「カエシネ」に近侍する大連「瀛津世襲」は父「天忍男」の意を受け継ぎ「クシトモセ」の全権「武速持」(倭氏)と和議を重ねていた。その結果、既に共立することで合意をみていた「宇那比姫」を倭国盟主の司祭王に担ぎ上げ、その下で首長会議を開き政を整え、司祭王たる「宇那比姫」がそれを神に伝えて神宣を下す!そういう形で最高裁治権者不在の空白を臨時に埋める、この豪族合議体制のもと「カエシネ」と懿徳の日嗣の御子「クシトモセ」は共に王位争いの場から退場していった。 時にAD187年。
共立された「宇那比姫」は、神聖にして冒すべからざる司祭王となって室秋津島(現・御所市 室)の楼宮において神器「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」を奥坐に祭り、倭国安危の吉凶を霊力をもって占いそのつど厳かに神意を下した。傍らには夫君「天足彦国押人 / アマタラシヒコ・クニオシヒト」が独り傅いて朝議の場とを行き交い神託を伝達する重要な役割を担った。
斯くして「宇那比姫」は、倭国連合の盟主にふさわしい 「大倭姫」 と称されるようになった。時に、AD188年。
写真上は、「大倭姫」の王宮があった秋津島の俯瞰図を示す。外部資料を引用。
AD189年、遼東太守に任命された「公孫度」は後漢の凋落をよそに楽浪郡をも席巻する勢いで独自に領土を広げていた。その結果、倭国は後漢との交流が隔絶し、楽浪の南の帯方郡に集住する倭人らも危険に晒され、その保護のため「公孫氏」が名乗る遼東王の「燕」へ遣使することをなにより急いでいた。
AD192年、倭国の新体制は漸く定着をみせ、「大倭姫」(21歳)は名実ともに倭国を代表する女王の位を戴冠し、その名を「日女命」(ヒメミコト)と改めた。この音読を異国の人は「卑弥呼」(ヒミコ)と表記した。
同年、遣燕の正使を大御食津臣(中臣氏)・副使を建斗米(尾張氏)とした。これを任命した朝議の主要メンバーは武速持(倭氏)・健甕尻/タケミカジリ(三輪氏)・瀛津世襲(尾張氏)のトロイカで「日女命」がこれを宰可した。それを受けて六見宿禰(物部氏)・大日命(大伴氏)・智名曾(紀氏)・久多美(葛木氏)などが遣燕使に随行した。遣使を受けた公孫度は、後漢臣下であったてまえ倭国へ印璽を与えることがさすがに憚られ、代わりに霊帝から下賜された中平年号の宝剣その他鉄鏡や武具類多数を授けてこれに応えた。しかし、AD205年、公孫度の嫡子「公孫康」は帯方郡を占領してそこに集住していた倭
人らを隷属下に置いた。ために倭国は「公孫氏」との関係が急速に冷え込み、それまで彼の地から輸入していた鉱物原材料は代わって狗耶韓国の地を切り拓き(半島東南部から鉄鉱石産出)移入するようになった。やがて山陰や近江からも鉄鉱石が産出されるに至った。
左の図面は2~3世紀の近江における製鉄遺跡( ○印)/鉄鉱石産出地及び鉄滓出土古墳( ● 印)/鍛冶滓出土古墳( ×印)等の分布を示す。
産出された鉄素材は舟で宇治川を下って更に木津川の支流を経てヤマトへも搬入されていた。
宇那比姫 (うなびひめ) 大国主命の六世孫
倭国30余国が共立した邪馬台国初代女王、 尊号〚日女命〛
【私論編年 AD171~AD247年、在位60年、崩御77歳】
丹波の竹野に居たころの名は宇那比姫、共立されて女王になってからは尊称「日女命」(ひめみこと)として人々から崇められる。魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」その人である。
「日女命」は、夫君「天足彦国押人」(アマタラシヒコ クニオシヒト)との間で和邇氏の祖となる「和邇日子押人」と後に孝安天皇の后になる「押媛命」を生んでいる。その「押媛命」はその次の世代で活躍する大吉備諸進と孝霊天皇をお産みになるのである。
(板厚30ミリ)
(※1) : 日本の異称「秋津島」の伝誦について、イワレヒコ」が掖上(わきがみ)の丘(写真の国見山)から廻望して西に金剛・葛城山、東に高取山、南に巨勢山、北に奈良盆地の広大な湿地帯が拓ける麓の田園風景を眺めて感歎し「妍哉乎(あなにや)、国を獲つること。内木綿(うつゆふ)の真乍(まき)国と雖も、蜻蛉(あきづ)の臀占(となめ)の如くあるかな」となぞらえた。訳すれば〝なんと素晴らしい国を得たことか、狭い国ではあるがトンボが交尾してつながっているような山々が連なっている〟の意。この「あきづ」の語源がもとで「秋津島」の国号が起こったといわれている。
(※2) : 倭の国は、鉄の移入交易こそが朝貢外交の主たる狙いであった。前漢後漢を通して農耕器具の素材として中国の鋳造鋳鉄を大量に移入していた。ところが途中から「公孫氏」の「燕」が勃興してきてそれを遮ってしまった。そこで倭国は当時倭国の中の一国であった狗耶韓国からそれに代わる鉄を開発移入するようになった。こうして鉄の自給を図ったがその地がやがて北方民族(高句麗・新羅)からの侵入を受けて争いが頻繁に起こった。倭がしばしば半島出兵したのは斯かる倭人保護と失地回復が背景にあったからである。
話が前後するが鉄製武器実用の面で出雲の勢力が北部九州勢にやや後れを取っていた。そのことが北部九州勢に優位に働き神武東征軍は宇陀からの奇襲と激烈な死闘を繰り広げそれが蟻の一滴となり、それまでの巨大な出雲王朝瓦解の神話(国譲り)へと繋がった。この出雲王朝に代わる新たなヤマト王権誕生こそが我が国の開闢(有史の起源)の原点となっているのである。
(※3) : 神器「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」こそその後のヤマト王権を象徴する「三種の神器」の原点となった鏡である。
2013/5/16 著作者 小川正武