2015年3月1日日曜日

正使 「難升米」 【巻向王統 その4】 第二章


魏が正始六年(245年)に郡に付して倭国へ向けた詔書とは一体どういう内容であったか!。言い換えれば正始八年に「張政」が齎した正始六年当時の郡に留め置かれていた詔書の中味がどういうものであったか、魏志倭人伝にはそれが一言も記されていない。
類推するに景初二年(238年)の魏の「明帝」詔書が参考になる。曰く〝国家(魏)が汝(親魏倭王)の後ろ盾にいることを国中に知らしめよ、そのために汝に好物(権威を象徴する宝物多数)を鄭重に贈らしめるのである〟と標す。この詔書が標すところの〚親魏倭王〛とは、そもそも倭が魏に冊封された訳でもなければ君臣関係に倭が自ら遜った訳でもない、むしろこの場合の主意は兄(魏)が弟(倭)を労り弟が兄を敬う国家レベルの「化外慕礼」の関係、つまり友邦を契る〚遠夷の客〛であった。ところが正始六年の詔書はそれを逸脱していた。その背景には郡太守「弓遵」が戦死するほどの過激な辰韓暴動が起こり、それを鎮圧するため率善中郎将「難升米」(儀礼官位)に向けた出兵要請を督促してきたからだ。これが正始八年に「張政」が倭国へ齎した詔書の中味であった。
魏の支配下にない倭がこの魏のイレギュラー(互いの思惑違い)に直ちに呼応する態勢にはなかった。そして同騒乱は幸いにも二郡によってほどなく鎮圧された。だが魏は郡に南接する倭地の狗耶地方から倭がなぜ郡を助太刀しに駆けつけなかったのか?!、その真意を確かめるため魏は倭へ遣いを急がせた。 「親魏倭王」を差し置いた倭王臣下の「難升米」を直接名指しするこの魏の越権行為は果たしてまともな外交使節であったか?、少帝「曹芳」の後見役「曹爽」と「司馬懿」双頭執政の確執がこうした混乱と勇み足(殊に難升米による第一次戦中遣使が強烈なインパクトを魏に与えていた!)を招いた原因ではなかったか!。この異常さが「張政」來倭在三年に垂んとする遣使目的の蹉跌と長期滞留に繋がった。 (※ 1)
(倭国は中国の周辺国と違ってただの一度たりとも中国及びその周辺国から征服されたことはない。その倭が何をすき好んで中国の冊封国たるを甘んじるや。倭は常に中国の冊封体制の外に在って交易を通じた友邦国たらんとして倭独自のペースで朝貢していた。これはなにも聖徳太子が遣わした「遣隋使」をもちだすまでもないことである。)

梅雨月の晴れ間(248年)、魏使「張政」は磯城の朝堂において群臣居並ぶ中、正装して臨み、率善中郎将「難升米」に対し、魏の皇帝から齎された「詔書・黄幢」の伝授式「拝仮之儀」を挙行した。併せて「張政」自身 独自に作った檄文もそのとき声高らかに読み上げられた。曰く〝余は汝の後ろ盾に在り、その証しとして皇帝の旗印(軍旗)を汝に授ける。汝の敵は外にあり、内なる諍いを収めよ、諍いを収めるに前大王の善き先例あり、疾く照らしむべし〟と。
これを周到にお膳立てしたのが他ならぬ今は亡き女王「日女命」の皇子「和邇日子押人」(第二次副使/率善中郎将)その人であった。
「建諸隅」も「大彦」も吐帥ヶ原で共に対陣していてここにはいない、物部の宗主「欝色男」は父「大矢口宿禰」葬送の直後とあって「彦大日日」と共に登美に居て参列できていない。その他の諸豪族、葛城氏・三輪氏・和邇氏・倭氏・中臣氏・紀氏・河内氏・大伴氏・忌部氏・・等々畿内の主だった群臣たちはみな列席して息を殺してこれを見守り、孝霊は玉座に坐まして垂簾を隔ててこの場景を静かに見守っていた。
(※ 上図は、張政の奉遣「拝仮之儀」)

難升米こと中臣氏の「梨迹臣」(なしとみ) 
第一次魏朝遣使(当時48歳)の正使を務める。
時に、景初二年(AD238年)。 
爵位/率善中郎将。
[私論編年 AD191~250年。享年60歳]
中臣氏系図/①天児屋根⇒➁天押雲⇒③天種子(神武東征に付き随う)⇒➃宇佐津臣⇒⑤大御気津臣⇒⑥伊香津臣⇒⑦梨迹臣(天児屋根の六世孫)

梨迹臣は三上氏の「冨炊屋媛」を娶っていた。その三上氏係累が若狭の海部氏こと玖賀国王(狗奴国男王)という関係であった。

嘗て正使「難升米」を輔佐して朝貢副使(都市牛利)を務めていたのが今まさに吐帥ヶ原で布陣する孝霊朝の総帥「建諸隅」であった。その建諸隅は同時に狗奴国を背にして大彦軍と戦っている最中でもあった。もし三上氏が孝霊朝に背けば忽ち建諸隅軍は南北から挟撃される危うさを抱えていた。この弱点を補うべく建諸隅は息子「日本得魂」(18歳)を山背の水主本営に据えて若狭の狗奴国と淡海の三上氏へ睨みを利かせていた。

過ぐる十年前、難升米は倭の共立女王「卑弥呼」の勅使として、偶然にも魏と公孫氏が遼東で交戦状態に突入している真っ只中をこれに怯むことなく堂々戦中遣使(正使)をやってのけた剛毅な朝貢使であった。これを企図したのは卑弥呼の男弟「孝安」であった。孝安は豪族連合に諮り、その総意を背景に決断し、卑弥呼が最終承認(司祭)を下し、国を挙げての壮挙となった。
洛陽に至る魏の領域は恐ろしく広大で各地には駅伝が敷かれ行き交う人馬は夥しく、共立女王が支配する倭の緩やかな支配体制に比し、一極集中した皇帝権力の絶大さと巨大な文明に遣使らは只々目を見張るばかりであった。
副使「都市牛利」は軍師的立場から正使「難升米」を傍らからよく輔佐した。卑弥呼の勅使「難升米」より身分が遥かに高かった「都市牛利」は、使節全体をコーディネートする統括責任者を兼帯していた。この一行は、朝貢外交という名の交易に止まらない多くのものを収穫して帰朝した。
(※ この使節が倭国へ齎したその後の影響は、孫世代に当たる崇神によるそれまでの共立女王が支配する司祭体制から脱却、政治・軍事体制強化のために中央集権化を断行する萌芽の芽を宿した。)
今、難升米は往時とは立場が代わり、都「磯城」の王宮に在って魏の勅使を迎え入れて、倭を代表する祝典〚詔書・黄幢拝仮之儀〛主賓として厳かに応対していた。

そうした立場に身を置く難升米が何が不足で「都市牛利」(建諸隅)に敵対することがあろうか!。難升米は漢風装束に身を正して魏皇帝の意を介した〚張政の檄文〛を直接拝授しつつ、その今日在る身の今は亡き男弟「孝安」と女王「日女命」の恩寵を深く噛みしめていた。ヤマト王権の居並ぶ群臣たちは張政の発した告諭の内容を理解するや一瞬閃光の如き戦慄が朝堂を走り、うめきにも似た声にならない雄叫びが「オォーッ」とどよめいて忽ち元の静寂に戻り、辺りを見渡せばみな一様に感涙している様で、面々この場景を深く心に刻んでいた。これを静かに見詰めていた孝霊は自身何を思っていたことであろうか!。


梨迹臣の父は中臣の「伊賀津臣」で近江湖北の豪族であった。梨迹臣は孝霊の王宮で祝典[拝仮之儀]の大任を果たした後二年を待たずして「張政」らの還るを見送ることなく先に逝った。男子の本懐を全うした波瀾万丈の60歳であった。

(※ 1)
二郡による辰韓鎮圧の結果、その反動から三韓の多くの亡民たちが魏の圧制から逃れて倭地である半島南部の狗耶韓国(後の伽耶 亦の名 任那)へ逃避してきた。半島の窓口「一大率」はこの流れに抗しきれず新たな脅威の対応に追われた。九州北部の環濠集落がそれまでにも増して濠を重ねて城郭化したのはほぼこの時期と時期をいつにする。そして狗耶韓国へ流れ込んできた人々を在地の倭人たちも阻止しきれず次第にそれら三韓の人々とも融合していった。
後代、「神功三韓征伐」に象徴される倭兵の半島出兵は、この倭地蚕食によって新しく興った倭国にとってなんの正当性もない化外族長(王)の排除と失地回復にあったことは云うまでもない。その後、化外族長らは相次いで倭国へ朝貢してきている。また倭は倭で、「倭の五王」から欽明朝にかけてヤマト王権傘下の全国に散らばった各地の豪族(地祇)苗裔たちが、その時々の倭王の勅命を奉じて半島へ渡り夫々が国際的に活躍し或は逆賊となった族長らを討伐して還ってきている。 5~6世紀にかけて各地の前方後円墳にそれまでの三角縁神獣鏡に代わって金銅冠や環頭太刀が収められているのはこうした臣下(地祇)の功績を或は事跡を、歴代大王が個々に称えて顕彰していたことを如実に物語る。
〝昔より祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。〟とする雄略上表文は、倭国が朝鮮半島を領有していたことの証しであり、正にこのことは嘗ての〚環古代倭地圏〛のDNAが呼び覚ます各時代を背景にした已むに已まれぬヤマト王権の焦りにも似た半島奪還を目指した一断面の出来事であったに過ぎず、その半島での硬軟入り混じった統治の数々も天智天皇二年(AD663年)の唐・新羅連合軍を相手とする「白村江の戦い」で大敗を喫した後、遂にそれまでの半島牙城から倭は手を引いた。
やがて倭は国号を「日本」と改め、国のかたちとして律令体制に専ら力を注ぎ内なる足元を固めた。
日本古代史において欠史八代と云われた大王たちは大和の国(邪馬台の国)に確実に実在していた。そしてこの国の有史はそこから始まっていたのである


2015/3/1  著作者 小川正武