2016年3月17日木曜日

崇神次妃 「葛木高千名姫」【巻向王統 その9】 第二章 

葛木高千名姫(かつらぎたかちなひめ)

尾張氏第八代当主「日本得魂命」の愛娘「葛木高千名姫」は、崇神に恭順入妃して「豊鋤入姫」と「八坂入彦」をお生みになった。

〚私論編年 AD257-314
日本武尊生誕年 AD314年まで御存命の砌には数えて享年58歳にあいなる。
この姫は、娘の豊鋤入姫が崇神の命に従って斎皇女(いつきのみこ)となり、祟る天照大神(日女命)を鎮魂せんと僅か13才から健気にも奉斎するその姿をさぞかし心を痛めて見守っていた生涯ではなかったか。「開化」を祖とする巻向王統とは、斯かる斎王の人身御供(じんしんくぎ)の上に成り立っていた謂わば尾張系前王朝の神霊を極めて畏怖する王朝だったのである。

「葛木高千名姫」の御名は同姫の生誕地に因んで命名された本名とみられ、亦の名「大海媛」(おおあまひめ)とは尾張氏本宗家代々の嫡女に冠せられた普遍的通称名であり、また同姫の「八坂振天伊呂邊」(やさかふるあまいろべ)という御名は崇神朝へ入内した後に尊称された名とみるのがごく自然であろう。その出生地は「葛木高尾張邑」と言い、所在地は現在の曽我川が南北に走る奈良盆地南西部に位置したであろう尾張氏本貫地であった。

※ 尾張氏本貫地の詳しい場所は、第一章【邪馬臺国 その十四】
『私論 邪馬台国女王「卑弥呼」室秋津洲宮の所在地』で示す。

「葛木高千名姫」の父「日本得魂」もまた、孫の「豊鋤入姫」が「天照大神」を奉斎する地が定まらず所縁の丹波と大和の地を彷徨う苦悩する姿をまざまざ見て、その生末を按ずる祖父であった。日本得魂は先帝「開化」によってその勢威を大きく削がれ、支配地は丹後の加佐郡に縮小していた。「日本得魂」の事績は崇神の御世になってから崇神の異母弟「彦坐」(27才)に供奉(285年)して積年の宿敵「玖賀耳御笠」を自らの手で討ち取って永年に亘る邪馬台国の宿弊を取り除いたことであった。 「玖賀耳御笠」の地は加佐郡と境を接する若狭の青葉山を本拠地とした。その地はいわゆる魏志倭人伝でいう「狗奴国」を指し、この頭目(海部氏本宗家)を誅殺したことで「日本得魂」の使命はあらかた燃焼していた。「日本得魂」(やまとえたま)は「彦坐」(ひこいます)とは親子ほどの歳の差で当時としては既に老境の55才に達し余生は専ら孫娘の「豊鋤入姫」のために力を注いだ。


上の図〚別紙11-1〛の題字は、私論[箸中山古墳、被葬者「台与」と崇神が託した斎王二姫の顛末」。

今に遺る田口神社(加佐郡・現 舞鶴市朝来)は「日本得魂」が「豊鋤入姫」のために御田を奉り、更に校倉を建てて穀実を蔵した場所の跡地だと伝わる。人々はその倉を御田口の祠(ほこら)と称した。(当時は未曾有の飢饉地獄であった。)
『記紀』はこの「豊鋤入姫」をなぜか紀ノ國の「遠津年魚眼眼妙媛」(とおつあゆめまうはしひめ)を母とする。しかし、同姫の血脈はまごうことなく尾張氏・日本得魂の孫にあたる。逆に尾張氏母系とされる「渟名城入姫」こそ豊受大神(尾張氏・建諸隅)が奉斎されることを拒んだ異脈の斎王であり、ゆえに半ば廃人と化して短い生涯を閉じた。
「渟名城入姫」と「豊城入彦」は紀氏母系を暗示する共通の御名(おんみょう)をそこに観る。『記紀』はここにおいても系譜の改竄を企図した疑いが濃厚である。ではなぜそのような母方の族系が異なる姫の出自をすり替えなければならなかったのであろうか。

この疑問を解くに「女王臺與廃位」が深く関っていると観るのである。初代女王「日女命」を大叔母に戴く「臺與」は「日女命」亡き後、再び国が乱れる中、二代目共立女王(13才)に推戴されて邪馬台国を一つにまとめる象徴となった。だが運命の悪戯か5年後「臺與」を輔弼していた「孝元」が俄かに夭折してその権力に空白が生じるやそれに乗じて「懿徳」の曾孫「開化」がその地位を奪取した。為に都では動揺が走り一触即発の緊張した場面から、あわや第三次倭国大乱が差し迫っていた。「開化」はそれを未然に鎮めるため「臺與」を共立した地祇面々(諸族の首長)を納得させる大義名分を必要とし、「臺與」の輔弼者「孝元」の正当な後継者たる環境づくりを何より急いだ。

一方、女王を共立した地祇(国邑の長)による共通理念は倭国鎮護であったことはいうまでもない。「孝元」の従姉妹「臺與」(18才)は、「孝元」早世により有力な後ろ盾を失い孤立する中、残された皇位継承者「彦太忍信」(3才)の安危に心を砕いた。

そして「開化」の採った選択は「臺與」入妃の実現であった。「臺與」もまた、国乱れて合い争うことを望まず、「孝元」の忘れ形見「彦太忍信」擁護と地祇から推戴された女王の権威維持を拠りどころに「崇神」へ降嫁入妃することに同意した。「開化」は「孝元」の喪が明けて「臺與」との間で第一皇子「彦湯産隅」を儲けたことで「開化」はこの頃から初めて押しも押されぬ倭の大王となったのである。

・・だがしかし、「開化」が大義名分とした「孝元」に代わる女王「臺與」の輔弼者たる正当な立場は、時として「臺與」の権威に劣後して倭王としての威厳をしばしば毀損した。
「臺與」は開明的な女王であった。「臺與」は還俗して「開化」の皇妃となった後も伊都国の一大率を通じて帯方郡や任那諸国と交流を重ね「洛陽」情勢は云うに及ばず「伯済」「斯盧」といった国情収集にも努めていた。一大率は女王の命に従って「斯盧国」による任那侵犯にしばしば軍事的行動を起こして出兵していた。この女王「臺與」の威令は先代女王「日女命」から引き継がれた伝統であり「開化」といえどもこれをたやすく冒すことはできない慣例慣習となっていた。

AD265年、中国では魏が滅びて新たに「晋」王朝が成立した。帯方郡太守「張政」からこのことをいち早くしらされた女王「臺與」は、翌年「開化」をいざなって「晋」の都「洛陽」を親善訪問(化外慕礼)した。この女王主導の外交は「晋」王朝の布く朝貢外交に馴染まず、倭の女王「臺與」と男弟「開化」は儀礼的爵位を受けたに留まって外交的成果は観るべきものがなく化外慕礼外交は倭による一方的願望に終始した。倭によるこの「化外慕礼」とは兄が弟を労り弟が兄を敬う国家レベルの友邦の契りを結ぶ乙女チックな外交であった。だが案に相違して「晋王朝」は単なる「遠夷の客」として倭王を扱い、そのため倭王男弟の威信はいたく傷ついた。
この外交の場における主導的立場を取った「臺與」の「開化」に優越する絶対的立場は、地祇による共立女王擁立という隠然たるバックボーンに依拠した権能であった。このバックボーンを凌ぐ大王は次代の崇神登場まで待たねばならなかった。
〚汝、忍びずして吾に羞(はじみ)、吾還りて汝に羞せむ〛怖ろしい言霊である。

「開化」が崩御(275年)した後、開化の継嗣「崇神」は、この旧弊たる共立女王を悦ばず倭王に越権する「臺與」の任を解いてその一連の威信財(女王日女命から継承した数々のレガシー)を破却すると共に「臺與」を丹後(たにはのみちのしり)の余社郡へ追放した。そして、それまでの邪馬台国の文化文物(銅鐸・銅矛)を威令を以って廃棄一掃することを国々に命じた。物部氏を後ろ盾とした巻向王統はこの時期、諸族の地祇を凌駕する圧倒的勢威を誇示するに到っていた。崇神による専横的維新断行がなされた所以である。


上に掲げる図〚別紙11-3〛は3世紀中葉の倭国における王朝交代劇の時間軸を表わす。

倭が遣わせた使者「葛那古」は斯盧国の長老「昔于老」から倭王とその妃を愚弄する辱めをうけて帰国(251年)した。それを切っ掛けに任那宗主国の倭国大王は大いに怒り、于老を焼殺刑に処した。当時、斯盧国は北の高句麗と講和を行い、伯済との交戦に集中する政策を採っていた。于老はその戦場の常勝将軍であったが、その驕りが暴言となって表れ自らの身の破滅を招いた。倭と斯盧国との相克は斯盧国の度重なる任那侵攻とこのような些細な不祥事が重なって次第に抜き差しならない深刻な対立へと展開していった。

崇神による「開化崩御」直後の果敢にしてやむざる維新断行は、任那における「斯盧国」の勃興と、任那への侵犯浸食といった険しい国難に起因していた。女王が司祭するそれまでの政には統率力動員力に限界があり、地祇(諸族の長)たちによる国々の委任統治だけでは権力が集中せず、民を庸し兵を徴する全国規模の統治態勢を敷く基盤強化を強く迫られていた。崇神の和風諡号〚御肇国天皇〛(はつくにしらすすめらみこと)の尊号はこの維新断行を以って大和国(やまとのくに)開闢を意味し、大和国の開祖とした所以である。
ゆえに『記紀』はそれ以前の王朝はすべからく神代の霞みへと追いやって史実から遠うざけて遂にうやむやにした。


崇神紀10年(AD285年)、この年、狗奴国討伐の編成が都でなされ湖西高島から若狭へ向かう軍都督に崇神の異母弟「彦坐」が、山背から丹波を抜けて若狭へ向かう軍都督に崇神の異母兄「彦湯産隅」が任ぜられ、挟撃する形で攻め上った。これによって狗奴国首領「玖賀耳御笠」は「日本得魂」によって討ち取られ「海部氏本宗家」は壊滅した。この間隙を縫って孝元第一皇子「武埴安彦」の軍が二手に分かれて空同然になっていた皇都へ攻め上り、崇神の膝下を大いに震撼させた。これを救ったのが皮肉にも「倭迹迹日百襲姫」の実弟「吉備津彦」(46才)であり、和邇日子押人の孫にして彦坐の従兄にあたる「彦国葺」であった。前王統の子弟たちといえども皇祖本流でないこの「武埴安彦」を倭の新たな大王に戴くことを由としなかった。

この年を前後して都では来る年も来る年も毎年凶作(飢饉地獄)がつづき、農民は疲弊して苦役に耐えかねて多くが農地を放棄して流離した。為に王権は糧食不足に陥りみるみるうちに求心力を失い「武埴安彦」の叛乱を招いて自らの権威を大きく失墜させた。この失墜こそが尾張系前王朝の祟りであると視て「崇神」は震撼した。そして怒れる神(皇祖神)を強く意識して恐懼した。「崇神」の漢風諡号はまさに祟られしその性質を如実に物語る。

崇神は大殿の間に同床する皇祖神「天照大神」(日女命)と「豊受大神」(建諸隅)二神の勢いを畏れて娘の「豊鋤入姫」に「天照大神」の神霊を託し、「渟名城入姫」には「豊受大神」の神霊を託して宮外へ遠うざけた。然れども皇祖神の怒りを鎮めること能わず「豊鋤入姫」の方は次代の「倭姫」に斎王は引き継がれたが「渟名城入姫」の方は髪落骸痩の果て落命した。『記紀』は巻向王統を祟る皇祖神が尾張系前王統の「日女命」と「建諸隅」であることを覚られまいとして覆い隠した。ゆえに尾張氏母系の「豊鋤入姫」を紀氏出自にすり替えて祟っているのが前王統であることの不都合な真実から眼を逸らさんと強権をもって系譜を改竄した。

「臺與」が丹波の余社郡で身罷った(54歳)のと同じ年(AD290年)、「渟名城入姫」もまた僅か15才で早世した。怒れる皇祖神は尾張母系の崇神皇女は受け容れたものの紀氏母系の崇神皇女は受け容れることがなかった。わが娘(皇女)を御供(くぎ)してなおこの非情に祟る神々を前におののく崇神は、「臺與」の怨霊を祓い清めて護国豊穣と巻向王統の子孫繁栄のために「臺與」殯の後、臺與が嘗て司祭していた神殿跡地(巻向宮)に臺與御陵(世にいう大市陵)を造営して篤く埋葬し崇りを鎮め詣らせ奉った。

『記紀』はこの大市御陵(箸中山古墳)の由来を「倭迹迹日百襲姫」の墓だと捏造して(同姫の事跡は没落三輪氏の子孫を探し出して取り立てた功績はあるが、為に崇神から巨大陵墓を以って奉斎される立場には少なくともない)後世を欺いた。勝者の論理がここにも秘匿されている。「古事記」編纂者らは恐らく古代中国における虐げられた農民の反乱が当時の支配者の貴婦人を猟奇惨殺した伝承を単に引用したものである。
“神に化身した蛇と結婚し、箸でほとを突いて死んだ“ とする奇想天外な「倭迹迹日百襲姫伝説」は、子供騙しの話としてはおもしろいが深淵な幽玄の世界(神話)に留めておくべき内容であって同姫にとっては甚く失礼な烙印であり、これをさも事実であるかの如く受け止めて史実に反映させているところにそもそもの思考停止を観る。
※わたしはこの陵墓を単に「臺與御陵」(とよごりょう)と親しみを込めて命名する。そして古墳名もその故地に倣って簡潔に「大市古墳」(おおいちこふん)と改称したい。史実は塗り替えられた歴史書に優る。いつの日か私の先見が実証される日がくるものと確信する。
まぁどこからか素人の分際で生意気な奴だという声が聞こえてきそうであるがどこ吹く風である。

尾張氏「日本得魂命」の嫡女「葛木高千名姫」


著者・制作   小川正武   2016/03/18


【追記雑感】
女王「臺與」が「開化」を伴って西晋を親善訪問(AD266年)したことは既に本項で述べた。嘗て、大市古墳(箸中山古墳)の周濠から木製の鐙(あぶみ)が出土していた。この木製の鐙は西晋時代の戦場で使われ始めた。「臺與」訪台の砌、この木製の鐙は先進馬具(武具)として晋朝から親善女王の手を経て倭国へ齎されたものであろう。 大市古墳の被葬者が誰であるかを物語る傍証である。

三輪氏の後裔「大田田根子」(おおたたねこ)は大物主すなわち「大国主命」を祀る祭主に任ぜられた。彼は「大国主命」を祖とする三輪系8世孫である。当時、飢饉と疫病が蔓延するなか「崇神」は河内の陶邑に住む大田田根子を呼び出して三輪氏所縁の地「三輪山」で祖先神の祟りを鎮めさせるために創祀奉斎を命じた。


〚三輪氏系図〛(始祖)「大国主命」⇛①事代主(神武と前期は対峙)⇛②天日方奇日方⇛③健飯勝⇛➃健甕尻⇛⑤豊御気主⇛⑥大御気主⇛⑦健飯賀田須⇛⑧大田田根子・・
因みに「崇神」は「大国主命」から数えて9世孫にあたる。
〚崇神系図〛(始祖)「大国主命」⇛①事代主(神武へ後期は国譲り)⇛②姫蹈鞴五十鈴姫(神武の后)⇛③綏靖⇛➃安寧⇛⑤懿徳⇛⑥高石彦奇友背⇛⑦奇友背二世(物部氏欝色謎が妃)⇛⑧開 化⇛⑨崇 神・・

倭氏の後裔「市磯長尾市」(いちしのながおち)は、渟名城入姫の跡を継いで祟る倭大国魂神(同神、豊受大神=建諸隅)を祀る祭主に任ぜられた。

彼は初代「珍彦」(うずひこ)から数えて6世孫にあたる。彼の血筋は初代から一貫して三輪系王統を支持する勢力で、懿徳曾孫「開化」擁立に際してもその果たした役割と功績は大きく、為に尾張(孝昭)王統の怨念を買っていた。倭迹迹日百襲姫は崇神治世下の都を覆う数々の天災は前王統(尾張氏祖先神)の祟りであることを夢に託(かこつ)けて神宣し、それを鎮め贖う者は倭氏当主「市磯長尾市」を置いて外にはいないことを崇神に奏上した。ゆえに、市磯長尾市は「大和神社」(おおやまとじんじゃ)に倭大国魂神を創祀奉斎して鎮魂に是務めた。

〚倭氏系図〛(始祖)「珍彦」(亦名、椎根津彦)(神武の東征に供奉、功名大にして初代倭国造に登用)⇛①志麻津見⇛➁武速持⇛③邇支倍(伊支馬)⇛➃飯手宿禰⇛⑤御物宿禰⇛⑥市磯長尾市・・


因みに、本項「葛木高千名姫」は「大国主命」から数えて9世孫にあたる。

〚尾張氏系図〛(始祖)「大国主命」⇛①味耜高彦根(神武に強硬対峙)⇛➁天村雲⇛③天忍人⇛➃天戸目⇛⑤建斗米⇛⑥建田背⇛⑦建諸隅(由碁理)⇛⑧日本得魂⇛⑨葛木高千名姫・・

崇神の第一子「豊城入彦」の生母は紀ノ國(和歌山)を出自とする。

この豊城は長じて東国へ遠征し、彼の地に統治の確かな橋頭保を築いた。豊城の子「八綱田」(やつなた)は垂仁の御世になって「狭穂彦」を討った。豊城の孫「彦狭島」(ひこさしま)は東方十二国を平定して上毛野国造に封じられた。坂東武者の源流である。毛野国(けのくに)は紀ノ國(きのくに)が訛って変化したに過ぎずその地が豊城入彦皇子の印した地であることを示唆する。

この毛野国からやがて任那半島(現・朝鮮半島)へ新羅・高句麗征伐のために幾度となく多くの兵士が送り込まれた。古墳が関東で最も多いのはそのためである。ところが同地古墳群の埋蔵物に中央からの威信財が他の国々に比べて極端に少ないのは巻向王統と異なる河内王統との間で何らかの確執(わだかまり)が内在していたことを物語る。毛野国は河内王統に臣従していたが先祖を遡れば巻向王統の遺臣たちであった。河内王統が任那防衛に優先する百済重視策を採って兵を徴していたことが異議申し立てに繋がりそうした結果を招いたと観るのである。



稲荷山古墳出土の鉄剣銘文は「大彦」を示唆する。「大彦」は「崇神」にとって外祖父にあたり、崇神(娘婿)の命に従って北陸・東北経由で彼の地へ遠征した。何れにしてもこの巻向歴代王朝〚開化・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀 六代天皇〛は九州・北陸・東海・東北を制覇して慌しく時代を駆け抜けていった王統であった。故にその後の倭国の動きは民力の大結集が可能となりそのエネルギーは巨大古墳群を出現させ、任那防衛のために或は百済救援のために動員された。即ち、大彦や豊城が制覇した関東以北から、或は吉備津彦ら兄弟によって制覇した吉備西道から将又景行や日本武尊らによって制圧した九州・東海から勃興新羅や高句麗と戦う本邦討伐軍の一翼を担う夫々が重要な供給地となっていった。