2013年12月20日金曜日

第一章 (完) 『記紀』に疑義ありて、【邪馬臺国 その十九】 

           
女王「日女命」を輔弼してきた男弟「孝安」が66歳(AD240)で崩御した。その年、日女命は御歳70の古希を迎えようとしていた。顧みて在位53年の永きに亘る祭政を主宰してきた彼女にとって、この不二の男弟を失った痛手は爾後の重責に耐える気力を一気に縮めた。彼女は皇霊奉斎殿で倒れ、以後病床に臥せる人となった。ために、孝安の皇子「ネコ彦フト二」 (孝霊) が代わりに立って、后「細媛」(クワシヒメ)の出生の地である磯城の庵戸宮(いおとのみや)へ都を遷し、その後即位して政を執る仕儀に至った。
そして女王「日女命」といえば、室秋津洲の宮殿から東に朝日が昇る玉手丘 (たまてのおか) の頂に男弟を篤く葬り、それに連なる夫君の陵墓と共に遥拝する癒しの日々へと変わった。
しかし、その華の都の香しい平安の日々は長く続かず、大王位を巡る異なる権力のマグマがやがてこの地で噴き出してくるのである。


私は、『記紀』には幾つかの重大な改竄があって、時の権力者がその編纂過程において不都合な部分を削ぎ取り、或は隠蔽し、或は恣意的に取り繕い糊塗した、そうした不自然な矛盾を見る一人であります。
そこで私は、素人ゆえの強みを生かして、たとえアカデミズムからの論難ありと致しましても あえてそれを意に介さず、先達諸賢の深淵なご意見をも処々取り入れながら、それでもなお自らの存念に従いここに大胆に私見を述べていきたいと思う。


AD60年ころ既に、大和の登美(大和川を挟んで大和盆地北部の地)を治める「長髄彦」は、出雲の国を治める「三輪氏」や丹波の国を治める「尾張氏」らの氏族が、冬の積雪寒冷地を避けて温暖な美しまほろばの国 大和の磯城や高尾張(大和川以南の地)へ移住してきたのを受け容れていた。そうした長閑な営みがつづいた十年後、出雲の族長ニギハヤヒ(大国主命)は長髄彦の妹君『ミカシキヤ姫』との間で「宇摩志麻治」を儲けた。
『記紀』はこの時期を境に、大和へ入ってくる大和以外の人々を「神」と称え「天降る」と表現し、王に関わる個々の人々を「命」(ミコト)と敬い、大和の地を豊葦原瑞穂の国と謳った。
私は本稿ではそうした装飾敬語を極力排して、人物名だけを而も簡略化して(時には漢風諡号・和風諱号によって)記すことに心がけている。


ウマシマチが生まれてから15年後、伝え聞くその青く連なる山々に囲まれし豊穣の地を求めて、神武はその王族と家臣団を率いて筑紫のヒムカから遠く東へ船出していった (※ 1)。
それは命がけの移住であり失敗は族滅を意味した。それゆえに安芸でも吉備でも食糧の現地調達に腐心し、略奪する度に反撃に遭い、その移動の困難さに神武から離れてその地に居着く者も多く出た。激減した移住集団はそれでも神武軍に付き従い大和の入り口河内の内湾 日下へ辿り着いた。そして信貴の龍田から大和へ侵入しようとしたが道険しく引き返した。その動きを察知した長髄彦は生駒の孔舎衙坂(くさかざか)で待ち構え、攻めくる神武軍に激しく応戦してこれを撃退した。

惨敗を喫した神武軍は、兄でそれまでの統率者「五瀬」を失い、南に敗走して和歌ノ浦の名草邑で凄惨な殺戮を繰り広げて兵糧を奪い、紀南海岸を更に転々と南下した。熊野灘で暴風に巻き込まれて難破し、命からがら二木島に漂着。神武は九死に一生を得たものの残る兄弟全部をここで失い一族郎党も全滅の危機に瀕した。が、辛うじて村人(高倉下)らに助けられて息を吹き返した。やがて体力を取り戻した武装集団は海路東進を断念、残った僅か200名足らずで熊野の邑を武力制圧し、帰順してきた八咫烏(建津身)らを矢面にたてて険しい紀伊山地を縦断、吉野から大和へ侵入するのである。
[上の板図は、AD91年ころの大和盆地の勢力図を示す。長髄彦の支配地とそれと対峙した神武の侵入ルートおよび制圧圏を表す]

紀伊山地を下ってきた神武の飢餓集団は吉野川の阿田で兵量を獲得、ひとまず飢えから脱した。先年、その下流域で名草の女酋長が神武軍に逆らって肢体を八つ裂きにされた衝撃はここ川上にも既に伝わっており無防備で小さな阿田の鵜飼集落の抵抗は即邑滅を意味し否応のない帰順であった。神武はこの阿田を兵站地として押さえ、前哨戦での消耗を避けるため潜に迂回して吉野の国栖から宇陀へ侵入、穿(うかち)邑で弟猾(おとうかし)と反目しあう兄猾(えうかし)を血祭にあげ、その肢体をここでもバラバラに切り刻んで引きづり回し弟猾の反抗心を剥ぎ取り、ひなびたこの山間集落をなんなく制圧した。ついで、長髄彦の弟「安日彦/亦の名ヤソタケル」が防衛線を張る音羽三山を遠く眺めて神武は、〝いま見る細螺(しただみ/巻貝のように這い回っている敵兵のこと)を駆逐することは熊野の二木島に這い上がって一命を取り留めた我ら鬼神にとってなんでもないことだ、いざ討ちてしやまむ〟と号令一過、手薄の国見丘を目指して一気に斬りこんだ。不意を突かれた安日彦は惨殺され、音羽三山に広く薄く這い回っていた安日彦の敗残兵は抵抗することなく投降した。忍坂邑の大室に集められた投降兵らは酒を振る舞われて酔ったところを皆殺しにされた。

この一連の残虐さは孤立無援の神武軍のもつ際立った特性で、背景には敵地深く侵入し一たび崩れれば引き返すことのできない極限状況に常に曝され、絶体絶命のなか後顧の憂いを断つための情け容赦のない徹底した敵への見せしめ行為であった。
長髄彦の影響下にある大和盆地 (平野部) はその支配地に多くの有力な豪族を抱え、子女を含めて4~5万の人口を優に擁していた。そこへ僅か200名足らずが侵入(天降る)すれば如何に強力な求心力をもつ神武軍といえども一たび下手を打てば生駒の二の舞は避けられず、その生死を懸けた緊張感はこの武装集団の脳裏深くに叩き込まれた恐怖心でもあった。

安日彦(アビヒコ)を撃破した神武軍は、いよいよ大和盆地へ侵入を開始した。それを阻まんと立ちふさがった磯城の豪族兄磯城(エシキ)は磐余と墨坂に防衛線を張った。その動きを虎視眈々と注視していた神武軍は、支隊を粟原(おおはら)に進め兄磯城をそこへ誘い出し、兄磯城がそこへ移動してくるのを待って東からゲリラ戦で挑み、その間 本隊は墨坂を一撃に蹂躙し、その勢いで忍坂(おっさか)へ駆け下り背後から挟み撃ちにして一挙に殲滅した。このあまりにも酷い狂暴さに恐れをなした在地豪族らは、その被害の甚大さに癖々し、磐余に進駐してきた武装集団の居住地をそこに認めて和睦した。それが畝傍山麓の橿原であった。神武の名「磐余彦」はその地名から名づけられたものであり、「橿原の宮」はその地に常緑高木の橿の木が生い茂っていたことから名づけられたものであった。 (※ 2)
而して『記紀』の国譲り神話の核心部分はこの橿原の一角を譲られたことを以て国の始まりと捉え、神武のことを始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と謳ったのである。 もとよりその地は元々長髄彦の弟「安日彦」の支配する領域であったことは云うまでもない。 
(上の画像は、イワレヒコ/①神武)
小よく大を制した磐余彦が怨敵「長髄彦」と対峙して、これを如何に倒したか!その経緯は本稿シリーズで既に述べている。

 次に、欠史八代の疑義ある皇統譜について焦点を移したいと思う。
九州筑紫に本拠を置くヒムカ大王の孫 神武は、壮年になってから各地の支族や有力な臣下を伴って集団で東方移住を壮挙した。その人数は定かでないが、安芸・吉備に至るまでに半数が彼の地に根を下ろし(出雲侵入で亡くなった人も多くいたであろう)、難波の孔舎衙で大敗してまたその半数を失い、熊野灘の嵐に遭遇してそのまた半数を失って人数は極端に激減していた。生き残ったその武装集団は鬼神の如き団結力を発揮して吉野越えを果たし、大和盆地へ死に物狂いで乱入した。その数はたった200名足らずであったと見る。何の根拠もないが仮にそれ以上であっても以下であっても、飢えを忍び忠誠心を維持し一糸乱れぬ統率力と結束力を発揮しながら初志貫徹することは甚だ困難であったからだ。如こうして神武軍の戦いのスケールとは斯かる局地的なものに過ぎず倭国を統一する規模では到底なく、第十代崇神の断行した統治スケールからは比較にならない局所的孤立的なものであった。しかしたとえ200名足らずといえどもヒムカ大王の孫である神武の尊厳がそのために些かも損なわれることはなく、遠く筑紫の原郷ヒムカ族と繋がっていたことは言うまでもないのである。。。

・・とは言え、神武が橿原の地へ天孫降臨したからといって周囲の豪族を敵に回して更に戦うほどの余力はなく、よそ者である神武が周辺から孤立すれば忽ち自壊することは必定、それを避けんがために神武は積極的に在地豪族の娘を娶り、地元祭神を受け容れて自らが土着化して存立を図った!。神武が日向所生の妻を差し置いて「事代主」の若き姫を娶って正妻(后)としたのはそのためであった。神武軍の酒宴の唄に〝こなみ(前妻)が な(魚) こ(乞)わばたちそばの実の無けくをこきしひゑね うはなり(後妻)が な(魚) こ(乞)わば いちさかき実の多ほけくを こきだひゑね〟と囃し立てる謡あり。前妻「吾平津媛」(アヘラツヒメ)とその息子で共に東征に付き従ってきた神武の第一子 手研耳(タギシミミ)はこれをどんな気持ちで聴いていたであろうか。(※ 3)

    神武が崩御した後、手研耳(タギシミミ)は父 神武の後妻を娶り次期王位に就かんと画策した。それまで母系で繋がっていた在地習俗に背くその冒涜行為は受け容れがたく母 媛蹈鞴五十鈴媛(神武の後妻/三輪氏)の息子 渟名川耳(ヌナカワミミ)は手研耳を誅殺して自ら王位に就いた。以後、皇統譜に筑紫からの入后は絶たれた。私はこれを〚タギシミミの変〛と仮称している。(※後代、征西もしくは巡幸した天皇が九州南部の娘を妃にした例はある)
  (上の画像は第二代大王ヌナカワミミ/②綏靖)

つぎに、稿を仮称〚イズモシコの変〛に進めたい。
物部の「出雲醜」(イズモシコ)は④懿徳に仕える大臣であった。
先帝「③安寧」の御代、安寧は末子継承を往古の仕来たりに倣い「孝昭」を日嗣の御子(皇太子)と定めていた。ところが安寧が49歳(AD158)で崩御した後、事件が起こった。
 (左の画像は第三代大王タマテミ/③安寧)
皇太后になった安寧の后「渟名底仲津媛」

(ヌナソコヒメ/三輪氏)は、腹違いの皇太子「孝昭」を廃止て、吾子「懿徳」を大王位に就けたいと強く望んだ。このときの懿徳(22歳)は、既に兄の娘「天豊津媛」(17歳)を娶っていて一子「武石彦奇友背」(タケシヒコクシトモセ)までも授かっていた。
 (左の画像は第四代大王スキトモ/④懿徳)

一方、「孝昭」(20歳)は尾張氏出自の「世襲足媛/ヨソタラシヒメ」(15歳)を娶っていた。
ここに皇位争いが発生した。大臣「出雲醜」は皇太后の意を酌んで懿徳を皇位に就け
た。ところが、懿徳在位11年目(AD170)に懿徳は35歳で崩御した。そこで孝昭が王位を宣したが、大皇太后になっていたヌナソコナカツヒメは懿徳の遺児「クシトモセ/武石彦奇友背」(13歳)を強く後押しし、為に大王位空位のまま対立は激化、両派で相誅殺しあう場面がそこここで起きた。そうした混乱のさなか、太皇太后は68歳(AD177)で身罷った。
このとき孝昭(39歳)は懿徳の遺臣「出雲醜」を解任し、代わりに世襲職物部の「出石心」(イズシココロ)と后の兄「瀛津世襲」(オキツセソ)を左右に近侍させ既に20歳に成長していた懿徳の忘れ形見「クシトモセ」と激しく対立した。
これを私は〚イズモシコの変〛と名付けている。 (左の画像は、第五代大王カエシネ/⑤孝昭)

こうした国を二分する「倭国大乱」の中、中国では黄巾の乱が発生、遼東では公孫子が台頭してきて後漢の影響力が次第に後退、倭の朝貢外交が頓挫した。そうした中、大乱収拾に乗り出したのが孝昭の后の父「天忍男」(アメノオシオ)であった。

元来、この国の人々は直接対決・徹底抗争を嫌うおおらかな縄文気質をもつ民族であった。だからこそ闖入者「神武」を「大和」が受け容れて共存の道を採ったのである。その血を引き継ぐ丹波の国の支配者で尾張氏長老の「天忍男」(70歳)は豪族会議を開き、〝両派を争いから遠ざけ、大王位空位のままその間の統治権は一旦棚上げにして当面は豪族間の合議に基づく政を執り行い、大王位の帰趨は時間をかけて探ろう〟と提唱(AD180)。その間、両派の利害に関係ないワンポイントリリーフを立てて、とりあえずこの長く続く不毛の争いから脱しようと打開策を示した。そしてピンチヒッターで登場してきたのが『宇那比姫』であった。豪族から共立された宇那比姫17歳(AD188)は、ヤマトの女王「日女命」に祭り上げられ、天忍男はその日を見ることなく他界したが女王「日女命」はその後、男王にも優るとも劣らぬ働きをみせて豪族を見事にまとめあげ統治した。ここに至ってさすがの孝昭も奇友背も急速にその存在感が薄れて退位した。大王位を巡って相争った両者であったがそれを遥かに凌ぐ女王「日女命」の出現は何故に為し得たか!それは彼らの皇祖二神「アマテラス」と「大国主命」を同時に司祭する独占的権威を彼女が持ち得たからであろう。口伝社会の当時と云えどもその情報は瞬く間に全国津々浦々へ行き渡ったのである。
(上の画像は、孝昭の后の父、天忍男。日女命は曾姪孫)

女王「日女命」に仕えた男弟「日本足彦国押人」(孝安)は、日女命の義理の弟にあたり、その兄「天足彦国押人」(アマタラシヒコ クニオシヒト)は日女命の夫であった。その夫は日女命の傍らに侍してよく補佐したが32歳(AD199)という若さで亡くなった。日女命は夫との間で二子を儲けていたが僅か12年足らずの夫婦仲で夫はこの世を去った。その二子の内一人は和爾日子押人で和邇氏の祖となり、一人は孝安の后(押姫)となって第七代大王「孝霊」を生んだ。 
(※ 叔父と姪の近親婚(異世代婚)は現代では民法で禁止されている。がしかし、この時代 その王統継承の正当性を示さんがために、たとえ近親婚であっても当該貴種の血を引き継ぐことは最も重要な慣わしであった。この例は第二代「綏靖」にも当てはまることで如何にその出自の血統が大切であったかを物語っている。綏靖の后の姉が神武の后であったことからもその血脈の維持継承が皇家にとってどれほど重要であったかが窺い知れる。)
 〚上の画像は、日女命の義理の弟 「日本足彦国押人」(ヤマトタラシヒコクニオシヒト)⑥孝安〛

上の板図は、〝私論皇統譜 『記紀』の系図に改竄ありて〟の概要図を表す。以下、それを説明する。

⒈ ④代と⑤代が同世代、
⒉ ⑥代と「武石彦奇友背」が同世代、
⒊ ⑦代と奇友背の「太子」が同世代、
⒋ ⑧代と⑨代が同世代、
⒌ ⑩代と武埴安彦が同世代、
 6. ⑪代と狭穂彦が同世代、
という関係を表している。

『記紀』編纂者はこの各世代間を父子関係とし、兄弟間で熾烈な継承争いがあったこしを隠蔽した。そして年代年齢を徒に引き伸ばし『邪馬台国』を歴史から完全に葬り去った。私はこうした〝欠史八代〟といわれる皇統譜を少しでも現実的に系統だって明らかにしたい、そう思っている者の一人である。

上の板図は、〝私論皇統譜 ミッシングリンクを解明する(その 1)〟を表す。特に「クシトモセ二世」を取り巻く相関関係を描いている。同時にAD254年央の「孝元」朝から「開化」に禅譲される過渡期をも表している。

 ※ 『日本書記』は「懿徳」の后が「孝昭」を生んだという。亦 一云【天皇母弟、武石彦奇友背命】ともいう。この意味は懿徳の母「ヌナソコナカツヒメ」の弟、武石彦奇友背が孝昭の父だとも聞こえる?。だとするなら武石彦奇友背の父は必然的に鴨王ということになるから孝昭は神武の血脈から外れる!。ここに懿徳と孝昭が血脈を異にしていることを暗示する。この王統分裂はまさに懿徳と孝昭の間で起こり両者が親子関係ではなく父を同じくする異母兄弟であったことを意味した。この異母兄弟は母系直系か末子嫡系かで安寧崩御後 継嗣争いに発展、その渦中で不都合な立場に置かれた懿徳の嫡子「武石彦奇友背」が記紀編纂時の権力者らによって歴史から消し去られた。そして皇統譜における兄弟間の激しい王朝交替劇があったことをひた隠しに隠した。ところが『先代旧事本紀』「天皇本紀」や『日本書紀』は同権力者の目を畏れるがごとく また贖うがごとくその名を曖昧模糊に付記し、『古事記』もまたその欠くべからざる重要な人物「多芸志比古命」の存在を後世への手懸りとして残した。即ち、奇友背の児は物部氏の嫡女を娶りその子が第九代大王「開化」となって新たな王統「巻向王統」の開祖となるのである。

 この『記紀』編纂者たちの巧妙な系譜のすり替えを今日の権威ある史学会が認めることはまずない。なぜならそれを立証するにたる逸文が見当たらないからである。ここに趣味を生かした素人というフリーな立場から、独自見解が発表できる私の強味があった!。その強みを生かして更に大胆に申し上げるなら、列島での異民族による騎馬民族征服などというものはなかったし、九州邪馬台国もなかった。神武とそれにつづく後裔大王の貴種は悉く大国主命の閨閥やその支族苗裔たちによって独占されつづけ、遠く源郷ヒムカ族を出自とする神武一身の血は、ヤマトの地に天降ってから瞬く間に在地豪族(地祇)の中へ同化吸収されていったのである。

※ 小よく大を制したが結果は邪馬台国(大和)がヒムカ九州を併呑したことをその後の歴史は物語っている。しかし神武を祖とするこの創始血統(天皇家)は確実に現在に続いているのである。

※ではなぜ正史であるはずの『日本書紀』がこれほど重大な事実を隠さねばならなかったのか?、それは天皇を祖先とする氏族同士が互いに覇を競って争い、敗れた側が歴史の表舞台から消え去った。勝った側は正史からその痕跡を完全に葬り去りたかった!簡単に云ってしまえばそういうことに帰結する。


上図 【別紙-1】は〚(私論)初期皇統譜の流れ〛を示す。

上図 【別紙-2】は〚(私論)神武⇔孝安の地祇の流れ〛を示す。

懿徳亡き後(AD170)、その一子「クシトモセ」(13歳)の擁立派と鋭く対立する孝昭(32歳)は一歩も譲らず互いに誅殺しあう場面が何年もつづいた。そして、クシトモセ最大の後見人であった祖母の太皇太后ヌナソコナカツヒメが崩御した。力の均衡が破れて王統分裂の危機がますます迫る中、それに割って入り楔を打ち込んだのが大国主命の曽孫「天忍男」(別紙-2)であった。 そして天忍男は豪族会議を重ねて忍耐強く合意形成を図った。やがてそれが共立女王誕生に結びつき、AD188からAD247にかけて約60年間、同女王の下で長期安定政権が生まれて祭政が粛々と営まれた。この間、外交においても特筆すべき事績が今日に残されている。
然るに『記紀』はその輝かしい事績はおろか皇統譜までも〝不都合な真実〟としてこれを恣意的かつ確信的に隠蔽した。
その隠蔽とはそも一体なにを指しているのか、日女命の御代に皇統譜に一体なにが起こっていたのであろうか?!、

                ◆                      

孝昭の日嗣の御子「孝安」は、日女命の男弟として亡き兄に代わって事実上の執政を行い40年間辣腕を振るっていたが66歳(AD240)で崩じた。翌年、孝安に代わってその皇子「孝霊」(34歳)がその後を引き継ぐが、そのころ懿徳の孫「クシトモセ二世」(51才)はウマシマチの四世孫「欝色迷」(ウツシコメ)を娶っていて二子を儲けていた。兄は「大彦」(当時19歳)、弟は後の「⑨開化」(16歳)で血気盛んな青年に育っていた。一方、孝霊にも日嗣の御子で後の「⑧孝元」(11歳)がいたが虚弱な面は否めず、日女命が倒れた後の孝霊専制政治に対してクシトモセ二世からの不満は次第に露わになった。孝霊治世7年目に日女命が崩じるやその喪が明けるのをまって王位継承を巡る争いが一段と高まり遂に孝霊はその坐を追われ大王位は空位同然(AD249)となった。ところが『記紀』はこの間のそうした事実は一切伏せて父子相続が恙なく連綿と続いていたことを企図し、斯かる騒乱がまるでなかったかの如く糊塗し、『クシトモセ二世』の名を『女王日女命』の名 同様その存在を系図上からも史実からも完全に消し去った。

   
物部氏は神武のヤマト王権開闢以来、大王家の九世代目にして漸く「開化」の生母となる女性「欝色迷」(ウツシコメ)を皇統譜に送り込んだのである。

左図は〚私論 皇統譜 (その2)〛を示す。
下図はその拡大図を二分割にして表しています。
『記紀』による上古天皇生歿年に関し、干支を基準とすることは凡そ有史実年とは懸け離れた神話的紀年が混濁していて採用できない。
ここに私の〚私論編年〛および〚私論 皇統譜〛が史実に相当程度の蓋然性をもつ。勿論、素人見解であるがゆえに頭から否認される識者も中にはおられるであろう。しかしそうした偏狭は史実に立脚していれば問題ではなく、私なりの所見を勇断をもって発表することはそれなりに重大な意味をもっているものと自負している。
上の板図は、〝私論皇統譜 ミッシングリンクを解明する (その2)〟を表す。

懿徳の曾孫「大彦」と「開化」の二兄弟は、その王統嫡流の正統性をかざして孝霊朝に挑み、86年前とは真逆の立場で王位奪還を目指した。この強気の背景には懿徳朝大臣「出雲醜」の姪孫「欝色謎」(物部氏)を母に戴き、同じく懿徳朝高官「武速持」を父に戴く「邇支倍」(倭氏)が同王統路線を強く支持して隠然と後ろ盾になっていたからである。
過ぐる「天忍男」のときは数年かかって事態収拾に当たったが、今回それに代わる調停者が居らず「天忍男」の曾孫「和邇日子押人」(55歳)は、孝霊に近侍していて武闘派「大彦」(23歳)と対峙して高地性和邇邑(天理の東部)に頑強な二重砦を構えて戦いに備えていた。時にAD245年央のころ。

※ 和邇日子押人はこの二年前、第二次魏朝遣使の副使(掖邪狗)を務めていた。しかしこの年の魏朝からの遣使策動(出兵要請)には何ら応えることができず魏朝を失望させる結果となった。それは物部氏・倭氏 VS  尾張氏・葛木氏という豪族連合二派の間で次期大王位を巡る激しい対立抗争がこのとき 既に再燃されつつあったからである。
 下の板図は、〝私論皇統譜 ミッシングリンクを解明する (その3)〟を表す。
縄文時代16,000年を経て弥生時代へ文化が移行したが、その900年の内たったの200年間 それが神武から崇神に至る幻の古代国家「邪馬台国」であった。そのことをここに凝縮して表している。(※ 4)
邪馬台国は大王家が分裂して争いがつづく中、半島経営の関心が遠のき狗耶韓国の倭人社会は次第に置き去られ力の空白が生じた。そして、半島を南下してくる夥しい異民族らの攻勢によって次第に同化吸収されていく運命を辿った。

の像は、日女70歳と甥の娘 天豊姫4歳 (後の臺与) のある日のスナップ   
倭の風習である柏手(かしわで)を打っているしぐさであろうか幼い天豊姫、それに寄り添い静かに見守る日女命(宇那比媛)!  背景は魏志倭人伝の一節である。[時、AD241年/魏の正始二年に当る]

(※ 1)
神武は筑紫ヒムカ大王の末裔であった。紀元前の或る時期、出雲王朝の強盛時代にその勢いに押されて日向へ一時身を隠した同女王「アマテラス」は、稲作に適さない痩せたその疎開地で苦しむ民人を見て、いつか東方のもっと豊かな土地を与えたいと強く望んでいた。やがて時代が下り神武の時代になって、力をつけてきた筑紫ヒムカ族は筑紫野の出雲族を吸収し亦は駆逐し、その膨張する勢力を駆って東方進出へと乗り出した。時に紀元86年ころで祖母アマテラスの遺志を実行に移した。天孫と謳われる由縁はまさにこれを起源とする。

(※ 2)
紀元前をはるかに溯ること大和(唐子・鍵遺跡)は瀬戸内海や日本海の交易ルートを通じて既に北部九州はおろか半島や大陸とも繋がっていた。
神武の武装集団が大和へ侵入してきたとき「長髄彦」率いる地元の防人がこれを阻止したが、もしこれが大国主命のように穏やかに降臨していればまた状況は

変わっていたかもしれない。神武が小規模で盆地南部へ忽然と闖入してきたとき、その異常行動をいぶかる長髄彦は、侵入者神武を未開の得体のしれない兇賊と捉えて遣いを立てて尋問(AD91)した。神武は抗弁し「大国主命」となんら変わらない先進文化(鉄器/宝剣)をもった優れた民であることを立証してみせた。当時、不幸なことに大国主命は世継ぎの孫娘二人が兇賊が席巻する地で行方知れずであることに憤怒し、防人の長であった「長髄彦」にその敗戦の責めを一身に負わせて死を賜わり憤死させた。
上の画像は、大国主命。左の画像は長髄彦

いつの時代にもあるこうした不条理は、多くは人間の内に宿る弱さから他者を不幸に追いやる身勝手から生じる、けれどもそれを乗り越えて「長髄彦」を伯父に戴く〚宇摩志麻治〛(物部氏)の末裔たちは逞しくも雄々しく栄えていった。

(※ 3)
イワレヒコは、在地豪族の「剣根」(葛木氏)の下に匿われていた高貴な姫(大国主命の孫娘)をいち早く后として迎え入れ、そうすることによって敵対する周辺諸豪族との融和懐柔に努め、自らの脆弱な勢力基盤を急いで立て直し存立を図った。その姫こそ「事代主」(三輪氏)の娘「ヒメタタライスズ媛」であった。

(※ 4) 
倭の海人たちは常に複数の外洋船を仕立てで渡海し盛んに交易を行っていた。列島からは主として水産加工物を、半島からは鉱物資源を主に移入していた。半島の南部は狗耶韓国という倭を構成する一国であり倭人が多く住んでいた。三韓亡民がその狗耶韓国へ流入しだしたのは正始6年(245年)に起きた韓族の反乱による郡太守「弓遵」の戦死と、その後の帯方・楽浪二郡による韓族討滅によって生じた流民であり、それらが狗耶韓国の倭人と混血し、その二世三世が垂仁朝以降、本州を目指して渡来してきた。
私はそれまでのこの地域を〚環古代倭地圏〛亦は〚弥生時代倭人圏〛と名付けている。 〚私論皇統譜 (その3)〛

〈註〉
ここにお示しの見解は、あくまでも私の趣味の域を出ない素人判断を述べているに過ぎない。従って、定説通説と大きく異なっていてもその責を負うものではありません。なお、各項目の中で第三者の図書等を便宜上一部引用している箇所がございます、何卒ご理解ご了解ください。なおこの〈註〉記は以後、省略致します。

別途 My heart〚肖像木彫り〛作品集あり、  ブログアドレス http://kibori-2.blogspot.com

2013/12/21     著作者 小川正武