2012年12月19日水曜日

ナガスネヒコ 「登美国蕃王」 【邪馬臺国 その七】 第一章

長髄彦命(ナガスネヒコノミコト)
出雲王朝を奉じる登美国蕃王  妹君に大国主命の后「御炊屋媛」がいる。
[私論編年 AD40~AD92、53歳で憤死]

長髄彦の支配地は添下郡(現・奈良市)から城上郡(現・桜井市)それに河内に及んでいた。原大和王国(土着系)のこの王は、同時に山陰一体を治める先進的な出雲王朝(銅鐸文化圏)に帰服していた。ところが、一世紀中葉ヒムカ天孫族の勢力が北部九州に勃興、出雲国を直接脅かす動きに出た。そこで出雲の国の大王ニギハヤヒはAD70年ごろ、河内の哮
ヶ峰(たけるがみね/生駒山) に下り、ついで登美の白庭山 (現・登祢神社の付近:左の写真は同本殿) に宮を移してそれに備えた。長髄彦はニギハヤヒに臣下の礼をとって登美に迎え入れ、自らは河内の国を治めた。やがてAD86年ころ、神武東征が勃発、出雲王朝は丹波・因幡・伯耆・石見など各地の支援を得て、長期に亘る敵の攻撃にも持久戦で
よく耐えた。そうした中、神武軍は突如として向きを変えて難波の津へ押し寄せてきた。長髄彦は自ら軍を率いてこれを迎え撃ち孔舎衛坂(くさえのさか)で撃退した。そのおり退却する神武軍をあえて追撃せず、これが後々、長髄彦の命取りとなった。(左の鳥居は登美神社)   一方、九州筑紫を本拠地とする神武の故国は、神武軍が河内敗戦・熊野退却・
孤軍衰亡の危機をほぼ掌握していた。記紀神話風にこの状況を言解せば、アマテラスと高木神 (筑紫ヒムカの今は亡き大王) が夢枕に現れて建御雷(タカミカズチ)に〝私の御子たちが葦原中国でひどく悩んでいるので天降って平定しなさい〟と神託 (夢のお告げ)を された。 (左の円墳は富雄丸山古墳を遠望) ■ 建御雷(※ 1)は奴国を与る同大王家の忠  
勇な臣下(外戚が降下したお身内であったか)で筑紫の護りに在って、その神託(切羽詰まった情報)を畏まって受け止め、椎根津彦に命じて救援に当たらせた。 (左の測量図は富雄丸山古墳) これによって息を吹き返した神武軍は、八咫烏を先導に嶮しい紀伊大台ヶ原を縦断、吉野から宇陀~磐余~葛城へと一気呵成に雪崩れ込んだ。長髄彦の支配地・城上 
郡(現・桜井市)をも席巻、長髄彦の弟の安日彦(アビヒコ)はなすすべもなく散華した。■  神武軍は、孔舎衛坂の戦いで一敗地にまみれたが、吉野越えからは手薄な宇陀を突き、情け容赦のない奇襲攻撃を展開した。山間僻地の俄か仕立ての安日彦のヘコ(兵)共では死に物狂いで襲いかかってくる尖鋭には刃が立たず侵入神武軍の蹂躙に為すすべもなく制圧された。
■ 神武侵入以前の原大和国の原風景は、幾つもの土豪たちが秩序ある集落(邑々を構成)を営んでいて、銅鐸文化を持ち込んだ出雲系弥生人とも同化・混血が進み、それが全体として均衡のとれたまとまりをみせ、東海北陸など遠隔地の国々とも盛んに交流が進みその社会的風土は比較的優しく争いごとの少ないのどかなものであった。(上の写真は、間近に見る富雄丸山古墳)

こうした温暖な気候風土と海の幸・山の幸に恵まれた豊葦原瑞穂の国は、新たな闖入者「筑紫ヒムカ族」によって不意を突かれ、あっと言う間にその一角を蹂躙され占拠されてしまった。長髄彦は切り裂かれた地・捕らわれた高貴な姫君たち、それらを奪還すべく神武に挑むが勝敗は決せず ついに大和川を挟んで南にイワレヒコ・北にニギハヤヒが直接対峙する局面が出現した。

 ■ 兇賊イワレヒコ軍に脾臓のごとき地を突如として突かれ孫娘(出雲王朝の皇女)二人を奪われた。蕃王ナガスネヒコはその敗戦の責を問われ死を賜った。しかもこともあろうにナガスネヒコの甥の宇摩志麻治に処断させるというまことに痛ましい結末を辿った。憤死したであろう長髄彦の塚は当時築くことが憚られ、宇摩志麻治の後裔の登美連らの代になってから漸くその築造が許され、その祟は鎮められた。その古墳は被葬者の名が今もって謎とされている富雄の丸山古墳ではなかったか!。同丸山古墳は、直径86m=高さ10.5m 近畿では最大規模の円墳だという。この墳墓こそ長髄彦王に相応しい異質の王陵なのである。

■ 序でに申せば登祢神社は本来、長髄彦命を主祭神として祀る隠された奉斎神社であると私は観る。また城上郡の等祢神社はその弟の安日彦命(アビヒコ)を主祭神として弔うこれまた隠された奉斎神社であろうと思う・・。

(板厚30ミリ) 

 (※ 1) 「建御雷」の亦の名は「天押雲」、亦の名は「帥升」という異名同人である。建御雷は記紀神話に出てくる名、天押雲は中臣氏の系図に出てくる名、帥升は漢書に出てくる名、何れも名こそ違え同時代同立場の同一人物である。因みに魏志倭人伝に出てくる「難升米」は中臣氏の「梨迹臣」である。天押雲から数えて五世孫でもある。

長髄彦王とは、ヤマト王権発祥の地で、その淵源に深く関わり、そして消えていった「原大和王国」最後の王であった。憂国と憤怒の念を懐きながらも最期は一身に全責任を被り粛然と死に赴いていったこの王に対して、私は私なりに深く哀惜と畏敬の念を表しつつ、ここに祈りの作品を奉げた。

2012/12/19    著作者 小川正武

2012年12月10日月曜日

アジスキタカヒコネ 「尾張氏の始祖」 【邪馬臺国 その六】 第一章

味耜高彦根命(アジスキタカヒコネノミコト)  〚尾張氏始祖〛 
ニギハヤヒ(大国主命)の第三子。
味耜高彦根命から数えて五世孫に卑弥呼(日女命)が現れ、七世孫に台与が登場する。
[私論編年 AD62-AD116、55歳で身罷る]

アジスキタカヒコネは今も葛城の地に鎮座まします「雷様」と言われている。国譲りのとき、闖入者ヒムカ天孫族にとって一切まつらわぬ神として立ちふさがっていたからだ。反抗的な神であったが重要な位置を占める有力な神であったために記紀神話においてもこの神を抹殺するわけにはいかなかった。

AD92年ころ、神武軍が吉野の山中から忽然として現れ宇陀から葛城(現・御所市)へ雪崩込んだ。不意を突かれた土豪たちはつぎつぎとその軍門に下った。そうした混乱の中、葛城の高尾張邑(同市東部地域)に居を構えていたアジスキタカヒコネは辛くも添下(そえしも:現・奈良市)へ退くことができた。
そして、年月が過ぎた11年後、「天雅彦(アメノワカヒコ)の変」が起きた。その粗筋は以下のようだった。
神武がアジスキタカヒコネの治める国を平定するため息子「天穂日」を派遣したが行方がわからなくなってしまった。そこで次に「天雅彦」を派遣した。
しかしこの神もアジスキタカヒコネの妹の「下照姫」を娶ってその国に住み着いてしまった。怪訝に思った神武は雉女を放って様子を探らせに行かせた。ところが雉女は天雅彦に矢で射殺されてしまう。神武は天雅彦がてっきり囚われの身であると思い違いし救出のヘコ(兵)を差し向けた。天雅彦もまたてっきり討ちとりにきたと思い違いし立ち向かうが逆に胸に矢を受けてその場で絶命した。

天雅彦の死を嘆き悲しむ下照姫の泣声でその死を知った寄せ手のヘコたちはその屍を無理やり奪って神武のもとへ走り、喪屋を建てて葬儀した。
アジスキタカヒコネは天雅彦とは生前極めて良好な関係であったため、その葬儀の弔いに身分を隠して訪れた。ところが天雅彦の親族たちはアジスキタカヒコネが天雅彦にあまりにもよく似ていたため「まだ死なないで居られた」と手を取って喜び泣いた。アジスキタカヒコネは「私を死人とまちがえるとはっ!」と怒って、剣を抜いて喪屋を切り倒して立ち去った。 (上の図は、その憤怒の一場面)
■ 
また、「出雲風土記」に以下の記述が残されている。
「味耜高彦根命、御須髪(みひげ)八握に生(は)ふるまで、昼夜哭き坐して辞通(かよ)わざりき」。
成人になり髭が伸びても赤児のように泣き止まず言葉も話せない~の意味。正常に言語活動が話せない、意思疎通ができない、今でいう発達障害だったのだろうか?。否それだけではなさそうな。国譲りの過渡期に多くの姻族を亡くした悲しさもさりながら、父祖代々が営々築いてきたこの国を禅譲しなくてはならなくなった羽目がそうしたいびつな身体表現となって表れてしまったのではなかったか。

時代が100年下って日女命(卑弥呼)の時代、日女命(日巫女)は神勅を下して曰く「今ここに、一宮を創建し祀らわば、国中安泰・諸人守護・五穀豊穣と到さん」…と。そこで人々は神殿を建立し、味耜高彦根命と事代主命を左右相殿として祀った。斯くして高嶋の鎮守の社は地元では「雷様」と畏怖の念をもって呼ばれるようになった。現在の本殿は室町時代に再建されたもので、主祭神は味耜高彦根命・配祀には下照姫と天雅彦命が祭られているという。この伝承は史実の反映と思われる。

(板厚30ミリ)

私は想うのです、赤児はなぜあんなに泣くのだろうかと!、お腹が空いているときはもちろんのこと、どこか具合が悪いときもそうだろう、でもそれだけだろうか!・・と、それはこの世に生まれてきたことの業、理不尽で不条理な世の中の業、無垢で無知ゆえの業、々々…、そうした不安と悲しみが同時にない交ぜになって体が慟哭しているのではないのか・・と。この神の慟哭もまた宿痾の業を前にしてその悲しさを物語っているのではありますまいか。

2012/12/10    著作者 小川正武