2015年1月1日木曜日

塞曹掾史 「張政」 【巻向王統 その2】 第二章

           

帯方郡太守「王頎」(キ)は塞曹掾史(さいそうえんし)「張政」を倭へ遣わし、因って詔書・黄幢を「難升米」に拝仮せしめ、檄をつくりこれを告諭した。時に正始八年(AD247年)〚魏志倭人伝〛の一節、

その前年、倭は郡へ遣いを使わし正治六年遣使が実行に到らなかった状を説明した。これを遣わした人物は、孝霊の叔父で時の政治権力の中枢にいた女王卑弥呼の息子にして魏の率善中郎将の肩書をもつ大夫「掖邪狗」その人であった。〝倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯・烏越等らを遣わし郡へ詣り、相攻撃する状を説く・・〟これを遣わした真の執権者は正にこの稚押彦こと女王日女命の息子「和邇日子押人」(57歳)その人であり、この人物を置いて他にはいない。

魏は「親魏倭王」が遣わした弁明使の報に接するや倭へのその後の動きは迅速であった、それはなぜか?。
半島で諸韓が再三魏に反抗する中、東南大海の倭との連携はそれゆえに戦略的価値が高く藩屏たるを期待した。・・であるにも拘らず先の半島二郡の非常時に倭が全く動かずその期待が見事に外れた。倭は倭で、倭が動けなかった尤もな理由として狗奴国との相攻撃の状を掲げて言い訳とした。
魏は、その真偽を確かめるため張政を倭へ急派させたのである。

遼東の高句麗軍を「王頎」将軍が南から、「毌丘倹」将軍が北から挟撃してこれを撃退した。その戦功によって王頎は「弓遵」亡き後を継いで帯方郡太守に親任された。倭の弁明使が詣郡したのはその王頎が着任した時期とほぼ重なる。
「王頎」は皇帝の勅許を仰ぐべく直ちに官都へ上り倭の状を報告、「曹芳小帝」の執政「曹爽」は、皇帝の名において二年前 郡に留め置かれていた「詔書・黄幢」を改めて王頎に付し、遣倭を裁可。郡治へ戻った王頎は直ちに塞曹掾史「張政」に託して倭へ遣わした。

この「張政」(38歳)の使命は邪馬台国へ到着してからその性質が大きく変遷した。即ち・・・、
張政ら一行は、先の魏使「梯儁」同様、難波津の内湾に南接する邸閣 難波館(なにはのむつみ/外交官舎) に投じて在地豪族「河内氏」の歓待を受けた。時に正始八年秋。(※ 1)
率善中郎将「難升米」こと中臣の「梨迹臣」(56歳)は、その報に接するやいち早く磯城の都から駆けつけて來使一行をもてなしその労をねぎらった。張政は、真っ先に女王「卑弥呼」(日女命)を室秋津洲宮へ表敬したい旨強く望んだ。しかし同女王は既に病に伏して久しく今日明日をも知れぬ重篤の身であった為、張政はこれを断念する仕儀となり卑弥呼引見の栄誉を永遠に失った。そして同女王の皇子「根子彦太瓊」(孝霊) が磯城に遷都して政を執っていることを改めて知った。

張政來倭を遡ること九年前、倭は「難升米」を正使とする遣使朝貢を壮挙した。それが偶然にも戦中遣使であったため魏の明帝曹叡は悦し、大夫「難升米」に一軍の将たる「率善中郎将」の位階を与え魏の藩屏としてこれを組み込んだ。次いで二年後、「梯儁」が來倭して卑弥呼へ「親魏倭王」の印綬を齎し魏の同盟国にこれまた組みこんだ。その梯儁は半島から渡海途上「伊都国」に寄留してそこが近隣諸国が畏憚する倭の副都であり一大軍事拠点であることを突止め、〝半島で一朝有事があればこの倭の軍事支援が大いに期待できる〟ものと踏んで本国魏へその旨帰朝報告を行っていた。

「張政」が倭へ齎したそも「詔書・黄幢」とは、二年前の正始六年当時の半島騒乱状態をそのままに、その主意はそれを反映して率善中郎将に対し辰韓攻撃への指揮権授与と出兵督促であった。決して倭使「載斯・烏越」が説く「狗奴国」へ向けた倭国支援を謳った内容ではなかった。ここに魏と倭の齟齬が生じ、その思惑違いが内在したまま魏使「張政」の今次來倭となっていた。

「張政」來倭の最大のイベントは云うまでもなく率善中郎将「難升米」へ授ける詔書・黄幢拝仮の儀であり、倭は朝野を挙げて歓迎し直ぐにも式典を開催してくれるものと思っていた。倭は倭で〝魏による狗奴国へ向けた倭国支援の強烈な示威表明〟を謳い奉ろわぬ国への威圧喧伝を為すべく急遽倭へ使いを遣わしてくれたものと思い込んでいた。

ところが豈図らんや蓋を開けてみれば双方ともに大きく当てが外れて状況が一変した。即ち、邪馬台国では孝霊朝の宮都「磯城」と懿徳の後裔が本拠地とする「巻向」が互いに王統の正当性を掲げて鋭く対立、皇位争乱の様相を呈しておりその張りつめた緊迫感からとても華やいだ式典が挙行できる環境ではなかった。片や、魏使「張政」の奉遣目的が「親魏倭王」を差し置いた倭国臣下の「難升米」であることに倭は訝り怪しみ、しかもその詔書・黄幢が必ずしも「狗奴国対応」 に向けられたものでないことへの違和感に一層困惑し、その外交的扱いに苦慮して慶賀すべき筈の祝典は全く目途が立たないまま行事は頓挫してしまった。

糅てて加えて難波館で待機していた張政の下へ女王「卑弥呼」崩御の知らせが届き、しかもその驚きは更に君臣の上下関係にも及び、副使「都市牛利」や「掖邪狗」が正使「難升米」や「伊聲耆」に上位する時の支配者であったことを間もなく目の当たりにするのである。(※ 2)

〝卑弥呼以て死す〟「日女命」は室秋津洲宮で伏して七年、77歳の生涯を静かに閉じた。日女命が病めるその間、日女命の孫「孝霊」が事実上の譲位を承けて践祚、都を磯城に移して早や数年が過ぎていた。日女命歿して後、殯(もがり)は一年余つづきその後 遺骸は夫や男弟「孝安」が埋葬されている聖なる山丘、玉手丘(たまてのおか)に篤く葬られた。(※ 3)

掖邪狗こと「和邇日子押人」は都「磯城」に在って甥「孝霊」の後ろ盾となっていた。和邇日子押人の従兄弟「建諸隅」(都市牛利)は山城の水主邑に本営を置き、玖賀国(狗奴国)と対峙していた。一方、孝霊と対立する「大彦・彦大日日」兄弟は物部の「大矢口宿禰」を外祖父にもち、巻向から磐余に跨る大和盆地東南部を根城に国造「倭氏」の積極的な庇護の下、とくに「日女命」が崩じた後は大義名分を失った孝霊に対し、懿徳後裔の若き皇子たちは皇位奪還の抑えがたい衝動にかられてその血気は沸点にまで達していた。ここに尾張氏・葛城氏VS物部氏・倭氏の豪族間同士の亀裂が深まり一触即発の緊張を孕ませていた。 (※ 〝掖邪狗〟ワキヤクは和邇日子押人の音韻ワニヒコを漢人が転化して書き留めたもの。)


「天津彦根 裔」三上氏系譜と『旧事本紀』との間で物部氏の「大矢口宿禰」を巡って大きな相違が観られる。ために伝承考古学においてもこんにち相当混乱を来している。そこで私なりに異なる視点から、その存在を以下のごとく浮き彫りにした。
上図 [別紙-5]〚私論 大王と物部氏の関係図を表す。 

先ず『旧』「天孫本紀」では、ウマシマチ(物部氏祖)の子がヒコユキで、ヒコユキの児がイズモシコと異母弟のイズシココロを標す。「大矢口宿禰」はそのイズシココロを父に冠し、ウツシコオ・ウツシコメ・オオヘソキを儲けている。
ところが『三上氏』系譜 [別紙-6] においては父が異なりヒコユキの子が大禰で大禰の児がイズモシコとイズシココロとなる。だが両系譜とも共通して〝「出雲醜」が懿徳朝(期)の大臣〟であり、〝「出石心」が孝昭朝(期)の大臣〟ということで互いに両者で相違はない。だが「内色許雄」「内色許謎」「大綜杵」「大峯大尼」の父が誰であるのかで両系譜は異なる。ではそのことで伝承考古学において何が問題で何に混乱しているのであろうか・・?。
その答えを出す前に、まず大王治世の期間(年代区分)とそれに対応する物部氏歴代宗主各々の年代とが互いに合致しているかどうか綿密に精査することから始めなければこのことはなにも理解できない。
「内(欝)色許雄」は云うまでもなく孝元の大臣である。その妹「内(欝)色許謎」は⑩崇神にとっては祖母に当たり、崇神はこの祖母のことを尊んで太皇太后の称号を賜り寿ぐのである。さらに内色許謎の異母弟にあたる「大綜杵」もまたその娘「伊香色謎」を開化に入后させ「崇神」の外祖父となり、自身も開化朝(期)の大臣に列するのである。
・・ つまり 「出石心」 の活躍した⑤孝昭の時代 (AD180年代) から出石心の子らは⑥「孝安」治世60年間を一挙に飛び越えてその主たる活躍の場を⑨開化の時代 (AD260年代前後) へ移っているのである。即ち「三上氏」系譜ではこの間の一世代が完全に抜け落ちている。この故意に削除された一世代の空白期間にいったい何が起こっていたのか、そこにこそ真実が潜んでいるのではないか!

然らば、この孝昭から開化へと繋がる物部氏を中継ぎした長期安定政権孝安朝を埋める物部氏の嫡宗(首長)はいったい誰か !  しかもこの人物は好むと好まざるとに関わらず時の皇位抗争に深く関わり、開化の王統回天〚嫡統王家の交代〛への過程を布石しはしなくも短命で終わった尾張系大王「孝元」につづく新たな物部系大王誕生の礎石ともなった孝霊朝(期)における物部氏の重鎮である。
日本古代史に今以て埋もれたまま誰もそのことに気付いていないこの巨大な人物は、さしずめ8世紀初頭に絶大な権力を誇った「藤原不比等」にも匹敵する。しかも不比等はこの人物を意識して 日本紀 編纂に恣意的に深く関わっていた節さえ窺える。その恣意とは、乙巳の変で蘇我蝦夷 (大臣) がそれまでの天皇記や上古歴史書を焼却したことでそれを勿怪の幸いに不都合な真実や系譜の改竄をこのとき大胆にも断行したことを指す。これを詳しく語る紙面は茲にはない。

その名を挙げるのに『旧』「天孫本紀」はなんの蟠りもなく「大矢口宿禰」の名を標している。ところが肝心かなめの『記紀』や「三上氏」系譜ではその名が見当たらない。これはいったいどうした訳であろうか!?。

淡海(近江)の名門「三上氏」は若狭の本宗家「海部氏」の傍流であり、その「海部氏」が崇神朝によって滅ぼされて以後、「三上氏」は巻向王統(開化を祖とする王朝)に対してひたすら恐懼恭順の姿勢を貫き通し大彦の脅威からも免れて生き延びることができた。
物部氏嫡宗らは綏靖から孝昭までは近江へ積極進出し、淡海湖南野洲地方の支配者「三上氏」とも政略的に通婚を重ねていた。ところが〝倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず〟男弟「孝安朝」(期)の軍事の司であった物部氏当主は三上氏向背の懸念と混沌から同氏との通婚を一時絶った。為に、孝安朝期における三上氏系譜に物部氏との系脈がないのはそのためであった。

では『旧』物部氏系譜ではその間、三上氏との関係をどのように扱ったのであろうか。その繋がりを観るに、孝安朝期における大矢口宿禰の妻は三上氏の「坂戸由良都媛」 (さかとゆらとひめ) と記す。しかしこの媛は孝安期の人ではなくその先代 孝昭期の人であり、三上氏系譜に記されている「出石心」の妻であることに蓋然性をもつ。ならば大矢口宿禰の妻が同媛でないというならいったい誰が大矢口宿禰の妻であったのであろうか?。またどうして大矢口宿禰はその妻の名を隠さなければならなかったのであろうか?正史を編纂する上で不都合な真実がここにも潜んでいるのである。

『旧』「天孫本紀」では大矢口宿禰は妻「坂戸由良都媛」との間に「鬱色男」「鬱色謎」「大綜杵」「大峯大尼」の四子を儲けたと標すが、諄いようであるが「坂戸由良都媛」は大矢口宿禰の父「出石心」の妻であるから当然のこと大矢口宿禰の兒の生母ではない。私に確証はないが物部氏の当主「大矢口宿禰」の妻は「日女命」の異母姉「葛木高田姫」ではないかと思っている。同姫は同時に尾張氏当主「建田背」の異母妹でもあり、宇那比姫こと尊称「邪馬台国女王日女命」は改めて云うまでもなく建田背の同母妹という関係にある。「建田背」は「大矢口宿禰」より年長であったが大差はなく「葛木高田姫 」が物部氏当主「大矢口宿禰」の妻であることにその血統の高貴なことから何ら不自然はない。 
(※  [別紙-6] に掲げる大矢口宿禰の系譜箇所は「天璽瑞宝」から抜粋転用している。)

(※ 建田背の同母兄弟は七人で出生順に、建宇那比・建多乎利・建彌阿久良・建麻利尼・建手和邇・宇那比姫・母は紀伊氏の中名草姫/建田背の異母妹は葛城高田姫・同姫の母は葛城氏の避姫)
蛇足であるが女王「日女命」の生母が紀伊氏の中名草姫ということで思わず連想してしまうのが、その五代前の神武東征砌、神武が浪速で敗退して命辛々和歌ノ浦へ漂着し、その地の名草邑で壮絶な殺戮を繰り広げて兵糧を奪い名草の女酋長が逆らったためその肢体を八つ裂きにして引きづりまわした、そうした忌まわしい過去が過ぎるのは私だけだろうか。これも歴史が織りなす巡り合わせか!。

既に周知のとおり『記紀』は共立女王「卑弥呼」が起立していた王朝「邪馬台国」を官撰正史から完全に抹殺している。大矢口宿禰の妻が日女命の異母姉として同正史に登場してきては甚だ困るのである。そこで『記紀』や「三上氏」系譜は意図的に「大矢口宿禰」の存在までも揉み消し標さなかったのである。
さすがに『先代旧事本紀』「天孫本紀」も卑弥呼に連なる名を標すことをはばかり苦肉にも大矢口宿禰の妻を先代が通婚した相手「坂戸由良都媛」へと巧妙にすり替え、先代当主「出石心」の妻にはこれまた窮して稚拙にも孫世代の三上氏「新河小楯媛」(しんかわこたてひめ) をもってきて糊塗した。こうした矛盾した作為的系譜を編むことによって日本の黎明期を織りなす正確な邪馬台国の痕跡を徹底して葬り去った。そして『記紀』編纂者たちは黄泉の国から今以て古代史研究に携わる多くの人々を手玉に取って高笑いしているのである!。
 
 ◆

思わぬところで紙面を割いてしまった。本題である魏使「張政」のその後を追うこととする・・。
「張政」は、苟も魏皇帝の勅使であったからこの様相を見て遣使目的不調を理由に直ちに本国へ帰還しても十分名分は立った。しかし張政の選択はそうではなかった。倭の内訌する仔細をろくに解らないまま帰朝報告するには時期尚早とみて供回りの者数人を残して後は全部郡へ還した。そして自らはこの推移を見届けて使命が無事完遂するまで居残ることを決意し、邪馬台国が置かれている国情を幅広く見聞することに力を注いだ。この滞在に最も貢献したのが河内氏で、故に河内青玉繁は娘「埴安媛」を「孝元」の下へ入妃させることができた。一方、居残った張政の帰国時の足が心配であったが伊都国の「一大率」は勅使のごとき強大な権能をもつ軍政官であったため、〝郡の倭国へ使いするや皆津に臨みて捜露(監察)し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣しめ、差錯するを得ず〟「倭人条」、伊都国と邪馬台国との交通・伝達は頻繁でまた倭と郡との交易船の往来も頻繁で、魏使「張政」の帰還に際しなんの懸念もなかった。

彼は始め郡界の守備隊長であったが後年、この倭国遣使の功績が認められ「王頎」の後を継いで帯方郡太守に封じられた。彼は倭での役割を無事果たし終えた後、「掖邪狗」らに郡まで送り届けられた。その掖邪狗ら一行はその足で更に郡から洛陽の都へ朝貢しているのである。掖邪狗は篤き人であった。
張政は倭の内訌が原因で遣使本来の目的がなかなか果たせぬまま「邪馬台国」に足かけ三年間も留まった。その間、河内の難波館に仮住まいし畿内各地の状況をつぶさに見てまわり見聞を広げていた。今でいう情報収集であろうか。こうした異例で特異な行動が許されたのは掖邪狗の保護下にあったからに外ならず、張政を郡へ直接送り届けたことで魏の倭への疑念も氷解し、張政の長年の努力も報われた。張政が倭を去る時、河内で儲けたハーフ一児を残して還った。その児は掖邪狗が引き取って取り立てた。これは我がロマンに留めおく。
    塞曹掾史「張政」の『詔書・黄幢』 奉遣拝仮の儀  (板厚30ミリ)

※ 來倭した勅使は皇帝を代理して倭国王と直接接見することができる。ところが建中校尉「梯儁」や塞曹掾史「張政」は帯方郡の一官吏に過ぎず、その実態は使節一行を取り仕切る統括責任者であった筈だ(勅使といえどもその管轄下にあった)。では肝心かなめの勅使は誰か?「魏志倭人伝」のどこにもその名が記されていない、やむなく私は「梯儁」や「張政」を勅使に仮託して説明してきた


(※ 1) 河内氏の領域は今でいう東大阪から藤井寺それに富田林の石川流域にまたがる一大勢力で、漁労が盛んで御食国の一つとして塩や海産物を主に皇都へ貢納していた。此度は遣使一向饗応の大役をも併せ持ち務めていた。その領袖は河内青玉繁で、翌年その娘「埴安媛」を孝元のもとへ納めやがて孝元第一皇子「武埴安彦」の外祖父となった。後年、この武埴安彦は「開化」によって簒奪された王権の奪還を企てて立ち上がるが崇神朝によってあえなく潰え去った。

(※ 2) 第一次副使「都市牛利」は女王日女命の甥「建諸隅」(当時40歳)であり、第二次副使の「掖邪狗」は日女命の息子「和邇日子押人」(当時53歳)であった。この二人は当時の政を司る邪馬台国きっての最高実力者で双璧をなし、にも拘らず第一次正使「難升米」こと中臣の「梨迹臣」(当時47歳)と第二次正使「伊聲耆」こと中臣の「伊世理」(当時48歳)の異母兄弟は共にその臣下でありながら正使を努めるという奇妙な関係であった。このことは中臣本宗家が代々朝貢正使を司る慣わしであったことを意味する。遠くは奴国を与る漢委奴国王「天児屋根」がいて、その子「天押雲」もまた倭国王「升帥」として朝貢正使を努め、転じて「建御雷」となって神話の世界にも現れ、その兒「天種子」は神武に供奉して東行し、軍神「建御雷」は東行する神武らを国許から援けた。
(この項、第一章・邪馬台国【その一】から抜粋)
因みに詣郡(AD246年)の正使「載斯」は梨迹臣の子「建御世狭名」であり、副使「烏越」が建諸隅の子で若き日の「日本得魂」であったであろう。唯、人の世の変転は目まぐるしく、この日本得魂も和邇日子押人の子「彦国姥津彦」も「開化」の王権奪取(嫡宗王統の交代)の煽りを食って臣籍降下となった。私はこれを〚開化の回天〛と仮称する。

(※ 3) 女王「日女命」の御陵地を特定する。
写真左は、女王「日女命」の宮都「室秋津洲宮」から東へ約1~1.5キロ隔てた小高い山、聖なる玉手丘(たまてのおか)が連なる全体の俯瞰図である。この近くには神武が国見した伝承の国見山がありヤマトタケルの御陵もある。そしてその北の端には日女命の男弟「孝安」が眠る御陵があり、孝安の兄で日女命の夫である「天
足彦国押人」もその近くで眠る。そして日女命も同様、その傍らで篤く葬られた。日女命の遺骸は長い殯の末、干からびて一回り小さくなっていたが死してなお不思議な霊力を放し続けて見る人を畏怖させた。
(山陵図と写真は外部資料引用)
その埋葬された陵形は山肌を剥いだ後にその山全体を円錐台に整形を施し、その中腹に方形の台座をしつらえて、その台座の上で嘗て傅いていた大勢の侍女や巫女たちが日々入れ代わり立ち代わり歌舞音曲を奏でて「日女命」の霊を慰め詣らせ祀っていた。この情景を彼方で弔意遥拝しながら見ていた張政は〝徇葬者奴婢百餘人〟と表現した。この徇は殉ではなく日女命を奉斎する祭祀一団の様子を描いた意味であり曰く、〝その死するや棺有れども槨無く、土を封じてツカを作る・・喪主哭泣して他人就いて歌舞飲酒す〟とはまさに当時の倭の普遍的な葬送風景にして女王日女命の死もまたそれの桁外れに大規模なものであり、これを以て奴婢百余人〝殉死〟と解するのはそもそも倭の風俗に馴染まない。


『日女命』以前のそれまでの大王たちの御陵墓は、単に山丘の頂に円墳を造営して埋葬し祀っていたに過ぎない。ところが神宿る〝司祭王日女命〟が崩御したとき人々はその死を非常に不吉な前兆と畏怖し、朝な夕なに陵前で奉祭する行事を怠らなかった。そのとき始めてその大いなる行事に足る広さの台地(鎮魂祭礼の場)を必要とし新たに人工の方形台地を前方部に付け加えた。これが前方後円墳のそもそもの始まりであり、このことを巨視的に捉えれば弥生時代から古墳時代へのエポックメーキングを画期する象徴的出来事となった。即ち、日本独特の特異な陵形をもつ原点原形はここかにはじまったのである


それにしても魏の蔑字は気になる。その源は儒教と神道の文化的風土の違いからくる彼らの持つ異教への嫌悪感・優越感に由来する。まぁ比喩すれば異教ゆえに互いに相手を嫌うのと同質で唯々失笑する外ない。少なくとも日本人は八百万に神が宿る素朴な自然信仰に根差しており、太陽や悠久の山河・先祖・ありとあらゆる神羅万象が畏敬と祈りの対象であり、彼らの因って立つ拠りどころと比べてみてもその精神の高邁さにおいて遥かに超然的で崇高ですらある。

(本項〚別紙-5〛の「彦太忍信」は音読みであるが訓読みでは「ひこふつおしのまこと」と呼称する)

2015年1月1日   著作者  小川正武

2014年8月15日金曜日

孝霊天皇 「ネコヒコフト二」 【巻向王統 その1】 第二章

         

卑弥呼と卑弥弓呼!
この二人は元を質せば〚味耜高彦根〛を祖とする同族であった。
※ 本稿第一章【邪馬臺国 その十九】[別紙-2] に示す系譜の宇那比姫こと女王戴冠後の尊称「日女命」(ヒメミコト)は、魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」その人である。

「卑弥呼」は我が意訳するところ「日の御子」であり、 「日御子」「日巫女」に通じ、即ち 邪馬台国女王「日女命」(ヒメミコト)なのである。
「卑弥弓呼」も同様「日の御彦」であり、「日御彦」に通じ、若狭の国(玖賀国)の男王、即ち 魏志倭人伝に出てくる「狗奴国」男王「ヒミヒコ」なのである。

この二人は敵対していた。
敵対していたが邪馬台国はなぜかこの狗奴国男王のことを畏れて卑弥弓呼 即ち〚日御彦〛(ヒミヒコ) と尊称していた。これは一体どうしたわけであろうか。

女王「日女命」の御世、同女王の兄で大和葛城の高尾張邑に本拠を置く尾張氏の当主「建田背」は豪族連合の頂点に立つリーダー的存在で同時に丹波の国主でもあった。
片や若狭の国の男王「日御彦」は「天御蔭」の曽孫で「海部氏」と称し、尾張氏とは「天村雲」を共に父に戴く異母兄弟でかつまた長子であった。ところが邪馬台国女王「日女命」を擁立することに成功した尾張氏はヤマト王権の頂点に立ちその権能を行使して「海部氏」が領域とする加佐郡 (現在の宮津市から福知山市にかけての由良川水系一帯) を支配下に置いた。ここに邪馬台国と狗奴国の覇権争いが生じた。そして初期本宗家である「海部氏」は崇神朝に至って滅亡の悲運を辿るのである。
些か拙速ではあるがその顛末について先ずは以下要約して述べることとした。

※ 初期本宗家の「海部氏」は「天御蔭」の代で児が分岐して本系を笠水彦(ウケミズヒコ)が継いで若狭の国を治め、そして海部氏傍系となった三上氏が近江へ移り住んで野洲郡を治めた。
初期本宗家の「海部氏」から分岐した「三上氏」は幸いにもヤマト王権との覇権争いから難を免れ後代になってから「神功皇后」を輩出するに至った。その神功皇后に仕えたのが「日女命」五世孫の「武振熊」とその子で、この親子は開化を祖とする巻向王統を討伐した第一等の戦功によって「神功・武内宿禰」から一旦廃姓とされていた「海部氏」に替えて「海部直」を定めて賜り、本系「海部氏」の支配地だった若狭の国に加えて丹波・但馬の国までも引き継ぐこととなった。この後継「海部直」の出自は従って日女命系「和爾氏」であって本系「海部氏」とは血脈を異にしていた。このため天橋立の「元伊勢籠神社」が伝える国宝『海部氏本系図』にはこの間の四世孫から「武振熊」までの系譜が威圧的に削除させられていた。削除された側は削除された命の名は分かっていても公にすることが憚られ恐懼した。ここにヤマト王権は本系「海部氏」を滅ぼした不都合な真実を覆い隠した。本系「海部氏」と争った「尾張氏」は元を質せば本系「海部氏」と同根であった。皮肉にもこの一連の争いの責めを負う形で崇神朝を経た後の「尾張氏」本宗家は丹波から伊賀~愛知尾張へとその支配地を替え、その嘗ての栄光ある勢威は急速に衰えを見せるのである。

若狭の国 狗奴国男王「日御彦」(卑弥弓呼)の始祖は天御蔭の祖父「味耜高彦根」である。味耜高彦根は出雲王朝を出自とする丹波の王で、神武のヤマト王権を必ずしも奉ろわぬ王として最後まで抵抗した王であった。 (※ 1)
※ 本稿第一章【邪馬臺国 その六】 アジスキタカヒコネ 「尾張氏の始祖」の段でその人となりは詳しく記している。

その血を伝統的に引き継ぎ、丹後半島東海岸を含む敦賀湾岸一帯とその内陸、および大江山を含む由良川水系を支配地としていたのがこの本系「海部氏」の玖賀国男王「日御彦」であった。その本拠地は舞鶴の青葉山麓に在った。そして建田背の息子「建諸隅」が丹波の大県主となったころ、都ヤマトと丹波の府を結ぶ丹波道が日御彦が領域とする由良川水系と重なり合いその支配地を巡る争いが更に激しさを増した。そしてその境界領有を巡って双方が雌雄を決する骨肉相食む争いに発展するのである。

※ 日御彦がもしヤマト王権に帰属していた王であったならこうした確執は起こらず、日御彦はさっさと支配地をヤマトへ返納して恭順していたことであろう。逆説的であるがヤマト王権とは対等の独立した王国であったため双方譲れない大きな争いとなった。即ちヤマト王権を奉ろわぬ出雲王朝最後の末裔たちとヤマト王権 (邪馬臺国) との攻防であったのだ。
ただ単に出雲王朝がヤマト王権へ国譲りしたと紐解く神話ほどに史実はそう単純ではなかった。
(※ 1) 「天御蔭」は少なくとも「神武」の孫世代に相当する人物である。このことにまず注意を払うべきではないか。
天御蔭が幼児期に最晩年の歳老いた神武に知古を得て接触を重ねる蓋然性はまずない。天御蔭は「安寧」御世の人で神武が崩じた後に生まれてきた人である。神武が行幸先で出会ったという美しくうら若き女性、豊御富(とよみほ)に言葉をかけるが、その女性を天御蔭が娶ったという『記紀』伝承に私は混乱する  。その混乱は天御蔭が豊御富を娶ったからではなく、その場面に「神武」が時代を超越して幽幻と登場してくることの異世代間挿話への混乱である。[別紙-2]

『記紀』思想に流れる観念は、一貫して単純化した男子一系の高貴で麗しい歴史を描いている。男子一系であったが故のつじつま合わせが上記混乱を招き、重要な系譜の意図的削除や恣意的造作がそこここに見られる。そう!私も男子一系になんの異論もないがその経緯がそんなに生易しく綺麗ごとでは済まされなかったことを歴史の真実は如実に訴えている、そして天皇を祖先に戴く後裔氏族たちが互いの皇統の正当性を競い合った過去2000年間の中で今日に見る万世一系へと収斂していったものと考える。

時代をAD245年に戻す。
この年は魏の正治六年に相当し、前年 魏は西で蜀漢征伐に惨敗を喫し、東では高句麗による嶺東情勢が緊迫し、帯方郡においても東濊・辰韓の対応に迫られていた。この状況から帯方郡太守「弓遵」は倭への南からの策動を促していたが、その最中に崎離営で戦死した。

では倭ではその当時どういう状況であったか!と言えば、日女命(卑弥呼) の甥「建諸隅」47歳は頂点を極めていたものの、都 ヤマトと丹波の国府に繋がる丹波道を遮る玖賀国(狗奴国)に対してその支配権を巡って争っていた最中であった(別紙-4)。

そして「孝霊」38歳は父 孝安が崩じた後を継いで磯城の黒田庵戸宮(くろだのいおとのみや)に遷りその地で政を布いた。しかし、日女命が倒れて男弟の任を離れた孝霊の立場は、共立女王卑弥呼擁立時の「男弟ありて佐けて国を治」める大義名分が損なわれその正当性について懿徳王統の大彦23歳と開化20歳から疑義が惹起され、「孝霊」は単なる傀儡と捉えて物部氏と倭氏の力を背景に現体制への異議申立てを声高に唱えながら対立姿勢を露わにして不穏な動きを見せていた。とても遣使どころではなかったのである。

写真左は唐子・鍵遺跡である。孝霊の都する所であり皇后出自の地でもあった。当時の環濠集落としては国内最大で日女命の王宮「室秋津洲宮」からは北北東約12キロの距離を隔てて所在していた。
「建諸隅」は第一次魏朝遣使を務めた人物で大陸情勢に通じた国際人であった。それが狗奴国との争いに力を削がれ、都の護りがとかく手薄となっていた。
先帝「孝安」がまだ幼かったころ、その兄「天足彦国押人」と従妹の宇那比媛(日女命)がそれぞれ丹波に身を寄せていた。ところが今日に見る「孝霊」の娘「倭迹迹日百襲姫」 8才はその地へ行くことが叶わず、讃岐の水主(みずし)で身を隠していた。讃岐の水主邑(現在の東かがわ市)は伯父「建諸隅」の本営する山城国久世水主邑とも相通じる地名で同姫の終焉の地ともなったことからこの二つの邑の由縁を敢えて探るなら百襲姫の母「倭国香姫」は建諸隅の妹にして、その紐帯から両地を同名にして孤立する百襲姫との連帯を確かめ合っていた、そう私は解する。また同姫の同母弟 彦五十狭芹彦(吉備津彦) 6才は伯父「大吉備諸進」の播磨本営で匿われていた。そうした暗雲たなびく中、立太子を翌年に控えた「彦国牽」(ヒコクニクル)後の孝元 15才はとかく病弱であったが都に留まり和邇日子押人らに護られていた。この和邇日子押人もまた第二次魏朝遣使の副使(掖邪狗)を務めていた。そのときの正使は「伊聲耆」こと中臣氏の「伊世理」であった。その伊世理の父「伊香津臣」は近江湖北に在って「建諸隅」と呼応して北の狗奴国と対峙しつつ、狗奴国の傍系である南の三上氏ともその寝返りを恐れて警戒に当たっていた。(※ 2)
これが245年当時の都 磯城黒田庵戸宮 (※ 3) を取り巻く周辺情勢であった。

(※ 2)
遣使は上古からの慣わしにつづく中臣氏の専権であった。第一次も第二次も魏への朝貢は正使として前面に立って務めていた。第一次正使は「伊世理」の兄「難升米」こと「梨迹臣」であった。この慣例は遠く前漢から続いていたものでありAD57年の後漢入貢の大夫「奴国王」もAD107年の倭国王「帥升」もそれぞれ倭の全権を付託された臣下中臣氏の慣わしであった。このことは、神武東遷後も変わらない本系中臣氏の栄誉であった。更に申せば、物部氏は軍事を司る世襲家であり倭氏は一大率を含む各地国府を統括する司であった。その中で尾張氏は女王「日女命」を輩出した貴族で、ゆえに天子を戴く司の総裁の地位に就けた。ここに、物部氏はいつか尾張氏の地位に取って代わらんとする強い意志が働き、懿徳の血を引く彦大日日(開化)を担ぎ上げんとする伏線を忍ばせた。即ち、孝霊に仕える物部氏の大矢口宿禰は娘の欝色謎を没落して顧みられなくなっていた貴種「奇友背二世」に嫁がせて生ませたのが彦大日日であり、その遠謀は更に同宿禰の孫娘 伊香色謎を彦大日日と同世代の孝元に納め、皇統譜八代目にして漸く尾張氏に並ぶ天皇姻族を物部氏も持つに到るのである。
欝色謎は孝元の一世代前の人であり、AD245年当時はその児 大彦は既に23才、彦大日日(開化)も20才に成長しており、孝元にいたってはそれよりも更に年少の15才で、その孝元が欝色謎(48歳)を后に迎え入れんとする政略的必然性は極めて薄く、むしろ同年代の伊香色謎を入后させることで台頭してくる彦大日日や物部氏の圧力を逸らさんと図った!、そう解するのが自然ではないだろうか。 
 (第一章【邪馬臺国 その19】  私論皇統譜 ミッシングリンク  その1)  参照
ここに於いても不都合な系譜の隠蔽が『記紀』には観てとれるのである。

(※ 3)
唐古・鍵遺跡は巨大環濠を形成し水田稲作集落を営んでいた。一方、優れて工人工房も多数存在していた。人々はみな神の恵みに感謝して銅鐸・鏡・ヒスイなどの祭祀具を加工鋳造しながら自らも用いて祈りと祭りを朝な夕な行っていた。中でもとりわけ注目すべきは仿製鏡である三角縁神獣鏡の製作を一手に担い各地の豪族へ下賜していたことである。  (前章【邪馬台国 その十七】) 参照 
そして人・物・文化が河川流域の船便を通じて頻繁に行きかい、九州・北陸・東海・関東・東北奥州・韓半島それ以遠の中国大陸とも交易が盛んに行われていた。大王の都するところに相応しい要衝の地として紀元前の古き昔から大いに栄えていたのである。

大日本根子彦太瓊尊 (オオヤマトネコヒコフト二ノミコト)
孝安天皇の第二皇子。 后は細媛命(磯城県主大目の娘)
生母は女王「日女命」の皇女「押姫」、押姫の兄が「和邇日子押人」。

孝安天皇第一皇子は「大吉備諸進」。同皇子は祖父「孝昭」の御世に播磨に進出していた地歩を引き継ぎ、父「孝安」の勅命を奉じて更に以西へと版図を広げるべく「温羅の吉備」国を攻めていた。

諡号は、孝霊(こうれい)天皇。 邪馬台国/ヤマト王権第七代大王である。
[私論編年 AD207-251年、249年退位、在位9年。45歳で崩御]
(板厚30ミリ)

※ 物部氏が皇統譜に列した時期は、九代開化が生誕した年を以て以後とみる。(AD225年)


2014/8/15     著作者 小川正武

2013年12月20日金曜日

第一章 (完) 『記紀』に疑義ありて、【邪馬臺国 その十九】 

           
女王「日女命」を輔弼してきた男弟「孝安」が66歳(AD240)で崩御した。その年、日女命は御歳70の古希を迎えようとしていた。顧みて在位53年の永きに亘る祭政を主宰してきた彼女にとって、この不二の男弟を失った痛手は爾後の重責に耐える気力を一気に縮めた。彼女は皇霊奉斎殿で倒れ、以後病床に臥せる人となった。ために、孝安の皇子「ネコ彦フト二」 (孝霊) が代わりに立って、后「細媛」(クワシヒメ)の出生の地である磯城の庵戸宮(いおとのみや)へ都を遷し、その後即位して政を執る仕儀に至った。
そして女王「日女命」といえば、室秋津洲の宮殿から東に朝日が昇る玉手丘 (たまてのおか) の頂に男弟を篤く葬り、それに連なる夫君の陵墓と共に遥拝する癒しの日々へと変わった。
しかし、その華の都の香しい平安の日々は長く続かず、大王位を巡る異なる権力のマグマがやがてこの地で噴き出してくるのである。


私は、『記紀』には幾つかの重大な改竄があって、時の権力者がその編纂過程において不都合な部分を削ぎ取り、或は隠蔽し、或は恣意的に取り繕い糊塗した、そうした不自然な矛盾を見る一人であります。
そこで私は、素人ゆえの強みを生かして、たとえアカデミズムからの論難ありと致しましても あえてそれを意に介さず、先達諸賢の深淵なご意見をも処々取り入れながら、それでもなお自らの存念に従いここに大胆に私見を述べていきたいと思う。


AD60年ころ既に、大和の登美(大和川を挟んで大和盆地北部の地)を治める「長髄彦」は、出雲の国を治める「三輪氏」や丹波の国を治める「尾張氏」らの氏族が、冬の積雪寒冷地を避けて温暖な美しまほろばの国 大和の磯城や高尾張(大和川以南の地)へ移住してきたのを受け容れていた。そうした長閑な営みがつづいた十年後、出雲の族長ニギハヤヒ(大国主命)は長髄彦の妹君『ミカシキヤ姫』との間で「宇摩志麻治」を儲けた。
『記紀』はこの時期を境に、大和へ入ってくる大和以外の人々を「神」と称え「天降る」と表現し、王に関わる個々の人々を「命」(ミコト)と敬い、大和の地を豊葦原瑞穂の国と謳った。
私は本稿ではそうした装飾敬語を極力排して、人物名だけを而も簡略化して(時には漢風諡号・和風諱号によって)記すことに心がけている。


ウマシマチが生まれてから15年後、伝え聞くその青く連なる山々に囲まれし豊穣の地を求めて、神武はその王族と家臣団を率いて筑紫のヒムカから遠く東へ船出していった (※ 1)。
それは命がけの移住であり失敗は族滅を意味した。それゆえに安芸でも吉備でも食糧の現地調達に腐心し、略奪する度に反撃に遭い、その移動の困難さに神武から離れてその地に居着く者も多く出た。激減した移住集団はそれでも神武軍に付き従い大和の入り口河内の内湾 日下へ辿り着いた。そして信貴の龍田から大和へ侵入しようとしたが道険しく引き返した。その動きを察知した長髄彦は生駒の孔舎衙坂(くさかざか)で待ち構え、攻めくる神武軍に激しく応戦してこれを撃退した。

惨敗を喫した神武軍は、兄でそれまでの統率者「五瀬」を失い、南に敗走して和歌ノ浦の名草邑で凄惨な殺戮を繰り広げて兵糧を奪い、紀南海岸を更に転々と南下した。熊野灘で暴風に巻き込まれて難破し、命からがら二木島に漂着。神武は九死に一生を得たものの残る兄弟全部をここで失い一族郎党も全滅の危機に瀕した。が、辛うじて村人(高倉下)らに助けられて息を吹き返した。やがて体力を取り戻した武装集団は海路東進を断念、残った僅か200名足らずで熊野の邑を武力制圧し、帰順してきた八咫烏(建津身)らを矢面にたてて険しい紀伊山地を縦断、吉野から大和へ侵入するのである。
[上の板図は、AD91年ころの大和盆地の勢力図を示す。長髄彦の支配地とそれと対峙した神武の侵入ルートおよび制圧圏を表す]

紀伊山地を下ってきた神武の飢餓集団は吉野川の阿田で兵量を獲得、ひとまず飢えから脱した。先年、その下流域で名草の女酋長が神武軍に逆らって肢体を八つ裂きにされた衝撃はここ川上にも既に伝わっており無防備で小さな阿田の鵜飼集落の抵抗は即邑滅を意味し否応のない帰順であった。神武はこの阿田を兵站地として押さえ、前哨戦での消耗を避けるため潜に迂回して吉野の国栖から宇陀へ侵入、穿(うかち)邑で弟猾(おとうかし)と反目しあう兄猾(えうかし)を血祭にあげ、その肢体をここでもバラバラに切り刻んで引きづり回し弟猾の反抗心を剥ぎ取り、ひなびたこの山間集落をなんなく制圧した。ついで、長髄彦の弟「安日彦/亦の名ヤソタケル」が防衛線を張る音羽三山を遠く眺めて神武は、〝いま見る細螺(しただみ/巻貝のように這い回っている敵兵のこと)を駆逐することは熊野の二木島に這い上がって一命を取り留めた我ら鬼神にとってなんでもないことだ、いざ討ちてしやまむ〟と号令一過、手薄の国見丘を目指して一気に斬りこんだ。不意を突かれた安日彦は惨殺され、音羽三山に広く薄く這い回っていた安日彦の敗残兵は抵抗することなく投降した。忍坂邑の大室に集められた投降兵らは酒を振る舞われて酔ったところを皆殺しにされた。

この一連の残虐さは孤立無援の神武軍のもつ際立った特性で、背景には敵地深く侵入し一たび崩れれば引き返すことのできない極限状況に常に曝され、絶体絶命のなか後顧の憂いを断つための情け容赦のない徹底した敵への見せしめ行為であった。
長髄彦の影響下にある大和盆地 (平野部) はその支配地に多くの有力な豪族を抱え、子女を含めて4~5万の人口を優に擁していた。そこへ僅か200名足らずが侵入(天降る)すれば如何に強力な求心力をもつ神武軍といえども一たび下手を打てば生駒の二の舞は避けられず、その生死を懸けた緊張感はこの武装集団の脳裏深くに叩き込まれた恐怖心でもあった。

安日彦(アビヒコ)を撃破した神武軍は、いよいよ大和盆地へ侵入を開始した。それを阻まんと立ちふさがった磯城の豪族兄磯城(エシキ)は磐余と墨坂に防衛線を張った。その動きを虎視眈々と注視していた神武軍は、支隊を粟原(おおはら)に進め兄磯城をそこへ誘い出し、兄磯城がそこへ移動してくるのを待って東からゲリラ戦で挑み、その間 本隊は墨坂を一撃に蹂躙し、その勢いで忍坂(おっさか)へ駆け下り背後から挟み撃ちにして一挙に殲滅した。このあまりにも酷い狂暴さに恐れをなした在地豪族らは、その被害の甚大さに癖々し、磐余に進駐してきた武装集団の居住地をそこに認めて和睦した。それが畝傍山麓の橿原であった。神武の名「磐余彦」はその地名から名づけられたものであり、「橿原の宮」はその地に常緑高木の橿の木が生い茂っていたことから名づけられたものであった。 (※ 2)
而して『記紀』の国譲り神話の核心部分はこの橿原の一角を譲られたことを以て国の始まりと捉え、神武のことを始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と謳ったのである。 もとよりその地は元々長髄彦の弟「安日彦」の支配する領域であったことは云うまでもない。 
(上の画像は、イワレヒコ/①神武)
小よく大を制した磐余彦が怨敵「長髄彦」と対峙して、これを如何に倒したか!その経緯は本稿シリーズで既に述べている。

 次に、欠史八代の疑義ある皇統譜について焦点を移したいと思う。
九州筑紫に本拠を置くヒムカ大王の孫 神武は、壮年になってから各地の支族や有力な臣下を伴って集団で東方移住を壮挙した。その人数は定かでないが、安芸・吉備に至るまでに半数が彼の地に根を下ろし(出雲侵入で亡くなった人も多くいたであろう)、難波の孔舎衙で大敗してまたその半数を失い、熊野灘の嵐に遭遇してそのまた半数を失って人数は極端に激減していた。生き残ったその武装集団は鬼神の如き団結力を発揮して吉野越えを果たし、大和盆地へ死に物狂いで乱入した。その数はたった200名足らずであったと見る。何の根拠もないが仮にそれ以上であっても以下であっても、飢えを忍び忠誠心を維持し一糸乱れぬ統率力と結束力を発揮しながら初志貫徹することは甚だ困難であったからだ。如こうして神武軍の戦いのスケールとは斯かる局地的なものに過ぎず倭国を統一する規模では到底なく、第十代崇神の断行した統治スケールからは比較にならない局所的孤立的なものであった。しかしたとえ200名足らずといえどもヒムカ大王の孫である神武の尊厳がそのために些かも損なわれることはなく、遠く筑紫の原郷ヒムカ族と繋がっていたことは言うまでもないのである。。。

・・とは言え、神武が橿原の地へ天孫降臨したからといって周囲の豪族を敵に回して更に戦うほどの余力はなく、よそ者である神武が周辺から孤立すれば忽ち自壊することは必定、それを避けんがために神武は積極的に在地豪族の娘を娶り、地元祭神を受け容れて自らが土着化して存立を図った!。神武が日向所生の妻を差し置いて「事代主」の若き姫を娶って正妻(后)としたのはそのためであった。神武軍の酒宴の唄に〝こなみ(前妻)が な(魚) こ(乞)わばたちそばの実の無けくをこきしひゑね うはなり(後妻)が な(魚) こ(乞)わば いちさかき実の多ほけくを こきだひゑね〟と囃し立てる謡あり。前妻「吾平津媛」(アヘラツヒメ)とその息子で共に東征に付き従ってきた神武の第一子 手研耳(タギシミミ)はこれをどんな気持ちで聴いていたであろうか。(※ 3)

    神武が崩御した後、手研耳(タギシミミ)は父 神武の後妻を娶り次期王位に就かんと画策した。それまで母系で繋がっていた在地習俗に背くその冒涜行為は受け容れがたく母 媛蹈鞴五十鈴媛(神武の後妻/三輪氏)の息子 渟名川耳(ヌナカワミミ)は手研耳を誅殺して自ら王位に就いた。以後、皇統譜に筑紫からの入后は絶たれた。私はこれを〚タギシミミの変〛と仮称している。(※後代、征西もしくは巡幸した天皇が九州南部の娘を妃にした例はある)
  (上の画像は第二代大王ヌナカワミミ/②綏靖)

つぎに、稿を仮称〚イズモシコの変〛に進めたい。
物部の「出雲醜」(イズモシコ)は④懿徳に仕える大臣であった。
先帝「③安寧」の御代、安寧は末子継承を往古の仕来たりに倣い「孝昭」を日嗣の御子(皇太子)と定めていた。ところが安寧が49歳(AD158)で崩御した後、事件が起こった。
 (左の画像は第三代大王タマテミ/③安寧)
皇太后になった安寧の后「渟名底仲津媛」

(ヌナソコヒメ/三輪氏)は、腹違いの皇太子「孝昭」を廃止て、吾子「懿徳」を大王位に就けたいと強く望んだ。このときの懿徳(22歳)は、既に兄の娘「天豊津媛」(17歳)を娶っていて一子「武石彦奇友背」(タケシヒコクシトモセ)までも授かっていた。
 (左の画像は第四代大王スキトモ/④懿徳)

一方、「孝昭」(20歳)は尾張氏出自の「世襲足媛/ヨソタラシヒメ」(15歳)を娶っていた。
ここに皇位争いが発生した。大臣「出雲醜」は皇太后の意を酌んで懿徳を皇位に就け
た。ところが、懿徳在位11年目(AD170)に懿徳は35歳で崩御した。そこで孝昭が王位を宣したが、大皇太后になっていたヌナソコナカツヒメは懿徳の遺児「クシトモセ/武石彦奇友背」(13歳)を強く後押しし、為に大王位空位のまま対立は激化、両派で相誅殺しあう場面がそこここで起きた。そうした混乱のさなか、太皇太后は68歳(AD177)で身罷った。
このとき孝昭(39歳)は懿徳の遺臣「出雲醜」を解任し、代わりに世襲職物部の「出石心」(イズシココロ)と后の兄「瀛津世襲」(オキツセソ)を左右に近侍させ既に20歳に成長していた懿徳の忘れ形見「クシトモセ」と激しく対立した。
これを私は〚イズモシコの変〛と名付けている。 (左の画像は、第五代大王カエシネ/⑤孝昭)

こうした国を二分する「倭国大乱」の中、中国では黄巾の乱が発生、遼東では公孫子が台頭してきて後漢の影響力が次第に後退、倭の朝貢外交が頓挫した。そうした中、大乱収拾に乗り出したのが孝昭の后の父「天忍男」(アメノオシオ)であった。

元来、この国の人々は直接対決・徹底抗争を嫌うおおらかな縄文気質をもつ民族であった。だからこそ闖入者「神武」を「大和」が受け容れて共存の道を採ったのである。その血を引き継ぐ丹波の国の支配者で尾張氏長老の「天忍男」(70歳)は豪族会議を開き、〝両派を争いから遠ざけ、大王位空位のままその間の統治権は一旦棚上げにして当面は豪族間の合議に基づく政を執り行い、大王位の帰趨は時間をかけて探ろう〟と提唱(AD180)。その間、両派の利害に関係ないワンポイントリリーフを立てて、とりあえずこの長く続く不毛の争いから脱しようと打開策を示した。そしてピンチヒッターで登場してきたのが『宇那比姫』であった。豪族から共立された宇那比姫17歳(AD188)は、ヤマトの女王「日女命」に祭り上げられ、天忍男はその日を見ることなく他界したが女王「日女命」はその後、男王にも優るとも劣らぬ働きをみせて豪族を見事にまとめあげ統治した。ここに至ってさすがの孝昭も奇友背も急速にその存在感が薄れて退位した。大王位を巡って相争った両者であったがそれを遥かに凌ぐ女王「日女命」の出現は何故に為し得たか!それは彼らの皇祖二神「アマテラス」と「大国主命」を同時に司祭する独占的権威を彼女が持ち得たからであろう。口伝社会の当時と云えどもその情報は瞬く間に全国津々浦々へ行き渡ったのである。
(上の画像は、孝昭の后の父、天忍男。日女命は曾姪孫)

女王「日女命」に仕えた男弟「日本足彦国押人」(孝安)は、日女命の義理の弟にあたり、その兄「天足彦国押人」(アマタラシヒコ クニオシヒト)は日女命の夫であった。その夫は日女命の傍らに侍してよく補佐したが32歳(AD199)という若さで亡くなった。日女命は夫との間で二子を儲けていたが僅か12年足らずの夫婦仲で夫はこの世を去った。その二子の内一人は和爾日子押人で和邇氏の祖となり、一人は孝安の后(押姫)となって第七代大王「孝霊」を生んだ。 
(※ 叔父と姪の近親婚(異世代婚)は現代では民法で禁止されている。がしかし、この時代 その王統継承の正当性を示さんがために、たとえ近親婚であっても当該貴種の血を引き継ぐことは最も重要な慣わしであった。この例は第二代「綏靖」にも当てはまることで如何にその出自の血統が大切であったかを物語っている。綏靖の后の姉が神武の后であったことからもその血脈の維持継承が皇家にとってどれほど重要であったかが窺い知れる。)
 〚上の画像は、日女命の義理の弟 「日本足彦国押人」(ヤマトタラシヒコクニオシヒト)⑥孝安〛

上の板図は、〝私論皇統譜 『記紀』の系図に改竄ありて〟の概要図を表す。以下、それを説明する。

⒈ ④代と⑤代が同世代、
⒉ ⑥代と「武石彦奇友背」が同世代、
⒊ ⑦代と奇友背の「太子」が同世代、
⒋ ⑧代と⑨代が同世代、
⒌ ⑩代と武埴安彦が同世代、
 6. ⑪代と狭穂彦が同世代、
という関係を表している。

『記紀』編纂者はこの各世代間を父子関係とし、兄弟間で熾烈な継承争いがあったこしを隠蔽した。そして年代年齢を徒に引き伸ばし『邪馬台国』を歴史から完全に葬り去った。私はこうした〝欠史八代〟といわれる皇統譜を少しでも現実的に系統だって明らかにしたい、そう思っている者の一人である。

上の板図は、〝私論皇統譜 ミッシングリンクを解明する(その 1)〟を表す。特に「クシトモセ二世」を取り巻く相関関係を描いている。同時にAD254年央の「孝元」朝から「開化」に禅譲される過渡期をも表している。

 ※ 『日本書記』は「懿徳」の后が「孝昭」を生んだという。亦 一云【天皇母弟、武石彦奇友背命】ともいう。この意味は懿徳の母「ヌナソコナカツヒメ」の弟、武石彦奇友背が孝昭の父だとも聞こえる?。だとするなら武石彦奇友背の父は必然的に鴨王ということになるから孝昭は神武の血脈から外れる!。ここに懿徳と孝昭が血脈を異にしていることを暗示する。この王統分裂はまさに懿徳と孝昭の間で起こり両者が親子関係ではなく父を同じくする異母兄弟であったことを意味した。この異母兄弟は母系直系か末子嫡系かで安寧崩御後 継嗣争いに発展、その渦中で不都合な立場に置かれた懿徳の嫡子「武石彦奇友背」が記紀編纂時の権力者らによって歴史から消し去られた。そして皇統譜における兄弟間の激しい王朝交替劇があったことをひた隠しに隠した。ところが『先代旧事本紀』「天皇本紀」や『日本書紀』は同権力者の目を畏れるがごとく また贖うがごとくその名を曖昧模糊に付記し、『古事記』もまたその欠くべからざる重要な人物「多芸志比古命」の存在を後世への手懸りとして残した。即ち、奇友背の児は物部氏の嫡女を娶りその子が第九代大王「開化」となって新たな王統「巻向王統」の開祖となるのである。

 この『記紀』編纂者たちの巧妙な系譜のすり替えを今日の権威ある史学会が認めることはまずない。なぜならそれを立証するにたる逸文が見当たらないからである。ここに趣味を生かした素人というフリーな立場から、独自見解が発表できる私の強味があった!。その強みを生かして更に大胆に申し上げるなら、列島での異民族による騎馬民族征服などというものはなかったし、九州邪馬台国もなかった。神武とそれにつづく後裔大王の貴種は悉く大国主命の閨閥やその支族苗裔たちによって独占されつづけ、遠く源郷ヒムカ族を出自とする神武一身の血は、ヤマトの地に天降ってから瞬く間に在地豪族(地祇)の中へ同化吸収されていったのである。

※ 小よく大を制したが結果は邪馬台国(大和)がヒムカ九州を併呑したことをその後の歴史は物語っている。しかし神武を祖とするこの創始血統(天皇家)は確実に現在に続いているのである。

※ではなぜ正史であるはずの『日本書紀』がこれほど重大な事実を隠さねばならなかったのか?、それは天皇を祖先とする氏族同士が互いに覇を競って争い、敗れた側が歴史の表舞台から消え去った。勝った側は正史からその痕跡を完全に葬り去りたかった!簡単に云ってしまえばそういうことに帰結する。


上図 【別紙-1】は〚(私論)初期皇統譜の流れ〛を示す。

上図 【別紙-2】は〚(私論)神武⇔孝安の地祇の流れ〛を示す。

懿徳亡き後(AD170)、その一子「クシトモセ」(13歳)の擁立派と鋭く対立する孝昭(32歳)は一歩も譲らず互いに誅殺しあう場面が何年もつづいた。そして、クシトモセ最大の後見人であった祖母の太皇太后ヌナソコナカツヒメが崩御した。力の均衡が破れて王統分裂の危機がますます迫る中、それに割って入り楔を打ち込んだのが大国主命の曽孫「天忍男」(別紙-2)であった。 そして天忍男は豪族会議を重ねて忍耐強く合意形成を図った。やがてそれが共立女王誕生に結びつき、AD188からAD247にかけて約60年間、同女王の下で長期安定政権が生まれて祭政が粛々と営まれた。この間、外交においても特筆すべき事績が今日に残されている。
然るに『記紀』はその輝かしい事績はおろか皇統譜までも〝不都合な真実〟としてこれを恣意的かつ確信的に隠蔽した。
その隠蔽とはそも一体なにを指しているのか、日女命の御代に皇統譜に一体なにが起こっていたのであろうか?!、

                ◆                      

孝昭の日嗣の御子「孝安」は、日女命の男弟として亡き兄に代わって事実上の執政を行い40年間辣腕を振るっていたが66歳(AD240)で崩じた。翌年、孝安に代わってその皇子「孝霊」(34歳)がその後を引き継ぐが、そのころ懿徳の孫「クシトモセ二世」(51才)はウマシマチの四世孫「欝色迷」(ウツシコメ)を娶っていて二子を儲けていた。兄は「大彦」(当時19歳)、弟は後の「⑨開化」(16歳)で血気盛んな青年に育っていた。一方、孝霊にも日嗣の御子で後の「⑧孝元」(11歳)がいたが虚弱な面は否めず、日女命が倒れた後の孝霊専制政治に対してクシトモセ二世からの不満は次第に露わになった。孝霊治世7年目に日女命が崩じるやその喪が明けるのをまって王位継承を巡る争いが一段と高まり遂に孝霊はその坐を追われ大王位は空位同然(AD249)となった。ところが『記紀』はこの間のそうした事実は一切伏せて父子相続が恙なく連綿と続いていたことを企図し、斯かる騒乱がまるでなかったかの如く糊塗し、『クシトモセ二世』の名を『女王日女命』の名 同様その存在を系図上からも史実からも完全に消し去った。

   
物部氏は神武のヤマト王権開闢以来、大王家の九世代目にして漸く「開化」の生母となる女性「欝色迷」(ウツシコメ)を皇統譜に送り込んだのである。

左図は〚私論 皇統譜 (その2)〛を示す。
下図はその拡大図を二分割にして表しています。
『記紀』による上古天皇生歿年に関し、干支を基準とすることは凡そ有史実年とは懸け離れた神話的紀年が混濁していて採用できない。
ここに私の〚私論編年〛および〚私論 皇統譜〛が史実に相当程度の蓋然性をもつ。勿論、素人見解であるがゆえに頭から否認される識者も中にはおられるであろう。しかしそうした偏狭は史実に立脚していれば問題ではなく、私なりの所見を勇断をもって発表することはそれなりに重大な意味をもっているものと自負している。
上の板図は、〝私論皇統譜 ミッシングリンクを解明する (その2)〟を表す。

懿徳の曾孫「大彦」と「開化」の二兄弟は、その王統嫡流の正統性をかざして孝霊朝に挑み、86年前とは真逆の立場で王位奪還を目指した。この強気の背景には懿徳朝大臣「出雲醜」の姪孫「欝色謎」(物部氏)を母に戴き、同じく懿徳朝高官「武速持」を父に戴く「邇支倍」(倭氏)が同王統路線を強く支持して隠然と後ろ盾になっていたからである。
過ぐる「天忍男」のときは数年かかって事態収拾に当たったが、今回それに代わる調停者が居らず「天忍男」の曾孫「和邇日子押人」(55歳)は、孝霊に近侍していて武闘派「大彦」(23歳)と対峙して高地性和邇邑(天理の東部)に頑強な二重砦を構えて戦いに備えていた。時にAD245年央のころ。

※ 和邇日子押人はこの二年前、第二次魏朝遣使の副使(掖邪狗)を務めていた。しかしこの年の魏朝からの遣使策動(出兵要請)には何ら応えることができず魏朝を失望させる結果となった。それは物部氏・倭氏 VS  尾張氏・葛木氏という豪族連合二派の間で次期大王位を巡る激しい対立抗争がこのとき 既に再燃されつつあったからである。
 下の板図は、〝私論皇統譜 ミッシングリンクを解明する (その3)〟を表す。
縄文時代16,000年を経て弥生時代へ文化が移行したが、その900年の内たったの200年間 それが神武から崇神に至る幻の古代国家「邪馬台国」であった。そのことをここに凝縮して表している。(※ 4)
邪馬台国は大王家が分裂して争いがつづく中、半島経営の関心が遠のき狗耶韓国の倭人社会は次第に置き去られ力の空白が生じた。そして、半島を南下してくる夥しい異民族らの攻勢によって次第に同化吸収されていく運命を辿った。

の像は、日女70歳と甥の娘 天豊姫4歳 (後の臺与) のある日のスナップ   
倭の風習である柏手(かしわで)を打っているしぐさであろうか幼い天豊姫、それに寄り添い静かに見守る日女命(宇那比媛)!  背景は魏志倭人伝の一節である。[時、AD241年/魏の正始二年に当る]

(※ 1)
神武は筑紫ヒムカ大王の末裔であった。紀元前の或る時期、出雲王朝の強盛時代にその勢いに押されて日向へ一時身を隠した同女王「アマテラス」は、稲作に適さない痩せたその疎開地で苦しむ民人を見て、いつか東方のもっと豊かな土地を与えたいと強く望んでいた。やがて時代が下り神武の時代になって、力をつけてきた筑紫ヒムカ族は筑紫野の出雲族を吸収し亦は駆逐し、その膨張する勢力を駆って東方進出へと乗り出した。時に紀元86年ころで祖母アマテラスの遺志を実行に移した。天孫と謳われる由縁はまさにこれを起源とする。

(※ 2)
紀元前をはるかに溯ること大和(唐子・鍵遺跡)は瀬戸内海や日本海の交易ルートを通じて既に北部九州はおろか半島や大陸とも繋がっていた。
神武の武装集団が大和へ侵入してきたとき「長髄彦」率いる地元の防人がこれを阻止したが、もしこれが大国主命のように穏やかに降臨していればまた状況は

変わっていたかもしれない。神武が小規模で盆地南部へ忽然と闖入してきたとき、その異常行動をいぶかる長髄彦は、侵入者神武を未開の得体のしれない兇賊と捉えて遣いを立てて尋問(AD91)した。神武は抗弁し「大国主命」となんら変わらない先進文化(鉄器/宝剣)をもった優れた民であることを立証してみせた。当時、不幸なことに大国主命は世継ぎの孫娘二人が兇賊が席巻する地で行方知れずであることに憤怒し、防人の長であった「長髄彦」にその敗戦の責めを一身に負わせて死を賜わり憤死させた。
上の画像は、大国主命。左の画像は長髄彦

いつの時代にもあるこうした不条理は、多くは人間の内に宿る弱さから他者を不幸に追いやる身勝手から生じる、けれどもそれを乗り越えて「長髄彦」を伯父に戴く〚宇摩志麻治〛(物部氏)の末裔たちは逞しくも雄々しく栄えていった。

(※ 3)
イワレヒコは、在地豪族の「剣根」(葛木氏)の下に匿われていた高貴な姫(大国主命の孫娘)をいち早く后として迎え入れ、そうすることによって敵対する周辺諸豪族との融和懐柔に努め、自らの脆弱な勢力基盤を急いで立て直し存立を図った。その姫こそ「事代主」(三輪氏)の娘「ヒメタタライスズ媛」であった。

(※ 4) 
倭の海人たちは常に複数の外洋船を仕立てで渡海し盛んに交易を行っていた。列島からは主として水産加工物を、半島からは鉱物資源を主に移入していた。半島の南部は狗耶韓国という倭を構成する一国であり倭人が多く住んでいた。三韓亡民がその狗耶韓国へ流入しだしたのは正始6年(245年)に起きた韓族の反乱による郡太守「弓遵」の戦死と、その後の帯方・楽浪二郡による韓族討滅によって生じた流民であり、それらが狗耶韓国の倭人と混血し、その二世三世が垂仁朝以降、本州を目指して渡来してきた。
私はそれまでのこの地域を〚環古代倭地圏〛亦は〚弥生時代倭人圏〛と名付けている。 〚私論皇統譜 (その3)〛

〈註〉
ここにお示しの見解は、あくまでも私の趣味の域を出ない素人判断を述べているに過ぎない。従って、定説通説と大きく異なっていてもその責を負うものではありません。なお、各項目の中で第三者の図書等を便宜上一部引用している箇所がございます、何卒ご理解ご了解ください。なおこの〈註〉記は以後、省略致します。

別途 My heart〚肖像木彫り〛作品集あり、  ブログアドレス http://kibori-2.blogspot.com

2013/12/21     著作者 小川正武

2013年10月19日土曜日

魏使 梯儁 【邪馬臺国 その十八】 第一章

先帝「明皇帝」の詔は新体制がこれを引き継いだ。正始元年(240年)年明け早々、先帝の詔は実行に移され帯方郡太守「弓遵」(キュウジュン) のもとへ詔書や金印・銅鏡百枚等宝物多数を鄭重に装封して勅使が遣わされた。太守弓遵はそれを承けて配下で建中校尉の「梯儁」を勅使付武官に任じ、かつ使節船の総監に当たらしめ、船三艘を仕立てて倭国へ送り出した。時に同年春四月。
(※ 1)
『魏志倭人伝』の冒頭、〝倭人は帯方の東南大海の中にあり、・・・郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を経て、あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗耶韓国に至る七千余里、・・・郡(帯方)より女王国(邪馬台国) に至ること萬二千余里〟と記す。

左図画像は、使節船をイメージした写真で、当時の動力源は主として漕櫂(そうとう)に負い、沿岸に沿ったいわゆる地乗り航法による凪の日とか追い風の日を特に選んで航行していた。


左図は、同使節船が邪馬台国へ向かったときのコースで、いわば航路往還軌跡の全容図といったところである。

左下図は、狗耶韓国から伊都国に至る地理的位置関係 (東南の方向) を主として示している。

そもそも、伊都国は神武東遷後は邪馬台国の重要な陪都(副都)となっていた。その地では「一大率」(※ 2) という名の検察機関が常置されていて、倭人の交易船はもとより半島からやってくる人々や、郡からの使いの船までも全てこの津で一旦捜露(検問) を受けねばならず、その情報は逐次都へ知らされていた。従って『魏志倭人伝』でいう「倭人は帯方の東南海中にあり」というこの漢土の人々の方向感覚とその認識は、ここまでは間違いなかった。しかし、それ以遠の女王国の所在する方向となるとまるで解らず、今次使節随員の紀行記がはじめておぼろげに明かすものとなった。そもそも陳寿は海を知らず、その使節随員もまた内陸奥地の文官で航海に疎く、陳寿は原典となったその随員の紀行文(帰国報告書) を下敷きにアバウトな里数と方向と日数を割り出して歴史書(史書)に刻んでしまったのである。
私は、この陳寿の誤謬を責めるというよりも陳寿が当時の倭国の様子をおぼろげながらも微かに捉えて残してくれたこの『魏志倭人伝』の功績こそ称えたい !

下図は、さらにズームアップして図解した末廬国から伊都国・奴国・不弥国の位置関係と、同使節船が辿った航行の軌跡を表す。
『魏志倭人伝』は、末廬国から東南(イ) の方向に伊都国を指す。そして伊都国から東南(ロ) に奴国に至るという。更に東行(ハ) して不弥国に至るというのである。ここに一つ目の大きな誤謬が生じる。
破線矢印の方向は『魏志倭人伝』が示す方向である。しかし、末廬国(唐津市) から伊都国(糸島市) の実際の方向は実線の東(X) または東北東に近い。同様に伊都国から奴国(福岡市) も東(Y) または東北東方向であり決して東南ではない。ここで既に方位角が90度乃至135度狂っている。更に奴国から不弥国(福津市) の方向を『魏志倭人伝』は東行(ハ) とのたまう。実際は北東(Z) である。この北東を東とする45度の狂いと先の90~135度の狂いを加えれば使節船の舳先(へさき)はほぼ間違いなく北へ向かって航行する。また、実際に進路もその方向なのである。

左図は、不弥国(福津) から邪馬台国に至る航路を表す。『魏志倭人伝』曰く〝南至投馬国水行二十日〟と。つまり〝東行してきた不弥国から南へ舵を切って投馬国へ至った〟と記し、即ち東行から南へ90度舵を切ったと陳寿の地理像は描いているのである。これを先と同様に補正するならば、〝使節船の舳先は不弥国の沿岸を北に向かって航行し、玄界灘から響灘へ90度舵を切って東行した〟と言い換えなければならない。それはまさに瀬戸内海を東へ航行したということを示しているのである。
以上は方位の誤謬を示した。つぎに、陳寿の二つ目の誤謬は水行陸行にある。まず陸行であるが、使節団一行はただの一度たりとも陸行はしていない。漕ぎ手を含めて総勢少なくとも100余名は寄港した島々に一旦上陸してそこで何日か仮泊こそすれ、海岸つづきの中、わざわざ船を下りて “草木茂盛して前人が見えぬ” ほど険しい末廬国を五百里それも装封夥しい宝物を担って難行苦行したあげくその先でまた使節船に乗り移って水行するナンセンスはそもそも成り立たない。一行は末廬国には上陸せず「一大国」から末廬国の沖合(松浦半島の呼子) をかすめて直接「伊都国」へ向かい、その津で大勢の人々の歓迎を受けたのである(※ 3)。なぜなら『魏志倭人伝』は末盧国に限って官も副もその名を記さない、それは単に書き忘れたのではなくそもそも陸行しなかったから名前が判らなかっただけのことであり「陸行五百里至伊都国」とは、呼子の沖から末廬国と伊都国の間を目測で測距したもので、これがまた大雑把で問題のある過大な里数だったのである。そのことはまた後で触れる。

つぎに曰く〝至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月〟この陸行一月の内容である。投馬国から邪馬台国まで確かに水行十日を費やした。一行は伊都国で大歓迎を受けたのと同様、難波津においても連日引きも切らず物珍しさ見たさに大勢の人々が入れ代わり立ち代わり詰めかけ大歓迎を受けた(※ 4)。
使節船は津の内湾 河内湾に停泊し一行は上陸して迎賓館を兼ねた宿舎「難波館」を宛がわれそこで女王からの参内許可があるまで待機した。伊都国から水先案内で同行してきた役人はここで邪馬台国の役人らと合流して女王「日女命」が使節一行を引見する日を都と行き来して調整を図った。やがて使節一行は吃水の浅い小型の倭船に乗り換えて大和川をさかのぼり邪馬台国の都「室秋津洲の宮殿」(現 御所市室) に参内した。難波津に到着してから以後「日女命」の引見を受けるまでその間一月を費やした、それが陸行一月なのである。

つぎに水行である。不弥国から投馬国(広島県東部・鞆) まで二十日も要したがこの間、ただでさえ潮の流れが速い瀬戸の海が一旦荒れれば行く先々の津に緊急避難したり寄港して潮待ち風待ち漕ぎ手の休息 糧食の積込み 果ては破損個所の応急修理等々で思わぬ日数を食ってしまった。そして鞆の東、水島(岡山県西部) では邪馬台国に必ずしも服さぬ国 吉備国 (※ 5) が存在していて、ここを倭の水軍が使節船を警護伴走して通過すること十日にして漸く難波津に到った。

蛇足であるが、この年次と時を同じくして呉の銅鏡が邪馬台国(※ 6) に奉ろわぬ国と思しき古墳から出土している。思うに、呉が同時期 吉備国と誼を通じて下賜し、吉備国王がそれを与国の首長に分賦していたのではないか、魏と呉の確執は遠くこの地にまで及んでいたのであろうか。



つぎに、陳寿の三つ目の誤謬は里数にある。『魏志倭人伝』に〚自郡至女王国萬二千余里〛と。これは往路全距離数を表す。その距離が果たして正確かどうかはひとまず置いておいて、〚郡より狗耶韓国に至る七千余里〛と記した後〚一海を渡ること千余里、対馬国〛、〚また一海を渡ること千余里、一大国〛 〚又一海を渡ること千余里、末廬国〛 〚陸行五百里にして伊都国〛 〚奴国に至ること百里〛 〚不弥国に至ること百里〛とつづく、それ以遠の邪馬台国までは何故か里数ではなく突如として日数だけに変化する。
仮にその里数に従うなら、郡(帯方) から不弥国(福津市) までの延べ里数は萬七百余里となる。すると計算上残りの里数は僅かに千三百里、つまり不弥国(福岡県の北西部) から邪馬台国(奈良県御所市) までの里数が僅か千三百里しか残ってないことを意味する。これは狗耶韓国~対馬~一大国(釜山から壱岐島) 間の距離二千余里よりも遥かに短い!?この距離感の粗雑さは甚だしい。
さらに末廬国(唐津市) から伊都国(糸島市) までが五百里に対して、伊都国から奴国(福岡市) が百里、奴国から不弥国(福津市) が百里、合わせて二百里であるというのではまるで距離は真逆である。たとえ松浦市から糸島市までを500と置き換えても糸島市から福津市までの200とでは同様にその比は成り立たない。ここにおいても陳寿の距離感覚は完全に破綻している。 
※ この項は桂川光和氏説を多く録り入れています。唯、我が私論が同氏と異なる他の多くの部分については、そのために同氏のご見識ご慧眼を些かも損なうものでないことは言うまでもありません。

(※ 1)
 『魏志倭人伝』は、「正始六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜り、郡を通じて授けた」と記述する。そしてその翌年に郡の太守「弓遵」が戦死し、その皇帝旗は同八年まで郡に留め置かれた。この間、郡では一体何が起きていて、魏はなぜ卑弥呼ではなく難升米に黄幢を授けようとしたのか!?。思うに、嶺東の濊(ワイ) が高句麗に従属したため弓遵がこれを討ち (高句麗が強盛になって第二の公孫子になることを恐れた)、それまで郡の所管だった辰韓八か国をより遠くの楽浪へ編入しようとした。ところがそれに不満をもった辰韓の大規模な反乱が起こり、これを誅伐すべく魏は同盟国 倭の率善中郎将「難升米」に対し、南(狗耶韓国) からの軍事協力を求めんと欲して(魏は前年、蜀漢出兵 ╱ 興勢の役に大敗、大損害を蒙っていた) 詔と黄幢を郡に仮賜した。それが「正始六年」の詔であり黄幢であった。しかし、同年の邪馬台国から郡治への遣使は見送られ、弓遵は戦死した。そしてその辰韓も楽浪帯方二郡によって程なく平定された。残された辰韓の遺民たちは次代になって新しく立ち上がり、その勢力は恒常的に倭地の狗耶韓国(弁韓加羅) を蚕食しつづけていった。(弁韓加羅は鉄の大産地で倭人による採掘製錬が行われ、農耕具の需要地である 山陰・九州へ搬送されていた。その狗邪韓国の地はやがて異民族らによる進出と植民地化を許す結果になってしまった。)
弓遵が戦死して120年後、神功摂政の時代になって漸くその現実の深刻さに直面したヤマト王権は、遅ればせながらも失地回復のために慌しく三韓征伐に乗り出していくのである。

(※ 2) 
往古の倭人は、環古代倭地圏とも称しうる韓半島南部から山陰・北部九州にかけての広大な版図を有していた。しかし、その領域は公孫子をはじめとする幾つもの異民族の南下によって次第に狭まり、そうした半島情勢の危機に直面していた倭はその護りに神武東遷以来の軍事拠点「伊都国」を更に強化するとともに、多くの氏族支族を半島に派遣していた。にもかかわらず魏の南からの策動(出兵要請)に対し、倭は機敏に応えられなかった。それはなぜか!?、当時、女王「日女命」を輔弼していた男弟「孝安」は既に亡く(四年前、崩御)、代わって「孝霊」が磯城の地に遷都して即位したことにより大王位の座を巡って血脈を異にする王(皇)統間でそれまでくすぶっていた相克が次第に露わとなり、その根底から揺らぎだした政権の脆弱性とも重なって魏からの援軍出兵要請にも決断を鈍らせていた。

(※ 3) 
それは前の年から倭国でも既に広く知れ渡っていた使節であった。〝国々市有り。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ〟(倭人伝の一節)。歓迎されるべき友邦国からの初の來倭とあって処々で頻繁に市が立つ倭人社会にあって人々の好奇心はいやがうえにも駆り立てられていたことであろう。

(※ 4)
 左図は『倭国』の当時の国別戸数/人口規模を表す。〝国の大人は皆四、五婦。下戸(平民) もあるいは二、三婦〟と『魏志倭人伝』は云えり。だがここでは慎ましく一戸当たり平均家族数を夫婦と子供三人、計5人とした。すると、伊都国千余戸=5,000人。奴国二萬余戸=10万人。投馬国五萬余戸=25万人。邪馬台国七萬余戸=35万人。西暦240年ころ既に人口35万の『女王の都』するところは我々が想像する以上の広がりをもった都であった。〝婢千人(女官)を以て自ら侍せしむ〟は驚く数ではない。この55年後、台与(天豊姫)が崩じ、程なく巨大な前方後円墳「箸墓」造営の大号令(詔)が発せられ多くの民草が動員された。それを可能ならしめたのは斯かる人口基盤が背景にあったからにほかならない。
地図は大和盆地南西部を示す。(現在・御所市)

(※5) 
当時、「温羅の吉備」国は邪馬台国を奉つろわぬ国で、まさに孝安の第一皇子「大吉備諸進」が吉備征伐に赴いていた真っ只中であった。遡って神武東征の砌、珍彦(ウヅヒコ)が吉備から現れて神武を先導したという幻想神話(寓話)は、大国主命が因幡で泣訴の兎を救ったおとぎ話とあまり変わりなく、本来 ウヅヒコは豊後の海人の族長であった。 即ち率いて皇船を海導し、遭難して二木島に漂着したあとも絶体絶命の淵に曝される神武を能く援け、大和侵攻時には大和の高貴な姫君を捕らえて神武に献上した。その第一等の働きによって神武から「椎根津彦」の号を賜り、真っ先に「倭国造」に任じられた。彼の存在なくして神武の東征は果たし得なかった、そういう意味において彼は最大の功労者であったと云える!。云うまでもなく当時はまだ国造という位階はなく茲は概念として譬えられている。

(※ 6)
邪馬台国の台は〚臺〛であり、台与の台も素より〚臺〛である。陳寿は原典の潮焼けした麻紙か木簡の滲んだ墨字を見て〚臺〛を〚壹〛と単純に読み違えて写し取ったのである。そのことは使節一行が目指した〚ヤマタイコク〛が〚ヤマイチコク〛でないのと同様に「日女命」の宗女「天豊姫」が〚トヨ〛であり〚イヨ〛でないのと軌を一にする。因みに〚臺〛と表す中国史書は「後漢書東夷伝」「梁書諸夷伝」「隋書東夷伝」「北史倭国伝」「翰苑」「通典」など殆どがそれで、〚壹〛と記すのは僅かに「魏志」くらいなものである。従って、「魏志倭人伝」の〚壹〛は明らかに誤記であることがここからもわかる。

加えて申せば、使節一行が「やまとの国」(大和国) をその音韻の響きから邪馬臺(ヤマト)の国、即ち「邪馬臺国」と表記したことは云うまでもない。それを現代人は崇神以前を「ヤマタイコク」と呼んで区別している。それにしても使節書記官殿が当て字に蔑称を造語する才は失笑するほかないが、道中さぞかし慣れない船旅・船酔と異邦での飲食が口にあわず大変ご労苦をなされたであろうことを偲べば 〝さこそ〟 とご同情申し上げ、ここに改めて労をねぎらいたい。

                           (板厚30ミリ)

【正始元年  太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝暇倭王、并齎詔賜金帛 錦罽 刀 鏡 采物 倭王因使上表答謝詔恩】
正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、金帛・錦ケイ・鏡・サイ物を賜う。倭王、使いに因って上表し、詔恩を答謝す。

斯くして無事大役を果たした使節一行は九月半ば、復路 伊都国の津を後に出航して郡都へと還っていった。


2013年10月19日  著作者 小川正武 
         

2013年9月11日水曜日

魏朝 明皇帝 曹叡 【邪馬臺国 その十七】第一章



遼東制圧まで足止めを食っていた遣使一行は、九月半ば漸く帯方郡から陸路洛陽へ向けて出発した。そのころ明帝は既に病を得ていたが遥か遠く倭の国から戦中来朝あることを知り、その瑞兆これ朕が仁徳の誉れと大いに慶び、その受け容れ準備に余念がなかった。(※ 1)
左の写真は、北魏洛陽城の閶闔門(しょうこうもん)復元図。
遣使一向が洛陽に着いたのは12月はじめ。そのころ明帝の容体は容易ならざるところまで進んでいた。・・にも拘らず明帝はそれを押して遣使一向を引見、倭王卑弥呼(日女命) に対して『親魏倭王』に制詔すると証書を発し、金印紫綬を仮し装封して帯方に付し、下賜の品々は装封して難升米(梨迹臣)・牛利(由碁理)に付すとした。
曹叡の上代、曹胤のころ、〝有倭人以時盟不〟の故事あり。今次、倭国遣使来朝に鑑みて曹叡(明帝)がこの故事を懐旧していたとしても不思議はない。明帝曰く〝汝がある所遥かに遠きも、乃ち使いを遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。・・・汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青授を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、・・・を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また特に汝に・・・銅鏡百枚・・・を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり〟とあり、まさに仇敵呉の遥か海東を望む倭国からの誼に想いを新たにしていたことの表れと私は見る。文中〝我れ甚だ汝を哀れむ〟とは〝我れ深く慈愛の心で接し汝を賛美する〟とした意味であろう。
(文中・・・印の箇所は魏志倭人伝の文言を省略している部分)

(※ 1) 『晋書』四夷伝「東夷条」倭人の項においても【宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帯方朝見其後貢聘不絶】と記す。その意味は、〝宣帝(司馬懿)が公孫氏を平定した其の折、女王は帯方に使いを遣わし朝廷に謁見した。その後も友邦(同盟国)として、貢物を交換しあう訪問が続いた〟と言っているのである。この〔親魏倭王〕の〔親〕は、魏の〔同盟国〕倭の王という意味であり、恐らく「司馬懿」もこの遣使一行を襄平で仮泊せしめ、翌日には戦中警護を厳重に洛陽へ馬車を仕立てて懇ろに送り出していたことであろう。 
冕冠(べんかん)を戴き、倭国遣使を引見する明帝 曹叡  (板厚30ミリ)

曹叡は、三国時代の魏の第二代皇帝。在位14年、生歿年206年~239年、
景初三年正月朔(一日)に崩御、33歳。  諡号 明皇帝。

曹叡は文帝曹不の長男に生まれ抜きんでた容貌と威厳があったという。16歳の時、母の甄氏は父の文帝に殺された。当初、文帝は曹叡を好まず、跡継ぎは他の夫人との間で儲けた子を就けようとしていた。文帝の死後 皇帝に就いた明帝は、真っ先に母・甄氏の名誉回復を行ったが後年 自らも寵愛が郭皇后に移った明帝は、毛皇后に死を賜った。皮肉にも、かつて妻を殺めた父と同様の行動を取るのである。明帝の不幸は更に我が子が次々に夭折し養子曹芳を太子に立てねばならなかったこと、加えて自ら33歳の若さで亡くなったこと、残された幼帝曹芳はこのときまだ7歳、この後見役を曹爽と司馬懿に託したこと。国家の大権をこの二者に集中させたことがやがて両者の確執を生み、この国の社稷を崩すに至った。

明帝の突然の死によって、宮廷の沸き立つ戦勝気分は一変し、一切の諸行事は中止された。これを受けて難升米ら遣使一行は幼帝曹芳が元服する四年後に再び來朝することを約して帰国の途に就いた。(※ 2) 
(※ 2) 明帝の意志は「銅鏡百枚」を卑弥呼が録受することにあり、それを來使難升米らが確実に持ち帰ることを命じていた。ところがその矢先の明帝の死であり、その行事一切は喪して中止された。代わりに翌年の正始元年(240年) に帯方郡使「梯儁」(ていしゅん) が來倭して、明帝が命じた品々と「銅鏡百枚」を邪馬台国へ齎(もたら)せた。その鏡の大半は明帝期の方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう) であったり画文帯神獣鏡であった。
(上の銅鏡は、方格規矩四神鏡)

ところが近年になって景初四年という中国に存在しない年号の鏡が古墳から出土した。思うに、百枚に僅かに不足する枚数を補うべく景初三年の服喪の中、魏の官営工房で急遽「景初三年紀年銘」を記す鏡が鋳造された。それが魏では決して出土しない特異な縁をもつ特鋳の三角縁神獣鏡であった。
明帝の意志は〝悉く以て汝が国の人に示し、汝が深く慈愛の心を持って国家に当たっていることを知らしめるべし、その標べとして汝が好むところを贈る〟と言っているのである。この場合、明帝期の年号を付した鏡でなければ詔書の意志は的確に卑弥呼に伝わらない、幼き次帝曹芳の紀年銘の鏡では意味をなさないのである。
日女命は、明帝から贈られたその鏡を権威のシンボルとして畿内近在の功臣や各地方の豪族たちへ悉く配賦して、明帝の意志に副った。 
(上の鏡は、三角縁神獣鏡のレプリカとその断面図)

  日女命が配賦した銅鏡百枚は言うまでもなくその出自は全て舶載鏡 (中国製) であった。ところが奇異なことに日女命亡き後、景初三年を含む景初四年・正始元年の紀年銘をもつ三角縁神獣鏡が相次いで古墳から出現した。これは一体どういうことであろうか!。答えは梯儁が齎した鏡の内、倭魏同盟のエポックを画した紀年銘をもつその鏡の重要性から、その全てをヤマト王権が模して造らせた云わば仿製鏡 (国産)なのであった。  孝霊から景行に至る歴代各天皇はこの間、日女命の慣例に倣い、日女命への尊崇すこぶる高いこの由緒ある鏡を殊のほか必要とした。その背景にはヤマト(倭)王権の版図が次第に拡大する中、九州南部の熊曾(熊襲)・北陸若狭の玖賀国(狗奴国)・本州中部以遠の国々を平定するごとに、働きのあった各豪族・功臣たちにこれを下賜し、位階勲章を授ける権威の象徴として、この紀年銘をもつ鏡こそが偉大なる威力と尊貴性を発揮したからである。舶載鏡に代替する足らざる鏡 (勲章) をその後の政権は仿製鏡をもって代用したということである。

当時の我が国銅鐸技術をむもってすれば原材料さえ揃えば容易に造れた。大和盆地のほぼ中央に位置する田原本町には集中して鎮座するその名も「鏡作神社」「鏡作坐天照御霊神社」「鏡作伊多神社」「鏡作麻気神社」が点在する。これらはその鏡作り集団がかつて居住していた名残りの地であり官営工房の在った地であった。
孝霊の都する黒田庵戸宮(くろだのおとのみや)はそのごく近くに所在した。 
(上の写真は、鏡作神社の鳥居) 写真は外部資料を引用
 この鏡作り集団の後裔らは、時代が下ると共にそのニーズも移り変わり「倭の五王」以降は冠や太刀に、更にもっと下れば仏像へと時の権力者の求めに応えていった。



大阪平野と淀川を見下ろす高槻の安満山(あまやま)の中腹に、安満宮山古墳(あまみやまこふん)がある。この被葬者は誰か!。思うに、魏朝遣使を務めた副使/都市牛利 こと「由碁理」の父「建田背命」であろう。「建田背」は始め丹後の宰(みこともち)であったが妹の「宇那比媛」(日女命)の政権を支えるため大和に移り住んだ。そして孝安と太子(後の孝霊)に仕え、日女命の王子「和邇日子押人」と息子「由碁理」の後ろ盾となって朝堂で重きを為した。そして由碁理が無事帰朝するのを見届けるかのこどく間もなく薨去した。日女命は兄のその死を悼み、明帝下賜の銅鏡ほか宝物宝剣多数を追贈した。その一部が遺骸と共に遣使船を遠望するここ高台に埋葬された (※ 3)。因みにこの北摂の地は和邇氏の勢力圏で後年、継体政権樹立のバックボーンともなった土地柄である。

(※ 3)  尾張氏五世孫の総領「建田背命」が後にした丹後の国は、建田背の弟「建宇那比/タケウナヒ」が当主となって治め孝霊に仕えた。現在の京丹後市峰山町に在る「赤坂今井墳墓」はその「建宇那比」の墳墓と比定されている。
また丹後半島の中央部に位置する竹野郡に「大田南5号墳」が在るがこの被葬者こそ建田背の息子「由碁理」であるともいう。更に、京都府相楽郡山城町に在る「椿井大塚山古墳」の被葬者は⑥孝安天皇の甥「和邇日子押人命」ともみられる。これら古墳は初期のもので自然の山を利用して山頂に墳丘を築造したものとみられる。

2013/9/11    著作者 小川正武