2013年3月22日金曜日

天足彦国押人 【邪馬臺国 その十二】 第一章



天足彦国押人命(アマタラシヒコ クニオシヒト) 
以下略して、アマ・クニオシヒトという。
カエシネ(⑤孝昭天皇)の第一皇子。母は尾張氏の世襲足媛。  
同母弟に⑥孝安天皇(ヤマトタラシヒコ クニオシヒト)がおり、その孝安の后はこのアマ・クニオシヒトの娘 押媛とされる。
【私論編年 AD168ー199年、32歳で夭逝か!】

画像は11歳のころの天足彦国押人(アマタラシヒコ・クニオシヒト)の面影を投影す。長じて宇那比姫命(ウナビヒメ)いわゆる魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」を娶る。この宇那比姫との間に生まれた児「和邇日子押人命」(ワニヒコオシヒト)は正始四年 魏へ遣使している。(AD243年)            また、この「和邇日子押人」は「宇那比媛」(日女命)が亡くなった後、再び国が乱れるなか従妹の「台与」を擁立して時局の収拾を図った。斯くして和邇氏一族にとってこのアマ・クニオシヒトは宗祖的存在となって後裔たちは大いに雄飛して栄えた。
AD179年ころ、都の騒乱をよそに天足彦国押人 11歳はその弟「後の⑥孝安天皇・当時4歳」と共に母方の祖父・天忍男(尾張氏)の領国丹波の海士(現・京丹後市久美浜)に身を預けられていた。

それと相前後して、宇那比姫 8歳もまた都ヤマトの地を離れて曾祖父の地・天忍人(天忍男の兄)の領国丹後の竹野(タカノ)の府で同じく大切に庇護されていた。どちらの地にも海に近い良好な河川の津があり紀元前から狗耶(半島の倭地で、任那へ発展する原形の地でもある)の倭人らとも、鉄・銅・珪砂などの原材料と海産乾物・宝飾・土器・雑絹…など多岐にわたって交易がなされていた。中国王莽の「新」(AD8~23)で鋳造された貨幣「貨泉」が山陰函石浜遺跡から出土しているが、そこからも貨泉を用いた盛んな交易の様子が窺い知れる。厄除け文身した逞しくも勇ましい海の男たちの荒い息吹がいまにも川津の向こうから聞こえてきそうではないか。

〈※1〉出雲王朝の時代、山陰は青銅文化圏として大いに栄えていたがヒムカ天孫族が畿内に持ち込んだ鉄器文化によって脆くも戦いに破れ、以後山陰や大和の諸豪族らも以前にも増して競って半島から鉄を移入するようになり、その後、鉄は近江からも産するのを観て物部氏や和邇氏らは競って同地へ進出し直接調達できるようにもなった。

ところで「出雲醜の変」とは一体どういうものであったか、その真相を顧みてみよう。 一言でいうなら、それは大王位を巡る「三輪氏」と「尾張氏」との抜き差し為らない確執、深刻な覇権争いにほかならなかった。言い換えれば母系嫡流嫡孫に固執する三輪氏と、古来からの伝統である末子継承の慣習に拘る尾張氏との豪族間同士の立場の相違からくる大王位を巡る継嗣継承争いであった。物部氏の出雲醜はその渦中に巻き込まれて難しい選択を迫られた大臣であった。この三者は何れも先祖を遡れば大国主命に辿りつく皆兄弟たちであった。「三輪氏」は大国主命の第一皇子「事代主」に辿りつき、「尾張氏」は大国主命の第二皇子「味耜高彦根」に辿りつく、そして「物部氏」は大国主命の第三皇子「宇摩志麻治」にたどり着くのである。これら兄弟氏族らは「長髄彦」の妹君「御炊屋媛」の遺訓に背かず忠実に大王家に仕えて、その勢力の消長をかけて互いに繁栄を競い合っていた親族らであったのだ。

〈※2〉大王位の末子継承は遠く筑紫ヒムカ天孫族からつづく習わしであった。現にイワレヒコ(神武)は末子であった。イワレヒコの兄たちはイワレヒコの楯となって戦場で亡くなっている。このアマ・クニオシヒトも同様、弟のヤマト・クニオシヒト(⑥孝安天皇)の方が優先して大王位を継ぐ仕来たりに遵っていた。

(板厚30ミリ)

そして、出雲醜は大王家分裂の収拾を果たせぬままAD183年ころ薨去した。


2013/3/22  著者 小川正武