2015年1月1日木曜日

塞曹掾史 「張政」 【巻向王統 その2】 第二章

           

帯方郡太守「王頎」(キ)は塞曹掾史(さいそうえんし)「張政」を倭へ遣わし、因って詔書・黄幢を「難升米」に拝仮せしめ、檄をつくりこれを告諭した。時に正始八年(AD247年)〚魏志倭人伝〛の一節、

その前年、倭は郡へ遣いを使わし正治六年遣使が実行に到らなかった状を説明した。これを遣わした人物は、孝霊の叔父で時の政治権力の中枢にいた女王卑弥呼の息子にして魏の率善中郎将の肩書をもつ大夫「掖邪狗」その人であった。〝倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯・烏越等らを遣わし郡へ詣り、相攻撃する状を説く・・〟これを遣わした真の執権者は正にこの稚押彦こと女王日女命の息子「和邇日子押人」(57歳)その人であり、この人物を置いて他にはいない。

魏は「親魏倭王」が遣わした弁明使の報に接するや倭へのその後の動きは迅速であった、それはなぜか?。
半島で諸韓が再三魏に反抗する中、東南大海の倭との連携はそれゆえに戦略的価値が高く藩屏たるを期待した。・・であるにも拘らず先の半島二郡の非常時に倭が全く動かずその期待が見事に外れた。倭は倭で、倭が動けなかった尤もな理由として狗奴国との相攻撃の状を掲げて言い訳とした。
魏は、その真偽を確かめるため張政を倭へ急派させたのである。

遼東の高句麗軍を「王頎」将軍が南から、「毌丘倹」将軍が北から挟撃してこれを撃退した。その戦功によって王頎は「弓遵」亡き後を継いで帯方郡太守に親任された。倭の弁明使が詣郡したのはその王頎が着任した時期とほぼ重なる。
「王頎」は皇帝の勅許を仰ぐべく直ちに官都へ上り倭の状を報告、「曹芳小帝」の執政「曹爽」は、皇帝の名において二年前 郡に留め置かれていた「詔書・黄幢」を改めて王頎に付し、遣倭を裁可。郡治へ戻った王頎は直ちに塞曹掾史「張政」に託して倭へ遣わした。

この「張政」(38歳)の使命は邪馬台国へ到着してからその性質が大きく変遷した。即ち・・・、
張政ら一行は、先の魏使「梯儁」同様、難波津の内湾に南接する邸閣 難波館(なにはのむつみ/外交官舎) に投じて在地豪族「河内氏」の歓待を受けた。時に正始八年秋。(※ 1)
率善中郎将「難升米」こと中臣の「梨迹臣」(56歳)は、その報に接するやいち早く磯城の都から駆けつけて來使一行をもてなしその労をねぎらった。張政は、真っ先に女王「卑弥呼」(日女命)を室秋津洲宮へ表敬したい旨強く望んだ。しかし同女王は既に病に伏して久しく今日明日をも知れぬ重篤の身であった為、張政はこれを断念する仕儀となり卑弥呼引見の栄誉を永遠に失った。そして同女王の皇子「根子彦太瓊」(孝霊) が磯城に遷都して政を執っていることを改めて知った。

張政來倭を遡ること九年前、倭は「難升米」を正使とする遣使朝貢を壮挙した。それが偶然にも戦中遣使であったため魏の明帝曹叡は悦し、大夫「難升米」に一軍の将たる「率善中郎将」の位階を与え魏の藩屏としてこれを組み込んだ。次いで二年後、「梯儁」が來倭して卑弥呼へ「親魏倭王」の印綬を齎し魏の同盟国にこれまた組みこんだ。その梯儁は半島から渡海途上「伊都国」に寄留してそこが近隣諸国が畏憚する倭の副都であり一大軍事拠点であることを突止め、〝半島で一朝有事があればこの倭の軍事支援が大いに期待できる〟ものと踏んで本国魏へその旨帰朝報告を行っていた。

「張政」が倭へ齎したそも「詔書・黄幢」とは、二年前の正始六年当時の半島騒乱状態をそのままに、その主意はそれを反映して率善中郎将に対し辰韓攻撃への指揮権授与と出兵督促であった。決して倭使「載斯・烏越」が説く「狗奴国」へ向けた倭国支援を謳った内容ではなかった。ここに魏と倭の齟齬が生じ、その思惑違いが内在したまま魏使「張政」の今次來倭となっていた。

「張政」來倭の最大のイベントは云うまでもなく率善中郎将「難升米」へ授ける詔書・黄幢拝仮の儀であり、倭は朝野を挙げて歓迎し直ぐにも式典を開催してくれるものと思っていた。倭は倭で〝魏による狗奴国へ向けた倭国支援の強烈な示威表明〟を謳い奉ろわぬ国への威圧喧伝を為すべく急遽倭へ使いを遣わしてくれたものと思い込んでいた。

ところが豈図らんや蓋を開けてみれば双方ともに大きく当てが外れて状況が一変した。即ち、邪馬台国では孝霊朝の宮都「磯城」と懿徳の後裔が本拠地とする「巻向」が互いに王統の正当性を掲げて鋭く対立、皇位争乱の様相を呈しておりその張りつめた緊迫感からとても華やいだ式典が挙行できる環境ではなかった。片や、魏使「張政」の奉遣目的が「親魏倭王」を差し置いた倭国臣下の「難升米」であることに倭は訝り怪しみ、しかもその詔書・黄幢が必ずしも「狗奴国対応」 に向けられたものでないことへの違和感に一層困惑し、その外交的扱いに苦慮して慶賀すべき筈の祝典は全く目途が立たないまま行事は頓挫してしまった。

糅てて加えて難波館で待機していた張政の下へ女王「卑弥呼」崩御の知らせが届き、しかもその驚きは更に君臣の上下関係にも及び、副使「都市牛利」や「掖邪狗」が正使「難升米」や「伊聲耆」に上位する時の支配者であったことを間もなく目の当たりにするのである。(※ 2)

〝卑弥呼以て死す〟「日女命」は室秋津洲宮で伏して七年、77歳の生涯を静かに閉じた。日女命が病めるその間、日女命の孫「孝霊」が事実上の譲位を承けて践祚、都を磯城に移して早や数年が過ぎていた。日女命歿して後、殯(もがり)は一年余つづきその後 遺骸は夫や男弟「孝安」が埋葬されている聖なる山丘、玉手丘(たまてのおか)に篤く葬られた。(※ 3)

掖邪狗こと「和邇日子押人」は都「磯城」に在って甥「孝霊」の後ろ盾となっていた。和邇日子押人の従兄弟「建諸隅」(都市牛利)は山城の水主邑に本営を置き、玖賀国(狗奴国)と対峙していた。一方、孝霊と対立する「大彦・彦大日日」兄弟は物部の「大矢口宿禰」を外祖父にもち、巻向から磐余に跨る大和盆地東南部を根城に国造「倭氏」の積極的な庇護の下、とくに「日女命」が崩じた後は大義名分を失った孝霊に対し、懿徳後裔の若き皇子たちは皇位奪還の抑えがたい衝動にかられてその血気は沸点にまで達していた。ここに尾張氏・葛城氏VS物部氏・倭氏の豪族間同士の亀裂が深まり一触即発の緊張を孕ませていた。 (※ 〝掖邪狗〟ワキヤクは和邇日子押人の音韻ワニヒコを漢人が転化して書き留めたもの。)


「天津彦根 裔」三上氏系譜と『旧事本紀』との間で物部氏の「大矢口宿禰」を巡って大きな相違が観られる。ために伝承考古学においてもこんにち相当混乱を来している。そこで私なりに異なる視点から、その存在を以下のごとく浮き彫りにした。
上図 [別紙-5]〚私論 大王と物部氏の関係図を表す。 

先ず『旧』「天孫本紀」では、ウマシマチ(物部氏祖)の子がヒコユキで、ヒコユキの児がイズモシコと異母弟のイズシココロを標す。「大矢口宿禰」はそのイズシココロを父に冠し、ウツシコオ・ウツシコメ・オオヘソキを儲けている。
ところが『三上氏』系譜 [別紙-6] においては父が異なりヒコユキの子が大禰で大禰の児がイズモシコとイズシココロとなる。だが両系譜とも共通して〝「出雲醜」が懿徳朝(期)の大臣〟であり、〝「出石心」が孝昭朝(期)の大臣〟ということで互いに両者で相違はない。だが「内色許雄」「内色許謎」「大綜杵」「大峯大尼」の父が誰であるのかで両系譜は異なる。ではそのことで伝承考古学において何が問題で何に混乱しているのであろうか・・?。
その答えを出す前に、まず大王治世の期間(年代区分)とそれに対応する物部氏歴代宗主各々の年代とが互いに合致しているかどうか綿密に精査することから始めなければこのことはなにも理解できない。
「内(欝)色許雄」は云うまでもなく孝元の大臣である。その妹「内(欝)色許謎」は⑩崇神にとっては祖母に当たり、崇神はこの祖母のことを尊んで太皇太后の称号を賜り寿ぐのである。さらに内色許謎の異母弟にあたる「大綜杵」もまたその娘「伊香色謎」を開化に入后させ「崇神」の外祖父となり、自身も開化朝(期)の大臣に列するのである。
・・ つまり 「出石心」 の活躍した⑤孝昭の時代 (AD180年代) から出石心の子らは⑥「孝安」治世60年間を一挙に飛び越えてその主たる活躍の場を⑨開化の時代 (AD260年代前後) へ移っているのである。即ち「三上氏」系譜ではこの間の一世代が完全に抜け落ちている。この故意に削除された一世代の空白期間にいったい何が起こっていたのか、そこにこそ真実が潜んでいるのではないか!

然らば、この孝昭から開化へと繋がる物部氏を中継ぎした長期安定政権孝安朝を埋める物部氏の嫡宗(首長)はいったい誰か !  しかもこの人物は好むと好まざるとに関わらず時の皇位抗争に深く関わり、開化の王統回天〚嫡統王家の交代〛への過程を布石しはしなくも短命で終わった尾張系大王「孝元」につづく新たな物部系大王誕生の礎石ともなった孝霊朝(期)における物部氏の重鎮である。
日本古代史に今以て埋もれたまま誰もそのことに気付いていないこの巨大な人物は、さしずめ8世紀初頭に絶大な権力を誇った「藤原不比等」にも匹敵する。しかも不比等はこの人物を意識して 日本紀 編纂に恣意的に深く関わっていた節さえ窺える。その恣意とは、乙巳の変で蘇我蝦夷 (大臣) がそれまでの天皇記や上古歴史書を焼却したことでそれを勿怪の幸いに不都合な真実や系譜の改竄をこのとき大胆にも断行したことを指す。これを詳しく語る紙面は茲にはない。

その名を挙げるのに『旧』「天孫本紀」はなんの蟠りもなく「大矢口宿禰」の名を標している。ところが肝心かなめの『記紀』や「三上氏」系譜ではその名が見当たらない。これはいったいどうした訳であろうか!?。

淡海(近江)の名門「三上氏」は若狭の本宗家「海部氏」の傍流であり、その「海部氏」が崇神朝によって滅ぼされて以後、「三上氏」は巻向王統(開化を祖とする王朝)に対してひたすら恐懼恭順の姿勢を貫き通し大彦の脅威からも免れて生き延びることができた。
物部氏嫡宗らは綏靖から孝昭までは近江へ積極進出し、淡海湖南野洲地方の支配者「三上氏」とも政略的に通婚を重ねていた。ところが〝倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず〟男弟「孝安朝」(期)の軍事の司であった物部氏当主は三上氏向背の懸念と混沌から同氏との通婚を一時絶った。為に、孝安朝期における三上氏系譜に物部氏との系脈がないのはそのためであった。

では『旧』物部氏系譜ではその間、三上氏との関係をどのように扱ったのであろうか。その繋がりを観るに、孝安朝期における大矢口宿禰の妻は三上氏の「坂戸由良都媛」 (さかとゆらとひめ) と記す。しかしこの媛は孝安期の人ではなくその先代 孝昭期の人であり、三上氏系譜に記されている「出石心」の妻であることに蓋然性をもつ。ならば大矢口宿禰の妻が同媛でないというならいったい誰が大矢口宿禰の妻であったのであろうか?。またどうして大矢口宿禰はその妻の名を隠さなければならなかったのであろうか?正史を編纂する上で不都合な真実がここにも潜んでいるのである。

『旧』「天孫本紀」では大矢口宿禰は妻「坂戸由良都媛」との間に「鬱色男」「鬱色謎」「大綜杵」「大峯大尼」の四子を儲けたと標すが、諄いようであるが「坂戸由良都媛」は大矢口宿禰の父「出石心」の妻であるから当然のこと大矢口宿禰の兒の生母ではない。私に確証はないが物部氏の当主「大矢口宿禰」の妻は「日女命」の異母姉「葛木高田姫」ではないかと思っている。同姫は同時に尾張氏当主「建田背」の異母妹でもあり、宇那比姫こと尊称「邪馬台国女王日女命」は改めて云うまでもなく建田背の同母妹という関係にある。「建田背」は「大矢口宿禰」より年長であったが大差はなく「葛木高田姫 」が物部氏当主「大矢口宿禰」の妻であることにその血統の高貴なことから何ら不自然はない。 
(※  [別紙-6] に掲げる大矢口宿禰の系譜箇所は「天璽瑞宝」から抜粋転用している。)

(※ 建田背の同母兄弟は七人で出生順に、建宇那比・建多乎利・建彌阿久良・建麻利尼・建手和邇・宇那比姫・母は紀伊氏の中名草姫/建田背の異母妹は葛城高田姫・同姫の母は葛城氏の避姫)
蛇足であるが女王「日女命」の生母が紀伊氏の中名草姫ということで思わず連想してしまうのが、その五代前の神武東征砌、神武が浪速で敗退して命辛々和歌ノ浦へ漂着し、その地の名草邑で壮絶な殺戮を繰り広げて兵糧を奪い名草の女酋長が逆らったためその肢体を八つ裂きにして引きづりまわした、そうした忌まわしい過去が過ぎるのは私だけだろうか。これも歴史が織りなす巡り合わせか!。

既に周知のとおり『記紀』は共立女王「卑弥呼」が起立していた王朝「邪馬台国」を官撰正史から完全に抹殺している。大矢口宿禰の妻が日女命の異母姉として同正史に登場してきては甚だ困るのである。そこで『記紀』や「三上氏」系譜は意図的に「大矢口宿禰」の存在までも揉み消し標さなかったのである。
さすがに『先代旧事本紀』「天孫本紀」も卑弥呼に連なる名を標すことをはばかり苦肉にも大矢口宿禰の妻を先代が通婚した相手「坂戸由良都媛」へと巧妙にすり替え、先代当主「出石心」の妻にはこれまた窮して稚拙にも孫世代の三上氏「新河小楯媛」(しんかわこたてひめ) をもってきて糊塗した。こうした矛盾した作為的系譜を編むことによって日本の黎明期を織りなす正確な邪馬台国の痕跡を徹底して葬り去った。そして『記紀』編纂者たちは黄泉の国から今以て古代史研究に携わる多くの人々を手玉に取って高笑いしているのである!。
 
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思わぬところで紙面を割いてしまった。本題である魏使「張政」のその後を追うこととする・・。
「張政」は、苟も魏皇帝の勅使であったからこの様相を見て遣使目的不調を理由に直ちに本国へ帰還しても十分名分は立った。しかし張政の選択はそうではなかった。倭の内訌する仔細をろくに解らないまま帰朝報告するには時期尚早とみて供回りの者数人を残して後は全部郡へ還した。そして自らはこの推移を見届けて使命が無事完遂するまで居残ることを決意し、邪馬台国が置かれている国情を幅広く見聞することに力を注いだ。この滞在に最も貢献したのが河内氏で、故に河内青玉繁は娘「埴安媛」を「孝元」の下へ入妃させることができた。一方、居残った張政の帰国時の足が心配であったが伊都国の「一大率」は勅使のごとき強大な権能をもつ軍政官であったため、〝郡の倭国へ使いするや皆津に臨みて捜露(監察)し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣しめ、差錯するを得ず〟「倭人条」、伊都国と邪馬台国との交通・伝達は頻繁でまた倭と郡との交易船の往来も頻繁で、魏使「張政」の帰還に際しなんの懸念もなかった。

彼は始め郡界の守備隊長であったが後年、この倭国遣使の功績が認められ「王頎」の後を継いで帯方郡太守に封じられた。彼は倭での役割を無事果たし終えた後、「掖邪狗」らに郡まで送り届けられた。その掖邪狗ら一行はその足で更に郡から洛陽の都へ朝貢しているのである。掖邪狗は篤き人であった。
張政は倭の内訌が原因で遣使本来の目的がなかなか果たせぬまま「邪馬台国」に足かけ三年間も留まった。その間、河内の難波館に仮住まいし畿内各地の状況をつぶさに見てまわり見聞を広げていた。今でいう情報収集であろうか。こうした異例で特異な行動が許されたのは掖邪狗の保護下にあったからに外ならず、張政を郡へ直接送り届けたことで魏の倭への疑念も氷解し、張政の長年の努力も報われた。張政が倭を去る時、河内で儲けたハーフ一児を残して還った。その児は掖邪狗が引き取って取り立てた。これは我がロマンに留めおく。
    塞曹掾史「張政」の『詔書・黄幢』 奉遣拝仮の儀  (板厚30ミリ)

※ 來倭した勅使は皇帝を代理して倭国王と直接接見することができる。ところが建中校尉「梯儁」や塞曹掾史「張政」は帯方郡の一官吏に過ぎず、その実態は使節一行を取り仕切る統括責任者であった筈だ(勅使といえどもその管轄下にあった)。では肝心かなめの勅使は誰か?「魏志倭人伝」のどこにもその名が記されていない、やむなく私は「梯儁」や「張政」を勅使に仮託して説明してきた


(※ 1) 河内氏の領域は今でいう東大阪から藤井寺それに富田林の石川流域にまたがる一大勢力で、漁労が盛んで御食国の一つとして塩や海産物を主に皇都へ貢納していた。此度は遣使一向饗応の大役をも併せ持ち務めていた。その領袖は河内青玉繁で、翌年その娘「埴安媛」を孝元のもとへ納めやがて孝元第一皇子「武埴安彦」の外祖父となった。後年、この武埴安彦は「開化」によって簒奪された王権の奪還を企てて立ち上がるが崇神朝によってあえなく潰え去った。

(※ 2) 第一次副使「都市牛利」は女王日女命の甥「建諸隅」(当時40歳)であり、第二次副使の「掖邪狗」は日女命の息子「和邇日子押人」(当時53歳)であった。この二人は当時の政を司る邪馬台国きっての最高実力者で双璧をなし、にも拘らず第一次正使「難升米」こと中臣の「梨迹臣」(当時47歳)と第二次正使「伊聲耆」こと中臣の「伊世理」(当時48歳)の異母兄弟は共にその臣下でありながら正使を努めるという奇妙な関係であった。このことは中臣本宗家が代々朝貢正使を司る慣わしであったことを意味する。遠くは奴国を与る漢委奴国王「天児屋根」がいて、その子「天押雲」もまた倭国王「升帥」として朝貢正使を努め、転じて「建御雷」となって神話の世界にも現れ、その兒「天種子」は神武に供奉して東行し、軍神「建御雷」は東行する神武らを国許から援けた。
(この項、第一章・邪馬台国【その一】から抜粋)
因みに詣郡(AD246年)の正使「載斯」は梨迹臣の子「建御世狭名」であり、副使「烏越」が建諸隅の子で若き日の「日本得魂」であったであろう。唯、人の世の変転は目まぐるしく、この日本得魂も和邇日子押人の子「彦国姥津彦」も「開化」の王権奪取(嫡宗王統の交代)の煽りを食って臣籍降下となった。私はこれを〚開化の回天〛と仮称する。

(※ 3) 女王「日女命」の御陵地を特定する。
写真左は、女王「日女命」の宮都「室秋津洲宮」から東へ約1~1.5キロ隔てた小高い山、聖なる玉手丘(たまてのおか)が連なる全体の俯瞰図である。この近くには神武が国見した伝承の国見山がありヤマトタケルの御陵もある。そしてその北の端には日女命の男弟「孝安」が眠る御陵があり、孝安の兄で日女命の夫である「天
足彦国押人」もその近くで眠る。そして日女命も同様、その傍らで篤く葬られた。日女命の遺骸は長い殯の末、干からびて一回り小さくなっていたが死してなお不思議な霊力を放し続けて見る人を畏怖させた。
(山陵図と写真は外部資料引用)
その埋葬された陵形は山肌を剥いだ後にその山全体を円錐台に整形を施し、その中腹に方形の台座をしつらえて、その台座の上で嘗て傅いていた大勢の侍女や巫女たちが日々入れ代わり立ち代わり歌舞音曲を奏でて「日女命」の霊を慰め詣らせ祀っていた。この情景を彼方で弔意遥拝しながら見ていた張政は〝徇葬者奴婢百餘人〟と表現した。この徇は殉ではなく日女命を奉斎する祭祀一団の様子を描いた意味であり曰く、〝その死するや棺有れども槨無く、土を封じてツカを作る・・喪主哭泣して他人就いて歌舞飲酒す〟とはまさに当時の倭の普遍的な葬送風景にして女王日女命の死もまたそれの桁外れに大規模なものであり、これを以て奴婢百余人〝殉死〟と解するのはそもそも倭の風俗に馴染まない。


『日女命』以前のそれまでの大王たちの御陵墓は、単に山丘の頂に円墳を造営して埋葬し祀っていたに過ぎない。ところが神宿る〝司祭王日女命〟が崩御したとき人々はその死を非常に不吉な前兆と畏怖し、朝な夕なに陵前で奉祭する行事を怠らなかった。そのとき始めてその大いなる行事に足る広さの台地(鎮魂祭礼の場)を必要とし新たに人工の方形台地を前方部に付け加えた。これが前方後円墳のそもそもの始まりであり、このことを巨視的に捉えれば弥生時代から古墳時代へのエポックメーキングを画期する象徴的出来事となった。即ち、日本独特の特異な陵形をもつ原点原形はここかにはじまったのである


それにしても魏の蔑字は気になる。その源は儒教と神道の文化的風土の違いからくる彼らの持つ異教への嫌悪感・優越感に由来する。まぁ比喩すれば異教ゆえに互いに相手を嫌うのと同質で唯々失笑する外ない。少なくとも日本人は八百万に神が宿る素朴な自然信仰に根差しており、太陽や悠久の山河・先祖・ありとあらゆる神羅万象が畏敬と祈りの対象であり、彼らの因って立つ拠りどころと比べてみてもその精神の高邁さにおいて遥かに超然的で崇高ですらある。

(本項〚別紙-5〛の「彦太忍信」は音読みであるが訓読みでは「ひこふつおしのまこと」と呼称する)

2015年1月1日   著作者  小川正武