2015年4月20日月曜日

孝元天皇「彦クニクル」【巻向王統その5】 第二章       

              
第八代大王 孝元
〚大日本根子彦国牽天皇/おおやまとねこひこくにくるすめらみこと〛
母は細媛(くわしひめ)。后は、伊香色謎。妃に埴安媛。伯父は大吉備諸進。
兄弟に、倭迹迹日百襲姫・彦五十狭芹彦(吉備津彦)・彦狭島・稚武彦(吉備臣の祖)等がいる。
[私論編年 AD230~254年、在位5年、25歳崩御]

時はAD249年。この年、彦クニクル19歳。
「吐帥ヶ原」の合戦後、勅使「張政」が発した〚檄文〛が功を奏し、大王位継承を巡る内乱は、豪族連合による〚共立女王〛樹立に向けた機運が一挙に高まった。「張政」は自ら発した告諭に縛られ直後の帰還は品位に悖ると踏ん張り、この大乱の帰趨を見届けてのち帰朝する構えを見せ、事の顛末をじっと注視していた。

そうした状況下、孝霊は「孝昭」王統の揺るぎない継承の意思を態度で表し、太子「彦クニクル」(19歳)へ譲位することで「彦大日日」へ王権を明け渡すことのない姿勢を断固示し、以て自らは退位(42歳)した。同時に次期女王には讃岐に身を秘す愛娘「百襲姫」(12歳)を立てんと諮り「大彦」を甚く牽制した。だが、大彦(27歳)にとってこの「ネコ彦フト二」(孝霊)専横の策動は受け容れ難く、不満息巻く大彦に対し伯父「欝色男」(54歳)は必死になってこれのなだめ役に回り〝されば、百襲姫に代わる誰が適任か〟と問われれば大彦も答えに窮した。
梨迹臣はこの倭国大乱の渦中にあって独り中庸の人物として衆望厚く、その梨迹臣が欝色男に向かって建諸隅の愛娘「天豊姫」(12歳)を次期女王に推した。天豊姫こそ日女命の宗女であり、この少女を奉ることで相食む大彦と建諸隅 両者の敵愾心を解消させ和解へと導きたい、そう願う私心なき献策であった。同時にそれは豪族連合の収斂した意見でもあり大彦はそれをやむなく受容するのほかなかった。

一方、この間の気になる「大吉備諸進」(44歳)の動静はといえば、諸進は中央の騒乱を睨みながらも眼前の夷敵「温羅の吉備」国との戦いに息が抜けず軍兵を自ら率いて吉井川の手前まで進出していた。 [別紙ー8]

この諸進の動きは武門の司「欝色男」にとっても大変気懸かりな存在で「吐帥ヶ原」の戦いが痛み分けに終わった今、これ以上の事を構えつづけることの不利を冷徹に読んでいた。
この年、「彦クニクル」の妃「埴安媛」は同太子の第一子「武埴安彦」を宿していた。
※ 「温羅の吉備」国は稲作・漁撈・製塩・蹈鞴製鉄等々が盛んで、大吉備諸進(ヤマト朝廷軍)が吉井川へ進出したこの頃は、既に何代目かの覇者「温羅の吉備王」の「楯築墳丘墓」が築造されていて人々は特殊器台を同墳丘墓に据えて同覇者を祭祀していた(「別紙-8」赤い矢印)。 顧みれば魏使「梯儁」來倭(240年)から数えて既に10年からの歳月を費やした倭軍の吉備進出であった。

将軍「大彦」といえども武門の司 物部氏の後ろ盾がなければ単独では到底「孝昭王統」の孝霊には対抗し得ず、物部氏当主「欝色男」は大彦の苦渋に満ちた内諾を取り付けて梨迹臣に対し正式に「天豊姫」を次期女王へ推戴する旨の同意を伝えた。

「和邇日子押人」は梨迹臣からこの報に接するや直ちに「建諸隅」を水主本営に訪ね和睦を取りまとめるべく果敢に動いた。想えば65年前、曽祖父「天忍男」の懸命な働きによって共立女王「日女命」誕生を見た往時の生みの苦しみを今また我が身が担う運命的な巡り合わせに身の引き締まる思いであった。建諸隅は従兄弟の和邇日子押人の働きに深く謝すもなお懸念は姫12歳と若少、為に日女命の男弟「孝安」に倣い同姫の輔弼に「孝元」を当て自らはその後ろ盾となることに同調を求め体制の盤石を図った。

「百襲姫」は孝霊と倭国香媛(建諸隅の妹)との間で授かった娘であり、「天豊姫」は建諸隅の愛娘という関係で両姫は同年齢であった。建諸隅は愛娘の女王擁立を当然視し、孝元朝との微妙なパワーバランスを図った。
欝色男の弟「大綜杵」(42歳)は亡き父「大矢口宿禰」の遺志を継いで吾娘「伊香色謎」(17歳)を太子「彦クニクル」へ納め因って大王家姻戚に加わると共に物部氏安堵を図り且つ「彦クニクル」(孝元)の臣下として改めて恭順の姿勢を示した。

翌年、時はAD250年。
張政は倭国内訌が漸く鎮まり、共立女王「臺与誕生」の合意醸成を見届けるに及んで自らの使命もほぼ完遂したことを覚えた。翻ってみれば正始八年(247)春に郡を発って丸三年、異国の地に来て思いがけなくも目まぐるしい日々の連続を過ごし、この間、寄留地では過不足ない河内青玉繁の篤い接遇を享け、さらに朝廷の太宰の臣「和邇日子押人」との密接な意思疎通と相俟って何処へ行くにも身の安全確保を得て、激動する皇都およびその辺々の地で繰り広げられるドラスチックな場面に度々立会い、過ぎ去ってみればあっと言う間のまるで白昼夢を観ていたかのような三年間であった。

「彦クニクル」(孝元)は、王宮を軽境原(かるのさかいはら)へ遷して即位した。この地は国造「倭氏」の支配地であったが建諸隅の意向が色濃く反映した選地であった。ここへ楔を打ち込むことによって大彦に与力する倭氏を威圧するのに十分であった。倭氏は建諸隅の示威に恐懼した。 (※ 1)
 同時期、女王「臺与」の司祭王たるに相応しい館もこれまた大彦・彦大日日が牙城としていた「巻向」へ移し、同様に大彦・彦大日日をも威圧した。そして文字通り国父となった「建諸隅」は洛陽の規模には及びもつかないが巻向を大きく区画整理し、河川を大改修し、高床式の壮麗な楼閣を建設し、「女王」の坐ます「神の宮殿」造りを目指した。本よりそれは孝元の名によって大号令(勅令)が発せられたものであり、この巻向宮こそ「日女命」の室秋津洲宮を凌ぐ第二の室秋津洲宮たる「国家安寧」「五穀豊穣」「祖先崇拝」を専ら祭祀する「巻向宮」となった。その景観たるや宮室・楼観とも城柵、厳かに設け常に人あり、官婢千人を以て傅かせ、兵を持して守衛せしめた。
後代になって、祭祀を専らとする象徴は伊勢神宮に移り「政と神道」は分離するがその根源はこの「巻向宮」ではなかったか!。この年はその大規模造営が始まった年であった。  

孝元は祭祀を主体(司)する「巻向宮」とは別に「政」を主宰する都「軽境原宮」で政を専ら行い、玖賀国(狗奴国)との争いは内訌によって国が疲弊した分、立て直すことが最優先され玖賀国との戦いは敢えて避けた。大王になった孝元(20歳)は生まれながらの病弱であったが国父の「建諸隅」と大臣の「和邇日子押人」を両翼に据えた重厚な陣容を誇っていた。(※ 2)
孝元は翌年、物部氏との和解の絆に欝色男の弟「大綜杵」の娘「伊香色謎」を迎え入れ、河内氏より身分が上だった同姫を后とした。そして翌々年 伊香色謎との間で「彦太忍信」(ひこふつおしのまこと)を儲けた。

それから五年が過ぎて、、時はAD254年。

あれほど盤石を誇った孝元朝の基盤も鶴翼の臣が崩じた後は、その威光は釣瓶落としのごとく凋落して嘗ての面影はなくなり色褪せたものとなっていた。

この年、国父「建諸隅」は57歳で崩御した。これに失意したか病が急変したか(とかく血統重視で近親婚が重なり血の薄さが虚弱体質に繋がる、そのことがとても気にかかる)知る術もないが「孝元」もまた国父の後を追うかのように逝った。それまで孝元を力強く支えていた「和邇日子押人」もその前年、二度に亘る洛陽遣使の疲労が重なり体力を蝕んだか帰朝一年後(253年)に64歳で亡くなっていた。 孝霊は孝元即位の翌年既に45歳で崩御されていた。こうして時代は非情にも年と共に移り変わり、世代は確実に次世代へと代替わりしていた。
孝元の残された二人の遺児はこの年、第一皇子の「武埴安彦」は4才、第二皇子の「彦太忍真」(※ 3)は2才とまだまだよちよち歩き、倭氏の支配地に都を置く孝元の王宮では取り残された若き后妃たちはその後どのような運命が待ち構えていたのであろうか。

(※ 1)
話を遡ることAD158年、「③安寧」崩御の後、跡目相続に時の大臣「出雲醜」(物部氏)は皇太后「渟名底仲媛」(三輪氏)の意を忖度して皇太子「孝昭」(尾張氏)を差し置いて皇太后の実子「懿徳」を大王の座へ据えた。その時の朝議の司(議長職)であったのが「志麻津見」(倭氏)で、最終的に倭氏は三輪氏王統継承支持へ回りそれがために大勢は決した。これがその後の〚倭国大乱〛の発端となった。

ではなぜ倭氏は三輪氏歴代王統の擁立に与力したのか!その奇縁浅からぬ発端を神武東征時に話を遡らせて語らねばならない。

神武が出雲王朝の脾臓ともいうべき大和盆地南部の一角を衝いて制圧した砌(AD92年)、配下の珍彦(うずひこ)が葛城邑にいち早く侵入して「剣根」の館に身を隠していた事代主(三輪氏祖)の高貴な姫君二姉妹を捕えて神武に捧げて手柄とした。この二姉妹の姉「媛蹈鞴五十鈴姫」は後に神武の后となり「綏靖」を生み、妹「五十鈴依姫」はその綏靖の后となって「安寧」を産んだ。そして安寧もまた二姉妹の実兄「天日方奇日方」(亦名 鴨王)の娘「渟名底仲媛」を后として「懿徳」を生んだ。
夫「安寧」の死によって皇太后となった「渟名底仲媛」(三輪氏)は吾子「懿徳」の擁立を図るのに余念がなかった。倭氏が三輪氏支持に回った底流には斯かる父「珍彦」即ち「椎津根彦」(倭氏祖)による神武と三輪氏を結ぶ重要な架け橋を果たしていたからであった。為に、珍彦は神武に取り立てられ真っ先に倭国造に任ぜられていた。その経緯から以来、倭氏係累は代々三輪氏王統支持を標榜する流れとなっていた。

AD240年(正始元年/魏年号)、時の朝議の司「邇支倍」(倭氏)は、魏使「梯儁」來倭の砌、倭を代表して難波津の迎賓館「難波館」に梯儁一行を出迎え、日女命の宮都「室秋津洲宮」まで同道の道案内をしている。男弟「孝安」がそれを楼門で引き継ぎ勅使を奥宮にいざない日女命に引見せしめた。因みにそのときの「邇支倍」(にしば)とは、魏志倭人伝に出てくる〝女王の都する所・・官に「伊支馬」あり云々〟この「伊支倍」(いしま)こそ邪馬台国の筆頭官にして時の朝議の司「邇支倍」(議長職)その人であった。建諸隅(尾張氏)が倭氏の三輪氏へ寄せる動きを牽制するのは斯かる所以からである。云わば三輪氏にとって皮肉にも嘗ての三輪氏姫君二姉妹を拉致した略奪者今や転じて頼もしき与力となっていた、それが倭氏であった。禍福は糾える縄の如し!


※ 因みに倭氏の歴代宗主が三輪氏に関わった事跡を見ると、

 (初 代)珍彦は、三輪氏の高貴な姫君二人出雲王朝の皇女を葛城で奪い神武に
      献じた功にり、倭国造に任ぜら椎根津彦の名を賜る。
(第二代)志麻津見は、三輪氏王統の「懿徳」擁立に加担したときの筆頭高官・さし
     づめ朝議の司。
(第三代)武速持は、豪族連合による「日女命」(尾張系)共立時の筆頭高官・さし
     づめ朝議の司。
(第四代)邇支倍は、倭国を代表して魏使「梯儁」を難波津に出迎えた当時の筆頭高
     官・朝議の司。
(第五代)飯手宿禰は、孝元朝に臣従した朝議の司で、支配地が割かれてそこに都が
     敷かれた。

(※ 2)
女王『臺與』は天上の人(司祭王)に祀り上げられ、倭国の盟主(宗主)として人々の求心力(シンボル)となった。
片や、男王『孝元』は政治を担う大王として起立した。この二元政治は、皇位を巡る長年の抗争から、それを回避する倭人の巧妙な知恵から生まれた。
当時、世界では類例をみないこうした稀有な仕組みがここでは実現していた。

(※ 3)
孝元の皇位継承者「彦太忍信」は開化の王権簒奪(開化から観れば王権奪還)によって臣戚降下となった。その孫の「武内宿禰」は応神擁立の最大の立役者となり、その族裔からは蘇我稲目・馬子・蝦夷などが現れて時の王朝に比肩する影の大王(国父)となっていた。稲目・馬子・蝦夷の名は何れも蔑称であるがこれとて反蘇我勢力(藤原氏)が科した和風諱号であった。

『記紀』は「誉田別」(ほむたわけ)の父を「仲哀」とする。しかし、その出生には相当の疑義疑惑があり、史実から隠蔽された真の父は「武内宿禰」と観るのがむしろ自然である。即ち「応神」の父は「武内宿禰」である。
そして、この武内宿禰を嫡流とする女性を母に戴くその後の歴代天皇は合計11名に上り、その数は藤原氏の入后数に次ぐ数の多さである。その名を以下にまとめて掲げてみた。

17代 履中 母は、葛城磐之媛(いわのひめ) 祖父は、葛城襲津彦(武内宿禰の息子)
18代 反正   母は、           同上         祖父は、葛城襲津彦        (同上)
19代 允恭 母は、      同上                 祖父は、葛城襲津彦   (同上)
22代 清寧 母は、葛城韓媛(からひめ) 祖父は、葛城円大臣(武内宿禰は祖父)
23代 顕宗   母は、葛城荑媛(はえひめ) 祖父は、葛城蟻臣(履中は顕宗の祖父)
24代 仁賢 母は、          同上                  祖父は、葛城蟻臣   (同上)
31代 用明 母は、葛城堅塩媛(きたしひめ)  祖父は、蘇我稲目(武内宿禰の五世孫)
32代 崇峻 母は、葛城小姉君(おあねのきみ) 祖父は、蘇我稲目    (同上)
33代 推古 母は、葛城堅塩媛  (きたしひめ)          祖父は、蘇我稲目    (同上)
41代 持統 母は、蘇我遠智娘(おちのいらつめ)   祖父は、蘇我倉山田石川麻呂
43代 元明 母は、蘇我姪娘(めいのいらつめ)   祖父は、蘇我倉山田石川麻呂

以上の系譜の流れを総覧するに、第八代大王「孝元」の曾孫であった「武内宿禰」は、巻向王統(孝昭王統から皇位を簒奪して樹立した王統)から皇位を奪い返して河内王統を打ち立てた人物である。
即ち、武内宿禰は河内王統の始祖であった。
第14代天皇の「仲哀」という諡号はまさにそれを暗示している


2015/4/20日  著作者 小川正武