宇摩志麻治 (ウマシマチ)〚物部氏始祖〛
ニギハヤヒ(大国主命)の第三王子、 母はミカシキヤヒメ(御炊屋媛)。
ナガスネヒコ(長髄彦)は伯父、アジスキタカヒコネ(味耜高彦根)は義兄。
【私論編年 AD71~AD132、62歳で身罷る】
神武軍が吉野の奥から攻め込んできたとき、葛城の高尾張邑に居を構えていた味耜高彦根は防戦一方に追われ兄「事代主」の姫二姉妹を救出する暇もなく敗勢の中、辛くも登美へと逃れた。そのとき事代主は大王ニギハヤヒに近侍していて登美に居た。そして取り残された姫君二人は神武軍が制圧した葛城の地で在地長老の玉依彦(剣根の父)に匿われていた。
(写真左は、石上神宮の石標)
(写真左は、石上神宮の石標)
当時、長髄彦は河内に居て難波の防備に当たっていたが予期せぬ方向からの神武軍襲来に思わぬ苦戦を強いられ、城上郡に居た弟「安日彦」も敵の術中に嵌まって無残な最期を遂げていた。こうして主力の長髄彦軍と神武軍は大和川を挟んで対峙したが両軍小競り合いのなか次第に膠着状態に入った。失地回復の望みを絶たれたニギハヤヒは長髄彦将軍を更迭し、代わりに宇摩志麻治を当てた。
そして長髄彦は敗戦の責任を一身に負い賜死させられた。叔父をわが手で処断しなければならなかった宇摩志麻治は生涯悔恨と自責の念に駆られ、味耜高彦根もまた事代主の姫を救い出せなかった事でその罪をも被ってくれた長髄彦に対して同じく心の重荷を生涯背負った。 (写真左上は、石上神宮の楼門) (写真左は石上神宮の晨鶏)
イワレヒコは兄「五瀬」を失った嘗ての怨敵「長髄彦」を誅した宇摩志麻治がイワレヒコの前へ帰順してきた勇気を褒め称え領国安堵を約した。宇摩志麻治は帰順した証として父王から授かった 「天璽瑞宝」 を居並ぶ群臣の前でイワレヒコ大王に献上し忠誠を誓った。大王はそれを大いに愛でて宝剣 「布都御魂剣」 (フツノミタマノツルギ) を下賜した。そして昇殿を許し、爾後は天物部 (天孫の軍兵) を率いて本朝(邪馬台国)にまつろわぬものを斬り国内を平定するよう勅諭した。
神武が橿原で即位した(AD93)日から15年経過していた。神武朝は宇摩志麻治が神武に降ったことによってそれまで脆弱であった孤高の王朝にはじめて安定的基盤を齎せた。それは広義に出雲朝係累との大同団結を意味した。
天皇本紀によれば、宇摩志麻治はイワレヒコ大王から後の大臣・大連にあたる「食国政申」に任じられた。以来、宇摩志麻治は「物部氏」を名乗り、味耜高彦根は居所高尾張邑の名を冠して「尾張氏」と称した。
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ここに至って出雲王朝は事実上瓦解し、統治の主導権は出雲から大和へ事実上移行した。
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宇摩志麻治の母「御炊屋媛」は淡海の「三上氏」由縁の人とみられ、その子孫は専ら三上氏出自の姫君を娶っている。また鉄の産出する近江湖西(淡海国)とも繋がりをもち、石上郷(現・天理市)に武器庫を設置してその鉄で武器を作って蓄えた。その地はやがて神剣「布都御魂剣」をご神体とするお社が築かれ同神剣が安置された。現在の石上神宮がそれである。 (写真左は、物部神社の石標)
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ここに至って出雲王朝は事実上瓦解し、統治の主導権は出雲から大和へ事実上移行した。
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宇摩志麻治の母「御炊屋媛」は淡海の「三上氏」由縁の人とみられ、その子孫は専ら三上氏出自の姫君を娶っている。また鉄の産出する近江湖西(淡海国)とも繋がりをもち、石上郷(現・天理市)に武器庫を設置してその鉄で武器を作って蓄えた。その地はやがて神剣「布都御魂剣」をご神体とするお社が築かれ同神剣が安置された。現在の石上神宮がそれである。 (写真左は、物部神社の石標)
宇摩志麻治は綏靖の御世、息子「彦湯支」に大夫の位を譲り、自らは父祖の地出雲へ行き、ついで石見の兇賊を平定した後、その地で薨去した。後年、継体の御世になって、継体天皇は同地に社殿を創建して宇摩志麻治を厳かに祀った。現・石見一宮物部神社がそれである。古に誉れある重要な役割を果たした軍神ウマシマチへの尊崇の念がそうさせたのであろうか。はたまた自ら体現した〝天神地祇の合体した統治する血族の再統合〟と重ね合わせていたのであろうか。 (写真左は、物部神社の鳥居から見た本殿)
味耜高彦根を始祖とする六世孫に丹波の大県主「尾張の由碁理」が居る。その娘の名は「天豊姫」つまり魏志倭人伝に出てくる「台与」その人である。台与は当時、第一級の国際派知識人であったが先代「日女命」(卑弥呼)からつづく約一世紀に亘る女帝の支配する祭祀的政権に対して、その統治形態に反旗を翻した祟神によって廃位させられていた。
しかし「尾張氏」は後の世、末裔の「尾張目子媛」が継体の妃となって「安閑」「宣化」の兄弟を産み皇統に繋がった。
祟神の出自といえば宇摩志麻治を始祖とする五世孫の「伊香色謎命」(イカガシコメ)を母とする。こうして大国主命の末裔たちは時代を乗り越えて互いに相克しあい、現在につづいているのである。いやさかいやさか、、
(板厚30ミリ)
私なりに理解する出雲族とは、太古から半島南部(狗耶韓国)に住んでいた倭人たちと山陰地方に住んでいた縄文人たちとを捉えて総称したもので、これを私は環古代倭地圏と謳っている。その人々の中から有力な支配者が現れ、その支配者が求心力となって緩やかな王朝が出雲で出現していた。一方、天孫族とは、中国の相次ぐ戦乱と圧政から逃れてきた漢人たちが北部九州に流れ着きその地の縄文人と融合して繁殖した。その子孫たちであったかのかも知れない!。この二つの流れが大和の地において出会い結合し土着化した。そしてヤマト王権なるものが出来上がった。その下地に縄文人16,000年の果たしてきた役割は大きくこれら先進勢力を積極的に取り込み併呑していった歴史でもあった。無論それは概観的であって個々局地的には雄略が上表する〝闘いに明け暮れて日夜山野を駆け巡り寧所に暇あらず〟といった展開をあちこちで繰り広げそしてそれを克服してきた我ら祖先の人々の営々と築いてきた悠久の歴史でもあった。
斯くして『記紀』は、この国を開闢した誉ある始祖として大国主命(出雲)と天照大神(天孫)を誇らしく掲げて尊貴高らかに謳っているのである。
2013/1/12 著者 小川正武