2013年6月18日火曜日

孝安天皇 「日本足彦国押人」 【邪馬臺国 その十五】 第一章


女王「日女命」の夫君アマ・クニオシヒト(天足彦国押人命)はAD199年、32歳で薨去した。日女命このとき28歳、亡き夫君との間に「押媛」11歳と「和邇日子押人」9歳を授かっていた。女王は一年間喪に服した後も悲嘆にくれ、そのため朝政が滞った。この停滞を指弾して「三輪氏」を母系嫡流にもつクシトモセ王統一族が42歳の「クシトモセ」を擁立せんと大王位を画策、その最中、「日女命」は突然故地丹後の「竹野」へお隠れになった。事の重大さに憂慮した国邑の長老たちは「日女命」と「クシトモセ」の共通の地祖である「大国主命」の祖廟、出雲に参集して衆智を巡らせた。その結果、亡きアマ・クニオシヒトに代わる補佐人にその実弟「日本足彦国押人命」(24歳)をもって当てるほか「日女命」のお心を開く手立てのないことが分かり、それを受けて朝堂の重臣たちも「竹野」に赴き「日女命」の還御を強く懇請、斯くして「室秋津島の宮都」へ漸くお迎えすることができた。その結果、それまで暗く沈んでいた都は一度に明るさを取り戻して人々は大いに安堵した。時に二年後のAD201年頃。

「日女命」を補佐することになった男弟「ヤマト・クニオシヒト/略称」はもとより「孝昭天皇」(カエシネ)の皇太子、「日女命」にとって幼少期に丹後で過した夫君の弟という幼馴染の立場から非常に安定した後ろ盾を得た。この結果、嫡流王統を自負するクシトモセとそれを擁護する勢力は不満を残しつつも鳴りを潜めた。以後、「尾張氏」を遠祖にもつ「ヤマト・クニオシヒト」は、ヤマト王権(邪馬台国王)の政治の主宰者たる姿勢を堂々と振る舞い、大宰の府「伊都国」を抑え諸邑の族長(豪族)も統属せしめた。女王「日女命」もまた倭国連合の象徴的盟主として対外的顔をもって振る舞い祭政全般を総攬した。そうした連携のもとで権威のスミワケを行い以て皇統分裂の危うさを防ぎ、倭国連合の秩序と統制を巧みに図った。
AD204年、公孫康は帯方郡へ侵攻、その地に集住する倭人らを捕えて支配下に置いた。この事態に憂慮した朝堂はメンバーも次世代へと様変わりし、邇支倍(倭氏)・豊御気主(三輪氏)・大矢口宿禰(物部氏)・建田背(尾張氏)らが上席を占めて朝議を図った。

『魏志倭人伝』 有男弟佐治国 自為王以来少有見者 以婢千人自侍唯 有男子一人給食伝辞出入居処宮室 楼観城柵厳設 常有人持兵守備・・・ ここにいう「有男弟佐治国」とは言うまでもなく「ヤマト・クニオシヒト」その人を指し、「有男子一人給食辞出入居処宮室」とは、忘れ形見「アマ・クニオシヒト」の独り息子であり同時に女王の皇子でもあるこの時(201年)11歳になっていた「和邇日子押人」であることはいうまでもない。
時が下って正始四年(AD243年)、第二次遣魏使が五年振りに再開された。そのときの副使「掖邪狗」(ワキヤク)53歳がこの「和邇日子押人」その人であった。因みにこの年「日女命」は御年72歳、その四年後(247年)に日女命は病を得て亡くなっている。

女王「日女命」が都する国の治世とはそも、尊卑に差序ありて風俗は淫らならず、その人寿長命にして、よく租賦を収め、国々に市が立つ。盗窃や諍訟沙汰が少なく、屋室では父母兄弟臥処を異にし、その死するや棺に入れて土を封じて停喪すること十余日、喪主哭泣し、他者は歌舞飲酒してこれを弔う。気候風土は温暖にして山海の幸に恵まれ、下戸、もし大人と道路で相逢えば両手を地に拠りてこれが恭敬する様、謙虚。「一大率」は諸国を常に検察し、諸国はこれを畏憚して恭順。おしなべて人々は慎み深く誠実で温厚な16,000年の縄文人気質を引き継ぐ倭人社会がそこには醸成されていた。
(この文脈は「張政」が倭国滞在中に観察して体得した帰国報告書の内容である)

そのような都から遠く海を隔てた狗耶(くや)韓国とは一体どういう国であったか!。それは韓半島の南部から西部にかけての広い範囲の倭地を指す漢人の呼び名であった。「魏志韓伝」がいう〝帯方の南・倭に接し〟とは倭の半島での一国であることを意味した。緩やかな自治体制であったそれまでのその地は次第に北方民族から蚕食を受け、それに対抗する必要から倭の在地王族や豪族たちがそれぞれ国邑(郡落)ごとに分立して全体が弁韓加羅と呼ばれていた。その地に〚任那日本府〛が置かれたのは「一大率」同様、倭国に属するそれら郡立する国邑を結束させ、同時に倭地防衛の任に当たっていたからである。

古朝鮮における民族分布があまりにも雑多に交雑し過ぎてそのアイデンティティが特定できずに未だに不毛の国際論争に明け暮れていることは不幸というほかない。この地域はそもそも古代、漢族による相次ぐ戦乱から逃れてきた遺民・棄民・亡民たちの逃避地・安住の地であった。且つ又同時に、騎馬民族を含む北狄の雑多な異民族が寒冷地から南下してきて住み着いた言わば未開の植民地でもあった。それら複合しあう諸民族は或る時は覇を競って互いに戦い、或る時は和して同化し今日の朝鮮人の原形を為した。その中に倭地であった狗耶韓国も含まれ、時代が下って羅・唐連合による白村江の戦い(AD663年/天智2年)で倭国が敗れたとき、韓半島は初めて統一新羅の朝鮮に収斂した。この新羅は前身の辰韓のとき、秦からの亡民たちの流れ着いた地であったが既にそこはツングース系(現・ロシア沿海州)住民の先住地でもあったため秦の亡民らによる建国はできなかった。(※ 1)(※ 2)

〝三年汝に仕えれども我をあえて顧みるなし、ここにまさに汝を去り彼の楽土へ適(ゆ)かむとす、楽土楽土ここに我が所を得む〟「詩径より」 春秋時代戦乱の祖国を棄てて新天地を目指した漢詩の一節。この勇者たちは果たしてどこを目指して行ったであろうか、それにしても帯方に集住していた倭人たちもまたその後の行方が気懸かりでならない。

写真上は、5~6世紀の朝鮮半島における前方後円墳の分布を示す。前方後円墳は倭の独特の墳墓形態であり、このことから「倭の五王」の時代と時代を同じくする有力な倭人が韓半島においても縦横無尽に活躍していた様をよく物語っている。

古代の表日本というのは、今とは真逆で山陰地方から北部九州にかけてをいい、対馬海峡を挟んで対岸の狗耶韓国を包含したこのエリア一帯のことを私は 「環古代倭地圏」 と名づけている。
この海域は、倭の古代海人族にとっては倭寇同様 裏庭程度のものであった。

大和足彦国押人 (ヤマトタラシヒコ クニオシヒト) 尊
父は「孝昭天皇」、 母は「世襲足媛」、后は「日女命」の娘「押媛」。
同后との間に生まれた第二皇子が後の「孝霊天皇」になる。

諡号は、孝安 (こうあん) 天皇。 倭国連合を代表する邪馬台国女王「日女命」を補佐したヤマト王権第六代大王である。
【私論編年 AD175年~AD240年、在位40年、66歳で崩御】

(板厚30ミリ)

半島に集住する倭人社会は公孫氏の帯方郡からの更なる南下に怯えその阻止に懸命であった。ところが列島内にあっては伊香津臣(難升米の父)らが狗奴国と対立して近江湖北へ進出。同時期、吉備王国を征伐せんと日本足彦国押人の第一皇子でその名も大吉備諸進(オオキビノモロススミ)が祖父「孝昭」が平定した播磨の地に留まって戦っていた。このことが次代の皇子たちが吉備征伐へ向かう上で大いなる足場となって道を拓いてくれていた。AD225年ころ。

左図は、孝安天皇の初期の御陵絵図という。山丘に盛られた円墳がそれで直径が約12~13mの大きさ。正式呼び名を玉手丘上陵 (たまてのおかのうえのみささぎ) という。
都(室秋津島宮)の東北約2キロという極めて近い場所にその御陵は築かれた。同円墳の手前が前方部として設けられ、規模は小さいが既に初期の「前方後円墳」の原形がこのときから整えられた。 時にAD241年ころ。
左の写真は現在の孝安陵。
江戸幕府は幕末の文久年間、天皇陵の大幅な改修が行われた。
この修陵にあたって先の絵図面「御陵画帳」が描かれて現在に残った。
神武から孝元までの御陵は初期は斯くの如き規模であった。




(※ 1) 『広開土王碑』に、「百殘新羅舊是属民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘加羅新羅以為臣民」とある。訳すれば 〝そもそも新羅・百済は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(AD391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった〟 と刻字しているのである。その高句麗(BC37年建国)もまた羅・唐連合軍の攻撃によって滅ぼされ(AD668年)、それによって多くの高麗人が倭国へ逃れてきた。右は、広開土王碑とその御廟 

(※ 2) 『漢書地理志』曰く、〝夫れ楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国となる。歳時を以て来り献見す〟と。
右の鏡は、山陰宮津に鎮座まします海部氏の氏神「籠神社」(このじんじゃ)の秘宝「辺津鏡」(前漢の作)と「息津鏡」(後漢初期の作)である。このことから紀元前の出雲王朝時代よりこのかた、同王朝の係累であった海部氏らによって同時代漢へ頻繁に朝貢がなされていたことを物語る。

一方、北部九州においても神武東征の39年前(AD57年)、ヒムカ天孫の地からも後漢へ朝貢する者あり、曰く 「建武二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬」 。いわゆる「漢委奴国王」の黄金の印綬を奴国の大夫自らが光武帝から賜ったとする史書「後漢書東夷伝」の一節である。右はその国宝「漢委奴国王」の実物写真。〔福岡市博物館蔵〕


            2013/6/18  M.O