2013年10月19日土曜日

魏使 梯儁 【邪馬臺国 その十八】 第一章

先帝「明皇帝」の詔は新体制がこれを引き継いだ。正始元年(240年)年明け早々、先帝の詔は実行に移され帯方郡太守「弓遵」(キュウジュン) のもとへ詔書や金印・銅鏡百枚等宝物多数を鄭重に装封して勅使が遣わされた。太守弓遵はそれを承けて配下で建中校尉の「梯儁」を勅使付武官に任じ、かつ使節船の総監に当たらしめ、船三艘を仕立てて倭国へ送り出した。時に同年春四月。
(※ 1)
『魏志倭人伝』の冒頭、〝倭人は帯方の東南大海の中にあり、・・・郡より倭に至るには、海岸に循って水行し、韓国を経て、あるいは南し、あるいは東し、その北岸狗耶韓国に至る七千余里、・・・郡(帯方)より女王国(邪馬台国) に至ること萬二千余里〟と記す。

左図画像は、使節船をイメージした写真で、当時の動力源は主として漕櫂(そうとう)に負い、沿岸に沿ったいわゆる地乗り航法による凪の日とか追い風の日を特に選んで航行していた。


左図は、同使節船が邪馬台国へ向かったときのコースで、いわば航路往還軌跡の全容図といったところである。

左下図は、狗耶韓国から伊都国に至る地理的位置関係 (東南の方向) を主として示している。

そもそも、伊都国は神武東遷後は邪馬台国の重要な陪都(副都)となっていた。その地では「一大率」(※ 2) という名の検察機関が常置されていて、倭人の交易船はもとより半島からやってくる人々や、郡からの使いの船までも全てこの津で一旦捜露(検問) を受けねばならず、その情報は逐次都へ知らされていた。従って『魏志倭人伝』でいう「倭人は帯方の東南海中にあり」というこの漢土の人々の方向感覚とその認識は、ここまでは間違いなかった。しかし、それ以遠の女王国の所在する方向となるとまるで解らず、今次使節随員の紀行記がはじめておぼろげに明かすものとなった。そもそも陳寿は海を知らず、その使節随員もまた内陸奥地の文官で航海に疎く、陳寿は原典となったその随員の紀行文(帰国報告書) を下敷きにアバウトな里数と方向と日数を割り出して歴史書(史書)に刻んでしまったのである。
私は、この陳寿の誤謬を責めるというよりも陳寿が当時の倭国の様子をおぼろげながらも微かに捉えて残してくれたこの『魏志倭人伝』の功績こそ称えたい !

下図は、さらにズームアップして図解した末廬国から伊都国・奴国・不弥国の位置関係と、同使節船が辿った航行の軌跡を表す。
『魏志倭人伝』は、末廬国から東南(イ) の方向に伊都国を指す。そして伊都国から東南(ロ) に奴国に至るという。更に東行(ハ) して不弥国に至るというのである。ここに一つ目の大きな誤謬が生じる。
破線矢印の方向は『魏志倭人伝』が示す方向である。しかし、末廬国(唐津市) から伊都国(糸島市) の実際の方向は実線の東(X) または東北東に近い。同様に伊都国から奴国(福岡市) も東(Y) または東北東方向であり決して東南ではない。ここで既に方位角が90度乃至135度狂っている。更に奴国から不弥国(福津市) の方向を『魏志倭人伝』は東行(ハ) とのたまう。実際は北東(Z) である。この北東を東とする45度の狂いと先の90~135度の狂いを加えれば使節船の舳先(へさき)はほぼ間違いなく北へ向かって航行する。また、実際に進路もその方向なのである。

左図は、不弥国(福津) から邪馬台国に至る航路を表す。『魏志倭人伝』曰く〝南至投馬国水行二十日〟と。つまり〝東行してきた不弥国から南へ舵を切って投馬国へ至った〟と記し、即ち東行から南へ90度舵を切ったと陳寿の地理像は描いているのである。これを先と同様に補正するならば、〝使節船の舳先は不弥国の沿岸を北に向かって航行し、玄界灘から響灘へ90度舵を切って東行した〟と言い換えなければならない。それはまさに瀬戸内海を東へ航行したということを示しているのである。
以上は方位の誤謬を示した。つぎに、陳寿の二つ目の誤謬は水行陸行にある。まず陸行であるが、使節団一行はただの一度たりとも陸行はしていない。漕ぎ手を含めて総勢少なくとも100余名は寄港した島々に一旦上陸してそこで何日か仮泊こそすれ、海岸つづきの中、わざわざ船を下りて “草木茂盛して前人が見えぬ” ほど険しい末廬国を五百里それも装封夥しい宝物を担って難行苦行したあげくその先でまた使節船に乗り移って水行するナンセンスはそもそも成り立たない。一行は末廬国には上陸せず「一大国」から末廬国の沖合(松浦半島の呼子) をかすめて直接「伊都国」へ向かい、その津で大勢の人々の歓迎を受けたのである(※ 3)。なぜなら『魏志倭人伝』は末盧国に限って官も副もその名を記さない、それは単に書き忘れたのではなくそもそも陸行しなかったから名前が判らなかっただけのことであり「陸行五百里至伊都国」とは、呼子の沖から末廬国と伊都国の間を目測で測距したもので、これがまた大雑把で問題のある過大な里数だったのである。そのことはまた後で触れる。

つぎに曰く〝至邪馬台国女王之所都水行十日陸行一月〟この陸行一月の内容である。投馬国から邪馬台国まで確かに水行十日を費やした。一行は伊都国で大歓迎を受けたのと同様、難波津においても連日引きも切らず物珍しさ見たさに大勢の人々が入れ代わり立ち代わり詰めかけ大歓迎を受けた(※ 4)。
使節船は津の内湾 河内湾に停泊し一行は上陸して迎賓館を兼ねた宿舎「難波館」を宛がわれそこで女王からの参内許可があるまで待機した。伊都国から水先案内で同行してきた役人はここで邪馬台国の役人らと合流して女王「日女命」が使節一行を引見する日を都と行き来して調整を図った。やがて使節一行は吃水の浅い小型の倭船に乗り換えて大和川をさかのぼり邪馬台国の都「室秋津洲の宮殿」(現 御所市室) に参内した。難波津に到着してから以後「日女命」の引見を受けるまでその間一月を費やした、それが陸行一月なのである。

つぎに水行である。不弥国から投馬国(広島県東部・鞆) まで二十日も要したがこの間、ただでさえ潮の流れが速い瀬戸の海が一旦荒れれば行く先々の津に緊急避難したり寄港して潮待ち風待ち漕ぎ手の休息 糧食の積込み 果ては破損個所の応急修理等々で思わぬ日数を食ってしまった。そして鞆の東、水島(岡山県西部) では邪馬台国に必ずしも服さぬ国 吉備国 (※ 5) が存在していて、ここを倭の水軍が使節船を警護伴走して通過すること十日にして漸く難波津に到った。

蛇足であるが、この年次と時を同じくして呉の銅鏡が邪馬台国(※ 6) に奉ろわぬ国と思しき古墳から出土している。思うに、呉が同時期 吉備国と誼を通じて下賜し、吉備国王がそれを与国の首長に分賦していたのではないか、魏と呉の確執は遠くこの地にまで及んでいたのであろうか。



つぎに、陳寿の三つ目の誤謬は里数にある。『魏志倭人伝』に〚自郡至女王国萬二千余里〛と。これは往路全距離数を表す。その距離が果たして正確かどうかはひとまず置いておいて、〚郡より狗耶韓国に至る七千余里〛と記した後〚一海を渡ること千余里、対馬国〛、〚また一海を渡ること千余里、一大国〛 〚又一海を渡ること千余里、末廬国〛 〚陸行五百里にして伊都国〛 〚奴国に至ること百里〛 〚不弥国に至ること百里〛とつづく、それ以遠の邪馬台国までは何故か里数ではなく突如として日数だけに変化する。
仮にその里数に従うなら、郡(帯方) から不弥国(福津市) までの延べ里数は萬七百余里となる。すると計算上残りの里数は僅かに千三百里、つまり不弥国(福岡県の北西部) から邪馬台国(奈良県御所市) までの里数が僅か千三百里しか残ってないことを意味する。これは狗耶韓国~対馬~一大国(釜山から壱岐島) 間の距離二千余里よりも遥かに短い!?この距離感の粗雑さは甚だしい。
さらに末廬国(唐津市) から伊都国(糸島市) までが五百里に対して、伊都国から奴国(福岡市) が百里、奴国から不弥国(福津市) が百里、合わせて二百里であるというのではまるで距離は真逆である。たとえ松浦市から糸島市までを500と置き換えても糸島市から福津市までの200とでは同様にその比は成り立たない。ここにおいても陳寿の距離感覚は完全に破綻している。 
※ この項は桂川光和氏説を多く録り入れています。唯、我が私論が同氏と異なる他の多くの部分については、そのために同氏のご見識ご慧眼を些かも損なうものでないことは言うまでもありません。

(※ 1)
 『魏志倭人伝』は、「正始六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜り、郡を通じて授けた」と記述する。そしてその翌年に郡の太守「弓遵」が戦死し、その皇帝旗は同八年まで郡に留め置かれた。この間、郡では一体何が起きていて、魏はなぜ卑弥呼ではなく難升米に黄幢を授けようとしたのか!?。思うに、嶺東の濊(ワイ) が高句麗に従属したため弓遵がこれを討ち (高句麗が強盛になって第二の公孫子になることを恐れた)、それまで郡の所管だった辰韓八か国をより遠くの楽浪へ編入しようとした。ところがそれに不満をもった辰韓の大規模な反乱が起こり、これを誅伐すべく魏は同盟国 倭の率善中郎将「難升米」に対し、南(狗耶韓国) からの軍事協力を求めんと欲して(魏は前年、蜀漢出兵 ╱ 興勢の役に大敗、大損害を蒙っていた) 詔と黄幢を郡に仮賜した。それが「正始六年」の詔であり黄幢であった。しかし、同年の邪馬台国から郡治への遣使は見送られ、弓遵は戦死した。そしてその辰韓も楽浪帯方二郡によって程なく平定された。残された辰韓の遺民たちは次代になって新しく立ち上がり、その勢力は恒常的に倭地の狗耶韓国(弁韓加羅) を蚕食しつづけていった。(弁韓加羅は鉄の大産地で倭人による採掘製錬が行われ、農耕具の需要地である 山陰・九州へ搬送されていた。その狗邪韓国の地はやがて異民族らによる進出と植民地化を許す結果になってしまった。)
弓遵が戦死して120年後、神功摂政の時代になって漸くその現実の深刻さに直面したヤマト王権は、遅ればせながらも失地回復のために慌しく三韓征伐に乗り出していくのである。

(※ 2) 
往古の倭人は、環古代倭地圏とも称しうる韓半島南部から山陰・北部九州にかけての広大な版図を有していた。しかし、その領域は公孫子をはじめとする幾つもの異民族の南下によって次第に狭まり、そうした半島情勢の危機に直面していた倭はその護りに神武東遷以来の軍事拠点「伊都国」を更に強化するとともに、多くの氏族支族を半島に派遣していた。にもかかわらず魏の南からの策動(出兵要請)に対し、倭は機敏に応えられなかった。それはなぜか!?、当時、女王「日女命」を輔弼していた男弟「孝安」は既に亡く(四年前、崩御)、代わって「孝霊」が磯城の地に遷都して即位したことにより大王位の座を巡って血脈を異にする王(皇)統間でそれまでくすぶっていた相克が次第に露わとなり、その根底から揺らぎだした政権の脆弱性とも重なって魏からの援軍出兵要請にも決断を鈍らせていた。

(※ 3) 
それは前の年から倭国でも既に広く知れ渡っていた使節であった。〝国々市有り。有無を交易し、大倭をしてこれを監せしむ〟(倭人伝の一節)。歓迎されるべき友邦国からの初の來倭とあって処々で頻繁に市が立つ倭人社会にあって人々の好奇心はいやがうえにも駆り立てられていたことであろう。

(※ 4)
 左図は『倭国』の当時の国別戸数/人口規模を表す。〝国の大人は皆四、五婦。下戸(平民) もあるいは二、三婦〟と『魏志倭人伝』は云えり。だがここでは慎ましく一戸当たり平均家族数を夫婦と子供三人、計5人とした。すると、伊都国千余戸=5,000人。奴国二萬余戸=10万人。投馬国五萬余戸=25万人。邪馬台国七萬余戸=35万人。西暦240年ころ既に人口35万の『女王の都』するところは我々が想像する以上の広がりをもった都であった。〝婢千人(女官)を以て自ら侍せしむ〟は驚く数ではない。この55年後、台与(天豊姫)が崩じ、程なく巨大な前方後円墳「箸墓」造営の大号令(詔)が発せられ多くの民草が動員された。それを可能ならしめたのは斯かる人口基盤が背景にあったからにほかならない。
地図は大和盆地南西部を示す。(現在・御所市)

(※5) 
当時、「温羅の吉備」国は邪馬台国を奉つろわぬ国で、まさに孝安の第一皇子「大吉備諸進」が吉備征伐に赴いていた真っ只中であった。遡って神武東征の砌、珍彦(ウヅヒコ)が吉備から現れて神武を先導したという幻想神話(寓話)は、大国主命が因幡で泣訴の兎を救ったおとぎ話とあまり変わりなく、本来 ウヅヒコは豊後の海人の族長であった。 即ち率いて皇船を海導し、遭難して二木島に漂着したあとも絶体絶命の淵に曝される神武を能く援け、大和侵攻時には大和の高貴な姫君を捕らえて神武に献上した。その第一等の働きによって神武から「椎根津彦」の号を賜り、真っ先に「倭国造」に任じられた。彼の存在なくして神武の東征は果たし得なかった、そういう意味において彼は最大の功労者であったと云える!。云うまでもなく当時はまだ国造という位階はなく茲は概念として譬えられている。

(※ 6)
邪馬台国の台は〚臺〛であり、台与の台も素より〚臺〛である。陳寿は原典の潮焼けした麻紙か木簡の滲んだ墨字を見て〚臺〛を〚壹〛と単純に読み違えて写し取ったのである。そのことは使節一行が目指した〚ヤマタイコク〛が〚ヤマイチコク〛でないのと同様に「日女命」の宗女「天豊姫」が〚トヨ〛であり〚イヨ〛でないのと軌を一にする。因みに〚臺〛と表す中国史書は「後漢書東夷伝」「梁書諸夷伝」「隋書東夷伝」「北史倭国伝」「翰苑」「通典」など殆どがそれで、〚壹〛と記すのは僅かに「魏志」くらいなものである。従って、「魏志倭人伝」の〚壹〛は明らかに誤記であることがここからもわかる。

加えて申せば、使節一行が「やまとの国」(大和国) をその音韻の響きから邪馬臺(ヤマト)の国、即ち「邪馬臺国」と表記したことは云うまでもない。それを現代人は崇神以前を「ヤマタイコク」と呼んで区別している。それにしても使節書記官殿が当て字に蔑称を造語する才は失笑するほかないが、道中さぞかし慣れない船旅・船酔と異邦での飲食が口にあわず大変ご労苦をなされたであろうことを偲べば 〝さこそ〟 とご同情申し上げ、ここに改めて労をねぎらいたい。

                           (板厚30ミリ)

【正始元年  太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝暇倭王、并齎詔賜金帛 錦罽 刀 鏡 采物 倭王因使上表答謝詔恩】
正始元年、太守弓遵、建中校尉梯儁等を遣わし、詔書・印綬を奉じて、倭国に詣り、倭王に拝仮し、ならびに詔を齎し、金帛・錦ケイ・鏡・サイ物を賜う。倭王、使いに因って上表し、詔恩を答謝す。

斯くして無事大役を果たした使節一行は九月半ば、復路 伊都国の津を後に出航して郡都へと還っていった。


2013年10月19日  著作者 小川正武