2013年7月23日火曜日

太傅 司馬懿  【邪馬臺国 その十六】 第一章

AD204年(建安9年)公孫康は、後漢朝に恭順を示し帯方郡治を追認された。その弟 公孫恭の時代にも魏朝の臣下として、文帝(曹丕)から襄平侯に封じられた。さらに太和2年(228年)、20歳になった康の子 公孫淵(こうそんえん)は叔父の恭から位を奪い取って明帝(曹叡)から改めて遼東太守に任じられていた。

■ 倭国連合の盟主である邪馬台国は公孫康の帯方郡侵攻以来、洛陽への遣使が途絶えていたが公孫氏が魏に帰順して久しく、その定着するのを見定めて漸く魏朝遣使に向けた朝議を俎上に乗せるに至った。
時に遣使前年のAD237年のことで、実に32年振りの外交再開であった。

■ 話は溯るが倭人の漢土における痕跡の一部をここで少し垣間見てみたい。
『山海経』とは東周・春秋時代(BC789~BC221)の記録であるが、その「海内北経」に〝蓋国(後の高句麗)は、強大な燕の南、倭の北にある。倭は燕に属し…云々〟とある。上の図は同戦国時代の中国と倭地のエリアを示している。恐らく当時は列島とは別に燕の支配下にあったであろう倭人勢力が数多く半島に散在していたことをこの文献は物語っている。

■ 『倭人字磚』(わじんじせん)とは一体どういうものか。
それは「安徽省亳県」(はくけん)の曹胤(曹操の曾祖父)の墓から出土したレンガの一枚に記されていた一文のことである。曰く 「有倭人以時盟不」(倭人あり 時を以て盟するや否や) を指す。当時、倭国はカエシネ(第五代孝昭天皇)の時代で大王家が動揺していたAD170年ころに相当する。思うに、これとても列島とは無関係に漢土の内陸においても会稽太守が無視できないほどの有力な倭人がいたのであろう。ひょっとして63年前の帥升遣使の生口出自が自治集団に成長していたことを私は夢見る。周・春秋戦国・秦にかけて打ち続く戦乱で中原の人口は一説には10分の1にまで激減したとある。そうした漢土から流民として逃れ出る難民あれば逆に生口という名の入植もあったであろう、支配者にとって生口は貴重な農奴的存在であったし、鉄と干鮑に象徴される漢人と倭人の交易を手助けした有力な勢力であったかもしれない。(閑話休題)

■ AD232年、公孫淵は魏の一地方官の身分に飽き足らず魏の仇敵 呉の孫権と盟約を画策、孫権から燕王に封じられた。ところがこともあろうにその呉の使者を殺して首を明帝に送り、随行の軍隊財宝を奪った。これにより翌年 明帝から更に「楽浪公」に封じられた。
しかし魏から受けた「楽浪公」の地位を不足とし、王のごとく振舞った。こうした公孫淵の二心外交はやがて魏の強い不信を買い強行路線を招くことになるのである。

■ 青龍2年(234年)、呉と同盟して魏を攻める蜀は、五たび北伐を慣行、このため司馬懿(仲達)率いる魏軍は諸葛亮(孔明)率いる蜀漢軍と五丈原(陜西省)で対峙した。仲達は手薄になった魏の背後の公孫淵の動きを常に警戒しながら防衛戦に徹した。これに対して軍師孔明も持久戦で応えて屯田を行い長期に布陣した。ところがその孔明は陣中で病死してしまい蜀漢軍は粛々と撤退をはじめた。これを見た仲達は追っ手をかけようとするが蜀漢軍が魏軍に再度攻撃する様子をみせたので退却した。
これが後に伝わる「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の謂れとなった。

■ この「五丈原の戦い」以後、返す刀で魏は遼東における積年の脅威を取り除くべく公孫淵討伐にとりかかった。景初元年(237年)、毌丘倹(カンキュウケン)は明帝の名で公孫淵に都への出頭命令を出した。しかし公孫淵は従わず迎撃の構えを見せ、一戦に及んだ毌丘倹を撃退した。この結果、公孫淵はついに独立を宣言し遼東の襄平城で燕王を自称、楽浪・帯方二郡をそのまま領した。

■ 邪馬台国は公孫氏が魏に反旗を翻したことを露知らず同年暮れ(237年)、朝議は遣魏使に中臣氏の「梨迹臣」(ナシトミ)、副使に尾張氏の「建諸隅」(タケモロズミ)を任命し「日本足彦国押人」がこれを宰可、女王「日女命」はその無事成就を祈祭して総攬、遣使渡航の準備に入った。この建諸隅は「日女命」の兄「建田背命」の息子、 つまり甥っ子で亦の名を丹波大県主「由碁理」(タンアオオガタヌシユゴリ)と称し、この年39歳の壮年で五才の「倭得魂」(ヤマトエタマ)と一才になったばかりの「天豊姫」を儲けていた。このアメノトヨヒメこそ日女命の宗女にして邪馬台国二代目女王「台与」である。

■ 明けて景初2年(AD238年)2月1日、明帝から遼東征伐の命を受けた司馬懿の軍4万は、同月初旬洛陽を出て凡そ1300キロを行軍、五月中ごろ遼隧に到着、8月23日に襄平を陥落(遼隧の戦い)せしめる。その報は9月中旬 既に帯方郡を接収していた「劉昕」の後任「劉夏」の下へも早馬で知らされていた。
(※ 1)(※ 2)

■ そのころ邪馬台国の遣魏使一行は、伊都国を5月はじめ出航 6月帯方郡に到着、帯方郡太守着任早々の「劉夏」の出迎えを受けた。そして公孫氏がまもなく滅亡するのを一行は驚きをもって目の当たりにするのである。(※ 3)
太守「劉夏」にとっては、この戦中遣魏使はまたとない奇貨と捉え、遠く東倭からの朝献こそこの上ない明帝への徳と称え、遣使一行を篤くもてなし京都「洛陽」へ送り出した。そしてその手配はいち早く太尉「司馬懿」へ急報され、同時に「明帝」へも伝達された。遣魏使一行が洛陽に着いたのはその年の12月であった。

司馬懿 中国後漢末期から三国時代の魏にかけての武将・政治家、魏の太傳。晋の礎を築いた人物。
諡号 宣帝 AD178~251年、 72歳で歿する。

(板厚30ミリ)

(※ 1) 討伐軍本隊は、2月上旬洛陽を出発したが、戦略的に先遣隊は同時期 既に山東半島から対岸を渡海急襲して5月はじめ楽浪郡・帯方郡を接収した。これによって遼隧に布陣する本隊が背後から突かれる恐れを取り除き且つ公孫淵の退路を断った。

(※ 2) 公孫淵親子が包囲を突破して逃亡を図るが、司馬懿は追撃してこれを斬殺し、城の高官たちも悉く斬り殺して遼東を制圧した。更にその後の処置も苛烈を極めた。中原の戦乱から避難してきた人々によって占められていた遼東地方の気風は、いつまた反魏の温床になるかわからないので15歳以上の男子数千人(一説には7,000人)を殺して京観(首のピラミッド)を築いたという。『晋書』曰く、「王朝の始祖(晋)たる人物が、徒に大量の血を流したことが引いては子々孫々に報いとなって降りかかったのだ」 と批判している。

(※ 3) それまでの倭国の戦いは専ら歩戦であった。兵馬による機動的な戦場展開はこのとき遣魏使の刮目の的となった。その後、倭国はこれを積極的に取り入れ主に馬韓に住む扶余族から馬匹を狗耶韓国経由で移入していった。。。
その主たるルートは伊都国から北部九州へ、同時に丹波の府を通じて畿内へ夫々搬入され平時は伝馬に使用、祟神の時代には各地の軍役に大いに徴用された。

後の百済はこの扶余族を源とし、古くから倭国との誼を通じてその地の一部を友好的に割譲されていた。その経緯から百済王は倭国王のことを親と崇め倭へ朝貢を行い同盟を結んでいた。これは継体朝以後もつづく揺るぎない厳然たる史実である。

時代が更に下って、天智天皇は百済救援のため半島西岸の白村江で唐・新羅連合軍と戦っている。そればかりか百済滅亡に伴う多くの亡命百済人を日本は積極的に受け容れていた。
           

              一句 古希すぎて 彫る手の外や セミしぐれ                   
                                                                            2013  7  23     小川正武