2012年10月17日水曜日

綏靖天皇 「ヌナカワミミ」 【邪馬臺国 その二】 第一章

神渟名川耳尊 (カムヌナカワミミノミコト)
神武の第五皇子(末子)。后は神武の后の妹である五十鈴依媛 (イスズヨリヒメ) 。従って同后の父は「事代主命」。大国主命は外祖父にあたる。

同母兄に神八井耳命(カムヤイミミ)と日子八井命(ヒコヤイ)がいた。一方、神武には庶流長子で朝政に長けた手研耳 (タギシミミ) がいた。神武崩御後、タギシミミは母である神武の后を妻にし王位を奪おうと画策、弟たちの殺害を企てた。この陰謀を母の発した歌から察知した兄弟たちは片丘 (現、奈良・王寺町) に逆襲してこれを討った。 その際、兄カムヤイミミは恐怖のあまり手足が震えて矢が放てず、代わってヌナカワミミが射て止めを刺した。カムヤイミミはこの失態を恥じて弟ヌナカワミミに王位を譲って自らは神官になって仕えた。

母、媛蹈鞴五十鈴媛の詠んだ歌 
“狭井河から雲が立ち登って、畝傍山では大風が吹く前触れとして木の葉がざわめいている”

この変事の背景は、筑紫から付き従ってきた神武の長子と大和出自の后から生まれた弟らとの熾烈な王位争いであった。ではなぜ神武の臣たちはこの争いで長子の側に付かず沈黙してしまったのであろうか!?。
神武崩御(AD109)の前年、登美国の王「宇摩志麻治」はそれまで対峙していた神武と和解の道を選び臣下の礼をとった。その訳は義兄「事代主」の娘が既に神武の后に収まりその御子「ヌナカワミミ」らが大きく成長していたからである。当初、神武の勢力は大和盆地中央をほぼ東西に流れる大和川を境にその南部に限られていて北辺に盤踞する豪族ウマシマチ・アジスキタカヒコネ・それに事代主それらと敵対しつづけていけば神武の存立基盤を危うくしかねない、しかも支配地の一角を占める葛城地域は、神武の后「媛蹈鞴五十鈴媛」を従姉妹とする豪族「剣根」の本幹地でもあった。神武がその地を力ずくで奪い取って東征時の功臣に分け与えて葛城氏を敵にまわすことはとても能わず、むしろこれを積極的に取り込んで王統存立の基盤づくりに先ず専念した。神武亡き後、神武の庶子長子が誅殺されたが神武の遺臣功臣たちがあえて沈黙を守った所以はまさにこうした背景があったからである。

斯くして北辺の巨大豪族物部氏(宇摩志麻治)は神武に降り、世襲初代軍事の大臣に就任して在地(地祇)出自であるヌナカワミミの強力な後ろ盾となった。
 (※ 1) そして神武東征時の功臣たちは新しい大王 (※ 2) に忠誠を誓った。(※ 3)

その頃、北部九州は神武の大和移動とそれにつづく後方支援の負担から疲弊しきっていた。その負担に喘ぐ熊襲たちはしばしば反乱を起こし、加えて筑紫出自の「タギシミミ」が都で誅殺された報も伝わり、それら動揺を抑えるためにヌナカワミミは次兄ヒコヤイを筑紫に派遣すると共に、老いた神つ臣「天押雲」に代えて筑紫の鎮撫に当たらせた。
瀬戸内海を挟んで東西に呼応しうる版図を広げたヤマト王権であったが、なお西日本各地には「邪馬台国」にまつろわぬ国や豪族たちが数多く点在していた。

ヌナカワミミは、葛城の高丘宮(現・御所市)へ都を移し、后は同母の妹で歳の差9歳もある叔母「五十鈴依媛」(イスズヨリヒメ)を娶った。前王朝の姫君姉妹を先代神武につづいて娶ったこの二代目大王は、それだけ大王家の基盤が大和の地ではまだまだ盤石でなかったことを物語っていた。

諡号は、綏靖 (すいぜい) 天皇。
邪馬台国/ヤマト王権第二代大王である。
 [私論編年 AD94-AD135、大王在位25年、崩御42歳]

兄 カムヤイミミはタギシミミの反逆事件から三年後に薨じ、畝傍山北墓に葬られた。後裔に朝臣多氏 (おおし) 一族がおり繁栄し、古事記を編纂した太安万侶も輩出している。

次兄ヒコヤイ命は、祭神として草部吉見神社 (熊本・阿蘇・高森) に祭られている。
(板厚30ミリ)

綏靖治世の時代、中国では安帝(帥升朝貢当時の皇帝)が巡察先で客死(AD125)した。このとき順帝はまだ10歳で、順帝の母を殺害した閻太后が翌年に亡くなり、14歳で元服した順帝は宦官たちにその一族を殺させた。宦官に擁立された順帝は功労者宦官たちを候に封じ養子を認め財産を引き継ぐことを認めた。やがいこの厚遇の宦官禍が発端になって後漢が傾く一因となった。国の北辺では鮮卑族が跳梁跋扈し遼東・玄菟を侵略、高句麗や羌などが活発にうごめいていた。

『記紀』神話に表れる出雲のスサノオは、筑紫のニニギに先立つこと150年前、西日本を網羅して緩やかな出雲文化圏を築いていた。しかし、スサノオから六代目のニギハヤヒ (大国主命)のとき、筑紫のヒムカ族が新天地を求めて東行した。
ここに二つの勢力が大和の地で衝突、相次ぐ敗退で少数尖鋭化した神武軍は飢餓と孤立の中、全滅覚悟の捨て身の襲撃を重ねつつ、遂に磐余の地に寸土の楔を打ち込んだ (AD92)。宇摩志麻治が神武に降ったのはそれから実に15年後のことであり、神武朝が名実ともに成立したのはそのときに始まる。

(※ 1) イスズヨリ姫とヌナカワミミは叔母甥の関係にあり異世代婚であった。王統継嗣に絡んで母系相続を願った神武の后ヒメタタライスズ媛の意向が強く反映された妻問婚でもあった。この婚姻形態は現代では奇異に映るかもしれないが当時の支配層にとっては、王統を継ぐ血統の正当性を重視する証しとしてこうしたことは普遍的であったようだ。

(※ 2) 当時、大王という称号があったかなかったか定かでない。本稿ではひとまず豪族連合を束ねる中心的シンボルを指してそう表記している。 太宰職にしても国造にしても然り。

(※ 3) 降臨初期の神武の版図が大和南部に限られていたことは先にも述べた。北辺の圧力に抗して15年間、神武はその間 無為に過ごしていたわけではなく橿原に坐まして臣らを和泉住吉・紀伊・淡路・阿波へと遣わし版図を広げていた。そして阿波(アワ)に遣わされた天富命はその地を開拓した後、同地に住む忌部氏一族(※ 4)を引き連れて更に肥沃な土地を求めて航路東進し房総半島の南端に上陸、その地を拓いて祖神「天太玉命」を祭った、それが安房神社の由緒に記されている。

 (※ 4) この忌部氏から後代、「稗田阿礼」が出ている。『古事記』の国史編纂では中臣氏と共にこの稗田阿礼が従事していたことが明記されている。


2012/10/17     著者 小川正武