2012年11月22日木曜日

大国主命 「ニギハヤヒ」 【邪馬臺国 その五】 第一章



饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
スサノオの六世孫

諡号は、大国主命(オオクニヌシノミコト) 
大いなる大国を治める大王の意
出雲王朝/第六代大王である。
[私論編年 AD36-AD102、登美国在位22年、67歳で崩御]

出雲王朝にとって、大和は大王の都する処であった。その都の南部一帯が突如として武装集団に襲われ瞬く間にその一角が占拠された。しかも次代を担う王子や姫君らが捕われるという一大失態事に見舞われ同王朝はそのことに震撼し動揺してその基盤が根底から揺るぎだす出来事となった。
必然的に北部大和は敵と対峙する最前線となった。そこで、ニギハヤヒは「味耜高彦根」(アジスキタカヒコネ)と「宇摩志麻治」(ウマシマチ)を守りに残して、自らは「事代主」(コトシロヌシ)を従えて出雲へ還御、態勢の立て直しを図った。時にAD92年。

葛城の豪族「剣根」(※ 1)は「大国主命」とは傍系姻族であり匿っていた大国主の孫娘ヒメタタライスズ姫とイスズヨリ姫は共に剣根の叔母「玉依姫」を母とした。その葛城のまほろばの地も瞬く間に武装集団によって強襲制圧されたのである。
それでも出雲王朝は、南部大和の地こそ突如として失ったものの依然版図は山陰・近畿の大半に及んでいて神武の武装集団はその中の一角を占拠したに過ぎなかった。

・・・しかし、人の寿命は贖うすべがなくAD102年ごろ、ニギハヤヒは出雲の宮(中つ国)で身罷った。この悲報は瞬く間に日本中を駆け巡り、全国から長たちが続々参集、わけても邪馬台国に組み込まれた葛木氏や鴨氏らも続々駆けつけて殯宮でニギハヤヒの霊を鎮めた。これが出雲における神有月の神祀のはじまりではなかったか。
服喪に集まったこれら神々は、過去五百有余年の永きに亘って出雲王朝が築いてきた言わば地方に分散した有力な姻族たちであった。
写真上は、出雲西谷墳墓群の一つで四隅突出型墳丘墓である。大国主命の埋葬地にも比定されている。 

時代が100年ほど下って日女命(卑弥呼)の時代、日女命(日巫女)は先祖の『大国主命』(ニギハヤヒ)の御霊を鎮めるため、鬼道の導きに従い国家神道の規模で祀ることを命じ、斯くの如き壮大な出雲大社を建立させた。女王日女命の神勅が如何に絶大なものであったかがこれからも推測される。「日女命」という存在なくしてこのような建造物は出来得なかった。

大国主命の人徳を偲ぶ伝説で有名なのは「因幡の白ウサギ」であろう。粗筋は、隠岐の島に住んでいた兎が因幡の多気岬へ渡りたいと思い、鰐を騙して渡ったがウソがばれて皮を剥がされて泣いていた、そこへ通りかかった大国主命が治療して助けたというおとぎ話。

(板厚30ミリ)
                   

(※ 1)  葛城山東麓に勢力を張る三嶋溝杭を父にもつ娘(玉櫛媛)は、大国主の息子「事代主」の妻であった。この夫婦の間には「ヒメタタライスズヒメ」と「イスズヨリヒメ」それに「天日方奇日方」(鴨王)の三人の子を儲けていた。神武の宇陀からの奇襲は青天の霹靂であった。当時、事代主は父の傍に仕え登美に居た。その子たちは叔父「味耜高彦根」の館がある尾張邑に疎開していた。先年、難波津で兇賊の来襲があって河内から登美地方が不安定になっていたからであった。ところが兇賊は予期せぬところから突如として現れてあれよあれよという間もなく無防備な盆地南部を瞬く間に席巻、事代主の子らは辛くも三嶋溝杭を祖父にもつ葛城剣根の館へ逃げこんだ。しかし兇賊はその地へも侵入してきて同子女らを捕えて何処かえ連れ去ってしまった。このことが遠因となって「長髄彦」は詰め腹を切らされる羽目になるのである。

剣根は、後にヒメタタライスズ姫を后とした神武から支配地安堵の「葛城国造」に任ぜられている。


2012/11/22   著者 小川正武

                           

2012年11月10日土曜日

懿徳天皇 「スキトモ」 【邪馬臺国 その四】 第一章

大日本彦耜友尊 (オオヤマトヒコスキトモノミコト)
安寧の第二王子。后は天豊津媛命(安寧の第一王子の娘)

諡号は、懿徳(いとく)天皇。邪馬台国/ヤマト王権第四代大王である。
[私論編年 AD136-AD170、大王在位12年、35歳で崩御]

母は鴨王の娘で、后は実兄の娘であった。そのため「スキトモ」は初代神武以来、三輪氏直系姻族が四代もつづく極めて近親婚に近い大王であった。

因みに、鴨王(カモノキミ)亦の名を天日方奇日方(アメノヒカタクシヒカタ)は、その父「事代主」を三輪氏始祖に戴く地祇でもあった。スキトモにとって孫にあたる「奇友背二世」(クシトモセ二世)は不可解にも記紀からは完全に抹殺された人物であった。そのことは裏返せばそれだけ記紀にとって大変不都合で重要な位置を占める人物であったに違いない。私はそこをぜひ燻り出したいのである。

ところで・・・この王には弟が居た。その名を「カエシネ」(孝昭)と称した。「記紀」ではこの弟のことを「スキトモ」(懿徳)の子に位置付けているが実は二歳くらい年下の異母弟なのである。『先代旧事本紀』卷第七、天皇本紀に〝観松彦香殖稲尊(五代孝昭)は磯城津彦玉手看天皇(三代安寧)の皇太子である〟とも記述している。
この弟カエシネは尾張氏の始祖、味耜高彦根(アジスキタカヒコネ)を曾祖父とする姫を娶り二人の子供を儲けていた。その一人は、天足彦国押命でこの皇子も後に又従妹の宇那比姫(卑弥呼)を娶った。もう一人は弟で日本足彦国押命と称し、後に倭国連合に共立された女王「日女命」(卑弥呼) を補佐する立場になる第六代「孝安天皇」である。このように神武が建国したヤマト王権の初代から『大国主命』の三兄弟である三輪氏と尾張氏それに物部氏が天皇家へ后妃の供給氏族として互いに時代の覇を競うことになり、それがドラスチックに継体朝へと繋がり、持統~桓武~今上へと連綿とつづく世界にも類例をみない皇統譜が今に存在するのである。

話は73年前に遡る神武東征の砌り、神武軍は軍舟を阿岐津(広島)に留め、中国山地を越えて出雲国を激しく攻めた。この戦で守備に当たっていたニギハヤヒの王子二人の内、一人は諏訪へ逃げ延び後の一人は散華した。

この戦況を遠く見ていた大和の登美に座しますニギハヤヒ(大国主命)は、神武東征軍襲来を満を持して待ち構えていた。
一方、神武軍は何年も安芸に留まり出雲との攻防を繰り返していたがなかなか決着がつかない苦しい消耗戦を強いられていた。しかもなお敵本陣は無傷のまま登美に在り、ゆえに出雲国平定を完全に果たせ得ぬまま神武は大和攻めを急いだ。
ところが河内国日下(ヒノモト・日本の語源)に臨んで待ち構えていた在地の「長髄彦」率いるヘコ(兵)共を侮って侵入したが逆に完膚無きまでに叩き潰された。
敗走した神武軍は紀伊半島を転々と漂着を繰り返し辛くも熊野までたどり着き、その地でようやく態勢を立て直すことができた。

・・やがて、八咫烏の先導を得て急峻な紀伊山地を行軍、吉野から宇陀へ侵入、忍坂(桜井)を東から突く形で奇襲し、その過激で残虐な戦法は見事功を奏し、大和盆地南部の一角磐余の地を占拠した。磐余に隣接する高尾張邑や磯城郡に居た出雲朝の王族子女らは、やむなく王都としていた北部登美へ逃避した。そして神武と大国主は大和川河川を境に南北で対峙することになり、やがて大国主は最終決着が着かぬままその地を離れて出雲国へと還っていってしまった。

『記紀』編纂者の作成意図は万世一系を主眼とした。為に孝昭(カエシネ)の父を懿徳(スキトモ)と為し、この間の嫡子継承が恙なしと糊塗した。しかし事実は相違して、皇太后は異腹の皇太子「カエシネ」を廃し、吾子「スキトモ」を王位に就けた(AD159)。それを佐けたのが亡き「タマテミ」(安寧)の大臣物部の「出雲醜」であった。ここにカエシネとスキトモの王統の正当性を巡る争いが発生、掖上と軽曲峡の間で互いに誅殺しあう場面が起こった。これを私は「イズモシコの変」と名付けている。


神武東征軍との戦いで出雲から諏訪へ脱出したニギハヤヒの王子 「建御名方神」は、それを手助けして海路信濃川の河口まで逃したのは出雲王朝の衛星国 但馬(海部氏)の軍舟であった。その地で建御名方神は先住民のモレヤ(守矢氏)と戦ってこれを破った、そこで戦ったつわものどもは出雲のヘコ(兵)たちであった。当時既に但馬国は日本海側の海上交通の中心的存在で、北国越三州をはじめ山陰から北部九州に至るまで外洋舟を用いて沿岸伝いに地乗航法で盛んに往来していた。半島の狗耶韓国(倭地)に集住する倭人らとの間でも盛んに交易が行われていた。浦島太郎の御伽噺や羽衣伝説はそうした当時の但馬の華やかでそれでいてちょっぴり物悲しい出来事が反映した物語であったのかもしれない。 更に申せば筑紫ヒムカ族の王アマテラスを日向の高天原へ追いやったのも斯かる勢力(出雲王朝)の進出ではなかったか。そのアマテラスの孫の神武が東遷したことによりアマテラス(天照)を祖神と崇めるようになり神武をその天孫族(皇孫)と称えて呼称するようになったのであろう。

線刻画は出石の袴狭遺跡から出土した板絵を写し取ったものという。

                     
2012/11/10    著者 小川正武


2012年11月1日木曜日

安寧天皇 「タマテミ」 【邪馬臺国 その三】 第一章

磯城津彦玉手看尊 (シキツヒコタマテミノミコト)
父は綏靖天皇。母は、事代主の次女「五十鈴依姫」
后は鴨王の娘、渟名底仲媛命 (ヌナソコナカツヒメノミコト)。

后は、事代主の孫で、姪にあたる。
児は長兄に「オキソミミ」、次男に「スキトモ」(懿徳)を儲けた。
妃は、師木(磯城)県主の娘「飯日媛」(イイヒヒメ)。
その児が三男の「カエシネ」(孝昭)である。

祖父「神武」が崩じた翌年、綏靖の児 タマテミが生まれた。(タギシミミの変は同年央に起こった)     
 (左図は、安寧 こと タマテミ )

タマテミ15歳のとき鴨王 亦の名を天日方奇日方 (※ 1) の娘「ヌナソコナカツヒメ」を娶り第一子「息石耳」(オキソミミ)を儲けた。

タマテミ26歳のとき第二子「耜友」(スキトモ)が授かった。

タマテミ28歳のとき、磯城県主の娘「飯日媛」との間で第三子「香殖稲」(カエシネ)を儲けた。(※ 2)

そしてタマテミ31歳のとき、第一子のオキソミミ(16歳)が「天豊津姫」を産んだ。タマテミの初孫である。
タマテミ42歳のとき、タマテミは古の倣いに従い「王統の末子継承」にカエシネ(14歳)を皇太子に立てた。『先代旧事本紀』「天皇本紀」。

こうした中、心中穏やかでない后のヌナソコナカツヒメは傍系カエシネの立太子を慶ばず祖父「事代主」に直系する我が児の末子継承を強く望んた。そしてそれに応えるかのようにスキトモ(20歳)は、兄オキソミミの娘「天豊津姫」(15歳)を娶り翌年「クシトモセ」を生んだ、時に156年。そしてタマテミ49歳(AD158)のときタマテミが崩御、皇太后になったヌナソコナカツヒメはタマテミの遺臣で大臣であった「物部の出雲醜」らの佐を得て喪が明けるのを待って「スキトモ」(23歳)を強引に後継王位に就かせた。
この当時、外に目を向ければ中国の皇帝は後漢第11代「桓帝」の時代で、宦官に魏の祖となる曹操の祖父「曹騰」がいて権能を振るっていた。

神武東遷後 半世紀が経つタマテミの御代、タマテミは磯城の娘を相次いで后妃に迎え入れて王権の基盤を固めていた。磯城は神武東遷前は「事代主」の支配地であったが東遷後はこの地を退いて出雲へ還御した。居残った娘たちがタマテミに后妃として納まっていた。
磯城の東に朝日が昇る荘厳な三輪山は出雲の王「大国主命」を象徴する霊山であった。タマテミはその祖神を崇める豪族「三輪氏」に祭祀権を与えることで積極的融和を図った。磯城とは現在の巻向・柳本方面で三輪山の西麓に位置する。
諡号は、安寧(あんねい)天皇。邪馬台国/ヤマト王権第三代大王である。
 [私論編年 AD110-AD158、大王在位23年、49歳で崩御]

■ (写真は、宇佐神宮の西大門)
紀元前1~前2世紀ころ、日本には既に出雲王朝が出雲に存在していた。その版図は本邦は云うに及ばず韓半島中原以南(任那)全域に及んでいた。そして近畿・東海から濃尾・越三州と跨る支配地では交易が盛んに行われていた。その一方で北部九州へも進出、勢力を伸張していた。当時、その北部九州には既に大きな勢力のヒムカ族が居たが、そのヒムカ族の王アマテラスは出雲王朝の勢力に押されて日向の山地へ身を隠した。それでも北部九州に留まった同王の末裔たちは、時代が下ると共に次第に力を蓄えるに至り、紀元一世紀後半ようやく九州宇佐から舟軍を率いて出雲征伐(東方遠征)へと乗り出した。そして宇佐はヒムカ天孫族にとって出陣の地・戦勝祈願の聖地となった。宇佐神宮は斯くして時代が遥かに下った第48代称徳天皇(女帝)の御世〝道鏡お告げ〟のごとく一旦皇統を揺るがす一大事のときはこれを阻止する神託を示して皇室を守護する宋廟となっていた。 (※ 3)
(東征出立地をことさら日向とした記紀は、故事アマテラスの遺志を忖度した表れ)
(板厚30ミリ)

大王「タマテミ」は出雲醜(イズモシコ)を大夫に、大祢(オオネ)を侍臣とした。二人は共に宇摩志麻治(物部氏)の孫で朝政の大権を掌握していた。この宇摩志麻治を祖とする物部氏の本拠地は河内を含む登美を中心とした添下郡(現・奈良盆地北部)一帯で、いわゆる旧出雲王朝の都だった要衝の地であった。

一方、怒れる祖・味耜高彦根を祖とする尾張氏は旧出雲王朝の衛星国であった丹波国を受け継ぎ、同時に中央に在っては葛城の高尾張邑(現・玉手から観音寺町にかけての曽我川に沿った周辺一帯と思しき) を本拠地としていた。

他方、事代主を祖とする三輪氏の本拠地は磯城郡に在り、三輪山の西麓一帯で、同時に出雲国を領していた。

こうした三者三様の背景の下、長髄彦の地盤を引き継いで強大な軍事力を持った物部氏と、水運をほぼ独占して栄える海洋の覇者 丹波の国を治める尾張氏、そして大王家に相次いで姫を入后させ 大王家と繋がりをますます深化させ、その地歩を着々固めていく三輪氏、共にこの三兄弟はその勢威を歴史的に競うことになるのである。

(※ 1)
タマテミの「后」の父「鴨王」は、同時にタマテミの母の兄でもあった。
同后の祖父は「事代主」である。事代主は三人の子に恵まれたが内一人が男子であるから后の父「 天日方奇日方」 と「鴨王」は異名同人であることがわかる。
また『古事記』は「カエシネ」の母「飯日媛」のことを「皇后」と記している!私見であるがこの飯日媛は神武に敗れた磯城の豪族「兄磯城」(えしき)の孫娘でなかったかと観ている。

(※ 2)
『記紀』はタマテミの第三子のことを「磯城津彦」という代名詞で潜り込ませた。第三子である「カエシネ」がここへ実名で登場してくることは『記紀』にとって甚だ不都合であった。何故か!
それは、カエシネの腹違いの兄スキトモのことをカエシネの父に仕立て上げなければならなかった事情に因る。なぜならスキトモ とカエシネの〝兄弟同士が大王位を巡って熾烈な争があった〟とする歴史的事実を隠ぺいしたかったからである。『記紀』はその狙いどおりこの改竄によって〝万世一系何事もなく父子相続が恙なく連綿と続いた〟とする皇統譜を歴史に刻むことが出来た。つまりこのときの磯城津彦とは「カエシネ」を仮託した抽象代名詞であった。
飯日媛の父は磯城県主「太真稚彦」(フトマワカヒコ)という、その出自が神武と戦った「兄磯城」(えしき)に繋がる人物(孫)とみているのは、飯日媛の生んだ孝昭が以後、ヤマト王権主流である尾張氏王統へと形成されていったからである。

(※ 3) 宇佐神宮には祭殿が三つある。その真ん中にある御柱は「日女命」こと宇那比媛が祀られている。で、両側に侍る御柱は神功と応神の親子である。開化によって血統の交代が為されたが、その開化を祖とする巻向王統を倒した神功親子が日女命を弔っている!そのような構図が観てとれる。伊勢神宮がアマテラスを主祭神としているのと対比して王家の歴史的変転が見て取れてとてもおもしろい。深みのある史実が今も宇佐神社に現存していて静かに我らへ語らいつづけながら鎮座しているのである。

2012/11/1   著者 小川正武