一書に曰く〝事代主神は宮中の御巫(みかんなぎ)八神の一つにもなっています。「えびす様」が、そんなとんでもない場所に祭られているとは知らない人が多いと思いますが、それは天皇家の祖先に関するこの大きすぎる地位に根拠があるのでしょう。〟
事代主(コトシロヌシ)命 〚三輪氏始祖〛
ニギハヤヒ(大国主命)の第一王子、母は神屋楯比売(カムヤタテヒメ)神。
弟王に味耜高彦根(アジスキタカヒコネ) と 宇摩志麻治(ウマシマチ) がいる。
王女(娘)に媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ) と 五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)がいる。
人は今も親しみを込めてこの神を福の神「えびす様」と呼んでいる。
【私論編年 AD58-117 60歳で身罷る】
大和南部の地を制したイワレヒコ(神武)が事代主の娘「ヒメタタライスズヒメ」を后に迎え入れたことで事代主は神武の舅となった。この舅は出雲の国の大王で同時に出雲文化圏に属する山陰地方の盟主的存在でもあった。先代ニギハヤヒ(大国主命)の時代、その勢いは全盛であったがイワレヒコに大和の都を追われてからはその勢いもかげりをみせていた。しかし、神武東征の砌、出雲国を落とせぬまま難波津へ向かわせた当時の出雲の牙城はいまだ健在で、依然として隠然たる基盤をもって外敵に備えていた。その侮りがたい存在はヤマト王権にとって厄介な存在で、互いに覇権を争う相手が婿と舅の関係であれば尚のこと和解して平和裏に血族的統合を図りたいとするのが神武の切実な願いであり且つ又背景であった。
AD108年ころ、筑紫の豪族である天押雲は邪馬台国の大王となっていたイワレヒコの命を承けて副使ウマシマチを伴って出雲の王宮へとまかり出た。
天押雲は後漢書でいう倭国王「帥升」その人で、記紀神話に出てくる「建御雷」で神武の外戚にあたり筑紫を与る王でもあった。前年 後漢朝貢を果たして帰朝報告のため邪馬台国へ罷り出ていた。その正使「天押雲」は副使「宇摩志麻治」と共に出雲の王「事代主」の下へ和睦の使者として遣わされていた。 (※ 1)
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建御雷(51歳)の拝賀の辞は事代主(50歳)を寿ぐ言霊からはじまった。内容は、事代主は今や大王イワレヒコの舅殿でおわすこと、后の媛蹈鞴五十鈴媛(30歳)は三人の御子を授かり立派に育っていること、舅殿はその御子の祖父でおわすこと、また后の妹君「五十鈴依姫」(25歳)は同后のたっての願いから第三王子「ヌナカワミミ」(14歳)が元服するのをまって同皇子と婚儀の予定であること、等々つらつら口上し、加えて大王イワレヒコの思いとして舅殿と永遠の契りを結び、日の神(天つ神)を祖神と崇める我ら天孫族は地の神(国つ神)を祖神と崇める出雲族と和して共に栄えんと欲する、その偽りない証に代えて舅殿の弟君で大王近侍の大夫ウマシマチ(37歳)を茲に遣わせた所以なり…と奏上した。
事代主命は深く思いを巡らせたの後やおらお口を開き重々しくも〝朕(吾)に否なし・・〟と。
ここにヒムカ天孫の王は、出雲の王と同化習合に成功し記紀はこれを、天神と地祇が合体した統治する血族の統合と受け止め、以後このことを出雲の国譲りと謳った。
而して神武朝が名実ともに成立した時期は、神武が橿原へ武力進出したときでもなければ長髄彦が賜死した時でもなく、実にその15年後の宇摩志麻治が降った時なのである。神武が天降ったころの在地豪族の勢力は猛る神武の孤軍勢力よりもその総和においては遥かに凌駕していた。しかし当時はまだ相互の戦略的連帯性に欠け緩やかで穏やかな気風であったためこれを排除するまでに至らず、それよりも新たな血が婚姻を通じて融和策に転じてきたのを受け容れた。
この下りを私なりに言解せば、アマテラスの霊がニギハヤヒの霊の下へ天つ臣タカミカヅチと国つ臣ウマシマチを遣わし〝天孫イワレヒコが降臨したヤマトの地はイワレヒコへ国譲りし給え、代りにその母なる瑞穂の地は弛まぬ交配を重ね豊穣の国へと繁栄することを誓約(うけい)するでありましょう・・〟と幻示的に伝えたのである。結果、史実においても天神地祇の合体した貴種は今日まで引き継がれている。ゆえに伊勢神宮(天神)と出雲大社(地祇)は斬っても切れない相互補完の関係に今日も在る。 (※ 2)
(板厚 30ミリ)
祟神の無血クーデターが起こったAD275年までの約400年間、この間は銅鐸を祭祀とする弥生文化の全盛時代であった。クーデター以後はその祭祀の使用を〝許さない〟とする意志をもった政治改革が中央で断行された。出雲の奥深い荒神谷とか加茂岩倉山に同青銅器が隠すように埋納されていたことは、当時それを埋葬した側(被支配者層)に深刻な事態が生じていたことを物語っている。これを前後して時代は前方後円墳へと移り、以後前方後円墳からは一切銅鐸の出土は見られなくなるのである。
(※ 1) この九州筑紫を原郷とするヒムカ族とは、そも如何なる出自であろうか?。思うに中国秦の始皇帝の時代、戦乱で荒れ果てた地を後に、徐福が船団を組んで東海に在るという蓬莱の国を目指して集団で亡命したという。紀元前220年頃であろうか!その辿り着いた先が九州の有明ではなかったか、そこへ上陸して次第に筑紫平野に根を下し在地弥生人とも次第に同化融合していった。その末裔たちがヒムカ族と称されるに至ったのではないのか?。ところが紀元前100年頃、山陰地方の出雲族(海人)が全盛期を迎えて筑紫地方をも席巻、そのためヒムカ王は難を逃れて日向へ一時身を隠した。その王こそ神武の祖母「アマテラス」だったと観る!。更に想像を逞しくすれば、神武の先祖を遡れば微かに徐福あたりへ辿り着くのではないだろうか?
(※ 2) 天押雲こと建雷命(タカミカヅチ)という古代神が中臣氏の氏神である春日神社に祭られている。その中臣氏の末裔である藤原氏も亦、その氏寺である興福寺に建雷命を権現様(化身)として形を変えて祀っている。仮に徐福の血を神武が引いていたとしてもそれを殊更強調するほどのことはなく、むしろ土着化して歴史の彼方へ消え去っていったそれら幾多の人々を今なお現存する氏寺や仏閣が朝な夕なに怠りなく奉っているその日本人の先祖崇拝こそ歴史遺産として大切にしていきたいものである。
2013/1/25 著者 小川正武