2015年12月29日火曜日

開化天皇 「彦大日日」【巻向王統 その 8】第二章


漢風諡号 第九代 開化天皇

御 名 稚日本根子彦大日日尊 (わかやまとねこ ひこおおひひ の すめらみこと)
第四代倭国大王「懿徳」(スキトモ)の曾孫である。
父は彦奇友背二世。 『記紀』はその御名を秘匿隠蔽せり。
母は、「欝色謎」。 欝色謎の父は第五代物部氏当主「大矢口宿禰」
后は、「伊香色謎」。 伊香色謎の父は大矢口宿禰の第二子「大綜杵」
〚私論編年 生没年 AD225~275年、 在位21年、 崩御51歳〛

事蹟一 ;  それまでの尾張氏系王統から物部氏系王統へ、嫡統王家の
                交代(王権の回天)を断行する。

第八代大王「孝元」の早世に伴い、それを機に長年の宿願であった大王位奪還を一気に成し遂げる。為に、それまで四代《孝昭⇒孝安⇒孝霊⇒孝元》続いていた尾張氏王統の流れは絶たれた

この結果、「懿徳」嫡孫(三輪系)から、より物部氏の血脈色濃い新たな大王家が出現した。即ち、開化の母は物部氏「欝色謎」であり、開化の后は母の異母兄で物部氏の「大綜杵」の娘「伊香色謎」であった。そして開化と伊香色謎の間に「崇神」が生まれた。その崇神は成長してのち開化の同母兄「大彦」の娘「御間城姫」を皇后に迎えて「垂仁」をお生みになった。この間、豪族物部氏の権力は絶頂期に達していた。ゆえに崇神は崇神元年正月に生母「伊香色謎」を尊んで皇太后と申し上げ、祖母「欝色謎」を尊んで大皇太后の称号を贈られて共に長寿を寿ぎ且つ物部系大王が永久に続いていくことを賀詞し、同床共殿には「天照大神」と「豊受大神」を祭って祈願した。

私はこの王統を仮に〚巻向王統〛と標し、この王統交代劇を「開化の回天」と仮称した。

下記〚別紙-9 その2〛は尾張系王統から物部系王統への王統交代劇を表している系譜である。その主意は、孝元と開化は父子関係ではなくそれぞれ嫡統王家が異なっていることを示す。けだし、両氏族ともその始祖を遡ればみな同じ出雲王朝最後の大王「大国主命」に辿り着く同根(異母兄弟)なのである。


事蹟二 ;  中国『晋』成立の翌年(AD266年)、開化(41歳)は「臺與」(29歳)の夫君として臺與と共に洛陽を直接訪台した。当時としては型破りな前代未聞の親善外交をやってのけた。
『梁書』(636年)に曰く、「復立 卑弥呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並び受中国爵命」

冊封体制下の晋朝は、「倭国女王」夫妻の〚化外慕礼〛(兄弟国レベルの外交)を色濃く滲ませた来朝を内心慶ばず、これをどのように遇するか始めは戸惑いをみせていた。一方の倭国は、使君帯方太守「張政」からの通報を得て中国で易姓革命が行われたことをいち早く知らされ、それを受けて自ら率先して晋訪台を敢行し、化外慕礼の誠を態度で表して見せた。倭国女王夫妻のこうした国を空けた大胆な「洛陽訪台」は16年前の答礼使「和邇日子押人」以来の壮挙で、これに一番驚いたのは「張政」その人であったが倭国内訌の弊がこれを以て全て払拭された証しだと捉えて「張撫夷」が功を奏したうれしい驚きと享けとめ、このとき臺與29歳の成長した姿に感慨一入であった。


翻って晋朝が倭国女王夫妻を如何に遇したか知る術もないが、対等外交で臨んでくる倭国の姿勢は煙たい存在(恐らく華夷体面上、前例にはしたくなかった!)で、この倭に対して晋は当たり障りのない勳爵をお二方に贈ることで体面を保ち鄭重にお引き取り戴いて静かに幕引きとした。

この事蹟は中国史書『梁書』『通典』の行間にその記録が僅かに残るに過ぎないが、当時の倭国女王夫妻による革新的で進取の気性に富んだ中華帝国「晋」との対等外交の “気概や如何に” と云わんばかりの意気込みがこの短い文面から窺い知れてなかなか興味深く、史実に立脚した日本史の一断面がリアルに見てとれるのである。

AD254年、それは突然の衝撃であった。前年に斯蘆国の「昔宇老」誅伐がありその余波覚めやらぬ中、第八代大王「孝元」が俄かに崩御、享年25歳の早世であった。為に王都に激震が走り遺された皇后「伊香色謎」(22歳)とその正嫡「彦太忍信」はまだ2歳、妃「埴安媛」(24歳)とその皇子「武埴安彦」は4歳という幼さであった。皇位継承資格第三位に当たる孝元の異母弟「吉備津彦」は遠く「温羅の吉備」と対峙する初陣間もない少年(15歳)で伯父であり同時に養父である「大吉備諸進」(針間国守)に随身して都と距離を置く人となっていた。


この間隙を衝いていち早く立ち上がり王都を制したのが「彦大日日」(29歳)であった。「彦大日日」は孝元の王宮「軽境原宮」警護を名目に行動を起こし、同王宮を占拠して同后妃とその皇子たちを匿った。同時に大彦(彦大日日の実兄)もまた諸族(豪族連合)の統合のシンボルたる女王「臺與」の坐す神殿「巻向宮殿」を抑えて布陣し、王都を完全に制圧して尾張氏・和爾氏・葛城氏ら反勢力の出鼻を挫き俄然圧倒的優位な立場に立った。

物部氏・倭氏・三輪氏らの豪族を背景に彦大日日は、その優位を生かして葬送儀礼を取り仕切り、孝元ご遺骸を殯宮に安置し奉り、然るのち “孝元ご陵墓造営”(剣池嶋上陵)を高らかに宣布して自らが正当な次期継承大王たるを内外に誇示するに至った。

(※ 私は人質入妃・恭順入后の表現を敢えて文飾しない。それがより当時の実態に即していると思うからである)。

然れども前王統支持勢力は依然侮りがたく、もし針間から「吉備津彦」が踵を返して俄かに攻め上ってくることがあれば、忽ち同王統支持勢力が足下に駆けつけ他の日和見的豪族も参集して趨勢は一挙に攻守所を変えるところとなりかねず、それを牽制しつつ都を鎮めるにはなお力不足を覚え因って彦大日日は「孝元」后妃とその皇子二児を半ば軟禁状態(人質)にして我が掌中に留め置き、御自らは一年間の心喪を経たのち女王「臺與」との婚儀を調える旨天下に知らしめ、旧来勢力の反抗の目を事前に摘む硬軟使い分けた策を次々に打ってそれらの機先を制した。


翌年、喪が明けるのを待って彦大日日は物部氏の本貫地「登美国」の東部、御蓋山の麓に新たな都「春日率川宮」(かすがのいざかわのみや)を築いてその地で即位(255年)した。第九代倭国大王「開化」の誕生であった。王都がそれまでの十市郡から距離を隔てた遥か北の添上郡へ遷ったということは、それだけ開化朝(巻向王統)の初期段階における基盤がまだ脆弱で物部氏の勢力圏(庇護下)に置かれ(選ばれ)たということを意味した。


嘗て「神武」東征の砌、神武軍が出雲王朝の深奥の桃源郷ともいうべき「葛城」の東麓を急襲して、同王朝秘玉の皇女二姫を奪って人質とした。同王朝の脾臓ともいうべき彼の地を突かれたその責めを負って「大国主命」から死を賜った原大和の蕃王「長髄彦」は無念の最期を遂げていた。この叔父「長髄彦」を哭いて処断したのが物部氏の始祖「宇摩志麻治」であった。「欝色雄」はその五世孫に当たる。

系図は〚宇摩志麻治⇒①彦湯支⇒➁出雲醜⇒③出石心⇒➃大矢口宿禰⇒⑤欝色雄〛
「開化」の御世になって漸く「長髄彦」の名誉回復が図られ物部氏第六代当主「欝色雄」は長髄彦王の本貫地「富雄」において御陵「丸山古墳」の造営にとりかかり、登祢神社(奈良市石木)を創建して篤く祀った。同様に磐余が本貫地であった同弟「安日彦王」を祀って等祢神社(桜井市桜井)を創建してここでも篤く祀った。長髄彦と安日彦はヤマト王権開闢以前の出雲王朝を奉じる〚原大和〛(大阪摂津から奈良盆地北部と東南部一体にかけての地方豪族)の支配者であった。

更に申せば、「開化」の皇后の実兄「伊香色雄」は崇神の御世になってから物部氏の始祖「宇摩志麻治」を奉って石上神宮を創建した。登祢神社創建当時はAD260年代であり、石上神宮の創建はその20年後のAD280年代である。因みに280年代は若狭の国「玖賀耳御笠」(狗奴国)の討伐と「武埴安彦」叛乱を鎮めた前後に当たり如何に物部氏の勢力が当時の「大王家」と結びついて強大であったかが偲ばれるのである。


逆説的に云えば「欝色雄」が遠祖「長髄彦」王と「安日彦」王を奉斎するまで没後168年間待たねばねばならなかったという過酷さを意味し、その次の世代の「伊香色雄」が物部氏始祖「宇摩志麻治」王を奉斎するまで同王没後148年間待たねばならなかったということである。
◆1◆
開化の政略と三皇女の入妃

《第一皇妃》、 
開化は即位すると同時に諸族の象徴的存在であった「臺與」を真っ先に入内(人質入妃)させ、翌年に第一子「彦湯産隅」を儲けた。 このことで臺與の兄「日本得魂」(尾張氏第九代当主)をまず帰順せしめた。

《第二皇妃》、 
第一子を儲けた同年、開化は母方(物部氏)の姪「伊香色謎」を娶り(恭順入妃)、翌年に第二子「崇神」を儲けた。崇神を儲けたことによって物部氏と同族意識を持った新たな王統がここに確立した。私はこれを便宜上「巻向王統」と仮称した。

《第三皇妃》、 
第二子を儲けた同年、開化は女王「日女命」の孫娘「姥津媛」(和爾氏)を娶り(人質入妃)、翌年に第三子「彦坐」を儲けた。これによって姥津媛の兄「彦国姥津」(和邇日子押人の嫡子)を帰順せしめた。こうして前王統の係累をすべからず取り込み、且つ物部氏の「大綜杵」「伊香色雄」「大峯」らを大臣・大祢に取り立てて脇を固め朝政を専制することで開化はもはや押しも押されぬ第九代倭国大王となっていた。それは開化即位から三年目のことである。

彦国姥津の開化への帰順は、あたかも物部氏の始祖「宇摩志麻治」が「神武」に帰順したときの状況とよく似ていて小よく大を制していた。単一民族の王朝交代劇の特徴がここから観られるのである。

(※ 和邇日子押人は母「日女命」の代で尾張氏本宗家から和爾氏へ分岐した)。

名実共に倭国大王となった開化は、三妃の内「崇神」を生んだ「伊香色謎」こそ最も吾が身内に近い母方親族と尊び、先妃「臺與」を差し置いて後妻を立てて異例の正后とした。「孝元」の后であった物部氏「伊香色謎」は奇しくも開化の皇后として大きな宿命を担って二度の務めを果たし、物部系王統に大きく貢献した。


◆2◆
孝元の遺児、その後

時はAD244年、孝霊の皇女「倭迹迹日百襲姫」(7歳)は、女王「日女命」(卑弥呼)の死後、再び争乱が繰り返される大和国を出でて四国東讃の「安戸の浦」に向かい、その地に水主御殿を造営して住まわれた。翌年、母方の伯父「建諸隅」は山背の水主邑に陣を構えて北に若狭の「海部氏」に備え、南に物部氏が庇護する三輪西麓巻向の「彦大日日」と対峙する緊迫した中、倭はこの年の魏への遣使を中止していた。



時が過ぎてAD257年(崇神出生年)、父「孝霊」も伯父「建諸隅」も今や早や亡く、世は「開化二年」の御宇になっていた。この年、伊香色謎は開化の第二子「崇神」をお生みになり、図らずも開化の正后となられていた。このことで孝元の嫡子「彦太忍信」(5歳)が害されることを恐れた母「伊香色謎」は同皇子の助命嘆願と同皇子の依って立つ受け皿に八方手を尽くされていた。
それに応えたのが「彦太忍信」の若き叔母「倭迹迹日百襲姫」(20歳)であった。同姫はその養育を買って出て開化へ恭順を示し、住み慣れた東讃水主邑を後にして開化の眼の届く大和の古巣「黒田蘆戸(いおど)宮」にお戻りになり、同皇子を引き取り後見人として無事成人するまで育て上げることができた。だが、それもこれも偏に「彦太忍信」の庇護者たるを弁え、時の為政者猜疑心の目が及ばないよう細心の注意を払っていたからにほかならず、ゆえに国政の困難な時の状況もよく見えていて、女王「臺與」蟄居の後を埋める神託はこの「倭迹迹日百襲姫」が図らずも担うこととなっていた。
晩年は再び東讃の水主邑で余生を送りその地で薨去なされた。


※ 「倭迹迹日百襲姫」の母は尾張氏当主「建諸隅」の妹「倭国香媛」(やまとのくにかひめ)である。「彦太忍信」の父「孝元」は倭迹迹日百襲姫にとっては父「孝霊」を同じくする異母兄に当たる。同姫は孝元の忘れ形見「彦太忍信」養育に人生の大半を奉げた。そして「臺與」とは年齢を同じくする母方のいとこ同士という関係から「臺與」が還俗して後は、臺與は国事に務め郡太守「張政」との良好な関係を維持し因って魏の国情にも精通した秀才ぶりを発揮して、晋朝成立間もないAD266年には、開化と共に訪台して前代未聞の善隣外交を行った。その結果評価は兎も角として次代の崇神登場によって能くも悪くも臺與主導の神託政治は忽ち廃止され、それに伴う旧弊たる前時代的な因習や銅鐸文化は強権をもって一掃された。為に、崇神の維新断行によって臺與は都を追われ丹波国余社(よさ)に蟄居の身となり晩年はその地で哀れにも寂しく薨去した。

一方、孝元の第一子「武埴安彦」(7歳)とその母「埴安媛」は共に軽境原宮に残され依然禁足が解けず、こころ穏やかならざる不安で不自由な日々を送っていた。だがその転機が訪れたのは幸いにも「倭迹迹日百襲姫」が「彦太忍信」を黒田の蘆戸宮へ引き取ったことが切っ掛けで同母子共々やっと下郷が許され河内の国へと帰っていった。


※ 「孝元」の妃「埴安媛」は、河内の豪族「青玉繁」を父に戴き、その父の経済基盤は強大で大和へは贄(にえ)を経常的に貢進(主として海産物)し、とりわけ魏の使節を接遇した隠れた功績は評価が高く、その青玉繁を敵に回す不利を避けた「開化」の聖断は、幸か不幸か崇神の代になって「武埴安彦」の叛乱を萌芽する要因をこのとき既に抱え込んでいた。


◆3◆
孝元の遺臣、その後

この頃、孝霊の皇子「彦五十狭芹彦」(18歳)は吉備の『山中』(備中)に進出していて倭を奉ろわぬ吉備冠者「温羅」とその一味に対峙していた。彦五十狭芹彦(後の吉備津彦)は聡明で、「温羅」独りを除かんとしてヤマト(倭)に心寄せる吉備近郷の有力者と渉りをつけていた。それは吉備の民草が徒に戦耗するのを避けんとする既に先の治世を見越した布石であった。加えて姉君「倭迹迹日百襲姫」が東讃水主邑を離れて王権簒奪者「開化」が治める大和国へ還っていた身を案じ、その安危に備えた兵力温存を同時に秘めた戦略でもあった。そうした吉備津彦の危惧をよそに皇后の意思を忖度して手を差し伸べた聖女「倭迹迹日百襲姫」に対し開化朝は鄭重にこれを都へ迎え入れ、姉を気遣う吉備津彦のそれは幸いにも杞憂に終わった。故を以て吉備津彦の開化朝への帰順に繋がっていた。(※ 若輩「彦五十狭芹彦」は伯父「大吉備諸進」が吉備進攻で腐心した戦略的薫陶を受けていた。)

一方、明暗を分けたのが尾張氏「日本得魂」で、六年前 山背の水主に布陣して父「建諸隅」の副将として彦大日日(開化)と対峙し、女王「臺與」共立を以って矛を収めた開化は辛酸をなめたその当時を忘れず、尾張氏本宗家から大丹波の宰(丹波・丹後・但馬の総帥)を召し上げ、丹後の加佐郡一国のみを残してその強大な権力を削いだ。為に尾張氏本宗家第八代当主「日本得魂」は大きくその権勢が毀損(格下げ)され、栄華を誇っていた絶頂期から瞬く間に転げ落ちて嘗ての勢威は見る影もなく凋落した。

時の私論編年は、崇神出生年AD257年(開化2年)を基準に、開化32歳、日本得魂27歳と見定める。
嫡統王家の交代による祟りを怖れた「開化」は、女王「日女命」とその甥「建諸隅」を邪馬台国の皇祖神と畏み崇め奉り、同床共殿に篤く祭った。

時代が「崇神」の御世に移っても同様、その国事行為は引き継がれた。

崇神には大皇太后「欝色謎」・皇太后「伊香色謎」・皇后「御間城姫」御三方ともお健やかに何れも物部氏を出自とする同族で仲睦ましく暮らされ、揃って皇祖神「二神」をお詣りするのが慣わしになっていた。ところが或る時から国では百姓の流離や背乱が相次いで起こり、この災厄は共殿に鎮座する二神の祟りが所以なりとひどく脅え参らせ、御三方のご心労は極みに達し、その状態を畏れ多いとした「崇神」は皇女「豊鋤入姫」に皇祖神「日女命」(天照大神)を託し、皇女「渟名城入姫」には「建諸隅」(豊受大神)を託して同床共殿の間から祓い給い、神籠(ひもろぎ)の地を尋ね委ねて祀らせ奉った。

吾が子(皇女二姫)を斎宮に立ててまで『同床二神』と決別した「崇神」は、それは同時に先の邪馬台国からの決別をも意味した。ゆえにその気概は諡号にも表れて〚御肇国天皇〛(はつくにしらすすめらのみこと)となってヤマト王権の新たな王朝を切り拓いていく強い意志をもって数々の維新断行を行い、大和国初代天皇を名乗られた。


(思うに『記紀』編纂者たちは是以後を以って日本国開闢紀元としたのではないか、そしてそれ以前の為政者たちを神代の神々として祭り上げた。だがその神々には隠しようのない歴史的事蹟があり、それを示す現実の神社が数々残され多くの古墳があり複数の外国史書があり各々豪族の系譜があり何より発掘考古学の大きな発展と共に科学的検証がより可能になり歴史的事実が明らかになってきている。

そのことが逆に尾張氏守護神「建諸隅」の憤怒を買い神籠(ひもろぎ)の地が定まらず各地を転々と遷奉することとなり、託された斎宮は哀れにも憔悴しきるのである。この斎宮お二方の出自は『記紀』系譜とは異なり、「豊鋤入姫」は皇祖神「日女命」を奉斎して点々とするが「渟名城入姫」は皇祖神「建諸隅」から受け容れられず “髪落・體痩”して半ば廃人と化す。 この伝承から「渟名城入姫」の出自は尾張氏ではなく生母が紀伊氏の遠津年魚眼眼妙媛であることを暗示している。

一方、崇神の異母兄「彦湯産隅」(号を丹波道主と称す)は憤怒と化した尾張氏守護神「建諸隅」の祟りを恐れて鎮魂の社を丹波の比治真名井原(比沼麻奈為神社)に建てて奉斎した。この祭神を『記紀』は「豊受大神」(とよけおおかみ)と名を准え「丹波道主」の皇女「八乎止女」(やおとめ)を斎宮とした。「八乎止女」は「建諸隅」の曾孫でもあった。そして時代が下って「雄略」の御宇、「雄略」はこの「建諸隅」こと「豊受大神」を丹波の地から伊勢外宮へ遷し奉ったのである。



『記紀』は「建諸隅」の御名を豊受大神に仮託して伊勢外宮の祭神としたが、その言で云えば女王「日女命」もまた天照大神の名に仮託して伊勢内宮の祭神とした。外宮に先んじて内宮の創建であったが、故に「雄略」の夢枕に現れた「日女命」は甥「建諸隅」を遠き丹波から傍近く(伊勢)へ呼び寄せよ!と命じられたのである。むべなるかなである。
(左の姿絵は倭国30余国が共立した邪馬台国女王「日女命」である。同女王は同時に出雲王朝最後の大王「大国主命」の六世孫でもある。) 
更に付言すれば、宇佐神宮の三殿は「日女命」を真ん中に挟んで左右に「応神」と「神功皇后」を配す。

この祭神は神代の神ではなく史実に基づいた実在した現人神であった。
(写真右は宇佐神宮三殿の配置絵図)
当時の古代人は、謂れなき蔑称「卑弥呼」の名を隠避してその御名を「比売大神」と准えて「日女命」を暗示した。「比売大神」の名によって今日に伝えられた女王「日女命」は、神武以前の異界の神々アマテラスオオミカミ・スサノウノミコトとは次元を異にした。
「開化の回天」以後は、人皇の女王「日女命」を神名「天照大神」(あまてらすおおかみ)に仮託して指し示し、人皇「建諸隅」を神名「豊受大神」(とよけおおかみ)に仮託して指し示した。

神功皇后も応神天皇も元を遡れば女王「日女命」の嫡裔である。
ゆえに、三殿の真ん中に「日女命」が堂々鎮座するのは、これまたむめなるかなである。

古代ヤマト神話にまつわる数多くの神々はそれぞれ出雲王朝往時の人々が本邦や九州それに任那半島を跨いで躍動(環古代倭地圏)していた縄文人・ 弥生人そして古墳時代の人々(日本人)の様子を垣間見せる。即ち、雄大に展開する神話の世界は紀元前における日本の原風景をそのままに気宇壮大なスペクタクルを描いてみせる伝承風景にほかならない。そういう意味で伊勢内宮・外宮の御祭神が天照大御神であり豊受大神であるということは、出雲王朝の守護神と大和王朝の守護神がオーバーラップして、同時にそれらの八百万の神々がいて日本の安寧と豊穣を共に願って鎮座する。更に申せば、この入子構造の日本神話は、時代が下って「持統」女帝の御世になってからも新たに加わり「持統」が天照に准えられ嫡孫「軽皇子」(文武)がニニギノミコトに准えられて〚天孫降臨説話〛が更なる重層的深みを増していた。 
(※ 因みに持統女帝の治世は7世紀末である)。

和邇日子押人の嫡子「彦国姥津」は同時に開化妃「姥津媛」の実兄で、祖母「日女命」の実兄(尾張氏第六代当主「建田背」)を祖父にもつ臺與とは彦国姥津の方が歳の差のひらいた齢上のまたいとこ(再従妹)という関係であった。当然、人質入妃という性格を宿す「臺與」の降下還俗とその生末に心を痛めていた。そして和爾氏「彦国姥津」の妹「姥津媛」の子「彦坐」が次代の崇神期、玖賀国(狗奴国)を討滅(285年)して恩賞に若狭を拝領、同年の彦国姥津は老いて65になっていてその子「彦国葺」将軍は、「木津の吐帥」(はせ)の古戦場上流で反逆者「武埴安彦」率いる浪速の軍勢を迎え撃ち皇都進入を阻止して軍功を挙げていた。この和爾氏「彦国葺」は更に次期「垂仁朝」では「五奉行」の一人に数えられ巻向王統を支える重鎮となっていた。
そして女王「日女命」の血脈「和爾氏」は中央に留まり続け、その血脈に通じる後裔から「河内王統」が出現した。和爾氏が中央に居続けたことが河内王統実現を容易ならしめた有力な要因の一つでもあった。



◆4◆
開化の三皇子
崇神紀十年(AD285年)の「彦坐」は御年27歳、「日本得魂」は55歳であった。
この年、日本得魂は往年の宿敵「玖賀耳御笠」(狗奴国男王)をその御手で討っていた。その行軍は湖北から敦賀へ抜け玖賀国(狗奴国)の牙城青葉山へ征西するルートを辿り遂に若狭一円を平定した。この古代最大の戦乱はヤマト王権(邪馬台国女王 日女命)を奉ろわぬ出雲王朝係累最後にして最大の王を誅したことを意味した。この討伐を勅令したのが開化第二皇子「崇神」であり、第三皇子「彦坐」は討伐軍都督となって巻向から湖北ルートで北進した。「彦坐」の血筋といえば「日女命」を曾祖母に戴き、「臺與」を伯母にもつ尾張王統に繋がる名門であった。また「開化」の兄「大彦」は高齢を押して「彦坐」に供奉していた。
「彦坐」の四世孫は「神功皇后」に当たる。「彦坐」は討伐途次、淡海(近江)の「三上氏」向背を恐れて三上氏嫡女「息長水依媛」を質に取っていた。そして「玖賀国」(狗奴国)平定後、凱旋して「息長水依媛」を妃として迎え入れた。其の四世孫が「息長足姫」こと「神功皇后」なのである。

一方、同時並行して山背から丹波道を抜けて由良川沿いを下り東進して「玖賀国」を目指すもう一つの動きをする優勢な皇軍があった。その都督は開化第一皇子「彦湯産隅」で、同皇子は玖賀国領域の残党を駆逐しつつ丹波一円を平定した。その軍功により崇神から「丹波道主」の勳爵を賜り、それを機に「彦湯産隅」は丹波峰山の五箇舟岡に府を置いて、以後は専ら「丹波道主」の号を名乗って都を離れた。そして「日本得魂」に代わって丹波の宰となった。為に、日本得魂は尾張氏本貫地〚大丹波〛を失い、それまでの本宗家の威信は大きく傷ついた。


「日本得魂」の父「建諸隅」は同時に「丹波道主」の母「臺與」の父でもあった。故に丹波道主にとって「建諸隅」は母方の祖父という近い尊属であった。このヤマト王権の守護神「建諸隅」(豊受大神)の領国を奪いあまつさえ嫡統王家を交代せしめた開化朝とそれにつづく巻向王統は、いまや憤怒の形相を露わにした豊受大神に震え上がり、相次ぐ災厄を前におののき畏怖した。

丹波道主は、自ら開いた府(五箇舟岡)の近くに「建諸隅」を祭神とする〚比沼麻奈為神社〛を創建して娘である「八乎止女」(やおとめ)姫を斎女(巫女)として仕えさせその魂魄を鎮め参らせ祀った。その祭神のことを神名に准えて「豊受大神」と尊称した。(右上は守護神建諸隅)



開化第二子の「崇神」は生まれながらの大王であった。彼の高祖父「懿徳」は神武以来四代続く三輪氏母系嫡孫であった。懿徳の父「安寧」は末子継承の当時の理に倣って懿徳の異母弟「孝昭」を日嗣の御子に立てていて亡くなった。ところが懿徳の生母で安寧の皇后「渟名底仲姫」(三輪氏)は実子「懿徳」を大王位に就けんと画策し、時の大臣物部氏の「出雲醜(色)」(いずもしこ)はそうした皇太后の意思を忖度して孝昭に優先して懿徳を大王位に就けた。ここに皇位を巡る永年に亘る内訌(イズモシコの変)が惹起し、倭国大乱(後漢桓帝・霊帝治世の間146-189)として遠く中国にまで伝わった。
(左上は第四代懿徳大王)
そして懿徳が崩じた後、懿徳嫡子に代えて「孝昭」が毅然と第五代倭国大王に為った。されども懿徳嫡統との内訌は依然解消されず尾を引き倭国は引続き乱れた。(この間、任那の統治能力が大きく削がれていた)為に倭国の長期安定をなにより願う諸族の長たちは抗争に明け暮れる内紛を倦み、両嫡統王家の緩衝体として共立女王「日女命」を擁立することで鎮静化を図り、よってやっと倭国大乱を収めることができた。
この巫女的女王を実務面で支えたのが孝昭の皇子「孝安」であった。「孝安」は「魏志倭人伝」に出てくる男弟であった。 
(卑弥呼が既に子の居る未亡人であったことを陳寿は知る由もなく、ここでも史実に正確性を欠いた魏志倭人伝の誤謬が視てとれるのである)。
日女命の子は「和邇日子押人と押姫」。押姫の子が「孝霊」なのである。

この孝昭にはじまる皇統も四代つづき尾張氏血脈が深く関った。そして皇統譜に出遅れていた物部氏の血脈濃い「開化」が遂に第九代大王と為って登場した。諄いようであるが崇神はその開化の子であり、崇神の祖母は物部氏「欝色謎」であり、崇神の母は物部氏「伊香色謎」であり、崇神の皇后は同母伯父で物部氏「大彦」の娘という関係であった。崇神の父「開化」を大王位へ押し上げた遠大な画策者は物部氏本宗家第五代当主「大矢口宿禰」であり、この人物こそ物部氏の中興の祖といってよく、同宿禰は斜陽を嘆く懿徳嫡孫を愛娘の「欝色謎」と見合わせ孫「大彦」と「開化」を掌中に入れ、女王「日女命」亡き後、男弟が輔佐する大義名分が失効した機会を逃さず遂に物部氏による倭国大王実現へ導いたのである。「開化」が同宿禰の墳墓を造営したであろう古墳の場所は不明であるが恐らく「藤原不比等」に匹敵するこの人物のそれは今後の探究に待つしかない。
第九代 開化天皇


◆5◆
任那半島の情勢

「開化」の時代、任那半島では、新羅が高句麗と講和して百済と戦っていた。その主戦場は槐谷(忠清北道槐山郡)・烽山(慶尚北道栄州市)など半島中部のせめぎ合いで一進一退を繰り返していた。戦局がやや有利に展開していた百済は新羅に和を申し入れていたが新羅は高句麗との連携をバックにこれを黙殺して強気であった。
新羅のこうした一連の侵略は自前の鉄資源(鉄産地)獲得のためであり、その主産地が京畿道と慶尚南道に集中していた。新羅(当時は斯蘆国)は半島南部に盤踞する倭勢力とは全面的に対抗し得ず、勢い百済を攻めていた。だが、任那倭人にとっても新羅の脅威は日増しに増していて、加羅産の鉄素材や鉄器を採掘加工して洛東江を下る途中で奪われる危険に絶えず曝されながらも、金海~対馬~北部九州ルートを経て列島各地へ舶載していた。同様に「臺與」主導の交易外交も功を奏して任那西岸の多島海を行き交い帯方楽浪二郡へも盛んに鉄を齎せていた。即ち、倭人または倭系官吏が任那各地の通関関所で各々交易を監理監督していたことがここからも見てとれるのである。


著者・制作  小川正武  2015/12/29



〚追記雑感〛『記紀』編纂者たちは「御肇国天皇」(第十代崇神)以前の『邪馬台国』の存在をなぜか日本古代史から抹殺した。
そして豊鋤入姫と渟名城入姫お二方の斎宮がその謎に深く関わる。両斎王が献身したその神々こそ日本古代史に隠された真相を語っていた。本稿ではその一片をほぼ明らかにしたつもりである。
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