2013年4月18日木曜日

天忍男 「大国主命の曾孫」 【邪馬臺国 その十三】 第一章

天忍男(尾張氏)は天忍人の弟。妻は葛木氏の剣根(ツルギネ)の娘「賀奈良知姫」(※ 1)。この葛木氏こそ神武軍が吉野から攻めてきたとき、姫蹈鞴五十鈴姫と五十鈴依姫をいち早く匿って庇護した云わば三輪氏にとっては命の恩人の氏族。その葛木氏が今や、王位継承を巡り三輪氏と鋭く対立する尾張氏の側に立って三輪氏と対峙していた、皮肉な巡り会わせと言わざるを得ない。

天忍男の第一子は「瀛津世襲」(オキツヨソ)、第二子は「建額赤」(タケヌカアカ)、
第三子は「世襲足媛」(ヨソタラシヒメ)。

世襲足媛はカエシネ(⑤孝昭)に入后し、瀛津世襲はカエシネの大連(最高執政官)となり、建額赤は津守氏の遠祖となって大阪湾口(住吉・浪速津)の要衝を守護した。

天忍男命(アマノオシオ) 本拠地 : 葛城高尾張邑
支配地 : 丹波の国  大国主命の曾孫
【私論編年 AD110~AD184年、75歳薨去】

旧出雲王朝の流れを汲む「天忍男」 (※ 2) は、丹波の国主としてこの地方で権勢を振るい、その版図は狗耶韓国にも及び、代々盛んに交易を行っていた (※ 3)。 その主たる移入は鉄の始発原料である鉄鉱石で、その産出地は半島の南東部と中国の東北部であった。

ところが中国では後漢「霊帝」のこの時代(在位168-189)、先代桓帝からつづく宦官の専横に不満を持つ外戚や豪族たちが相次いで政権中枢から離反、地方でも賄賂行政がはびこり苛政に苦しむ民衆たちが各地で暴動を起こしていた。そして中国の北辺や遼東では鮮卑族(内モンゴルの騎馬民族)が我が物顔に跳梁跋扈していた。そのため楽浪郡や帯方郡でも後漢の影響力が急速に衰え、それまで統制の取れていた倭国との交易も頓挫した。
一方、倭国においても大王家分裂が国内勢力を二分し、時として同族間同士で誅殺しあう場面も頻発、第五代大王「孝昭」(カエシネ)は都の不穏な状況を憂いて幼き皇子たちの身の安全を図るため后の父「天忍男」の領国丹波の海士へ一時的に避難させていた。

そうした中央の逼迫した危機を背景に、「天忍男」は大連「瀛津世襲」の下で頻繁に国邑の長老会議を開き、大王家分裂の収拾策を呼びかけた。しかし議論は紛糾すれど纏まらず物別れすること暦年、時にAD180年ころであった。糸口が見出せぬまま内乱は更に長期化した。 
写真上は、当時 鮮卑が後漢の北辺を圧迫していた図。

昔、舟泊まりの浅瀬に立つ鳥居は元来艫綱を結わえておくもので同時に航海の無事を祈る神聖な門出のシンボルでもあった。
曾祖父「天忍人」の国丹後の竹野に身を寄せていた「建斗米」の娘「宇那比姫」はいつのころからか海人(※4)たちが出航する前夜、沐浴して身を清め亀卜を読み解きその航行の安全を占うようになっていた。荒波に命を張る海の男たちは彼女の吉凶を大いに歓び畏敬し勇躍船出していった。そのうち彼女の神がかり的な霊力は津々浦々に知れ渡っていた。そして彼女が15歳のとき、彼女の祖父「天戸目」を介して従兄弟の「アマタラシヒコ クニオシヒト」18歳と竹野において婚儀が営まれた。時にAD186年であった。

そのころ、中華全土では黄巾の乱が荒れ狂い、首謀者らが相次いで成敗されていたものの政治腐敗による民衆への苛政は依然としてつづき、黄巾の残党らはこの後も広範な地域を跋扈して反乱を繰り返していた。そして遼東半島以南は後漢権力の空白地帯となりそれを埋める形で新興勢力が勃興し、倭国と後漢との交易は分断された。「天忍男」をはじめとする山陰や北部九州の豪族たちは、倭国を代表する大王が対外的に定まらない中、それら新たな国々との交渉が持てないジレンマを共有していた。

(板厚30ミリ) 
略奪と殺戮の地と化した大陸の荒廃ぶりを見聞きする倭の豪族たちは、その凄まじい災禍を倦み嫌い倭国大乱を一刻も早く収束すべきとする機運に満ち満ちていた。そこで「天忍男」は、分裂した大王家の統治空白を埋めるため、それに代わる大王の祭政権能からひとまず「祭」と「政」を分離して「天地自然と祖神を崇める瑞穂の国を代表する「司祭王」たるを暫定に戴き、その王を豪族連合を代表する盟主と仰ぎ、そのことで倭の求心力を図る。一方で、統治権はあくまでも大王家に帰属するものの、それは大王家が一つに収斂するまで待つことやむなしとし、この間、事実上豪族連合において「政」の機能を持たせる、この旨、天忍男のイニシアチブによって大胆な提唱がなされた。やがて倭を構成する諸豪族はこの緩衝機構を布くことで統治の空白を暫定的に埋める、そうした気運が次第に醸成されていき合意形成をみるに至るのである。
中華の易姓革命と異なり、この国の成り立ちそのものが『天神地祇が合体した血族の統合を誓約』した起源をもち、同祖二神の兄弟何れかが一方的に族滅するということがそもそも馴染まない!そういう風土をこのヤマト王権には宿していた。


ところが、それを了と為すもその司祭王となりうる肝心要の適任者は一体誰か!この問いに応えて「天忍男」は甥の孫『宇那比姫』に白羽の矢を立てて推挙した。『宇那比姫』は「大国主命」の六世孫に当たり、その血筋の高貴なことと天女の如き慈愛に満ちた存在は倭の津々浦々にも響き渡っており居並ぶ群臣豪族たちはその人選の素晴らしさに一瞬どよめきをもって迎えた。それというのも天つ神と土着の神を結びつけた嘗ての大国主命の后で大和の女主であった登美国の「御炊屋媛」(ミカシキヤヒメ)の人柄を彷彿とさせる立ち位置にあり「宇那比姫」を以てすれば、それに代わる相応しい人選は他に見当たらず、大意はごく自然に纏まりをみせていった。「天忍男」(AD184)が薨去した直後に宇那比姫は女王に推戴されて女王たる尊称「日女命」となった。

(※ 1)
万葉集にみる「奈良」の都の地名は、この葛城氏の豪族 葛木剣根の娘「賀奈良知姫」の名からとったものであろうか!天忍男はこの賀奈良知姫を娶って世襲足姫が生まれ、同姫は長じて孝昭の后に納まっている。また同姫の兄に「瀛津世襲」がいて孝昭の大連となり朝政の重鎮となっている。孝昭の事跡で針間(播磨)における伝承があちこちに見られるが父「天忍男」の本貫地(地領)が丹波国であることからその息子のオキツヨソは孝昭の勅命を奉じて丹波の南・針間に進出して版図を広げていたのではなかったか! 
(※ 2)
 天忍男が生まれる三年前、帥升が軍舟約30~50艘に生口160人を載せて後漢遣使に赴いていた。伊都~壱岐~対馬~狗耶韓国~楽浪経由で洛陽へ威風堂々の遣使、無事成功裏に凱旋、神武の前で帰国報告を奏上 (AD108) している。
天忍男の曾姪孫「和邇日子押人」は243年、第二次遣使 (副使) として魏へ朝貢している。

 (※ 3)江戸時代、北前舟が日本の海上輸送をほぼ独占していた。その本拠地は北国加賀であった。その源流は出雲・丹波・若狭の海人たちに観られる。

 (※ 4) ここで云う「海人」とは、当時の航海に命をかけた名もなき多くの舟乗りを総称する。これら海の男たちは紀元前から「環古代倭地圏」を勇躍していた。中世にも倭寇が和船で東シナ海を暴れまわっていたが、この時代もそんなに変わらない海人の猛者たちが外洋で活躍していたとは容易に理解できる。厄除け鯨面の異相した海人らは、その起源は決して半島の民でもなければ半島からの帰化人(渡来人)から為っているものではない。生っ粋の倭の海人たちから構成された海草なのである。

AD200年ころの公孫氏の時代は、狗耶韓国への組織的な異民族の南下はまだなく当時は倭の領域であった。倭の都が北九州からヤマトへ東遷したことによって相対的に都から遠く離れた狗耶の地は、王権争いに明け暮れる中央の支配権が次第に及ばなくなっていった。そして扶余族が百済建国を望み倭に対して 狗耶の地の一部割譲を願い出た、倭は友邦の契りとしてこれを与えた。転じた今日にみる韓半島の人々の先祖とはこの狗耶に留まった倭人と北方系民族とが融合していったものと観てとれるのである。

            2013/4/18    著作者 小川正武