左の写真は、北魏洛陽城の閶闔門(しょうこうもん)復元図。
遣使一向が洛陽に着いたのは12月はじめ。そのころ明帝の容体は容易ならざるところまで進んでいた。・・にも拘らず明帝はそれを押して遣使一向を引見、倭王卑弥呼(日女命) に対して『親魏倭王』に制詔すると証書を発し、金印紫綬を仮し装封して帯方に付し、下賜の品々は装封して難升米(梨迹臣)・牛利(由碁理)に付すとした。
曹叡の上代、曹胤のころ、〝有倭人以時盟不〟の故事あり。今次、倭国遣使来朝に鑑みて曹叡(明帝)がこの故事を懐旧していたとしても不思議はない。明帝曰く〝汝がある所遥かに遠きも、乃ち使いを遣わし貢献す。これ汝の忠孝、我れ甚だ汝を哀れむ。・・・汝が来使難升米・牛利、遠きを渉り、道路勤労す。今、難升米を以て率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青授を仮し、引見労賜し遣わし還す。今、・・・を以て汝が献ずる所の貢直に答う。また特に汝に・・・銅鏡百枚・・・を賜い、皆装封して難升米・牛利に付す。還り到らば録受し、悉く以て汝が国中の人に示し、国家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜うなり〟とあり、まさに仇敵呉の遥か海東を望む倭国からの誼に想いを新たにしていたことの表れと私は見る。文中〝我れ甚だ汝を哀れむ〟とは〝我れ深く慈愛の心で接し汝を賛美する〟とした意味であろう。
(文中・・・印の箇所は魏志倭人伝の文言を省略している部分)
(※ 1) 『晋書』四夷伝「東夷条」倭人の項においても【宣帝之平公孫氏也其女王遣使至帯方朝見其後貢聘不絶】と記す。その意味は、〝宣帝(司馬懿)が公孫氏を平定した其の折、女王は帯方に使いを遣わし朝廷に謁見した。その後も友邦(同盟国)として、貢物を交換しあう訪問が続いた〟と言っているのである。この〔親魏倭王〕の〔親〕は、魏の〔同盟国〕倭の王という意味であり、恐らく「司馬懿」もこの遣使一行を襄平で仮泊せしめ、翌日には戦中警護を厳重に洛陽へ馬車を仕立てて懇ろに送り出していたことであろう。
冕冠(べんかん)を戴き、倭国遣使を引見する明帝 曹叡 (板厚30ミリ)
曹叡は、三国時代の魏の第二代皇帝。在位14年、生歿年206年~239年、
景初三年正月朔(一日)に崩御、33歳。 諡号 明皇帝。
曹叡は文帝曹不の長男に生まれ抜きんでた容貌と威厳があったという。16歳の時、母の甄氏は父の文帝に殺された。当初、文帝は曹叡を好まず、跡継ぎは他の夫人との間で儲けた子を就けようとしていた。文帝の死後 皇帝に就いた明帝は、真っ先に母・甄氏の名誉回復を行ったが後年 自らも寵愛が郭皇后に移った明帝は、毛皇后に死を賜った。皮肉にも、かつて妻を殺めた父と同様の行動を取るのである。明帝の不幸は更に我が子が次々に夭折し養子曹芳を太子に立てねばならなかったこと、加えて自ら33歳の若さで亡くなったこと、残された幼帝曹芳はこのときまだ7歳、この後見役を曹爽と司馬懿に託したこと。国家の大権をこの二者に集中させたことがやがて両者の確執を生み、この国の社稷を崩すに至った。
明帝の突然の死によって、宮廷の沸き立つ戦勝気分は一変し、一切の諸行事は中止された。これを受けて難升米ら遣使一行は幼帝曹芳が元服する四年後に再び來朝することを約して帰国の途に就いた。(※ 2)
(※ 2) 明帝の意志は「銅鏡百枚」を卑弥呼が録受することにあり、それを來使難升米らが確実に持ち帰ることを命じていた。ところがその矢先の明帝の死であり、その行事一切は喪して中止された。代わりに翌年の正始元年(240年) に帯方郡使「梯儁」(ていしゅん) が來倭して、明帝が命じた品々と「銅鏡百枚」を邪馬台国へ齎(もたら)せた。その鏡の大半は明帝期の方格規矩四神鏡(ほうかくきくししんきょう) であったり画文帯神獣鏡であった。
(上の銅鏡は、方格規矩四神鏡)
ところが近年になって景初四年という中国に存在しない年号の鏡が古墳から出土した。思うに、百枚に僅かに不足する枚数を補うべく景初三年の服喪の中、魏の官営工房で急遽「景初三年紀年銘」を記す鏡が鋳造された。それが魏では決して出土しない特異な縁をもつ特鋳の三角縁神獣鏡であった。
明帝の意志は〝悉く以て汝が国の人に示し、汝が深く慈愛の心を持って国家に当たっていることを知らしめるべし、その標べとして汝が好むところを贈る〟と言っているのである。この場合、明帝期の年号を付した鏡でなければ詔書の意志は的確に卑弥呼に伝わらない、幼き次帝曹芳の紀年銘の鏡では意味をなさないのである。
日女命は、明帝から贈られたその鏡を権威のシンボルとして畿内近在の功臣や各地方の豪族たちへ悉く配賦して、明帝の意志に副った。
(上の鏡は、三角縁神獣鏡のレプリカとその断面図)
日女命が配賦した銅鏡百枚は言うまでもなくその出自は全て舶載鏡 (中国製) であった。ところが奇異なことに日女命亡き後、景初三年を含む景初四年・正始元年の紀年銘をもつ三角縁神獣鏡が相次いで古墳から出現した。これは一体どういうことであろうか!。答えは梯儁が齎した鏡の内、倭魏同盟のエポックを画した紀年銘をもつその鏡の重要性から、その全てをヤマト王権が模して造らせた云わば仿製鏡 (国産)なのであった。 孝霊から景行に至る歴代各天皇はこの間、日女命の慣例に倣い、日女命への尊崇すこぶる高いこの由緒ある鏡を殊のほか必要とした。その背景にはヤマト(倭)王権の版図が次第に拡大する中、九州南部の熊曾(熊襲)・北陸若狭の玖賀国(狗奴国)・本州中部以遠の国々を平定するごとに、働きのあった各豪族・功臣たちにこれを下賜し、位階勲章を授ける権威の象徴として、この紀年銘をもつ鏡こそが偉大なる威力と尊貴性を発揮したからである。舶載鏡に代替する足らざる鏡 (勲章) をその後の政権は仿製鏡をもって代用したということである。
当時の我が国銅鐸技術をむもってすれば原材料さえ揃えば容易に造れた。大和盆地のほぼ中央に位置する田原本町には集中して鎮座するその名も「鏡作神社」「鏡作坐天照御霊神社」「鏡作伊多神社」「鏡作麻気神社」が点在する。これらはその鏡作り集団がかつて居住していた名残りの地であり官営工房の在った地であった。
孝霊の都する黒田庵戸宮(くろだのおとのみや)はそのごく近くに所在した。
(上の写真は、鏡作神社の鳥居) 写真は外部資料を引用
この鏡作り集団の後裔らは、時代が下ると共にそのニーズも移り変わり「倭の五王」以降は冠や太刀に、更にもっと下れば仏像へと時の権力者の求めに応えていった。
大阪平野と淀川を見下ろす高槻の安満山(あまやま)の中腹に、安満宮山古墳(あまみやまこふん)がある。この被葬者は誰か!。思うに、魏朝遣使を務めた副使/都市牛利 こと「由碁理」の父「建田背命」であろう。「建田背」は始め丹後の宰(みこともち)であったが妹の「宇那比媛」(日女命)の政権を支えるため大和に移り住んだ。そして孝安と太子(後の孝霊)に仕え、日女命の王子「和邇日子押人」と息子「由碁理」の後ろ盾となって朝堂で重きを為した。そして由碁理が無事帰朝するのを見届けるかのこどく間もなく薨去した。日女命は兄のその死を悼み、明帝下賜の銅鏡ほか宝物宝剣多数を追贈した。その一部が遺骸と共に遣使船を遠望するここ高台に埋葬された (※ 3)。因みにこの北摂の地は和邇氏の勢力圏で後年、継体政権樹立のバックボーンともなった土地柄である。
(※ 3) 尾張氏五世孫の総領「建田背命」が後にした丹後の国は、建田背の弟「建宇那比/タケウナヒ」が当主となって治め孝霊に仕えた。現在の京丹後市峰山町に在る「赤坂今井墳墓」はその「建宇那比」の墳墓と比定されている。
また丹後半島の中央部に位置する竹野郡に「大田南5号墳」が在るがこの被葬者こそ建田背の息子「由碁理」であるともいう。更に、京都府相楽郡山城町に在る「椿井大塚山古墳」の被葬者は⑥孝安天皇の甥「和邇日子押人命」ともみられる。これら古墳は初期のもので自然の山を利用して山頂に墳丘を築造したものとみられる。
2013/9/11 著作者 小川正武