ニギハヤヒ [大国主命] の后。宇摩志麻治 [ウマシマチ] の母堂。 登美国蕃王の長髄彦 [ナガスネヒコ] は実兄。
[私論編年: AD47~AD107、61歳で身罷る]
AD92年、ニギハヤヒがナガスネヒコを処断した後、事代主を従えて出雲国へ退いた。后のミカシキヤヒメは兄が処断された後、日に日に身体が弱って次第に床に臥せるようになり、領域が狭まったとはいえ、生まれ育った故里登美国に居残った。
同年、イワレヒコは葛木の長老で剣根の祖父 三嶋溝杭のもとで庇護されていた姫を娶り、後にこの姫を后とした。その姫とは、事代主命の二人いる娘の内、姉の媛蹈鞴五十鈴姫 (ヒメタタライスズヒメ) であった。イワレヒコは東征前、日向の吾平津媛(アヒラツヒメ)を娶り既に二人の子供まで儲けていたが、事代主の姫と政略結婚することで境を接して鋭く対立する登美国との融和を優先した。 (後に乱を起こすことになる手研耳は、この吾平津媛が母にあたる。 : 本稿その二・ヌナカワミミで既述)
イワレヒコの戦力は強力であったが畿内全体の勢力図からみればまだまだ地域的勢力に留まっていた。大和に闖入したよそ者イワレヒコにとって周囲から孤立することはその存立を忽ち危うくした。ゆえに膠着して対峙する登美国とその周辺に盤踞する在地豪族らとの間で融和懐柔策を講じる必要が何よりも迫られていた。そのため神武は大和における存在感を周囲へ強烈にアピールし得る国威発揚の場面づくりを急いだ。
AD93年、イワレヒコは橿原の宮で即位し、大和の国王(邪馬台国王)すなわちヤマト王権初代大王となった。
イワレヒコは始馭天下之天皇(ハツクニシラススメラノミコト)の名に相応しい国の体制を整えるまでにそれから更に十五年かかった。そして(AD106)、周辺情勢の安定を見定めたイワレヒコは臣下で九州の奴国を与る長の帥升 (建雷命) に生口160人を与えて後漢遣使の詔、すなわち大号令を発した。すさまじい数の奴隷であったが、その多くは辺境の鬩ぎ合いの中で生け捕った者たちであった。渡海する多数の軍船は過ぐる神武東進のときにも活躍していたもので、北部九州は有史以前から朝鮮半島との行き来が盛んで筑紫ヒムカの海族はそれをやってのけるだけの航海術に長けていた。このときも統制の執れた船団を組んで遣使(AD107)が行われ 倭国の一大デモンストレーションが慣行された。
一方、遥か遠き大海の彼方から生口160人もの数を献上してきた倭国に対し、後漢の幼き皇帝 「安帝」 も驚きをもってこれを迎え入れた。「安帝」が[金銀錯嵌珠龍文鉄鏡] (きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう) を 「帥升」 に下賜したのはこのときをおいてほかにない。
(写真上は、ダンワラ古墳から出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡の一部分と、その下図は全体のレプリカ)
この時代、中国では皇帝しか所持を許されない同鉄鏡が同時期に同時に倭国で作られる蓋然性や偶然性はありえない。
■ この壮挙の成果は、「タケミカヅチ」(帥升)からイワレヒコ大王にもたらされ、高揚した凱旋気分は当然登美国の宇摩志麻治や味耜高彦根らの知るところとなっていやが上にも天孫族の尊貴性を高めた。
■ その5前年、ニギハヤヒは出雲国で身罷り、事代主がその跡を継いで出雲王朝の大王になっていた。 (写真上は、同鉄鏡の中央部)
■ 御炊屋媛は床に臥せって久しく、AD107年ころ、いよいよ死を悟って宇摩志麻治と味耜高彦根を枕元に呼び寄せて遺言した。〝爾後は、汝ら兄弟力を合わせてイワレヒコを奉じてこの国を栄えさせなさい〟…と。味耜高彦根は棒立ちになったまま“ワァー”と号泣し、宇摩志麻治は膝を屈し深々とこうべを垂れて心が震えていた。
(写真左は、同鉄鏡の辺部のディテール)
■ 同鉄鏡のその後の変遷 : この鏡は、安帝から帥升へ、帥升から神武へ渡り、邪馬台国 の権威のシンボル (神器) となった。この神器は更に神武から五代後世の「日女命」(卑弥呼)へと繋がり、ついで「天豊姫」(台与)へと引き継がれていった。
だがやがて、ヤマト王権第十代大王になる崇神 によって突如として宮廷無血クーデター(統治改革の断行)が起こされ、それまでの女王が冠する呪術的政権であった「邪馬台国」は脆くも瓦解し、記紀はその名を意図的に歴史から抹殺した。
■ そのときシンボリックで不都合なこの鏡もまた大和国から忽然と消えうせ、「帥升」末裔のヒムカ天孫が住む筑紫の原郷へと潜に戻っていった。
(板厚30ミリ)
「帥升」後漢遣使の成功裏にはそれを遡る50年前、既に倭奴国王(奴国は倭の百国の一国に過ぎない)の先例があって、彼らはそれに倣い半島に集住する倭地倭人らとの交易ルートに沿って半島西岸を北上、遼東以遠は後漢官吏の協力も得て実現されたもので、これら航海を支えた倭の海人族は絶え間ない海難に立向かう勇者の証として魔除の鯨面を印していた。 縄文土器に観る文様はその呪術的文字が潜んでいるのではあるまいか!。
この国は古代、特に紀元前から紀元七世紀にかけて大陸から その多くは小人数の難民がときどきに流入してきた。縄文人たちはこの異質な人々と接し、その文化を取り入れ融合して弥生時代をのみこんだ。その活力ある縄文人 16,000年のDNAが現代日本人にも脈々と受け継がれている。
(左は縄文土偶:宮城県恵比寿田遺跡出土)
2013/1/1 著者 小川正武