国では後漢「霊帝」のこの時代(在位168-189)、先代桓帝からつづく宦官の専横に不満を持つ外戚や豪族たちが相次いで政権中枢から離反、地方でも賄賂行政がはびこり苛政に苦しむ民衆たちが各地で暴動を起こしていた。そして中国の北辺や遼東では鮮卑族(内モンゴルの騎馬民族)が我が物顔に跳梁跋扈していた。そのため楽浪郡や帯方郡でも後漢の影響力が急速に衰え、それまで統制の取れていた倭国との交易も頓挫した。
一方、倭国においても大王家分裂が国内勢力を二分し、時として同族間同士で誅殺しあう場面も頻発、第五代大王「孝昭」(カエシネ)は都の不穏な状況を憂いて幼き皇子たちの身の安全を図るため后の父「天忍男」の領国丹波の海士へ一時的に避難させていた。

そうした中央の逼迫した危機を背景に、「天忍男」は大連「瀛津世襲」の下で頻繁に国邑の長老会議を開き、大王家分裂の収拾策を呼びかけた。しかし議論は紛糾すれど纏まらず物別れすること暦年、時にAD180年ころであった。糸口が見出せぬまま内乱は更に長期化した。 
写真上は、当時 鮮卑が後漢の北辺を圧迫していた図。

昔、舟泊まりの浅瀬に立つ鳥居は元来艫綱を結わえておくもので同時に航海の無事を祈る神聖な門出のシンボルでもあった。
曾祖父「天忍人」の国丹後の竹野に身を寄せていた「建斗米」の娘「宇那比姫」はいつのころからか海人(※4)たちが出航する前夜、沐浴して身を清め亀卜を読み解きその航行の安全を占うようになっていた。荒波に命を張る海の男たちは彼女の吉凶を大いに歓び畏敬し勇躍船出していった。そのうち彼女の神がかり的な霊力は津々浦々に知れ渡っていた。そして彼女が15歳のとき、彼女の祖父「天戸目」を介して従兄弟の「アマタラシヒコ クニオシヒト」18歳と竹野において婚儀が営まれた。時にAD186年であった。

そのころ、中華全土では黄巾の乱が荒れ狂い、首謀者らが相次いで成敗されていたものの政治腐敗による民衆への苛政は依然としてつづき、黄巾の残党らはこの後も広範な地域を跋扈して反乱を繰り返していた。そして遼東半島以南は後漢権力の空白地帯となりそれを埋める形で新興勢力が勃興し、倭国と後漢との交易は分断された。「天忍男」をはじめとする山陰や北部九州の豪族たちは、倭国を代表する大王が対外的に定まらない中、それら新たな国々との交渉が持てないジレンマを共有していた。

(板厚30ミリ) 
略奪と殺戮の地と化した大陸の荒廃ぶりを見聞きする倭の豪族たちは、その凄まじい災禍を倦み嫌い倭国大乱を一刻も早く収束すべきとする機運に満ち満ちていた。そこで「天忍男」は、分裂した大王家の統治空白を埋めるため、それに代わる大王の祭政権能からひとまず「祭」と「政」を分離して「天地自然と祖神を崇める瑞穂の国を代表する「司祭王」たるを暫定に戴き、その王を豪族連合を代表する盟主と仰ぎ、そのことで倭の求心力を図る。一方で、統治権はあくまでも大王家に帰属するものの、それは大王家が一つに収斂するまで待つことやむなしとし、この間、事実上豪族連合において「政」の機能を持たせる、この旨、天忍男のイニシアチブによって大胆な提唱がなされた。やがて倭を構成する諸豪族はこの緩衝機構を布くことで統治の空白を暫定的に埋める、そうした気運が次第に醸成されていき合意形成をみるに至るのである。
中華の易姓革命と異なり、この国の成り立ちそのものが『天神地祇が合体した血族の統合を誓約』した起源をもち、同祖二神の兄弟何れかが一方的に族滅するということがそもそも馴染まない!そういう風土をこのヤマト王権には宿していた。


ところが、それを了と為すもその司祭王となりうる肝心要の適任者は一体誰か!この問いに応えて「天忍男」は甥の孫『宇那比姫』に白羽の矢を立てて推挙した。『宇那比姫』は「大国主命」の六世孫に当たり、その血筋の高貴なことと天女の如き慈愛に満ちた存在は倭の津々浦々にも響き渡っており居並ぶ群臣豪族たちはその人選の素晴らしさに一瞬どよめきをもって迎えた。それというのも天つ神と土着の神を結びつけた嘗ての大国主命の后で大和の女主であった登美国の「御炊屋媛」(ミカシキヤヒメ)の人柄を彷彿とさせる立ち位置にあり「宇那比姫」を以てすれば、それに代わる相応しい人選は他に見当たらず、大意はごく自然に纏まりをみせていった。「天忍男」(AD184)が薨去した直後に宇那比姫は女王に推戴されて女王たる尊称「日女命」となった。

(※ 1)
万葉集にみる「奈良」の都の地名は、この葛城氏の豪族 葛木剣根の娘「賀奈良知姫」の名からとったものであろうか!天忍男はこの賀奈良知姫を娶って世襲足姫が生まれ、同姫は長じて孝昭の后に納まっている。また同姫の兄に「瀛津世襲」がいて孝昭の大連となり朝政の重鎮となっている。孝昭の事跡で針間(播磨)における伝承があちこちに見られるが父「天忍男」の本貫地(地領)が丹波国であることからその息子のオキツヨソは孝昭の勅命を奉じて丹波の南・針間に進出して版図を広げていたのではなかったか! 
(※ 2)
 天忍男が生まれる三年前、帥升が軍舟約30~50艘に生口160人を載せて後漢遣使に赴いていた。伊都~壱岐~対馬~狗耶韓国~楽浪経由で洛陽へ威風堂々の遣使、無事成功裏に凱旋、神武の前で帰国報告を奏上 (AD108) している。
天忍男の曾姪孫「和邇日子押人」は243年、第二次遣使 (副使) として魏へ朝貢している。

 (※ 3)江戸時代、北前舟が日本の海上輸送をほぼ独占していた。その本拠地は北国加賀であった。その源流は出雲・丹波・若狭の海人たちに観られる。

 (※ 4) ここで云う「海人」とは、当時の航海に命をかけた名もなき多くの舟乗りを総称する。これら海の男たちは紀元前から「環古代倭地圏」を勇躍していた。中世にも倭寇が和船で東シナ海を暴れまわっていたが、この時代もそんなに変わらない海人の猛者たちが外洋で活躍していたとは容易に理解できる。厄除け鯨面の異相した海人らは、その起源は決して半島の民でもなければ半島からの帰化人(渡来人)から為っているものではない。生っ粋の倭の海人たちから構成された海草なのである。

AD200年ころの公孫氏の時代は、狗耶韓国への組織的な異民族の南下はまだなく当時は倭の領域であった。倭の都が北九州からヤマトへ東遷したことによって相対的に都から遠く離れた狗耶の地は、王権争いに明け暮れる中央の支配権が次第に及ばなくなっていった。そして扶余族が百済建国を望み倭に対して 狗耶の地の一部割譲を願い出た、倭は友邦の契りとしてこれを与えた。転じた今日にみる韓半島の人々の先祖とはこの狗耶に留まった倭人と北方系民族とが融合していったものと観てとれるのである。

            2013/4/18    著作者 小川正武        

2013年3月22日金曜日

天足彦国押人 【邪馬臺国 その十二】 第一章



天足彦国押人命(アマタラシヒコ クニオシヒト) 
以下略して、アマ・クニオシヒトという。
カエシネ(⑤孝昭天皇)の第一皇子。母は尾張氏の世襲足媛。  
同母弟に⑥孝安天皇(ヤマトタラシヒコ クニオシヒト)がおり、その孝安の后はこのアマ・クニオシヒトの娘 押媛とされる。
【私論編年 AD168ー199年、32歳で夭逝か!】

画像は11歳のころの天足彦国押人(アマタラシヒコ・クニオシヒト)の面影を投影す。長じて宇那比姫命(ウナビヒメ)いわゆる魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」を娶る。この宇那比姫との間に生まれた児「和邇日子押人命」(ワニヒコオシヒト)は正始四年 魏へ遣使している。(AD243年)            また、この「和邇日子押人」は「宇那比媛」(日女命)が亡くなった後、再び国が乱れるなか従妹の「台与」を擁立して時局の収拾を図った。斯くして和邇氏一族にとってこのアマ・クニオシヒトは宗祖的存在となって後裔たちは大いに雄飛して栄えた。
AD179年ころ、都の騒乱をよそに天足彦国押人 11歳はその弟「後の⑥孝安天皇・当時4歳」と共に母方の祖父・天忍男(尾張氏)の領国丹波の海士(現・京丹後市久美浜)に身を預けられていた。

それと相前後して、宇那比姫 8歳もまた都ヤマトの地を離れて曾祖父の地・天忍人(天忍男の兄)の領国丹後の竹野(タカノ)の府で同じく大切に庇護されていた。どちらの地にも海に近い良好な河川の津があり紀元前から狗耶(半島の倭地で、任那へ発展する原形の地でもある)の倭人らとも、鉄・銅・珪砂などの原材料と海産乾物・宝飾・土器・雑絹…など多岐にわたって交易がなされていた。中国王莽の「新」(AD8~23)で鋳造された貨幣「貨泉」が山陰函石浜遺跡から出土しているが、そこからも貨泉を用いた盛んな交易の様子が窺い知れる。厄除け文身した逞しくも勇ましい海の男たちの荒い息吹がいまにも川津の向こうから聞こえてきそうではないか。

〈※1〉出雲王朝の時代、山陰は青銅文化圏として大いに栄えていたがヒムカ天孫族が畿内に持ち込んだ鉄器文化によって脆くも戦いに破れ、以後山陰や大和の諸豪族らも以前にも増して競って半島から鉄を移入するようになり、その後、鉄は近江からも産するのを観て物部氏や和邇氏らは競って同地へ進出し直接調達できるようにもなった。

ところで「出雲醜の変」とは一体どういうものであったか、その真相を顧みてみよう。 一言でいうなら、それは大王位を巡る「三輪氏」と「尾張氏」との抜き差し為らない確執、深刻な覇権争いにほかならなかった。言い換えれば母系嫡流嫡孫に固執する三輪氏と、古来からの伝統である末子継承の慣習に拘る尾張氏との豪族間同士の立場の相違からくる大王位を巡る継嗣継承争いであった。物部氏の出雲醜はその渦中に巻き込まれて難しい選択を迫られた大臣であった。この三者は何れも先祖を遡れば大国主命に辿りつく皆兄弟たちであった。「三輪氏」は大国主命の第一皇子「事代主」に辿りつき、「尾張氏」は大国主命の第二皇子「味耜高彦根」に辿りつく、そして「物部氏」は大国主命の第三皇子「宇摩志麻治」にたどり着くのである。これら兄弟氏族らは「長髄彦」の妹君「御炊屋媛」の遺訓に背かず忠実に大王家に仕えて、その勢力の消長をかけて互いに繁栄を競い合っていた親族らであったのだ。

〈※2〉大王位の末子継承は遠く筑紫ヒムカ天孫族からつづく習わしであった。現にイワレヒコ(神武)は末子であった。イワレヒコの兄たちはイワレヒコの楯となって戦場で亡くなっている。このアマ・クニオシヒトも同様、弟のヤマト・クニオシヒト(⑥孝安天皇)の方が優先して大王位を継ぐ仕来たりに遵っていた。

(板厚30ミリ)

そして、出雲醜は大王家分裂の収拾を果たせぬままAD183年ころ薨去した。


2013/3/22  著者 小川正武