女王「臺與」西晋訪台(AD266年)以後のこと。
任那宗主国の倭王「開化」は西晋外交の躓きと斯盧国の台頭による任那蚕食に直面し、以って西晋との外交から距離を置き、代わって鉄資源の供給地である内なる半島任那を重視、この地を再三脅かす夷敵に対抗するため庸徴の改革を強く迫られた。
故に従前の地祇族長らが共立した女王の行う祭政の下では男弟「輔弼者倭王」の威令は如何ともしがたい脆弱性をもち、その制度的限界からこの旧弊依存から脱却して西晋の如き中央集権的支配体制を図らんとする倭王「開化」の焦りにも似た欲求が生じた。次代を担う「開化」の嫡子「崇神」がこの父の影響を強く受けていたことは当然である。
尾張王朝の終焉前後について、
孝霊の実兄「大吉備諸進」の陵は浦間茶臼山古墳だと私は観ている。この御陵は上道郡(吉備東端)に在り、大吉備諸進が吉備冠者「温羅」と対決した本営跡地と仮推する。その養子の西道将軍「彦五十狭芹彦」(孝霊の第二皇子)はこの地から西進して備中「中山」に橋頭保を築いて温羅を討った。温羅を討ったのち彦五十狭芹彦は「吉備津彦」と名乗り、養父を奉って所縁のこの地に陵を築造した。
岡山県の吉井川西方にそれは鎮座する。規模は墳長138m/高さ13.8m/の前方後円墳。
前方後円墳の祖形は邪馬台国初代女王「日女命」の陵を発祥とする。任那倭人(半島汎任那の国々)を含めたあらゆる時代の古の倭人たちは女王「日女命」の陵に倣って陵墓造営を旨とした。規模に大小はあるものの倭人悉くがこれを崇拝し祖先神を奉った。倭人、身丈は小なれど大いなる精神とエネルギーを宿す民族であった。
時代は「臺與」西晋訪台を遡ること6年前(AD260年)、当時、吉備津彦による温羅退治があった。臺與御陵(大市古墳)の築造はそれから数えて30年後の290年代前半である。この間、吉備文化(特殊器台や埴輪)が大和の地へ深く浸透していたことが分かる。このことは新興「吉備氏」の影響(勢力)が大きく都で根を下ろして大王家と結びついていたことを物語っている。
西道将軍「吉備津彦」が「温羅」を討ったAD260年は、開化5年に相当する。崇神紀10年(AD285年)はそれから25年後の出来事である。ゆえに記紀が示唆する四道将軍(派遣軍)に「吉備津彦」は当たらない。「崇神紀10年」は狗奴国討伐の大がかりな編成が都でなされ、為に畿内が手薄になる中、「吉備津彦」46才は逆に吉備国から東進して帝都警護を名目に大和へさかのぼり、その実態は、実姉「倭迹迹日百襲姫」と亡き先帝「孝元」の嫡子「彦太忍信」の身辺警護を主目的に予て不穏な動きをみせていた河内青玉繁の裔「武埴安彦」に備えていた。都の玄関口浪速の地勢を占める豊穣な豪族「河内氏」の向背は都にとって一大脅威であったからだ。
その「彦太忍信」といえば同年33才を数え、「難升米」の孫娘「稲津媛」を娶っていた。難升米(中臣氏)は魏志倭人伝に出てくる遣使で、「稲津媛」の母方は今を時めく物部氏の出であった。「彦太忍信」の事蹟は定かでないが狗奴国討伐に誉名はなく、「開化」崩御(275年)の後、相次いで「欝色謎」「大綜杵」も後を追うように亡くなり、それら陵墓築造の任を専らに尾張王統の種は雌伏して命脈を保ち息づいた。この功績は懸かって「倭迹迹日百襲姫」の庇護と献身が大きく、やがて歴史は「孝元」を曽祖父とする「彦太忍信」の孫「武内宿禰」へと繋がり、「武内宿禰」は河内王統の始祖となった。
〚武内宿禰の系図〛孝霊(高祖父)⇛孝元(曽祖父)⇛彦太忍信(祖父)⇛武雄心(父)⇛武内宿禰(本人)
〚別紙12-1〛は、“私論「孝元」と「開化」は同世代” を表わす。
『記紀』と「私論」ではここでも皇統譜が一世代異なる。「開化」「大彦」は物部系王統の兄弟、一方「孝元」「倭迹迹日百襲媛」「吉備津彦」らは尾張系王統の異母兄弟。彼らは「孝元」の遺児「武埴安彦」が引き起こした反乱によって登場してくるみな差ほど歳の変わらぬ同世代人なのである。
次代の「崇神」と「彦太忍信」もまた同世代である。世が世であれば「孝元」の皇太子と目されていた「彦太忍信」は、その血筋の高貴性から「崇神」と双璧を為し、一歩誤れば凶事を呼び込む薄氷の立場であった。叔母「倭迹迹日百媛」はこれを養子として迎え入れ幼少から育て上げた。そして同姫の弟「吉備津彦」が「武埴安彦」の乱を前後して都へ進出して以後は、その勢威に与って漸く安泰し、晩年になって「稲津媛」を娶った。この「彦太忍信」の事蹟は『記紀』に記載がないが、女王「臺與」崩御の290年代初頭、崇神の勅命によって所謂「箸墓古墳」(私はこの陵を大市古墳と呼ぶことにしている) の築造を命ぜられ総奉行を担ったと私は仮推する。
「彦太忍信」から観た「臺與」とは、曾祖母「日女命」の甥「建諸隅」の娘という立ち位置から一入誉れ高き伯母であった。皮肉にも「大市古墳」築造さ中に「崇神」が崩御した。「崇神」殯の後、「大市古墳」に引続き「崇神」の陵も築造が着手され「彦太忍信」がその総奉行を担った。
諄いようであるが「彦太忍信」の嫡子「武雄心」は「彦太忍信」36才にして漸く授かった児である。その「武雄心」は長じて「景行」に供奉して九州まで遠征している。また、「武雄心」の子「武内宿禰」は長じて棟梁の臣まで上り詰め、時の政を牛耳るまでに至っていた。この間、帝都の地である大和にはなぜか景行・成務・仲哀の三天皇が殆ど不在であった。この不可思議な現象をどう見るかである。
話を再び「開化」の御世AD260年に戻す。
当時、「稚武彦」18才は兄「吉備津彦」と共に出征して吉備の冠者「温羅」の首を刎ねた。そして兄は吉備国を与り、弟は針間国を与った。兄の母は弟の母の姉という関係であったから出自は同じ尾張氏で気の合った異母兄弟であった。
※ 同兄弟の幼少期は、倭国大乱の影響から都を離れて針間の伯父「大吉備諸進」に身を寄せる謂わば疎開児童の身の上であった。後継ぎのいない孝霊の兄「大吉備諸進」夫妻は孝霊の子息兄弟を我が児のように慈しみ育て上げそして後事を託した。
AD264年の斯盧国懲罰について。
AD263年、この年は「于老の変」(倭国が于老を焼殺刑に処す)後、10年目の節目に当たり、倭国の修交使が10年振りに修交のため斯盧国を訪れた。ところが于老の妻に招かれた饗応の席で騙し討ちに遭い倭臣は気の毒にも焼殺された。怒った倭国は斯盧国懲罰のために兵を出した。時に翌264年、「吉備津彦」が吉備冠者「温羅」を征伐した四年後の出来事である。
当時、倭は開化の御世で尾張氏「日本得魂」34才は既に家運凋落(版図縮減して久しく)して出兵おぼつかず、「吉備津彦」25才は封地経営に忙しく吉備国を空けること能わず、開化の兄「大彦」42才もまた嫡統王家の交代9年目と言えども未だに不測に備えて都を警護する要石であった。必然、派遣の将は南巡の謂れも深い今は亡き「和邇日子押人」の嫡子「彦国姥津」44才と新進気鋭の若武者吉備の「稚武彦」22才を置いて外になく、彼らは俄か仕立ての編成も慌しく伊都国から渡海していった。その兵力たるやたかだか500人内外であった。
無論、そこには「一大率」武官ほか「金官加羅国」の任那武人も加わり先導したことは云うまでもない。
この弔い軍は海路浦項(ポハン)に上陸し、途中斯盧国兵の抵抗を受けつつも彼の首都慶州「金城」を包囲攻撃した。時の斯盧国王「味鄒」(みすう)は素より倭軍襲来の今日あることを知り予め籠城戦に備えていた。「味鄒」王の後年の戦歴は百済と境を接する相次ぐ攻防戦でほぼ勝利していた。この「味鄒」の此度の倭軍相手の金城籠城は、倭軍の兵糧の尽きるのを待つ戦術で終始した。この「味鄒」は「金氏王統」の始祖として『三国史記』に登場し、高い評価を受けていた。
「味鄒」の遠祖は「金閼智」(あっち)である。古の或る時、倭人「瓢公」(ここう)が金色の木箱が木の枝に引っかかっているのを見つけて中から男の子を拾い上げた。この高貴な出と思われる赤子は故あって捨て子にされ「瓢公」の目の届くところへ敢えて置かれていた。「瓢公」はその子を「閼智」と名付けて育てた。「閼智」の出自は汎任那に君臨する出雲王朝所縁の男子であった。その男子は許されざる仲で密かに産み落とされた落胤であった。「瓢公」は恐らくその許されざる所縁を知っていたがゆえに亡くなるまでその出生の由来素性を明らかにすることはなかった。
「閼智」から数えて7代目が「味鄒」である。この間、混血が進み倭人の血は薄れて忘れ去られ母系氏族(濊貊)の血脈が連綿とつづきそれが斯盧国のアイデンティティとなっていた。
同様に「朴氏」の遠祖は初代斯盧国王「赫居世」である。この「赫居世」は丹波の出である。丹波は古より「尾張氏」の支配地である。出雲王朝時代は同王朝と密接不可分な王族であった。「赫居世」はその支族で汎任那に属する慶州に先住していた王族とみるのがごく自然である。
倭の弔い軍が「于老」の老妻を懲罰したかどうかは知る術がない。だが弔い軍が斯盧国の首都を震撼させ、修交使倭臣が犠牲となった殉難の地で同倭臣を鄭重に弔ったことは疑う余地がない。倭軍はそれを以って由として彼の地を堂々と引き上げていった。
AD264年、倭国修交使殉難の場で弔意に臨む吉備氏「稚武彦命」倭軍副将。
稚武彦命 (わかたけひこのみこと)
〚私論編年 AD242年~305年 享年64歳〛
父は孝霊天皇、母は「蠅伊呂杼」(はえいろど)
姉は「倭迹迹日百襲媛」、兄は「吉備津彦」、「孝元天皇」は異母兄。
母の姉は「倭国香媛」で、母の兄は第七代尾張氏当主「建諸隅」。
「開化期」で活躍した「稚武彦」は、吉備平定後は播磨の国を与り国邑の長として君臨した。
『記紀』はその娘が「景行」の后に召されたという。私はここに世代間乖離の問題を提起する。
〚別紙12-1〛は同世代に属する人名を夫々表わす。同図の「稚武彦」は「吉備津彦」「開化」「倭迹迹日百襲姫」と同じく第二世代に属し、主に260年代に活躍した人物である。目を転じれば「景行」は第五代世代に属し、その主たる活躍時期は330年代である。ここに「稚武彦」と娘「播磨稻日大郎姫」との間に、「崇神」「垂仁」「景行」三代に亘る70年間の乖離が横たわる。もし、「稚武彦」に娘がいるとすればその娘は第三世代に属し「崇神」期の人物であるはずだ。「崇神」期から観た「景行」は孫世代である。孫世代の「景行」が果たして「稚武彦」の娘(閉潮した姥桜)と結ばれて「日本武尊」を産ませたであろうか、いくら手の早い「景行」(征討途上各地で子女80人を儲けたという)といえどもそれは考えにくい。ではこの世代間の矛盾は一体どう捉えたらよいのであろうか。
「稚武彦」の孫に「吉備武彦」がいる。吉備武彦は「景行朝」の御世に「日本武尊」(18才)の東征に供奉している。そのときの吉備武彦の年齢は39才と観る。その根拠は、「播磨稻日大郎姫」がその18年前に17才にして22才の「景行」に召されて「日本武尊」を産んだ。・・だとすれば、同姫は必然的に吉備武彦とほぼ同年代の40才前後とみるのが自然である。
〚別紙12 その3〛の図は「日本武尊」東征18才のとき、「景行」40才、東征に供奉した副将「吉備武彦」39才、「播磨稻日大郎姫」35才と為る。
・・であるなら「吉備武彦」は崇神期に生まれ、垂仁期に青年期を過ごし、景行期に壮年期を迎え、脂の載りきった熟年で若き「日本武尊」に供奉して東征を輔佐した。吉備武彦が崇神期に生を受けたとみればその関連で「播磨稻日大郎女姫」もまた崇神期に生を受けたことを意味する。この二児が誕生した当時、稚武彦の年齢は既に50代半ばを過ぎている。50代中半で播磨稻日大郎姫を産ませる可能性にいささか無理がある。私見では「稚武彦」30才のとき稚武彦が「稚武彦二世」を儲けた。同二世が長じて21才のとき同二世の子「吉備武彦」が生まれ、同二世25才のとき「播磨稻日大郎姫」が生まれた・・と為れば系統に無理はなくなる。
即ち、『記紀』記載に一世代が抜け落ちたかそれとも意図的に削除隠蔽したか今では知る由もないがその名前不詳の「稚武彦二世」なる人物こそ景行・成務・仲哀・三代大王が古の都大和を飛び出して征討に明け暮れ(寧所に暇なく)或は大和の地を敢えて離れて遷都した背景を知る上で、大変重要な(都ヤマトの中枢に在って兵站の要である軍奉行を担っていた)立場ではなかったかと観られる。
〚別紙12-2〛「AD264年、斯盧国誅伐当時における大和の主要人物の年齢構成」 をまとめてみた。「開化」39才のとき「稚武彦」22才、「彦太忍信」12才、「崇神」7才、「倭迹迹日百襲姫」と女王「臺與」が27才とする各年代別年齢比較対象を概観した。
本項冒頭に「任那宗主国倭王開化」を掲げた。現在、朝鮮半島と呼ばれる半島は縄文時代は倭人が主たる先住民族であった。弥生時代に出雲王朝が成立し、半島と列島を跨る「環古代倭地圏」を形成していた。その支配体制は文物交流を通じた緩やかな親任統治であった。半島の汎呼称は「任那」とされ、その任那には多くの国々があり夫々の国には倭人の族長または邑王がいて出雲王朝と紐帯した関係で結ばれていた。この当時の半島のことを私は「任那半島」と敢えて唱える。中国の『史記』『三国志』の編纂者らは海東に隔絶して歴史の暗闇に隠れていた「任那半島」「任那先住倭人」のことを露ほども知らずその存在は認識の外であった。認識にない歴史は無かったに等しく永遠の彼方へ葬り去られてしまった。あたかも南北アメリカ大陸が発見(15世紀末)されるまでは、同大陸の存在や歴史文明が無かったかのごとく、同じようなことが任那半島においても現象面で起こっていた。この不幸な宿弊は今日に到っている。
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「神武」は、筑紫(北部九州)で挙兵し出雲王朝の本拠地「ヤマト」を転戦の末、生き残った僅かな兵で急襲した。この乾坤一擲の吉野奥地からの逆さ攻めは功を奏し、出雲王朝の皇女(嫡女)を生け捕り、同皇女との間で「神武」は「綏靖」を産ませた。これがそれ以後に続く「ヤマト王権」の源流となって今日に引き継がれた。
『記紀』は日本史編纂に当たってその不都合な真実を隠蔽して〚出雲王朝〛を壮大な神話の世界へ封じ込め且つ又祟りを怖れて祖先神として篤く祭り上げて糊塗した。
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紀元前、秦(始)皇帝の圧政から逃れた斉(山東省)の徐族一団は海路東渡 (紀元前219年) して倭国へ辿り着き根を下ろした。その地で帰化して倭人と交われば三代以後は徐族もまた倭人になりきる。神武はその末裔の一人でヒムカ王に繋がったと仮推する。当時、倭人は任那半島から九州~東北に跨る広範な環古代倭地圏を形成し縄文時代から引き継がれた高い文化を維持して分布していた。古代大和盆地は四周を山に囲まれた天然の要害で、数多くの水路を通じて交通が発達し倭国(出雲王朝)の政を司る中心地でもあった。この出雲王朝は同時に山陰・北陸・畿内・東北は云うに及ばず任那半島の任那諸国をも包含する交易を通じた一大海洋国家を形成していた。その王朝の発祥の地は出雲ではなく大和葛城であった。
邪馬台国の尾張氏は天足(あまたらし)・天豊姫(あめのとよひめ)・大海媛(おおあまひめ)・分家の海部氏(あまべうじ)・などと海洋民族を暗示する出雲王朝伝統の冠名を引き継いだ皇族であった。尾張氏の「氏」名は葛城(大和)の本貫地「高尾張邑」に由来する。
地祇とは、その皇族と紐帯で結ばれた大和の分岐氏族のことで各地を治める邑王あるいは族長らを差した総称であった。それらの地祇があるときから大和国に集住して政を行っていた。出雲の国はその当時の交易のハブ的存在で大いに栄えてその強大な勢力は一時期「大和国」を凌駕した。だが、冬期の日本海の気候は荒々しく特に雪害はその果たすべき統治の機能をしばしば停滞させた。為に政の中心地は気候温暖にして要害の地「大和」の地を必然とした。
(※ 紀元前に存在していた出雲王朝の首都〚葛城〛、現在の奈良県御所市。御所市の名称自体それを暗示する。この図は第一章「宇那比姫」から転用重複している)。
この安定した出雲王朝の政体系(国の姿)を覆す一大事件が紀元90年頃に皇都中核で起こった。「神武」による吉野奥地からの不意を突いた皇都襲撃がそれである。地祇らは「尾張氏」の兄「三輪氏」の嫡女「媛蹈鞴五十鈴媛」が「神武」の子「綏靖」を産んだことから、その「綏靖」を次期大王に立てて新たな体系を引き継がせた。これが出雲王朝の「国譲り」と謂われる所以である。国譲りで面目を欠いた地祇諸侯は「神武」の庶流長子「手研耳」(たぎしみみ)を「綏靖」自らが誅殺したことで、以後 地祇の系累をもってその後の血脈を織りなし、神武以外の「神武」の原郷からの血は一切絶たれた。そして地祇の合意による共立女王「日女命」(尾張氏)がやがて出現した。「日女命」の生母は紀伊氏の「中名草姫」である。名草の名で思い出されるのが「神武」東征途次の和歌の浦に上陸して糧食を奪い抵抗した同地「名草」の女酋長を切り刻んだ伝承である。「日女命」の母方の出はまさにその紀ノ國の名草邑からの出であった。「出雲王朝」に代わる「ヤマト王権」(邪馬台国)の出現は斯かる経緯を経て誕生していた。
だがこの異脈(神武)の王統に馴染まない地祇が少なからずいた。その代表格が若狭の「玖賀国」(狗奴国)であり、在出雲の神々(地祇)や任那の出雲王朝系累の邑王らであった。
若狭の「玖賀国」は尾張氏と同格の「海部氏」本宗家(分岐氏族、祖・天御蔭命)そのものであった。ゆえに尾張氏は「玖賀国」(狗奴国)を畏れていた。
私は「神武」橿原即位がAD93年、出雲王朝がその「神武」に国譲りしたのがそれから15年後のAD108年と仮推する。この間、三輪氏も海部氏も物部氏は勿論のこと、尾張氏さえも「神武」に人質として囚われていた「出雲王朝」の「嫡女」を救い出さんとして「神武」と対峙していた。そして神武の子「綏靖」は同108年、14才に成長していた・・、「神武」は「出雲王朝」が国譲りしたその翌年、69歳で崩御した・・と観ているのである。
◆
「蘇我氏」本宗家が滅亡した「乙巳の変」(AD645年)で、嫡子「入鹿」暗殺の報に接した父「蝦夷」は悲憤のあまり、それまでの貴重な天皇紀や上古歴史書を焼却した。
『記紀』を編纂した「太安万侶」や「舎人親王」らはそのことを勿怪の幸いにこの倭国黎明期前夜の旧事に口を噤んで〚出雲王朝史〛を没却し、原史倭国を〚神代紀〛に祭り上げて事蹟の数々を記憶の彼方へ遠ざけ、微かな残像だけを今に伝えた。
(近年の埋蔵文化財発掘の目覚ましい成果がその全貌は明らかにしつつある)。
2016/5/14 著者 小川正武
【追記雑感】
「神武東征」以前の「大和」『葛城』の地は出雲王朝の首都であった。「出雲の国」は半島任那を挟んで交易(物流・経済)中継地として倭の中心的役割を果たし、独自文化も発達して首都「大和」に比肩する副都を形成して大いに栄えていた。
「神武」襲来時の「大和」には出雲王朝の大王「大国主命」がいてその子供に異腹の皇子三人がいた。長子は「事代主」(三輪氏始祖)で、次子が「味耜高彦根」(尾張氏始祖)、次いで三子が「宇摩志麻治」(物部氏)であった。「事代主」の娘「媛蹈鞴五十鈴媛」とその妹「五十鈴依媛」が「神武」に捕らえられて人質になる中、大王「大国主命」の命でその責めを問われて詰め腹を切らされたのが宇摩志麻治の伯父「長髄彦」(大和の登美邑の族長)であった。宇摩志麻治の母「御炊屋媛」(みたきやひめ)はその長髄彦の妹であった。その母「御炊屋媛」が亡くなる前、味耜高彦根と宇摩志麻治を枕元に呼んで、神武と媛蹈鞴五十鈴媛との間で授かった「綏靖」の成長を拠りどころに、 “神武と講和して以後は「綏靖」を盛り立てよ” と遺言してこの世を去った。
(※ この前後の詳述は本稿第一章に既に記載していることからここでは紙面を省く)
ことほと左様に「神武」出現は大和の国を根底から揺さぶり出雲王朝崩壊のきっかけとなった。斯くして邪馬台国開闢は「神武」天皇を開祖とした。
第十代「崇神」天皇(宇摩志麻治を始祖とする物部系)は、この邪馬台国をぶっ壊して、改めて大和王権を打ち立てた。そして〚御肇国天皇〛(はつくにしらすすめらみこと)と称されるようになった。
※ 因みに「崇神」天皇の高祖父は三輪氏系「懿徳」天皇である。
諄いようであるが「三輪氏」「尾張氏」「物部氏」の始祖三兄弟は「出雲王朝」の大王「大国主命」を父に戴く。その「大国主命」は大和の国「葛城氏」を出自とする。「大国主命」は長じて出雲国を与り、後に倭の大王となって〚環古代倭地圏〛に君臨した。後代、任那四郡を百済に譲って倭の臣民(任那先住民族)を裏切った「雄略」はその「葛城氏」本宗家をも滅亡させた。 以後の「葛城氏」は分岐氏族(分家筋)である。
「雄略」の孫の若き「武烈」が精神を病んだのは「雄略」の非道な数々が直接間接に遠因起因する。「武烈」はまた父方の祖父「市辺押磐皇子」が「雄略」に無惨な殺されかたをした裔でもあることから深く傷つき自己嫌悪に陥り自己否定した真に心悼む〚河内王朝〛最後の大王であった。「武烈」がその血脈ゆえに懊悩して、継嗣誕生を望まず己が孕ませた妃の腹を裂いた末、破滅していった狂気の姿に私は泪する。そして時の大連「大伴金村」(遠祖は神武東征に供奉)は〚河内王統〛を見限った。その後の国史顛末は、「雄略」路線を引き継いだ「継体」王統(大和王朝)が、任那倭人に優先する百濟擁護に終始してやがて父祖伝来の任那の地、任那半島を失うことになった。