2013年1月25日金曜日

事代主命 【邪馬臺国 その十】 第一章

一書に曰く〝事代主神は宮中の御巫(みかんなぎ)八神の一つにもなっています。「えびす様」が、そんなとんでもない場所に祭られているとは知らない人が多いと思いますが、それは天皇家の祖先に関するこの大きすぎる地位に根拠があるのでしょう。〟

事代主(コトシロヌシ)命 〚三輪氏始祖〛
ニギハヤヒ(大国主命)の第一王子、母は神屋楯比売(カムヤタテヒメ)神。
弟王に味耜高彦根(アジスキタカヒコネ) と 宇摩志麻治(ウマシマチ) がいる。
王女(娘)に媛蹈鞴五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ) と 五十鈴依媛(イスズヨリヒメ)がいる。
人は今も親しみを込めてこの神を福の神「えびす様」と呼んでいる。
【私論編年 AD58-117  60歳で身罷る】

大和南部の地を制したイワレヒコ(神武)が事代主の娘「ヒメタタライスズヒメ」を后に迎え入れたことで事代主は神武の舅となった。この舅は出雲の国の大王で同時に出雲文化圏に属する山陰地方の盟主的存在でもあった。先代ニギハヤヒ(大国主命)の時代、その勢いは全盛であったがイワレヒコに大和の都を追われてからはその勢いもかげりをみせていた。しかし、神武東征の砌、出雲国を落とせぬまま難波津へ向かわせた当時の出雲の牙城はいまだ健在で、依然として隠然たる基盤をもって外敵に備えていた。その侮りがたい存在はヤマト王権にとって厄介な存在で、互いに覇権を争う相手が婿と舅の関係であれば尚のこと和解して平和裏に血族的統合を図りたいとするのが神武の切実な願いであり且つ又背景であった。
AD108年ころ、筑紫の豪族である天押雲は邪馬台国の大王となっていたイワレヒコの命を承けて副使ウマシマチを伴って出雲の王宮へとまかり出た。
 天押雲は後漢書でいう倭国王「帥升」その人で、記紀神話に出てくる「建御雷」で神武の外戚にあたり筑紫を与る王でもあった。前年 後漢朝貢を果たして帰朝報告のため邪馬台国へ罷り出ていた。その正使「天押雲」は副使「宇摩志麻治」と共に出雲の王「事代主」の下へ和睦の使者として遣わされていた。  (※ 1)

建御雷(51歳)の拝賀の辞は事代主(50歳)を寿ぐ言霊からはじまった。内容は、事代主は今や大王イワレヒコの舅殿でおわすこと、后の媛蹈鞴五十鈴媛(30歳)は三人の御子を授かり立派に育っていること、舅殿はその御子の祖父でおわすこと、また后の妹君「五十鈴依姫」(25歳)は同后のたっての願いから第三王子「ヌナカワミミ」(14歳)が元服するのをまって同皇子と婚儀の予定であること、等々つらつら口上し、加えて大王イワレヒコの思いとして舅殿と永遠の契りを結び、日の神(天つ神)を祖神と崇める我ら天孫族は地の神(国つ神)を祖神と崇める出雲族と和して共に栄えんと欲する、その偽りない証に代えて舅殿の弟君で大王近侍の大夫ウマシマチ(37歳)を茲に遣わせた所以なり…と奏上した。
事代主命は深く思いを巡らせたの後やおらお口を開き重々しくも〝朕(吾)に否なし・・〟と。
ここにヒムカ天孫の王は、出雲の王と同化習合に成功し記紀はこれを、天神と地祇が合体した統治する血族の統合と受け止め、以後このことを出雲の国譲りと謳った。
而して神武朝が名実ともに成立した時期は、神武が橿原へ武力進出したときでもなければ長髄彦が賜死した時でもなく、実にその15年後の宇摩志麻治が降った時なのである。神武が天降ったころの在地豪族の勢力は猛る神武の孤軍勢力よりもその総和においては遥かに凌駕していた。しかし当時はまだ相互の戦略的連帯性に欠け緩やかで穏やかな気風であったためこれを排除するまでに至らず、それよりも新たな血が婚姻を通じて融和策に転じてきたのを受け容れた。

この下りを私なりに言解せば、アマテラスの霊がニギハヤヒの霊の下へ天つ臣タカミカヅチと国つ臣ウマシマチを遣わし〝天孫イワレヒコが降臨したヤマトの地はイワレヒコへ国譲りし給え、代りにその母なる瑞穂の地は弛まぬ交配を重ね豊穣の国へと繁栄することを誓約(うけい)するでありましょう・・〟と幻示的に伝えたのである。結果、史実においても天神地祇の合体した貴種は今日まで引き継がれている。ゆえに伊勢神宮(天神)と出雲大社(地祇)は斬っても切れない相互補完の関係に今日も在る。 (※ 2)
(板厚 30ミリ) 

祟神の無血クーデターが起こったAD275年までの約400年間、この間は銅鐸を祭祀とする弥生文化の全盛時代であった。クーデター以後はその祭祀の使用を〝許さない〟とする意志をもった政治改革が中央で断行された。出雲の奥深い荒神谷とか加茂岩倉山に同青銅器が隠すように埋納されていたことは、当時それを埋葬した側(被支配者層)に深刻な事態が生じていたことを物語っている。これを前後して時代は前方後円墳へと移り、以後前方後円墳からは一切銅鐸の出土は見られなくなるのである。


(※ 1) この九州筑紫を原郷とするヒムカ族とは、そも如何なる出自であろうか?。思うに中国秦の始皇帝の時代、戦乱で荒れ果てた地を後に、徐福が船団を組んで東海に在るという蓬莱の国を目指して集団で亡命したという。紀元前220年頃であろうか!その辿り着いた先が九州の有明ではなかったか、そこへ上陸して次第に筑紫平野に根を下し在地弥生人とも次第に同化融合していった。その末裔たちがヒムカ族と称されるに至ったのではないのか?。ところが紀元前100年頃、山陰地方の出雲族(海人)が全盛期を迎えて筑紫地方をも席巻、そのためヒムカ王は難を逃れて日向へ一時身を隠した。その王こそ神武の祖母「アマテラス」だったと観る!。更に想像を逞しくすれば、神武の先祖を遡れば微かに徐福あたりへ辿り着くのではないだろうか?                             

(※ 2) 天押雲こと建雷命(タカミカヅチ)という古代神が中臣氏の氏神である春日神社に祭られている。その中臣氏の末裔である藤原氏も亦、その氏寺である興福寺に建雷命を権現様(化身)として形を変えて祀っている。仮に徐福の血を神武が引いていたとしてもそれを殊更強調するほどのことはなく、むしろ土着化して歴史の彼方へ消え去っていったそれら幾多の人々を今なお現存する氏寺や仏閣が朝な夕なに怠りなく奉っているその日本人の先祖崇拝こそ歴史遺産として大切にしていきたいものである。


2013/1/25   著者 小川正武

2013年1月12日土曜日

ウマシマチ 「物部氏の始祖」  【邪馬臺国 その九】 第一章


宇摩志麻治 (ウマシマチ)〚物部氏始祖〛
ニギハヤヒ(大国主命)の第三王子、 母はミカシキヤヒメ(御炊屋媛)。
ナガスネヒコ(長髄彦)は伯父、アジスキタカヒコネ(味耜高彦根)は義兄。
【私論編年 AD71~AD132、62歳で身罷る】


神武軍が吉野の奥から攻め込んできたとき、葛城の高尾張邑に居を構えていた味耜高彦根は防戦一方に追われ兄「事代主」の姫二姉妹を救出する暇もなく敗勢の中、辛くも登美へと逃れた。そのとき事代主は大王ニギハヤヒに近侍していて登美に居た。そして取り残された姫君二人は神武軍が制圧した葛城の地で在地長老の玉依彦(剣根の父)に匿われていた。 
(写真左は、石上神宮の石標)       

当時、長髄彦は河内に居て難波の防備に当たっていたが予期せぬ方向からの神武軍襲来に思わぬ苦戦を強いられ、城上郡に居た弟「安日彦」も敵の術中に嵌まって無残な最期を遂げていた。こうして主力の長髄彦軍と神武軍は大和川を挟んで対峙したが両軍小競り合いのなか次第に膠着状態に入った。失地回復の望みを絶たれたニギハヤヒは長髄彦将軍を更迭し、代わりに宇摩志麻治を当てた。

そして長髄彦は敗戦の責任を一身に負い賜死させられた。叔父をわが手で処断しなければならなかった宇摩志麻治は生涯悔恨と自責の念に駆られ、味耜高彦根もまた事代主の姫を救い出せなかった事でその罪をも被ってくれた長髄彦に対して同じく心の重荷を生涯背負った。   (写真左上は、石上神宮の楼門) (写真左は石上神宮の晨鶏)  
                                             
時は流れて父ニギハヤヒは既に出雲国で崩じ、母ミカシキヤ媛もAD107年ころ遺言を残して登美国で亡くなった。その頃、事代主の姫「媛蹈鞴五十鈴媛」は既に「イワレヒコ」の后に収まって吾子「ヌナカワミミ」(綏靖)も早や13歳になっていた。后はその皇子を妹「五十鈴依姫」(24歳) との婚姻によって母系嫡孫へ繫ごうと強く望むようになっていた。そうした状況の下、宇摩志麻治は母堂の遺言に従いイワレヒコと和して国を治めていくことを決心し味耜高彦根の意見を求めた。味耜高彦根は事代主の血脈が受け継がれ尚且つ国許の支配地安堵が保障されることを前提に同意した。これを受けて宇摩志麻治はイワレヒコに和を求めて自ら「橿原の宮」へ乗り込み帰順する旨奏上した。味耜高彦根は〝天雅彦の変事〟まだ覚めやらぬ蟠りを残し一歩引いた態勢で登美の地に留まり、弟「宇摩志麻治」のもしもの変事に備えた。  
イワレヒコは兄「五瀬」を失った嘗ての怨敵「長髄彦」を誅した宇摩志麻治がイワレヒコの前へ帰順してきた勇気を褒め称え領国安堵を約した。宇摩志麻治は帰順した証として父王から授かった 「天璽瑞宝」 を居並ぶ群臣の前でイワレヒコ大王に献上し忠誠を誓った。大王はそれを大いに愛でて宝剣 「布都御魂剣」 (フツノミタマノツルギ) を下賜した。そして昇殿を許し、爾後は天物部 (天孫の軍兵) を率いて本朝(邪馬台国)にまつろわぬものを斬り国内を平定するよう勅諭した。
神武が橿原で即位した(AD93)日から15年経過していた。神武朝は宇摩志麻治が神武に降ったことによってそれまで脆弱であった孤高の王朝にはじめて安定的基盤を齎せた。それは広義に出雲朝係累との大同団結を意味した。

天皇本紀によれば、宇摩志麻治はイワレヒコ大王から後の大臣・大連にあたる「食国政申」に任じられた。以来、宇摩志麻治は「物部氏」を名乗り、味耜高彦根は居所高尾張邑の名を冠して「尾張氏」と称した。

ここに至って出雲王朝は事実上瓦解し、統治の主導権は出雲から大和へ事実上移行した。

宇摩志麻治の母「御炊屋媛」は淡海の「三上氏」由縁の人とみられ、その子孫は専ら三上氏出自の姫君を娶っている。また鉄の産出する近江湖西(淡海国)とも繋がりをもち、石上郷(現・天理市)に武器庫を設置してその鉄で武器を作って蓄えた。その地はやがて神剣「布都御魂剣」をご神体とするお社が築かれ同神剣が安置された。現在の石上神宮がそれである。 (写真左は、物部神社の石標)


宇摩志麻治は綏靖の御世、息子「彦湯支」に大夫の位を譲り、自らは父祖の地出雲へ行き、ついで石見の兇賊を平定した後、その地で薨去した。後年、継体の御世になって、継体天皇は同地に社殿を創建して宇摩志麻治を厳かに祀った。現・石見一宮物部神社がそれである。古に誉れある重要な役割を果たした軍神ウマシマチへの尊崇の念がそうさせたのであろうか。はたまた自ら体現した〝天神地祇の合体した統治する血族の再統合〟と重ね合わせていたのであろうか。 (写真左は、物部神社の鳥居から見た本殿)
                        
味耜高彦根を始祖とする六世孫に丹波の大県主「尾張の由碁理」が居る。その娘の名は「天豊姫」つまり魏志倭人伝に出てくる「台与」その人である。台与は当時、第一級の国際派知識人であったが先代「日女命」(卑弥呼)からつづく約一世紀に亘る女帝の支配する祭祀的政権に対して、その統治形態に反旗を翻した祟神によって廃位させられていた。
しかし「尾張氏」は後の世、末裔の「尾張目子媛」が継体の妃となって「安閑」「宣化」の兄弟を産み皇統に繋がった。
祟神の出自といえば宇摩志麻治を始祖とする五世孫の「伊香色謎命」(イカガシコメ)を母とする。こうして大国主命の末裔たちは時代を乗り越えて互いに相克しあい、現在につづいているのである。いやさかいやさか、、
(板厚30ミリ) 

私なりに理解する出雲族とは、太古から半島南部(狗耶韓国)に住んでいた倭人たちと山陰地方に住んでいた縄文人たちとを捉えて総称したもので、これを私は環古代倭地圏と謳っている。その人々の中から有力な支配者が現れ、その支配者が求心力となって緩やかな王朝が出雲で出現していた。一方、天孫族とは、中国の相次ぐ戦乱と圧政から逃れてきた漢人たちが北部九州に流れ着きその地の縄文人と融合して繁殖した。その子孫たちであったかのかも知れない!。この二つの流れが大和の地において出会い結合し土着化した。そしてヤマト王権なるものが出来上がった。その下地に縄文人16,000年の果たしてきた役割は大きくこれら先進勢力を積極的に取り込み併呑していった歴史でもあった。無論それは概観的であって個々局地的には雄略が上表する〝闘いに明け暮れて日夜山野を駆け巡り寧所に暇あらず〟といった展開をあちこちで繰り広げそしてそれを克服してきた我ら祖先の人々の営々と築いてきた悠久の歴史でもあった。

斯くして『記紀』は、この国を開闢した誉ある始祖として大国主命(出雲)と天照大神(天孫)を誇らしく掲げて尊貴高らかに謳っているのである。


2013/1/12   著者 小川正武

2013年1月1日火曜日

ミカシキヤヒメ 「大国主命の后」 【邪馬臺国 その八】 第一章

御炊屋媛 [ミカシキヤヒメ]
ニギハヤヒ [大国主命] の后。宇摩志麻治 [ウマシマチ] の母堂。 登美国蕃王の長髄彦 [ナガスネヒコ] は実兄。
[私論編年: AD47~AD107、61歳で身罷る]

AD92年、ニギハヤヒがナガスネヒコを処断した後、事代主を従えて出雲国へ退いた。后のミカシキヤヒメは兄が処断された後、日に日に身体が弱って次第に床に臥せるようになり、領域が狭まったとはいえ、生まれ育った故里登美国に居残った。

    同年、イワレヒコは葛木の長老で剣根の祖父 三嶋溝杭のもとで庇護されていた姫を娶り、後にこの姫を后とした。その姫とは、事代主命の二人いる娘の内、姉の媛蹈鞴五十鈴姫 (ヒメタタライスズヒメ) であった。イワレヒコは東征前、日向の吾平津媛(アヒラツヒメ)を娶り既に二人の子供まで儲けていたが、事代主の姫と政略結婚することで境を接して鋭く対立する登美国との融和を優先した。 (後に乱を起こすことになる手研耳は、この吾平津媛が母にあたる。 : 本稿その二・ヌナカワミミで既述)

イワレヒコの戦力は強力であったが畿内全体の勢力図からみればまだまだ地域的勢力に留まっていた。大和に闖入したよそ者イワレヒコにとって周囲から孤立することはその存立を忽ち危うくした。ゆえに膠着して対峙する登美国とその周辺に盤踞する在地豪族らとの間で融和懐柔策を講じる必要が何よりも迫られていた。そのため神武は大和における存在感を周囲へ強烈にアピールし得る国威発揚の場面づくりを急いだ。
AD93年、イワレヒコは橿原の宮で即位し、大和の国王(邪馬台国王)すなわちヤマト王権初代大王となった。
イワレヒコは始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラノミコト)の名に相応しい国の体制を整えるまでにそれから更に十五年かかった。そして(AD106)、周辺情勢の安定を見定めたイワレヒコは臣下で九州の奴国を与る長の帥升 (建雷命) に生口160人を与えて後漢遣使の詔、すなわち大号令を発した。

すさまじい数の奴隷であったが、その多くは辺境の鬩ぎ合いの中で生け捕った者たちであった。渡海する多数の軍船は過ぐる神武東進のときにも活躍していたもので、北部九州は有史以前から朝鮮半島との行き来が盛んで筑紫ヒムカの海族はそれをやってのけるだけの航海術に長けていた。このときも統制の執れた船団を組んで遣使(AD107)が行われ 倭国の一大デモンストレーションが慣行された。

一方、遥か遠き大海の彼方から生口160人もの数を献上してきた倭国に対し、後漢の幼き皇帝 「安帝」 も驚きをもってこれを迎え入れた。「安帝」が[金銀錯嵌珠龍文鉄鏡] (きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう) を 「帥升」 に下賜したのはこのときをおいてほかにない。
(写真上は、ダンワラ古墳から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の一部分と、その下図は全体のレプリカ)

この時代、中国では皇帝しか所持を許されない同鉄鏡が同時期に同時に倭国で作られる蓋然性や偶然性はありえない。
■ この壮挙の成果は、「タケミカヅチ」(帥升)からイワレヒコ大王にもたらされ、高揚した凱旋気分は当然登美国の宇摩志麻治や味耜高彦根らの知るところとなっていやが上にも天孫族の尊貴性を高めた。
■ その5前年、ニギハヤヒは出雲国で身罷り、事代主がその跡を継いで出雲王朝の大王になっていた。 (写真上は、同鉄鏡の中央部) 

■ 御炊屋媛は床に臥せって久しく、AD107年ころ、いよいよ死を悟って宇摩志麻治と味耜高彦根を枕元に呼び寄せて遺言した。〝爾後は、汝ら兄弟力を合わせてイワレヒコを奉じてこの国を栄えさせなさい〟…と。味耜高彦根は棒立ちになったまま“ワァー”と号泣し、宇摩志麻治は膝を屈し深々とこうべを垂れて心が震えていた。 
(写真左は、同鉄鏡の辺部のディテール) 

■ 同鉄鏡のその後の変遷 : この鏡は、安帝から帥升へ、帥升から神武へ渡り、邪馬台国 の権威のシンボル (神器) となった。この神器は更に神武から五代後世の「日女命」(卑弥呼)へと繋がり、ついで「天豊姫」(台与)へと引き継がれていった。
だがやがて、ヤマト王権第十代大王になる崇神 によって突如として宮廷無血クーデター(統治改革の断行)が起こされ、それまでの女王が冠する呪術的政権であった「邪馬台国」は脆くも瓦解し、記紀はその名を意図的に歴史から抹殺した。

   
■ そのときシンボリックで不都合なこの鏡もまた大和国から忽然と消えうせ、「帥升」末裔のヒムカ天孫が住む筑紫の原郷へと潜に戻っていった。

(板厚30ミリ)

「論衡」王充(おうじゅうのろんこう)には、「周(BC1000ごろ)の時代、越裳白雉を献じ、倭人鬯艸(ちょうそう)を貢す」また「成王の時(BC1115~1079)、越常雉を献じ、倭人暢(ちょう)を献ず(薬草のようなものか)」とあり、中国周の時代には既に九州や山陰から倭人が半島南部の倭地を経て中国大陸との間で交易船を通じて頻繁に往来していたことをこのことは示している。
「帥升」後漢遣使の成功裏にはそれを遡る50年前、既に倭奴国王(奴国は倭の百国の一国に過ぎない)の先例があって、彼らはそれに倣い半島に集住する倭地倭人らとの交易ルートに沿って半島西岸を北上、遼東以遠は後漢官吏の協力も得て実現されたもので、これら航海を支えた倭の海人族は絶え間ない海難に立向かう勇者の証として魔除の鯨面を印していた。 縄文土器に観る文様はその呪術的文字が潜んでいるのではあるまいか!。

この国は古代、特に紀元前から紀元七世紀にかけて大陸から その多くは小人数の難民がときどきに流入してきた。縄文人たちはこの異質な人々と接し、その文化を取り入れ融合して弥生時代をのみこんだ。その活力ある縄文人 16,000年のDNAが現代日本人にも脈々と受け継がれている。
(左は縄文土偶:宮城県恵比寿田遺跡出土)
                                    
     
      2013/1/1   著者 小川正武