九州筑紫の地にアマテラスを祖神と崇める豪族 ヒムカ族がいた。その王「イワレヒコ」は、45才のとき東方の豊葦原瑞穂の国を目指して軍を率いて舟出、瀬戸内海を東進した。やがて難波(なにわ)の津に上陸、生駒の麓 日下(くさか)から大和(やまと)に向かおうとした、ところが土地の豪族「長髄彦」(ナガスネヒコ)の軍衆に遮られて退却の余儀なきに至った。
【左図はそのときの場面、安達吟光画を参考に彫る】
イワレヒコはこの戦いがもとで兄の「五瀬」を失うがそれにもめげずに紀伊半島を迂回して熊野から宇陀へ入り、つぎつぎと土豪を制圧して桜井の磐余(イワレ)へ進出、遂に長髄彦を倒して漸く大和の一角に地歩を固めた。九州宇佐を出発して以来六年余を費やして漸く橿原の畝火(うねび)の宮で即位(AD93)した。
諡号を神武天皇、亦の名を神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)。
邪馬台国/ヤマト王権初代大王。
[ 私論編年 AD41-AD109、大王在位17年、崩御69歳 ]
※ 因みに、ヤマト王権を後々まで支えることになる物部氏の始祖は、この長髄彦の妹「御炊屋姫」と饒速日 亦の名「大国主命」の間に生まれた児「宇摩志麻治」(第三子)である。
宇摩志麻治には異母の兄で「味耜高彦根」(大国主命の第二子)がいた。この味耜高彦根 は尾張氏の始祖となり後々『記紀』から隠蔽された女王「日女命」(卑弥呼)それに「天豊姫」(台与)を輩出することとなるのである。
亦、大国主命の第一子「事代主」は三輪氏の始祖となり、その娘「媛蹈鞴五十鈴姫」は神武の后となる。
この始祖三兄弟は三者三様にヤマト王権創成期の中核を担いその後の皇統譜を多彩に彩り、古代日本の輝かしい史実として確かに実在し、かつまたダイナミックに躍動していたのである。
日本における西暦一世紀のころは、既に西日本はおろか北陸・東海・関東にわたって水稲・土器・青銅器の文化が発達し、それと並行して人と物とが盛んに行き来していた。そして、集落・部族から発展した豪族たちが各地に興り、それぞれ国を形成していった。それが筑紫であり、吉備・出雲・丹波・葛城らであった。これら族の長(おさ)たちは、韓半島の倭地を含む日本の地勢をおよそ俯瞰できていた。そればかりか中国王朝の興亡までも詳しく知り得ていた。それはなぜか!、
前漢書に曰く〝楽浪海中に倭人あり、分ちて百余国と為し、歳時をもって来たりて献見す…(漢書地理志燕地)〟と。また、AD08年に、王莽(おうもう)が「新」を建国するが、その貨幣「貨泉」が壱岐・福岡・京丹後・岡山・大阪住吉など各地から出土しており、当時貨幣経済を持たない倭国へ少なからぬ難民が流入してきたことがこのことからも窺いしれる。更に申せば、神武東征(東方移住)は見方を変えれば東遷の性格をもち、戦乱と興亡の相次ぐ大陸と距離を置くことで大和は北部九州より国の都として優れて立地していた。
■
神武東遷後、大和国は皇都となり、伊都国は陪都となった。伊都国における「一大率」の設置は、筑紫ヒムカ孫の主体が東へ移動したことによる西の軍事的空白を埋めるためのものであった。この「一大率」の役割は、九州鎮西とその国々を監察することを目的とし、同時に半島と大陸に対する外交・防衛を担う情報収集機関「大宰の府」として 地理的にもその役割を担う邪馬台国(ヤマト王権) にとって重要な統治機構であった。
西暦107年(安帝の初年)、倭王帥升が後漢へ遣使[後漢書]。この遣使を「帥升」に命じた大王こそ大和の地に根付きいて五年、原郷筑紫ヒムカを凌ぐ勢いを持った「神武」その人であったろう。更にそれを遡ること 西暦57年の「漢委奴国王」とは、当時 筑紫ヒムカの大王(神武の父)に仕えていた大夫「天児屋根」(遠祖中臣氏)を指し (※ 1)、その子「天押雲」こそ「帥升」その人であり『記紀』神話に出てくる神名「建御雷」に相違なく、その息子「天種子」が神武に供奉して東行し、建御雷は筑紫の国元を護りながら神武を後方支援していた (※ 2)。そして『魏志倭人伝』に登場してくる「難升米」は、帥升から数えて五世孫の中臣の「梨迹臣」(ナシトミ)であり、このいわゆる上古「中臣氏」は大王との絆が深く元を質せば外戚だったものが降下して支えていたものと見る。
(※ 1)
この二つの遣使の間には50年もの開きがある。が、時系列的には「天児屋根」25歳(AD57)のときに授かった児(天押雲)であれば、神武が東征当時(AD86) 天押雲は29歳の青壮期、後漢遣使の時は50歳の熟年期に相当する。後漢遣使の帰朝報告を神武に奏上した帰途、宇摩志麻治と共に出雲の国王「事代主命」に臨んだのが翌年の51歳(AD108)とすれば、この二つの後漢遣使とその両方に跨る親子関係にはなんの不自然もなく、宇摩志麻治もまた天神地祇の誓約の場に立ち会って〚邪馬台国〛建国の大任を果たしていたこととも符合する。因みに「事代主命」の孫「綏靖」はAD108年当時、14才に成長していたことになる。
(※ 2)
この下りを神話風に言解くせば、高天原のアマテラス神が出雲神のニギハヤヒの許へ天津臣タカミカヅチと地祇臣ウマシマチを遣わして曰く〝天孫イワレヒコが降臨したヤマトの地はイワレヒコに賜りたい、代りとして出雲神の血脈は未来永劫受け継ぐことをウケイ(誓約)し、御霊は末代に亘ってお祀りしましょう・・〟と告げているのである。実際、天神・地祇合体の貴種は現代にも引き継がれ、ゆえに皇室にとって伊勢神宮と出雲大社は斬っても切れない〚天つ神・国つ神〛を奉祭する相関関係になっている。有史以来つづく気宇壮大でロマンに富んだ王統譜が驚くべきことに今に引き継がれているのである!。
(板の大きさ : 210×480×30)
2012年9月29日 著者・制作 小川正武