2015年9月28日月曜日

答礼使「和邇日子押人」【巻向王統 その7】 第二章



父は、第六代大王「孝安」の同母兄「天足彦国押人」。
母は、宇那比姫こと女王「日女命」。
宇那比姫の同母兄は尾張氏「建諸隅」
御名は、和邇日子押人(わにひこおしひと)命
〚私論編年 生没年AD190~253年 享年64歳〛
第七代大王「孝霊」は17歳年下の甥で、和邇日子押人の妹「押媛」は
孝霊の母に当たる。

〚事蹟〛
一、第二次遣魏副使「掖邪狗」/234年(魏帝曹芳・正始四年)
二、第二代倭国女王〚臺與〛擁立/250年・倭国大乱鎮定に大きく貢献。
三、第四次遣魏正使〚答礼使・全権大使〛/250年(魏帝曹芳・嘉平二年)

250年夏、「張政」ら還るを見送る倭の船団は舳艫が斜めに突き出た大型外洋船で少なくとも十数隻の船団を組んで難波津を出航した。
 此度の国を挙げての壮途は倭国大乱収拾の貢献(魏朝使節による告諭効果)に報いるもので、張政本来の使命「魏の藩屏(外藩)たる倭国からの軍事対応」即ち、出兵要請の思惑が見事に外れたことによる魏朝からの「尋問有之」とする密命を帯びて來倭した彼らの因って立つ面子とその擁護、それを倭の答礼使が洛陽へ直接罷り出ることによって『彼らが如何に魏の徳を以って倭国大乱終息に寄与したか』を説くことで誠意は通じ且つ又、倭が魏の冊封国(藩属国)でないことを示すのに充分であった。

魏はこの組し難い海東の国 倭国に手こずり、その後の中国歴代王朝も界外の脅威無き「倭国」に関心が薄れ爵位は地続きの近隣属国に比して劣後した。属国でない倭は、半島任那が上古から倭国と一体不可分の領域であることを国際的にも知らしめんとして動き為に一時期中国の爵位を必要とした。だがその行為は徒労に帰し『倭の五王』(正確を期すれば倭の六王)以後はその爵位に殆ど関心をもたなくなっていた。その結果、倭は中国王朝と疎遠となりそれがために文化的交流も途絶えた。その後、こともあろうに倭は一旦滅亡した百済を再興させその百済から大陸文化の導入を図る策に転じ、それと引き換えに任那の地を百済に割譲するという俄かには信じがたい外交政策に転じ、この愚かな売国的国策が雄略初期(任那倭人とっては最悪)に早くも起こり継体から欽明にかれてその路線は引き継がれていった。
己んぬる哉、在任那の各邑首や王族・在任那の倭の臣民らはその結果倭から離反していった。倭の紐帯から離れたそれらの人々は父祖伝来の土地を或はその邑落を護り懸命に自立自助自衛を図るが、その中で遂に力尽きて百済にいいように取り込まれ、新羅に無惨に蹂躙され、高句麗に一敗地に塗れて敗れ去った。そして汎任那全土では少なくとも百数十万人(梯儁來倭AD240年当時の本邦列島倭人総人口は少なくとも凡そ100万人/20万戸と推定、それから起算して272年後のAD512年任那四郡割譲時の半島倭種倭人総人口推定値)はいたであろう倭人は時間軸2千年の潮流の中で半島から淘汰され、いつしか倭のY染色体(父系)は半島から次第に消えていき遂にはその存在すら見えなくなった。そして半島の主人公の座はそれまでの倭人から三韓に取って代わられた。ヤマト王権はこの間、なにをしていたのか、『記紀』はひたすら神功皇后に象徴される『三韓征伐』の実態とその流れの片鱗を今日に伝えている。にも拘らず一部には〝三韓の地を倭(神功)が侵略した〟などと曲解する輩もいる。史実は真逆で〝侵略者「三韓」を懲らしめるために神功皇后自らが甲冑に身を纏い親征し給うた〟実際に起こった出来事なのである。それは用意周到に準備され本邦倭軍はいうに及ばず在任那の各旱岐(邑首または王)らが率いる軍も加わって国母の下、末端の兵士までみな奮い立って我先に新羅へ攻め上り、神功が彼の地に上陸した時は既に戦いは終わっていて新羅王は浜辺でひれ伏して国母『神功』を出迎え倭国を奉ったのである。これが真相である。〚神功皇后の三韓征伐〛は斯かる歴史的快挙を刻んで今日に残している。この史実を認めたがらない立場の人々が国家規模でいることはその心情に於いて理解できなくもないが、だからと言って真逆な史観がまかり通ることは甚だもって言語道断で、ここにおいても史実を故意に歪め覆い隠そうとする心痛むミッシングリンクが潜んでいるのである。 
(※ 1)【別紙-10 その5】

そして皮肉なことにその「三韓」もまた現代コリアンの祖である「高麗」によって簒奪されて歴史の彼方へ追いやられていった。現代コリアンと新羅人との言語が異なる所以も正にそこにある。現代コリアンの祖が 『檀君神話』 を信奉するシベリア系華北の人々(北方ツングースを祖族とする)であることはむべなるかなである。
それに比べ、日本の祖先神は天(あま)照らす大いなる大御神(女神)を戴く。この神は海の幸・山の幸・豊穣の大地を賛美して天地自然・先祖を畏み敬い崇める摂理・哲学に根差し、今日なお全国各地各神社において朝な夕な生きとし生ける万物霊長(八百万の神々)に深々と頭(こうべ)を垂れて尊崇の念を表している。こんな荘厳な営みを日々行っている民族が現代においてどこの国にあろうか!
そして倭は国名が『日本』と変わった後も皇統は間断なくつづき、初代「神武」から 「今上天皇」まで第125代を数えて今日に到っている。驚くべきことである。

因みに日本人のY染色体のDNA型はハプログループD1b系統で日本人・アイヌ・沖縄に固有にみられるタイプで朝鮮・中国には稀にしかみられない縄文人特有のY染色体だとされ、日本人にのみ高頻度で確認されている型だと学術的にも証明されている。
片やコリアンのそれはエヴェンキ族・華北の人々に多くみられるY染色体の特徴をもち明らかに日本人とは似て非なるルーツであることが今では解っている。

要するに、古代半島の主人公は倭人であったということである。ところが前漢時代の漢四郡設置以後の漢の衰勢によってその地方での力の空白が生じ、それに乗じて北方民族がどっと流れ込んできた。さらにその流れは加速し半島中原以南の地、即ち汎任那へも押し寄せ汎任那の地を瞬く間に蹂躙していき、遂には先住民族であった倭人を呑み込みつつ滅ぼすまでに至った。その北方民族とは百済人であり高句麗人であり、新羅人であった。これら三種族は紛れもなくその出自は北方扶余族を共通の祖とする何れも漢四郡以降に半島中原に進出してきてそれまでの先住民(主に倭人・流民である辰族と称させる漢民族)らと混住混在が急速に進みその人口爆発によって勃興した新興民族であった。
ゆえに檀君神話を戴く現代コリアンが〝古代半島はコリアンの祖先が主人公であった?任那などなかった?任那日本府などもなかった?などとする手前勝手でとんでもない幻想学説がまるで病理のようにこんにち蔓延しているのは甚だもって不幸なことである。韓国が捏造する戦略的主張が如何に根拠のない砂上の楼閣であるかは既に本論によって以下完膚なきまでに論破している。よって韓国の歴史歪曲は全て破綻していることを韓国人は恥じて素直に自戒ずべきである!また韓国の為政者も事大主義に走らず襟を正して自らの民族史にもっと謙虚に向き合う勇気をもたねばならない。そのことからコリアンの真の誇りが生まれてくるのではないか。

(※ 1)〚別紙-10 その5〛

継体期の時代、高句麗に滅ぼされた百済は倭に任那四郡を求め、倭は友誼の証しとしてこれを下賜(512年)した。為にそれまでの汎任那の倭人たちは父祖伝来の本貫地を突如として失い不条理にも百済の属民と化した。これらの任那倭人はその地をよく護り、同時に百済をもよく援け高句麗や新羅と戦い続け寧処に遑あらず、幾多の合戦のたびに幾万もの兵たちがその地に屍を累々と曝した。その挙句の果ての任那割譲・百済隷属は任那倭人にとって受け容れ難く百済・倭軍を相手に戦いを挑み次々と敗れ去っていった。栄山江流域に前方後円墳がいまなお数多く横たわって見えるのはそれら任那の名立たる倭人たち強者の死を悼んで築造された墳墓にほかならない。この故事を知って同古墳に佇めば心中涙しない日本人はいない。その任那四郡を亡国百済のためとはいえ倭が百済へ突然割譲した措置は、その地に古代から住んでいた各邑落(国々)の幾万幾十万もの倭人の悲憤を買い人心はみな倭から離れていった。とりわけ任那倭人と紐帯の深かった竺紫君岩井(筑紫君「磐井」)は倭中央の国策に異議申し立ての反旗を翻し反抗したがそれは已むに已まれぬ当然の行動であった。その磐井が物部荒甲(もののべのあらかい)と大伴金村(おおとものかなむら)によって討たれた(527年)後は、任那諸国は頼みの綱を失いみるみるうちに衰亡の一途を辿った。

即ち、筑紫磐井の乱はそのまま任那諸国と二重写しの性格を宿し、金官加羅国がこうした背景の下、任那頽勢を立て直す策を悉く失い、到頭倭に見切りをつけて新羅へ降った(532年)。そして同王の曾孫「金庾信」(きんゆしん)が唐と連合して百済・高句麗を半島から蹴散らし、倭軍と白村江の戦いで大勝利(663年)し半島統一を遂に成し遂げ新羅の恩寵に報いた。 当然の成り行きと必然の結末であった。

この金官加羅国の曾孫「金庾信」の「金」(倭人) は金閼智(濊貊) の「金」とは出自が全く異なる。

倭の中央が半島を宗主国然としていた気の緩み(対外的音痴)と性善説にたつ先天的善意(戦略なき稚拙な自己犠牲=良くも悪くも倭人のもつ特性である)が汎任那と任那倭人の消滅という重大禍根事を招いた。

そして陳寿の冒した半島瑕疵(認識未完の誤謬記述)は今以てその宿弊はつづいている。
このことが隣国の固定観念を助長させ任那の存在がまるでなかったかの如く巧みに自国民を洗脳し、おかしな歴史ねつ造に狂奔している。国家ぐるみのこうした驚くべき半島古代史捏造が現に今も世界中に喧伝なされているのである。この狂気の沙汰を称して日本では諺に〝無理が通れば道理が引っ込む〟〝ウソも三弁云えば本当になる〟という喩えのとおり、まるで駄々っ子レベルの自我が押し通せている様は只々唖然として呆れかえるばかりである。思うにこの意図するところは、太平洋戦争以後の自国の民族主義的イデオロギーに根差した国家戦略が最優先され、史実を歪曲して憚らず、〝こう有りたい、有ってほしかった、有らねばならない〟とする民族的願望に応えて国家構想が練られ、独善で非合理な観念のもと虚偽や欺瞞が仕組まれ、それが自国民の自己満足をくすぐり熱烈に歓迎されていることにますます自信を深め、いまや国家ぐるみで自作自演した自画像に陶酔しきっている。こうした恥ずべき幻想史をいくら世界へばら撒こうとも事実は不変であり常識ある人々はこれをは認めることはなく、一個人としての私も〝みっともないから頭を冷やして少しは大人になれよ〟とご忠告申し上げて警鐘を鳴らすしかない。

〚※「陳寿の誤謬」とは、詳しくは第一章 魏使梯儁【邪馬台国 その十八】において検証は既にし終えている〛


前年、魏では専横を振るっていた「曹爽」が司馬懿によって粛清され皇帝「曹芳」19歳もまた傀儡となっていた。こうした不穏な中での倭使洛陽訪台であった。死期が迫っていた司馬懿がこれをどのように遇したか知る術はないが後年、張政は王頎に代わって帯方郡太守に任命され(王キは263年天水太守に転封)その後、相次ぐ高句麗の侵攻にも立ち向かい内に善政を布いて288年その地で没(80歳)した。彼の塼室漢墓には〚使君帯方太守張撫夷〛と銘が刻まれている。因って張政の評価しるべし!。
答礼使「和邇日子押人」命 (AD251年 62歳)

◆1◆
 途次巡行

答礼使(送魏客使)一行は帰国途次、帯方郡に迎えられ張政らとの最後の名残の宴がもたれて漢土を後にした。次いで南の馬韓の地を訪れ倭族の主だった邑の首長らと歓談した。当時、馬韓には55もの邑落があってその中の一国「伯済国」が勢いを増していたがその国王「古尓王」(こにおう)に一行が表敬したかどうかは知る術もない。さらに任那の西岸を下って群山の港津に立ち寄り、その地「久麻那利」の邑首佐伯伴造祖(奴国出自)他、哆唎・牟婁の邑首らの出迎えを受けその際、国情をつぶさに聴いた。そして辺山半島の岬に建つ「竹幕神殿」へ立ち寄り、此度の使節使命無事完遂の報告をすると共にその後の帰航の安全も祈願した。
そもそもこの御屋(宮)は、先の女王「日女命」が倭人の通航すこぶる多い西の多島海において海人の護り神として特に岩礁の多い岬の突端に創建せしめたものであった。海洋氏族の長「凡海氏」(おおあまうじ)はこの御屋の神官を兼ねた扶安伴造を任じ、和邇日子押人ご臨港に際しては供奉してその成功を共に歓び賀詞し奉った。この凡海氏(阿曇氏)の後裔からは第40代天武天皇の長子「高市皇子」を生んだ妃「尼子娘」(あまこのいらつめ)が出ている。因みに天武の御名は「大海人」(おおあま)である。

◆2◆
中国「周」の時代と『任那の位置』

「山川経」(せんがいきょう)に『蓋国在鉅燕南倭北倭属燕』という記述がある。この「燕」(紀元前1100~紀元前222年)は、中国が秦によって統一されるまで現在の北京から遼東半島にかけて支配し栄えていた強国であった。そして意味するところは、「蓋国(後の高句麗)は強大な燕の南、倭の北にある。倭は燕に属す」と標す。亦『論衡』にも曰く〝周のとき、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず〟と・・ 即ち、倭は紀元前はるか昔から燕(中国)と交流していたのである。そのことを隣国との相対関係とその位置情報をこの地理書(史書)は完結明瞭に今日へ伝えている。この時代、即ち日本では縄文晩期から弥生時代にかけてであった。この当時、出雲王朝は既に列島(本邦)とこの半島の中原以南を一体的に緩やかな統治を布いていた。この一体的に統治が及んでいた範囲を私は便宜上〚環古代倭地圏〛または〚縄文時代倭人圏〛あるいは時代が下るとともに〚弥生時代倭人圏〛と解りやすく仮称している。
そして列島では半島のことを『任那』と凡庸に呼んでいた。任那は任那で『任那』のことを倭の一地方として任那と自称していた。だがこの倭名『任那』は対外的には半島自体が歴史の夜明け前であったため世界史に知られることはなくずっと埋もれたままで史上に登場してくるのが遅れた。その間、半島中原以南の汎任那は専ら倭人社会のみぞ知る地域的倭称に留まっていた。
(中国魏書『三国志』においてすら任那の認識が決定的に欠けていた)
その任那の地も北方の高句麗が興起して漢四郡が衰退していくのと反比例して、半島の中原にも大小の部族が興って互いに覇を競うようになった。それが三韓に繋がっていくわけでその過程で、汎任那の地をも徐々に蚕食されていった。

そんな汎任那が異民族の侵入を受けて版図が混沌としていた最中の西暦一世紀も後半、出雲王朝から汎任那を引き継いだ『ヤマト王権』歴代大王家は、このことによって好むと好まざるとにかかわらずこの半島倭地失地回復に重い命題を背負うこととなり、そのことで半島との亀裂に絶えず悩み続けるという御難つづきの歴史を辿ることとなった。

時代は後漢後期に移り公孫氏が楽浪郡を割って南に帯方郡を設置したとき、その地に集住していた倭人は公孫氏に取り込まれていた。倭は倭人保護のため遣使(192年)した。遣使を受けた後漢臣下の公孫度はそれに応えて印璽に代わる宝刀「中平銘鉄刀」ほか多数の武具を下賜した。それは「日女命」(卑弥呼)が共立された4年後(21歳)のことと重なり、同宝刀は後漢「霊帝」から「公孫氏」へ、公孫氏から「日女命」へ下賜され、そして日女命から六代後裔の神功皇后に供奉した和爾氏「建振熊」へと渡り、「東大寺山古墳」全長140メートルの前方後円墳に副葬されるという厳粛な引き継ぎが行われ納まるべきところへ収まっていた。
因みに同宝剣「中平銘鉄刀」を引き継いだ嫡系は、日女命⇒和邇日子押人⇒彦国姥津⇒彦国葺⇒大口納⇒難波宿禰⇒建振熊命(東大寺山古墳被葬者)。     

己んぬる哉、『ヤマト王権』は、羅唐同盟軍との「白村江の戦い」(663年)で敗れ、それ以後は半島から手を引き、百済遺民を受け容れた。そうした数奇な運命を重ねつつ倭の嘗ての汎任那(半島先住民たる縄文人の大いなる故国)は消えていった。その原点原形はこの原始古地図から全ては始まっていたのである。  

〚別紙-10 その2〛環古代倭地圏 亦名 弥生時代の倭人圏
上の図は〚周〛の時代、主に半島を中心に描かれた地理書。

◆3◆
汎任那と出雲王朝

時は紀元前197年、燕王に封じられていた「盧綰」は高祖「劉邦」(漢王朝の始祖)に背き北方の匈奴へ亡命していた。その部下で燕人の「衛満」もまた東へ逃れて清川江を渡り、先に戦乱を逃れてきていた秦・燕・斉・趙などの亡民漢族を糾合して箕子朝鮮の王険城(現・平壌)をまんまと乗っ取り、これを王都(前194年)とした。
漢はこの衛満を後に遼東太守の外臣に取り込み、より東方からの異民族侵入を防ぐのに利用した。

一方、王険城を簒奪された名門箕子朝鮮(殷の支族後裔)は事実上瓦解し、箕準は残党を連れて南の地(現・京畿道)へ逃れその地(後の馬韓)で僅かに韓王を名乗った。ところがその地は秦の苦役から逃れてきていた秦族のほか、燕や斉で服属させられまたは虜囚となっていた漢族らも三々五々流れ来ていた。これに困惑した韓王準はそれら難民を更に東界の地(後の辰国)へと追いやった。

箕準が韓王を名乗った地には、既に先住倭人の邑落が其処茲に点在していた。即ち、臣雲新国は出雲系民・乾馬国は丹波系民と思われ倭が中国と交易する中継地点に盤踞していた。為に箕準はやむなくその地に代わる東界の未開の地を流民に与えていたのである。つまり、韓王の糧道を支えていたのは主に半島の弥生人であり倭人だったのである。

やがてその「箕準」の家系は滅絶するがその後も、この倭人たちは同地の遺民や異族たちと混血が進み、すなわち魏書でいう馬韓人と標される人々(倭種)になっていくのである。 馬韓は代々東界の秦族の上に辰王を立てる慣わしであったが、既述のとおり漢三郡が廃止されたことによって彼の地は力の空白が生じそこが「夷狄更相攻伐」『三国志』の説く地と化し辰国は分裂、その分裂した国の中から辰韓(新羅の前身)が勃興し、それまでの辰王(馬韓の倭種)は辰韓にとって相容れない存在となり、以後辰韓は馬韓(百済の前身)から離反し馬韓と覇を競うようになるのである。 
〚別紙-10 その3 《C-2》〛の図はその流れを表す。

下記絵図は〚私論 紀元前195年、半島俯瞰図〛を表す。
この半島の呼称は『任那半島』こそ古代史的に最も相応しく、因って以下は任那半島と仮称する。

 同時代(前195年ころ)、任那半島はいわゆる『魏志韓伝』が記述する三韓などはまだ存在せず僅かに半島のことは韓(楽浪にいた漢人韓氏の名に由来していて、その漢族も任那半島中原以南は皆目暗く殆ど未知の地であった。)というに止まり、識別し難い漢族の流民や北方異民族の逃避地が半島北部に点在していたに過ぎない。(新羅は後503年に国号がやっと正式に定まる)
一方、任那半島中南部は『任那』を自称する出雲王朝の版図(現・忠清道・慶尚道・全羅道)が大きく存在していた。そしてその地には倭人である金官加羅国の始祖『首露王』や新羅(斯蘆)始祖『赫居世』(かくきょせ)や『脱解』(タレ)『瓢公』(ホゴン)といった草創期に居た倭人メンバーなどが続々歴史のあけぼのと同時に明るみに照らし出されてくるのである。それらはみな『三国史記』や『三国遺事』に記録されている歴っきとした倭人(出雲王朝の係累や族苗たち)を出自とする人たちなのである。このことを見落として或は故意に無視して半島古代史を語る者がいるとするならば、それはどこの国であろうとどのような権威ある識者であろうと半島古代史を論ずる資格はないのである。

『大国主命』というのは〚出雲王朝〛の大王に冠せられた尊号で、その意味するところは環古代倭地圏を包含する〝大国(おおくに)の貴き帝〟ということで『ニギハヤヒ』もまたその御宇に名前で呼ぶのは畏れ多いと専ら同尊号を用いてその大王を特定していたのである。

◆4◆
漢四郡の消長と汎『任那』の変遷

前108年、前漢「武帝」は衛氏朝鮮を滅ぼし、その勢いで半島四郡を置いた。ところがその後「玄莬郡」が夷貊に攻められ、為に郡役所は遠く高句麗の界西へ移さざるを得なくなった。また真番郡も臨屯郡も同様に 北方異民族の反抗により直轄統治が難しくなり三郡は僅か33年間で廃止された。〚別紙-10 その3〛の図《A-1》から《B-1》はその間の消長過程を表す。

前37年、高句麗の朱蒙(東明王)は卒本(チョルボン)で建国し、その第三子「温祚」は高句麗を離反して前30年に漢山(後の百済)で国を起こした。この時期、任那半島中央部は権力の空白地帯となり北方民族が南下、「温祚」もこの地を目指し然したる抵抗も受けずに居城を定めることができた。〚別紙-10 その3〛《A-2》《B-2》はそれを示す。
同時期、半島中南部には上古から先住倭人(縄文人から弥生人に到る時間軸の中で)の国が存在していた。これを出雲王朝は『任那』と称し、その任那の各邑落には出雲王朝から統治を付託されていた邑首(旱岐・国守)がいて代々その地を治めていた。

半島には1万5千年前から5千年前までの石器時代の遺跡が殆ど存在しない。この5千年間、半島は無人であった。恐らく半島北部の白頭山が太古から何度も巨大噴火を起こしておりそれまでの少数民族は生存できず跡形もなく絶滅していたからであろう。そして無人の半島に5千年前から縄文土器が出土してくるのである。同時代、倭人は列島のみに存在していたのではなく半島をも含めた〚環古代倭地圏〛に住んでいたのである。そして長江の稲作文化が暖流に乗って列島に伝搬され、次いで半島縄文人にも齎された。こうした史実は、倭人こそ有史以来半島の原住民(主人公)であったことを雄弁に示唆しているのである。


AD204年、公孫氏による帯方郡分地の後、後漢は「黄巾の乱」等で国が乱れる中、半島でも不安定になり、任那北辺の地へも北方民族の侵出が相次ぎ混住混在の様相を呈しその波は更に南の地へと向かっていった。

この204年のころは既に倭は「出雲王朝」から「ヤマト王権」へと国譲りが行われほぼ一世紀が経過していた。この間、汎任那の各邑落を代々治めていた旱岐(国守)は、多くはヤマト王権に服属していた。だが中には混血が進んで倭人から倭種へ、倭種から夷種へと変化して「斯蘆国」(後の新羅)のごとく倭人とは似て非なるヤマト王権を奉ろわぬ国も出現して、やがて百済・高句麗なども領土拡大の覇権争いに加わり、倭の戦略なき任那経営はそれに翻弄されつづけ、殊に継体期から欽明期にかけては悉く国策が躓き数々の重大な失態を重ね大任那を誇っていた嘗ての版図(忠清道・全羅道・慶尚道)は、あるときは百済に、あるときは新羅に乗ぜられまたは間隙を衝かれ、遂に百済・新羅を臣民としていたころのあの汎任那の地はAD562年に到って到頭半島の最後の牙城であった〚任那之倭宰〛(みまなのやまとのみこともち)即ち『任那日本府』(倭の任那半島における統治機関)すら失うこととなった。

〚別紙-10 その3〛〚私論 漢四郡の消長と任那の変遷〛
『魏志』「倭人条」が記述する「狗邪韓国」とは、〚邪馬台国〛(倭)が半島における唯一支配する国だけだと捉え狭く錯覚していたに過ぎない。倭の正面にスポットライトが当てられ蔭になっていた潜在部分に横たわる『汎任那』の倭を見落としていた。ここに陳寿は倭の「汎任那」が半島に存在していたことを終生認識できなかった。にも拘らず一方では『魏志韓伝』が記述するところの三韓(馬韓・辰韓・弁韓)では、押並べて風習・風俗・言語で異なるところがあるものの類似共通する部分もあるとした上でこれら三種を表層的に識別して半島の認識を総括していた。ここに陳寿の誤謬が潜んでいるのである。

これら三種が三韓へと面的に広がりをみせていった地域は、まず半島中部(中原)から始まり「汎任那」の北辺を徐々に浸食し時間的空間的経過を辿りながら「汎任那」の東岸深部まで及んだ。図〚別紙-10 その3〛《A-2》《B-2》《C-2》はその流れを表す。
漢三郡廃止のころからその胎動は既に始まっていた。漢から見た東夷諸族(半島から見た北方民族)や漢族の流民らが時には夷狄更相攻伐する無秩序で混沌とした様相を呈しながら、その中から混血と異種同士の収斂が進み、その地域的特性から新たな人種の識別が可能となった。それを『三国志』「魏志東夷伝」が「三韓」と標した。
果たしてこの陳寿が認識していた概念に瑕疵がなかったか、即ち、半島倭人=狗邪韓国とのみ認識が止まっていた陳寿は、汎任那の潜在的存在とその地が先住民族である倭人の土地だという歴史的根幹を知ることなくただ単に地域的表層的違いだけを捉えてこれを三韓とした。そして三韓の地がほぼ汎任那であった(占めていた)ことに気付くことなく、また倭人と弁韓・弁辰が倭人と倭種程度の僅差であったことも知らずして『三国志』魏書は後漢書も含めその他の中国古代史の規範となっていた『三国志』「魏志東夷伝」は)重大な瑕疵を宿した。

 『魏志東夷伝』は任那という倭への属性を知らず、任那が「狗邪韓国」を含めた倭地であるということに最後まで気付かず、任那の存在が認識されないまま〚東夷伝〛から汎任那の概念が真空のこどく完全に抜け落ちてしまった。
陳寿のこの種、誤謬は本著【邪馬臺国 その十八】[陳寿が撰した道程の誤謬と破綻]においても既に指摘しているところであり、それがここにおいても同様に生じており、そのことが任那の歴史的認識を大変遅らせ不幸にも版図任那の後退期に至って初めてその一端が窺い知れることとなり、ために任那の存在価値が故意か否かに関わらず不当に矮小化されてしまった。この根幹部分の矮小化こそが汎任那で雄飛していた嘗ての半島の主人公『倭人』(弥生人)の実態とその躍動していた時代の史実を異常なまでに歪めてしまっていた。

◆5◆
昔于老の失言

【BC57年】
赫居世(かくきょせ)倭名『彦世』は六村の長に推されて初代「斯蘆国」(後の新羅)の王となった。  『三国史記』「新羅本紀」
〚出雲王朝が大任那を領有し、国守“旱岐”を国々に置いていた〛

  ⇩
【BC50年】
倭人達が兵を率いて辺境を侵入してきたが、始祖(彦世)に神徳があることを聞いて直ぐに帰ってしまった。「新羅本気」
『出雲王朝が斯蘆国を容認し、宗主国として臨んでいた時代』

  ⇩
【AD4年】
第二代「南解王」(彦世の長男)は、「脱解」(だっかい)の才を愛でて引き立て娘を嫁がせて第四代王に就かせた。この「脱解」は丹波を出自とする倭人であった。「新羅本紀」
〚大任那の北部東部で異民族の混住混在が顕著になっていた時代〛

  ⇩
【AD14年】
倭人が兵船100艘余で攻め寄せてきた。これに対して六郡の精兵を派遣して応戦した。しかし、楽浪軍の陣に流星が落ちて賊軍は恐れて引き上げた。「新羅本紀」
〚斯蘆国の王が “濊貊” を族系とする妃を娶って次第に王室の種質が「倭」種から “濊貊” へと変貌し、出雲王朝と敵対的になっていった時代〛

倭人が濊(女)妻を娶り、その児がまた濊(女)妻を娶ればその孫は母方へのアイデンティティをこよなく抱く、斯様にして倭国(父)への帰属意識は次第に薄れ、母系樹立の自己に目覚める。これが斯盧国に起こった。

  ⇩
【AD65年】
瓢公(ここう)が聡明な子「金閼智」(あっち)を世継ぎとして養育した。
閼智の7世に第13代王「味鄒」(みすう)が出た。金氏王統の始祖である。
因みに瓢公もまた倭を出自とする。「新羅本紀」
朴氏脱解は瓢公の屋敷を奪って「月城」(歴代新羅の王城)とした。
            
「瓢公」(倭人)と孫世代の「脱解」(倭人)との間で金氏閼智(濊貊)の族系を巡り深刻な内部亀裂のあったことがここから窺い知れる。
〚出雲王朝の版図 汎任那が大きく揺らぎはじめていた時代〛

そして金氏始祖「閼智」の子孫で第17代新羅王「奈勿尼師今」(なこつにしきん)7年(AD363のとき、神功皇后の新羅征伐が起こり、同王は降伏して子の「未斯欣」を倭へ人質として差し出した。
   この時代はヤマト王権の「河内王統」草創期にあたる。
この未斯欣は第19代新羅王「訥祇麻立干」(とつぎまりつかん)である。

  ⇩
【AD73年】
倭人が木出島に侵入してきたので一等官の「羽鳥」を派遣して抗戦したが、羽島は戦死した。 「新羅本紀」
斯蘆国はいまや出雲王朝と対決し、任那の国々を脅かしつづけた

  ⇩
   ⇩
【AD232年】
倭人が首都「金城」を攻め入る。「新羅本紀」
この時代は出雲王朝からヤマト王権へ統治委譲がなされ、早やくも139年が経過していた。この年は、女王「日女命」(卑弥呼)在位44年目に入っており御年61歳、男弟「孝安」は御年57歳であった。〛


長期安定政権の「日女命」がこの間に行ったと思われる事蹟建造物は少なくとも三つある。その一つめは、大国主命を奉って気宇壮大な「出雲大社」を建立したこと。
(※ 今から5000年前に、既に青森の三内丸山では巨大立柱建造物が作られていた。出雲大社はその立柱建造物の3200年後の建造物である。)

同様に二つめは、尾張氏父祖「味耜高彦根」を奉って「髙嶋神殿」(現 御所市)を建立していたこと。
三つめに、任那西岸に面する辺山半島の岬に海の守り神「竹幕神殿」を建立したことである。
因みに「日女命」の出自は「尾張氏」である。尾張氏歴代嫡女は、その固有名詞とは別に通称名で崇めて呼ばれ「大海媛」と尊称されていた。恐らく縄文時代からつづく「環古代倭地圏」において知れ渡っていた王家「出雲王朝」の遠祖の流れを汲む血筋ではなかったかと側聞するのである。

  ⇩
【AD233年】
5月及び7月には新羅は倭軍の侵攻を受けた。7月の際には「昔于老」(せきうろう)は沙道(浦項)で迎え撃ち、兵船を焼き払って倭人を壊滅させた。この功により于老は官位一等の「舒弗邯」(ソブラン)という最高位に就いて軍事の統括責任者となっていた。 「新羅本紀」

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【AD251年】
倭国の使臣「葛那古」が来朝して客館に滞在していた。于老はその接待の役に任ぜられていた。彼は倭の使臣に戯れてあろうことか「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷として王妃を炊事婦にする」と暴言を吐いた。

  ⇩
【AD253年】
于老の無礼を聞いた倭王は大いに怒り、将軍「于道朱君」を派遣して新羅を攻めてきた。于老は、倭軍の陣に赴いて失言をわびたが倭人は許さず、于老は捕えられて焼き殺されてしまった。 
『三国史記』「列伝于老条」(誅殺はAD253年のこと)
※ 于老は第10代奈解尼師今の長子であり、第16代訖解尼師今の父にあたる。

『三国史記』の編者「金富軾」は、昔于老を評して〝戦えば必ず勝ち、敗れることの無かった策謀の士〟としながらも〝ただ一言の過ち(失言)で自らの命を失い、新羅と倭国との開戦を招いたことで、功績が記されなくなった〟としている。

 ◆6◆
任那南巡の変

本使一行は更に半島南岸の加羅海を東航し、狗耶国の倭館へ一時寄留した。
本使が前回遣使(243年)の時以来、二郡(楽浪・帯方)に滅ぼされた辰韓難民、多くは濊貊らが任那半島を南下、任那各地に混住混在がみられる中、本使「和邇日子押人」はその憂慮に鑑み同使節随員二十余名を各邑都の国首(旱岐)の下へ遣わし、状況の把握とその国情を巡察せしめた。

本使「和邇日子押人」は大王「孝元」の外祖父にあたり、女王「臺與」は従姪という関係にある。
文字通り倭国の国務を背負って立つ最高責任者の立場に在り、半島任那の脅威に曝されている不安定な国情を憂いて任那諸国へ随員を使者として遣わせていたものと思われる。
上の絵図は答礼使一行往還当時(AD251年)の任那半島俯瞰図。

この任那の版図は、その後の高句麗の南下・新羅の勃興によって変化する。さらに後五百年代における倭の百済への任那割譲(512年)によって版図は著しく縮小され、その過程で幾百万もの嘗ての汎任那の先住倭人(縄文人から弥生人へ文明的に経年進化していったひとたち)は任那半島から淘汰されていった。
因みに本使一行の任那の倭館は「魏志倭人伝」でいう狗邪国、即ち「三国史記」に出てくる駕洛国、後の金官加羅国(現・金海市)を指す。 狗邪国(狗邪韓国)=駕洛国=伽耶国=加羅国はいずれも任那の地域的別称で、漢人・倭人によって呼び名も異なり亦、各時代の勢力地図の伸縮によっても広義にも狭義にも変化した。いずれにせよ倭国の任那半島における領域地名の一部であったに過ぎない。

そして変事は起こった。使臣「葛那古」が「斯蘆国」を表敬してその国の筆頭高官「昔于老」の応接を受けていた。当時、飛ぶ鳥落とす勢いの常勝将軍にして有力な王族でもあった于老は接遇に際してこともあろうに戯れて倭の大王「孝元」とその皇后「伊香色謎」を卑しめ于老が下で奴隷として虐げるてみせるがごとき暴言を吐き、甚だしく同大王の尊厳を傷つけた。この無礼に色をなす葛那古の態を于老は嗤って取りあわず使臣が憤然と還るを悠然と見送った。そして二年後、倭は将軍「于道朱君」(うじしゅくん)が斯蘆国へ派遣されこの「于老」を捕らえて焼き殺した。『新羅本紀』「列伝昔于老条」沾解(てんかい)王7年(AD253年)の時。私はこれを 「任那南巡の変」と仮称する。

これには後日談があり、曰く〝 味鄒(みすう)王のとき、倭国の大臣が來聘(らいへい)した。于老の妻は国王に頼んで私的に倭国の使臣を饗応した。使臣がひどく泥酔したところを壮士に命じて庭に引きずりおろして焼き殺し、恨みを晴らした。これが原因で倭国は斯蘆国の首都金城を攻撃したが勝てずに引き上げた 〟というのである。さもありなん!、 
因みにAD253年は倭の女王「臺與」16歳、在位して三年目にあたりこの「任那南巡の変」に如何なる神宣を下したのであろうか。
 《鉄は国家なり》で象徴される鉄はこの時代、通貨に兌換できる貴重な産物であった。倭はこれを遠くは中国『周』の時代、遼東の「燕」まで取りに行っていた。朝貢はそれを得るための交易手段であった。今、任那の地は伽耶地方においてその鉄の一大生産拠点となっており、そこで加工された鉄塊は洛東江を下り駕洛国の港津を経由して列島(主に奴国)へ国家管理の下、輸入されていた。その用途は農耕生産具であり漁撈具・木工具であり何よりも武具製作に欠かせない必需素材であった。任那はその鉄原産国として倭にとって死活的に重要な供給地であり、斯蘆国がこの地を脅かすことはヤマト王権にとって討伐すべき国となっていた。

ヤマト王権が前王朝から受け継いだ任那経営とは如何なるものであったか。それまでの在任那を代々引き継いできた旱岐諸侯(国守)の身分をそのままに、緩やかな間接統治を布き彼らをよく懐柔し大きく宗主国として臨んでいた。そこへ異質の「斯蘆国」が敵対的に出現(王統系譜の倭系から婚姻による濊貊化)し、北に伯済が興り、強大な高句麗がその伯済を不倶戴天の敵として更に北方から現れ、その三つ巴の覇権争いの主たる舞台(攻防の地)が汎任那で繰り広げられたのである。このことによってヤマト王権は北方民族三分派を相手とする渦中へ巻き込まれていった。そしてその攻防は凡そ五百年間つづき倭地であった汎任那はこの間に完全に消滅してしまった。

半島の倭の諸国が五百年もの長きに亘って侵略者「三韓」と三つ巴の戦いを強いられていた古代史を日本人なら誰しも記憶に留めておかなければならない。
なぜなら、現代コリアンは歴史認識において倭が三韓(任那半島)へ一方的に侵入しただとか任那は存在しなかっただとかコリアンが半島の先住民であっただとか主客転倒も甚だしい古代史歪曲を意図的に作為し、しかも次代を担う若きコリアンの教育の場においてすら同歪曲史観で洗脳し世界へも喧伝している。この独善的民族主義の悪辣さから決して目を逸らさないためにもである。

倭は大きな代償(任那四郡割譲)を払って百済を取り込んだ。取り込んだつもりであったが逆に百済に取り込まれ更に四郡以外の任那の地を次々と百済に奪われた。任那先住倭人はこの不条理に反旗して倭を見限り倭と百済に勝ち目のない戦いを挑みつづけて死んでいった(栄山江前方後円形墳)。
そして倭は任那を失い最後には百済までも失って半島から手を引いた。『記紀』神話は斯かる版図の多くを失った前史を隠蔽せんがために創られた。創られたそれらの神々は恐らく前史の人々とヤマト王権との間で何らかの繋がりがあったように思われてならない。そして邪馬台国女王の存在は歴史の彼方へと葬り去られ、後に不都合で巨大な古墳「箸墓古墳」だけがその名残を今に語りかけていた。
上の図は、第一章(その19)から重複掲載している。


◆7◆

任那『松鶴洞古墳』改変改竄、
韓国古代史学者の民族主義的イデオロギー迎合に視る
奇っ怪な功名心と歪んだ愛国心

考写真 その1〛任那半島の栄山江前方後円(形)墳出現の行程
 『日本紀』継体6年(512年)、任那四郡が亡国百済に割譲された。その時期を前後して凡そ70年乃至100年間の長きに亘る期間、ここ栄山江流域から海南地方にかけて集中して倭独特の埋葬形式である前方後円(形)墳が続々造営されていった。これは一体何を意味するのであろうか!そしてその被葬者たちは一体誰なのであろうか?。(図は外部資料を引用している)

475年、百済は王都「漢城」が高句麗の攻撃を受けて落城し、蓋歯王・太后・王子らみな刑殺されて百済は滅亡した。ただ独り難を逃れた王子「文周」は雄略から久麻那利(熊津)を下賜されて国の再興を援けられた。更に武寧王の時代、武寧王は倭王「継体」の関心を買うため中国「梁」と文化的関係を深め、中国五経博士を倭へせっせと貢ぎ、見返りに任那四郡を求めた。この百済戦略に魅せられ(乗せられて)た倭はこれと引き換えに任那四郡を与えるという俄かには信じ難い売国行為が行われるのである。この取り返しのつかない禍根は一倭王の下で決断され在任那四郡の倭人(半島の主人公たる弥生人)の百済隷属と任那倭人の棄民を意味した。この不条理に憤った任那倭人や在任那の王族支族らは当然の如くヤマト王権から人心が離れ、百済に抵抗しヤマト王権に反旗した。そして倭に抵抗し百済に反抗して次々と倒れていった。
(雄略が下賜した久麻那利(熊津)の位置は「別紙-10 その4」にその所在を表している)
任那四郡以外の任那の人々も他人事でない倭国中央の裏切り(国策の誤り)に共に怒り共に戦い多くが戦死した。そして任那の人々は戦死した武将を悼み弔った。その地は栄山江流域から海南地方にわたり前方後円(形)墳築造した。その多くは旱岐・国守または邑首長らであった。
一方、慶尚南道・固城(コソン)の松鶴洞1号墳の被葬者は誰か、についてはそれを特定する術はないが思うに星川皇子の叛乱に加勢した「吉備田狭」か或は時の伽耶王かそれとも中央から派遣された倭将であったか何れにせよその遺骸は、その地で手厚く葬られたはずだ。同被葬地は固城湾の北、鎮海湾(チンへマン)の西に位置して倭軍の一大軍事拠点として或は任那日本府が加羅から移動して臨時に置かれた府として地理的にも重要な要衝の地であり、凄まじい戦いがここ「小伽耶国」でも繰り広げられていたことが想起される。斯かる任那倭人と大和倭人の倭人同士の相討つ(あたかも西南戦争の如し)利敵消耗戦は、互いが退勢するばかりでその虚を突いて強勢になっていた新羅の任那蹂躙があり、大和中央に巧みに取り入り大王家を味方につけていた百済の更なる任那収奪があり、任那を襲った二重三重の断末魔が任那前方後円(形)墳群に如実に現れていてその痛恨事を今に伝えている、この痕跡が残っただけでも僅かに救いである。
(※ 松鶴洞古墳の被葬者が「伽耶王」か「吉備田狭」かそれとも「大和派遣軍倭将」か、いずれにせよ任那倭人か本邦倭人かの違いであって先祖を遡ればこれらは何れもみな縄文人から弥生人のルーツにもつ同胞であって、決して百済人でもなければ新羅人でもない、況や高句麗人でもないのである。)

考写真 その2〛 固城(コソン)松鶴洞(ソンハクトン)一号墳
 上の写真は松鶴洞1号墳の1984年頃の写真である。それに先立つ1914年、考古学者「鳥居龍蔵」による松鶴洞1号墳の実地調査が行われ「前方後円墳」の半島での存在が示されていた。

〚松鶴洞一号墳測量図〛
上の測量図は、1983年に韓国・嶺南大学教授「姜仁求」(カンイング)氏による外形の精密な測量調査が実施され、 「韓国の前方後円墳」 という題で論文が発表されていた、その文献の和訳資料である。

日本の考古学者 森浩一氏も現地踏査して〝私はこれを見た瞬間前方後円墳に間違いないと直感しました。松鶴洞古墳は見事なという形容詞をつけていいほどの上位の前方後円墳〟と言い遺した。

一方、異なる見解として松鶴洞一号墳は〝近接した二基の円墳を前方後円墳と見誤った〟とした学者がいた。その名は・・、

          李進熙 (明治大学教授)
          斎藤忠 (東京大学名誉教授)
          江坂輝弥 (慶應大学教授)・・・ら

李進熙は任那日本府はなかったと強弁する人物である。そして2000年から翌年2001年にかけて韓国・東亜大学による同古墳の発掘調査が行われ、同大学教授沈奉謹(シンボングン)は論文を発表して、〝松鶴洞一号墳は前方後円墳ではなく、三基の円形墳が築造時期で異にしながら互いに連結・重複しているものである〟と白々しく大見得を切った。下の写真はその変わり果てた現在の松鶴洞一号墳である。

松鶴洞一号墳発掘調査後の写真〛
築造時期(古代と現代の錯綜した感覚)で異にしながら互いに連結(噛み合わさり)、重複(墳墓の上に墳墓が重なり合い)しているものである、それが松鶴洞一号墳である。【沈奉謹の発掘調査成果】 ・・と公表しているのである。文化財を徒に傷つけ被葬者を冒涜するこれが現代韓国人のなりふり構わぬ民族主義イデオロギーに邁進する古代史歴史観である。儒教の国のすることであろうか!

近代社会において、同じ場所で古墳の形が変わったり数が増えていくこの不可思議さよ?この欺瞞の造作を前にして何をか言わん、

私は中国・韓国をことさら悪くいうつもりはない、本稿ミッシングリンクを探究していている中で『記紀』に潜む勝者の論理矛盾にも鋭く批判的検証を行ってきている、その意味で全く中庸である。 

著作 小川正武 2015/10/2日   


〚追記雑感〛中国4000年の歴史というが、その間王朝は何度も変わり文化や言語も変わった。早い話、清国は満州族であり漢民族ではない。日本人はほぼ同一民族で今年皇紀2675年を数える。この国は資源の乏しい国でありながら近代において、いち早く西洋列強に伍して強国となり清国を負かし眠れる漢民族を揺り動かし、膨張主義に走る帝政ロシアから朝鮮を護った。ところが軍国主義の行きつくところ太平洋戦争へと突き進み惨敗を喫した。けだし結果として日本は日本という母体を傷つけながら東南アジア諸国を列強の植民地主義から解放し独立国を生んだ。毛沢東は日本軍が国民党軍と戦っていたことに感謝していた。鄧小平は日本の技術・資本・民力を熱烈歓迎して全面的に改革開放し、日本はそれに応えて中国発展のための経済的基盤づくりに世界最大の貢献を果たした。しかるに日本を凌駕する経済規模に発展するやいなや、江沢民は手のひらを返して反日教育を徹底し、つづく胡錦濤・習近平もその戦略路線を引き継ぎ徒に日中間に波風を立てて意図的に悪感情を蔓延させた。そして毛沢東でさえ観念になかった抗日戦勝記念を捏造して中国国民を扇動し今日徒に日中間に無意味な敵愾心を煽っている。当時の日本軍は毛沢東の中共軍とは戦っていない。戦っていた相手は中国蒋介石の国民党軍なのである。中共政府が戦勝記念日を謳いたいのなら毛沢東の中共軍が〚国共内戦〛に勝利して建国したことを紀元とすべきである。毛沢東の中共軍がさも日本と戦って日本に勝利して建国したなどとする論理矛盾は全く正当性を欠いている。むしろ毛沢東は日本軍へ積極的に働きかけ重慶の蒋介石を共に倒しましょうと工作していたのである。しかるにその史実を抹殺して事実を歪曲してこれを世界規範に仕立て上げようと画策しているのが今の中共政府なのである。日本を殊更悪玉に仕立てあげることによって共産党一党独裁を正当化し、中国国民の不満のはけ口を日本へ向かわしめ〝未来志向〟を求める日本に恫喝姿勢で臨んでいる。この卑劣で力を頼みとし力に溺れて亡んでいった数々の中華古代史が明らかなように今や懸念となっている。             

2015年5月30日土曜日

女王臺與 「天豊姫」【巻向王統その6】 第二章


第二代 倭の女王〚臺與〛大礼の儀
女王「日女命」(卑弥呼) の宗女「天豊姫」13才は、諸族の長たちに推戴されて女王が都する所「邪馬台の国」(大和の国)において第二代倭の女王〚臺與〛(とよ)として誕生した。時にAD250年春。
父は、尾張氏第七代当主「建諸隅」(たけもろずみ)。母は、葛城氏の諸見己媛(もろみこひめ)。
実兄に「日本得魂」(やまとえたま)がいる
日本得魂の血脈は後代「継体」の皇子「安閑」「宣化」へと繋がっていく。
〚私論編年 AD237~290年、在位26年 享年54歳〛
『魏志倭人伝』曰く、〝宗女〚臺與〛13歳を建てて王となし国中遂に定まる。政等、檄を以て臺與を告諭す云々〟

巻向の仮宮殿でそれは厳かに口誦(告諭)せられた。曰く、〝国(魏)は汝の後ろ盾にあり。汝は種族をよく束ねよく綏撫(司祭)し、国家鎮護に務めるべし〟と。

張政が倭国滞在中に見たこの国の特異さは、海道を隔てて異民族襲来のなかったことを幸いに、大王位を巡る皇統間の際限ない争いが続き、その間、外国使節朝来にすら満足に対応できず、混迷する先の見えない危うさを抱えたこの国の生末を他事ながら安危していた。だがその混沌としたさ中で唯一光明たるは王権争いに距離を置く新たな司祭王「臺與」の誕生を見たことであり、それは倭人社会がもつ究極の知恵と危機回避の選択であり、奇しくも張政がその役割の一助を与り、皮肉にも遣使本来の主意にあらざれど魏が徳を以て倭へ報じた使者へとその姿を変貌していた。
故に、倭は張政の功績を称えかつ是に如何に応えるべきか!孝元は女王大礼の儀を遡ること茲「軽境原宮」に於いて〝張政ら使節一行の還るを見送るねぎらいの方途〟について国父「建諸隅」ほか族首面々を交えて朝議に諮っていた。
結果、遣使一行を帯方郡まで鄭重に送り届け、且つその足で答礼使を都「洛陽」まで上らせ、魏へ詣るを決断、張政在倭三年に及ぶ倭国大乱鎮定への貢献を魏に対して答謝することとした。
その正使には張政と緊密に連携してきて最も政治的成果を挙げた率善中郎将「和邇日子押人」(掖邪狗)その人を当てることに決した。(梨迹臣こと難升米はこのとき既に鬼籍)。
その規模は、二十余人からなる使節随員と、生口三十名のほか珠玉や異文錦など多数の貢物を添え、倭の威信を懸けた壮挙を裁可した。
孝元は司祭する女王を戴いたがその実態は真ごうことなくこの国を領導していたのである。

ただ、こうしている間にも海道を隔てて朝鮮半島倭地「任那の地」では北方系諸民族(辰族ら難民)の南下によって蚕食が徐々に進み、やがてそれから105年後のAD355年、辰韓六国が連合して新羅が建国(独立)するに及び、倭はこれの対応に仲哀と神功の間で齟齬が生じもたつき、その八年後漸くにして失地回復のためにいわゆる〚神功皇后新羅征伐〛で形容される本邦倭軍による組織的本格的半島出兵が行われるようになるのである。それは歴史的必然であり、倭が一方的に半島を侵略したなどとする真逆な史観は当たらないのである。

[右図は4~5世紀ごろの半島勢力図]



話が反れた、元へ戻す。時にAD250年春、場面は巻向仮宮殿『大礼の儀』































張政が臺與に檄を告諭するに先立つこと国父「建諸隅」は、「天豊姫」の前へ進み出て、邪馬台国女王「日女命」の正当な継承者たるを象徴するシンボリックなレガシー〚金銀錯嵌珠龍文鉄鏡〛を厳かに授け、同時に姫の頭上に女王を象徴する王冠を冠せられ賜うた。これを以て天豊姫は名実ともに倭国を代表する邪馬台国(大和国)に坐ます第二代倭国女王『臺與』となった。
この大礼の儀に臨席した群臣の中で一際注目が集まったのは大彦・彦大日日(※ 1)と大吉備諸進(※ 2)の存在で、各々畏まって昇殿に粛然と控え、孝元もまた垂簾の間に坐ましてこれを総覧していた。並み居る群臣たちはこの場景を眺めて先の女王「日女命」の御宇再来と歓びに沸いた。

国父「建諸隅」は「張政」らが倭を去らんとするこのとき、「孝元」の詔を押し戴いて〝その還るを倭の使者をもって郡まで送らしめ、その長年の労に報いん、加えて台へ詣り答謝す〟この旨遣使一行に説諭した。
時にAD250年春、巻向仮宮殿に於いて。

〝以和為貴〟あの有名な十七条憲法の原点は、それを遡ること354年前のこの「巻向宮」にその精神は宿り、司祭する女王は国を領導する男王の意思を神に聴き且つ神宣し、因って当時の倭人社会の人々を寧撫し同時に人々から尊崇の的となっていた。

(※ 1)
尾張系大王「孝元」の夭折に端を発した王朝交代劇は物部系大王「開化」がこれに取って代わり、邪馬台国女王「臺與」は新たに大王となった彦大日日(開化)の下へ半ば人質婚にも等しい形で真っ先に取り込まれ恭順入妃する運命を辿った。時に臺與(天豊姫)18歳、そして開化の第一子「彦湯産隅」(ひこゆむすび)を生んだ。
この開化の長子は、その血統の高さから世が世であれば皇位継承第一位の資格を備えていた。が しかし、開化は亡き孝元の皇后「伊香色謎」を入内させ開化の第二子となる「崇神」を儲けた。このことによって彦湯産隅は臣籍降下となり、崇神紀10年の「狗奴国」討伐で丹波道からの進攻において功を立て因って勲爵「丹波道主」の称号を賜り、外祖父「建諸隅」の嘗ての支配地「丹波国」へと中央から体よく遠ざけられてしまった。
丹波国における「彦湯産隅」は専ら「丹波道主」と号し、母「臺與」の異母弟で丹波の川上郷(現:久美浜)の地方豪族「川上麻須」の娘「川上麻須郎女」(ますろめ)を娶ってその地に館を構え「日葉酢媛」ら五人の姫君を儲けた。この五人の姫君は、垂仁朝の世になって垂仁の后とその兄による「狭穂彦の乱」が起こり、身ごもっていた皇后「狭穂姫」が焼身自殺するという痛ましい結末に終わった。その死の間際に同皇后の口から後事は「丹波道主」の姫君を迎えられるようわざわざ言い残した。このことで乱に連座した嫌疑が「丹波道主」に及び、為に畏れた丹波道主は五媛を人質同然に差し出し垂仁に降った。その五媛の内、少なくとも一人は垂仁に抗した科で辱めを受けて自害し、今一人は子が産めずに死んだ。父「丹波道主」は親に先立つ娘の死出の旅立ちを嘆き悲しみ、残った後后の「日葉酢媛」も五人の御子を産んだ後早死にした。垂仁の先后を失った荒んだ気持ちが招いた悲劇であった。垂仁はその後、山背の綺戸辺(かにはとべ)ら姉妹を娶っている。綺戸辺は仲哀の母となる両道入姫(ふたじりひめ)を産んだ。

 『古事記』に記されている「丹波道主」は、開化の第三皇子「彦坐」の児としている。ここにおいて「彦坐」(ひこいます)系脈に重大な改竄が仕組まれていることを私は観た。以下、それについて若干この項でも触れておかなければならない。

「彦坐」の母は「和邇日子押人」の娘「姥津媛」(ははつひめ)である。外祖父「和邇日子押人」の母は云わずと知れた女王「日女命」である。そして崇神とは一歳年下の異母弟ということになる。その弟「彦坐」が『古事記』によれば事もあろうに「丹波道主」を児とする。一方で兄「崇神」は「垂仁」を児とする。ならば丹波道主と垂仁は同世代ということになる。その丹波道主は「日葉酢媛」を児とする。垂仁もまた「景行」を児とする。であるなら日葉酢媛は景行と同世代ということになる。景行の御世に日葉酢媛が垂仁の后となるこの矛盾は、その背景に不都合な真実(史実)が潜んでいることを意味し、そのことから目を反らさんがために仕組まれた系譜である!、ということがこのことから透けて見えてくるのである。[別紙-9 その1 ]

同様に彦坐が母の妹である叔母を娶らねばならない宿命的或いは政略的必然性(直接的因果関係)は特に見当たらないがそれは兎も角として、その系脈が突然「三上氏」血脈へと変幻する不気味さに私は思わず震撼する。その震撼する中身とはそも何ぞや?である。
崇神朝に到り、「彦坐」が若狭の「狗奴国」を討伐して凱旋する帰途、その系族近江の「三上氏」反抗の芽を事前に摘んでおくため同氏嫡女「息長水依媛」を人質に取って妃とした。その血脈の四世孫に「息長足媛」即ち『神功皇后』が出現して開化を祖とする「巻向王統」を顛覆させるまでに繋がる。
この秘められた怖ろしい系脈の根っこには三上氏嫡女「息長水依媛」が居て、その怨念と復讐の鬼気迫る呪われた系譜であることの露わとなることを恐れた『古事記』はそれを隠蔽せんがために彦坐と叔母をわざわざ不自然に結びつけた、同時に複雑にして不必要な多くの妃を彦坐にくっ付けて誤魔化し造作した、それが『古事記』に付記された奇っ怪な系譜となって表されているのである。

(※ 2)
備前香登に橋頭保(軍営)を敷いた大吉備諸進は、女王「臺與」大典の儀に漸く間に合い、孝霊の第二子「彦五十狭芹」(ひこいさせり)を伴って大和へ凱旋した。並み居る群臣の中でひときわ際立った存在で女王大礼の場に臨んでいた「彦五十狭芹」(吉備津彦)は、このとき11才。
この「大典」の後、皇子「彦五十狭芹」は孝霊(上皇)の宮室に迎えられ父母体面を果たしている。この時期が孝昭王統の絶頂期であった。大吉備諸進は針間へ帰任するとき彦五十狭(桃太郎伝承)は生みの親より育ての親「大吉備諸進」に懐き共に針間へ還って行った。これが孝霊親子の今生の別れとなった。

※ 「彦五十狭芹」の母は建諸隅の妹「倭国香姫」であり、大王「孝元」(孝元の生母は細媛)とは異母弟となる。つまり、女王「臺與」とは従弟同士で臺與が二つ年上になる。なお、臺與に冠せられた珠玉の数々や異文錦の装束などは全て倭人の手による倭人の工房で作られたものばかりである。
序でに申すなら、約1万3千年前から縄文晩期まで続いた富山県小矢部市の重層する桜町遺跡からは精巧な木組みを用いた高床式建物(約4千年前建築)やその加工材が多量に出土している。このことは当時すでに正確な尺度があったことを意味し、稲作も含めてこれらの文化が半島渡来人によって列島へもたらしたとする従来からの誤った固定観念を覆えすにたる確かな証左となった。(左の写真は、群馬県埋蔵文化財調査センター発掘情報館の資料からお借りして転写掲示しているものです)

                

  2015/5/30日  著作 小川正武



  

2015年4月20日月曜日

孝元天皇「彦クニクル」【巻向王統その5】 第二章       

              
第八代大王 孝元
〚大日本根子彦国牽天皇/おおやまとねこひこくにくるすめらみこと〛
母は細媛(くわしひめ)。后は、伊香色謎。妃に埴安媛。伯父は大吉備諸進。
兄弟に、倭迹迹日百襲姫・彦五十狭芹彦(吉備津彦)・彦狭島・稚武彦(吉備臣の祖)等がいる。
[私論編年 AD230~254年、在位5年、25歳崩御]

時はAD249年。この年、彦クニクル19歳。
「吐帥ヶ原」の合戦後、勅使「張政」が発した〚檄文〛が功を奏し、大王位継承を巡る内乱は、豪族連合による〚共立女王〛樹立に向けた機運が一挙に高まった。「張政」は自ら発した告諭に縛られ直後の帰還は品位に悖ると踏ん張り、この大乱の帰趨を見届けてのち帰朝する構えを見せ、事の顛末をじっと注視していた。

そうした状況下、孝霊は「孝昭」王統の揺るぎない継承の意思を態度で表し、太子「彦クニクル」(19歳)へ譲位することで「彦大日日」へ王権を明け渡すことのない姿勢を断固示し、以て自らは退位(42歳)した。同時に次期女王には讃岐に身を秘す愛娘「百襲姫」(12歳)を立てんと諮り「大彦」を甚く牽制した。だが、大彦(27歳)にとってこの「ネコ彦フト二」(孝霊)専横の策動は受け容れ難く、不満息巻く大彦に対し伯父「欝色男」(54歳)は必死になってこれのなだめ役に回り〝されば、百襲姫に代わる誰が適任か〟と問われれば大彦も答えに窮した。
梨迹臣はこの倭国大乱の渦中にあって独り中庸の人物として衆望厚く、その梨迹臣が欝色男に向かって建諸隅の愛娘「天豊姫」(12歳)を次期女王に推した。天豊姫こそ日女命の宗女であり、この少女を奉ることで相食む大彦と建諸隅 両者の敵愾心を解消させ和解へと導きたい、そう願う私心なき献策であった。同時にそれは豪族連合の収斂した意見でもあり大彦はそれをやむなく受容するのほかなかった。

一方、この間の気になる「大吉備諸進」(44歳)の動静はといえば、諸進は中央の騒乱を睨みながらも眼前の夷敵「温羅の吉備」国との戦いに息が抜けず軍兵を自ら率いて吉井川の手前まで進出していた。 [別紙ー8]

この諸進の動きは武門の司「欝色男」にとっても大変気懸かりな存在で「吐帥ヶ原」の戦いが痛み分けに終わった今、これ以上の事を構えつづけることの不利を冷徹に読んでいた。
この年、「彦クニクル」の妃「埴安媛」は同太子の第一子「武埴安彦」を宿していた。
※ 「温羅の吉備」国は稲作・漁撈・製塩・蹈鞴製鉄等々が盛んで、大吉備諸進(ヤマト朝廷軍)が吉井川へ進出したこの頃は、既に何代目かの覇者「温羅の吉備王」の「楯築墳丘墓」が築造されていて人々は特殊器台を同墳丘墓に据えて同覇者を祭祀していた(「別紙-8」赤い矢印)。 顧みれば魏使「梯儁」來倭(240年)から数えて既に10年からの歳月を費やした倭軍の吉備進出であった。

将軍「大彦」といえども武門の司 物部氏の後ろ盾がなければ単独では到底「孝昭王統」の孝霊には対抗し得ず、物部氏当主「欝色男」は大彦の苦渋に満ちた内諾を取り付けて梨迹臣に対し正式に「天豊姫」を次期女王へ推戴する旨の同意を伝えた。

「和邇日子押人」は梨迹臣からこの報に接するや直ちに「建諸隅」を水主本営に訪ね和睦を取りまとめるべく果敢に動いた。想えば65年前、曽祖父「天忍男」の懸命な働きによって共立女王「日女命」誕生を見た往時の生みの苦しみを今また我が身が担う運命的な巡り合わせに身の引き締まる思いであった。建諸隅は従兄弟の和邇日子押人の働きに深く謝すもなお懸念は姫12歳と若少、為に日女命の男弟「孝安」に倣い同姫の輔弼に「孝元」を当て自らはその後ろ盾となることに同調を求め体制の盤石を図った。

「百襲姫」は孝霊と倭国香媛(建諸隅の妹)との間で授かった娘であり、「天豊姫」は建諸隅の愛娘という関係で両姫は同年齢であった。建諸隅は愛娘の女王擁立を当然視し、孝元朝との微妙なパワーバランスを図った。
欝色男の弟「大綜杵」(42歳)は亡き父「大矢口宿禰」の遺志を継いで吾娘「伊香色謎」(17歳)を太子「彦クニクル」へ納め因って大王家姻戚に加わると共に物部氏安堵を図り且つ「彦クニクル」(孝元)の臣下として改めて恭順の姿勢を示した。

翌年、時はAD250年。
張政は倭国内訌が漸く鎮まり、共立女王「臺与誕生」の合意醸成を見届けるに及んで自らの使命もほぼ完遂したことを覚えた。翻ってみれば正始八年(247)春に郡を発って丸三年、異国の地に来て思いがけなくも目まぐるしい日々の連続を過ごし、この間、寄留地では過不足ない河内青玉繁の篤い接遇を享け、さらに朝廷の太宰の臣「和邇日子押人」との密接な意思疎通と相俟って何処へ行くにも身の安全確保を得て、激動する皇都およびその辺々の地で繰り広げられるドラスチックな場面に度々立会い、過ぎ去ってみればあっと言う間のまるで白昼夢を観ていたかのような三年間であった。

「彦クニクル」(孝元)は、王宮を軽境原(かるのさかいはら)へ遷して即位した。この地は国造「倭氏」の支配地であったが建諸隅の意向が色濃く反映した選地であった。ここへ楔を打ち込むことによって大彦に与力する倭氏を威圧するのに十分であった。倭氏は建諸隅の示威に恐懼した。 (※ 1)
 同時期、女王「臺与」の司祭王たるに相応しい館もこれまた大彦・彦大日日が牙城としていた「巻向」へ移し、同様に大彦・彦大日日をも威圧した。そして文字通り国父となった「建諸隅」は洛陽の規模には及びもつかないが巻向を大きく区画整理し、河川を大改修し、高床式の壮麗な楼閣を建設し、「女王」の坐ます「神の宮殿」造りを目指した。本よりそれは孝元の名によって大号令(勅令)が発せられたものであり、この巻向宮こそ「日女命」の室秋津洲宮を凌ぐ第二の室秋津洲宮たる「国家安寧」「五穀豊穣」「祖先崇拝」を専ら祭祀する「巻向宮」となった。その景観たるや宮室・楼観とも城柵、厳かに設け常に人あり、官婢千人を以て傅かせ、兵を持して守衛せしめた。
後代になって、祭祀を専らとする象徴は伊勢神宮に移り「政と神道」は分離するがその根源はこの「巻向宮」ではなかったか!。この年はその大規模造営が始まった年であった。  

孝元は祭祀を主体(司)する「巻向宮」とは別に「政」を主宰する都「軽境原宮」で政を専ら行い、玖賀国(狗奴国)との争いは内訌によって国が疲弊した分、立て直すことが最優先され玖賀国との戦いは敢えて避けた。大王になった孝元(20歳)は生まれながらの病弱であったが国父の「建諸隅」と大臣の「和邇日子押人」を両翼に据えた重厚な陣容を誇っていた。(※ 2)
孝元は翌年、物部氏との和解の絆に欝色男の弟「大綜杵」の娘「伊香色謎」を迎え入れ、河内氏より身分が上だった同姫を后とした。そして翌々年 伊香色謎との間で「彦太忍信」(ひこふつおしのまこと)を儲けた。

それから五年が過ぎて、、時はAD254年。

あれほど盤石を誇った孝元朝の基盤も鶴翼の臣が崩じた後は、その威光は釣瓶落としのごとく凋落して嘗ての面影はなくなり色褪せたものとなっていた。

この年、国父「建諸隅」は57歳で崩御した。これに失意したか病が急変したか(とかく血統重視で近親婚が重なり血の薄さが虚弱体質に繋がる、そのことがとても気にかかる)知る術もないが「孝元」もまた国父の後を追うかのように逝った。それまで孝元を力強く支えていた「和邇日子押人」もその前年、二度に亘る洛陽遣使の疲労が重なり体力を蝕んだか帰朝一年後(253年)に64歳で亡くなっていた。 孝霊は孝元即位の翌年既に45歳で崩御されていた。こうして時代は非情にも年と共に移り変わり、世代は確実に次世代へと代替わりしていた。
孝元の残された二人の遺児はこの年、第一皇子の「武埴安彦」は4才、第二皇子の「彦太忍真」(※ 3)は2才とまだまだよちよち歩き、倭氏の支配地に都を置く孝元の王宮では取り残された若き后妃たちはその後どのような運命が待ち構えていたのであろうか。

(※ 1)
話を遡ることAD158年、「③安寧」崩御の後、跡目相続に時の大臣「出雲醜」(物部氏)は皇太后「渟名底仲媛」(三輪氏)の意を忖度して皇太子「孝昭」(尾張氏)を差し置いて皇太后の実子「懿徳」を大王の座へ据えた。その時の朝議の司(議長職)であったのが「志麻津見」(倭氏)で、最終的に倭氏は三輪氏王統継承支持へ回りそれがために大勢は決した。これがその後の〚倭国大乱〛の発端となった。

ではなぜ倭氏は三輪氏歴代王統の擁立に与力したのか!その奇縁浅からぬ発端を神武東征時に話を遡らせて語らねばならない。

神武が出雲王朝の脾臓ともいうべき大和盆地南部の一角を衝いて制圧した砌(AD92年)、配下の珍彦(うずひこ)が葛城邑にいち早く侵入して「剣根」の館に身を隠していた事代主(三輪氏祖)の高貴な姫君二姉妹を捕えて神武に捧げて手柄とした。この二姉妹の姉「媛蹈鞴五十鈴姫」は後に神武の后となり「綏靖」を生み、妹「五十鈴依姫」はその綏靖の后となって「安寧」を産んだ。そして安寧もまた二姉妹の実兄「天日方奇日方」(亦名 鴨王)の娘「渟名底仲媛」を后として「懿徳」を生んだ。
夫「安寧」の死によって皇太后となった「渟名底仲媛」(三輪氏)は吾子「懿徳」の擁立を図るのに余念がなかった。倭氏が三輪氏支持に回った底流には斯かる父「珍彦」即ち「椎津根彦」(倭氏祖)による神武と三輪氏を結ぶ重要な架け橋を果たしていたからであった。為に、珍彦は神武に取り立てられ真っ先に倭国造に任ぜられていた。その経緯から以来、倭氏係累は代々三輪氏王統支持を標榜する流れとなっていた。

AD240年(正始元年/魏年号)、時の朝議の司「邇支倍」(倭氏)は、魏使「梯儁」來倭の砌、倭を代表して難波津の迎賓館「難波館」に梯儁一行を出迎え、日女命の宮都「室秋津洲宮」まで同道の道案内をしている。男弟「孝安」がそれを楼門で引き継ぎ勅使を奥宮にいざない日女命に引見せしめた。因みにそのときの「邇支倍」(にしば)とは、魏志倭人伝に出てくる〝女王の都する所・・官に「伊支馬」あり云々〟この「伊支倍」(いしま)こそ邪馬台国の筆頭官にして時の朝議の司「邇支倍」(議長職)その人であった。建諸隅(尾張氏)が倭氏の三輪氏へ寄せる動きを牽制するのは斯かる所以からである。云わば三輪氏にとって皮肉にも嘗ての三輪氏姫君二姉妹を拉致した略奪者今や転じて頼もしき与力となっていた、それが倭氏であった。禍福は糾える縄の如し!


※ 因みに倭氏の歴代宗主が三輪氏に関わった事跡を見ると、

 (初 代)珍彦は、三輪氏の高貴な姫君二人出雲王朝の皇女を葛城で奪い神武に
      献じた功にり、倭国造に任ぜら椎根津彦の名を賜る。
(第二代)志麻津見は、三輪氏王統の「懿徳」擁立に加担したときの筆頭高官・さし
     づめ朝議の司。
(第三代)武速持は、豪族連合による「日女命」(尾張系)共立時の筆頭高官・さし
     づめ朝議の司。
(第四代)邇支倍は、倭国を代表して魏使「梯儁」を難波津に出迎えた当時の筆頭高
     官・朝議の司。
(第五代)飯手宿禰は、孝元朝に臣従した朝議の司で、支配地が割かれてそこに都が
     敷かれた。

(※ 2)
女王『臺與』は天上の人(司祭王)に祀り上げられ、倭国の盟主(宗主)として人々の求心力(シンボル)となった。
片や、男王『孝元』は政治を担う大王として起立した。この二元政治は、皇位を巡る長年の抗争から、それを回避する倭人の巧妙な知恵から生まれた。
当時、世界では類例をみないこうした稀有な仕組みがここでは実現していた。

(※ 3)
孝元の皇位継承者「彦太忍信」は開化の王権簒奪(開化から観れば王権奪還)によって臣戚降下となった。その孫の「武内宿禰」は応神擁立の最大の立役者となり、その族裔からは蘇我稲目・馬子・蝦夷などが現れて時の王朝に比肩する影の大王(国父)となっていた。稲目・馬子・蝦夷の名は何れも蔑称であるがこれとて反蘇我勢力(藤原氏)が科した和風諱号であった。

『記紀』は「誉田別」(ほむたわけ)の父を「仲哀」とする。しかし、その出生には相当の疑義疑惑があり、史実から隠蔽された真の父は「武内宿禰」と観るのがむしろ自然である。即ち「応神」の父は「武内宿禰」である。
そして、この武内宿禰を嫡流とする女性を母に戴くその後の歴代天皇は合計11名に上り、その数は藤原氏の入后数に次ぐ数の多さである。その名を以下にまとめて掲げてみた。

17代 履中 母は、葛城磐之媛(いわのひめ) 祖父は、葛城襲津彦(武内宿禰の息子)
18代 反正   母は、           同上         祖父は、葛城襲津彦        (同上)
19代 允恭 母は、      同上                 祖父は、葛城襲津彦   (同上)
22代 清寧 母は、葛城韓媛(からひめ) 祖父は、葛城円大臣(武内宿禰は祖父)
23代 顕宗   母は、葛城荑媛(はえひめ) 祖父は、葛城蟻臣(履中は顕宗の祖父)
24代 仁賢 母は、          同上                  祖父は、葛城蟻臣   (同上)
31代 用明 母は、葛城堅塩媛(きたしひめ)  祖父は、蘇我稲目(武内宿禰の五世孫)
32代 崇峻 母は、葛城小姉君(おあねのきみ) 祖父は、蘇我稲目    (同上)
33代 推古 母は、葛城堅塩媛  (きたしひめ)          祖父は、蘇我稲目    (同上)
41代 持統 母は、蘇我遠智娘(おちのいらつめ)   祖父は、蘇我倉山田石川麻呂
43代 元明 母は、蘇我姪娘(めいのいらつめ)   祖父は、蘇我倉山田石川麻呂

以上の系譜の流れを総覧するに、第八代大王「孝元」の曾孫であった「武内宿禰」は、巻向王統(孝昭王統から皇位を簒奪して樹立した王統)から皇位を奪い返して河内王統を打ち立てた人物である。
即ち、武内宿禰は河内王統の始祖であった。
第14代天皇の「仲哀」という諡号はまさにそれを暗示している


2015/4/20日  著作者 小川正武  

2015年3月1日日曜日

正使 「難升米」 【巻向王統 その4】 第二章


魏が正始六年(245年)に郡に付して倭国へ向けた詔書とは一体どういう内容であったか!。言い換えれば正始八年に「張政」が齎した正始六年当時の郡に留め置かれていた詔書の中味がどういうものであったか、魏志倭人伝にはそれが一言も記されていない。
類推するに景初二年(238年)の魏の「明帝」詔書が参考になる。曰く〝国家(魏)が汝(親魏倭王)の後ろ盾にいることを国中に知らしめよ、そのために汝に好物(権威を象徴する宝物多数)を鄭重に贈らしめるのである〟と標す。この詔書が標すところの〚親魏倭王〛とは、そもそも倭が魏に冊封された訳でもなければ君臣関係に倭が自ら遜った訳でもない、むしろこの場合の主意は兄(魏)が弟(倭)を労り弟が兄を敬う国家レベルの「化外慕礼」の関係、つまり友邦を契る〚遠夷の客〛であった。ところが正始六年の詔書はそれを逸脱していた。その背景には郡太守「弓遵」が戦死するほどの過激な辰韓暴動が起こり、それを鎮圧するため率善中郎将「難升米」(儀礼官位)に向けた出兵要請を督促してきたからだ。これが正始八年に「張政」が倭国へ齎した詔書の中味であった。
魏の支配下にない倭がこの魏のイレギュラー(互いの思惑違い)に直ちに呼応する態勢にはなかった。そして同騒乱は幸いにも二郡によってほどなく鎮圧された。だが魏は郡に南接する倭地の狗耶地方から倭がなぜ郡を助太刀しに駆けつけなかったのか?!、その真意を確かめるため魏は倭へ遣いを急がせた。 「親魏倭王」を差し置いた倭王臣下の「難升米」を直接名指しするこの魏の越権行為は果たしてまともな外交使節であったか?、少帝「曹芳」の後見役「曹爽」と「司馬懿」双頭執政の確執がこうした混乱と勇み足(殊に難升米による第一次戦中遣使が強烈なインパクトを魏に与えていた!)を招いた原因ではなかったか!。この異常さが「張政」來倭在三年に垂んとする遣使目的の蹉跌と長期滞留に繋がった。 (※ 1)
(倭国は中国の周辺国と違ってただの一度たりとも中国及びその周辺国から征服されたことはない。その倭が何をすき好んで中国の冊封国たるを甘んじるや。倭は常に中国の冊封体制の外に在って交易を通じた友邦国たらんとして倭独自のペースで朝貢していた。これはなにも聖徳太子が遣わした「遣隋使」をもちだすまでもないことである。)

梅雨月の晴れ間(248年)、魏使「張政」は磯城の朝堂において群臣居並ぶ中、正装して臨み、率善中郎将「難升米」に対し、魏の皇帝から齎された「詔書・黄幢」の伝授式「拝仮之儀」を挙行した。併せて「張政」自身 独自に作った檄文もそのとき声高らかに読み上げられた。曰く〝余は汝の後ろ盾に在り、その証しとして皇帝の旗印(軍旗)を汝に授ける。汝の敵は外にあり、内なる諍いを収めよ、諍いを収めるに前大王の善き先例あり、疾く照らしむべし〟と。
これを周到にお膳立てしたのが他ならぬ今は亡き女王「日女命」の皇子「和邇日子押人」(第二次副使/率善中郎将)その人であった。
「建諸隅」も「大彦」も吐帥ヶ原で共に対陣していてここにはいない、物部の宗主「欝色男」は父「大矢口宿禰」葬送の直後とあって「彦大日日」と共に登美に居て参列できていない。その他の諸豪族、葛城氏・三輪氏・和邇氏・倭氏・中臣氏・紀氏・河内氏・大伴氏・忌部氏・・等々畿内の主だった群臣たちはみな列席して息を殺してこれを見守り、孝霊は玉座に坐まして垂簾を隔ててこの場景を静かに見守っていた。
(※ 上図は、張政の奉遣「拝仮之儀」)

難升米こと中臣氏の「梨迹臣」(なしとみ) 
第一次魏朝遣使(当時48歳)の正使を務める。
時に、景初二年(AD238年)。 
爵位/率善中郎将。
[私論編年 AD191~250年。享年60歳]
中臣氏系図/①天児屋根⇒➁天押雲⇒③天種子(神武東征に付き随う)⇒➃宇佐津臣⇒⑤大御気津臣⇒⑥伊香津臣⇒⑦梨迹臣(天児屋根の六世孫)

梨迹臣は三上氏の「冨炊屋媛」を娶っていた。その三上氏係累が若狭の海部氏こと玖賀国王(狗奴国男王)という関係であった。

嘗て正使「難升米」を輔佐して朝貢副使(都市牛利)を務めていたのが今まさに吐帥ヶ原で布陣する孝霊朝の総帥「建諸隅」であった。その建諸隅は同時に狗奴国を背にして大彦軍と戦っている最中でもあった。もし三上氏が孝霊朝に背けば忽ち建諸隅軍は南北から挟撃される危うさを抱えていた。この弱点を補うべく建諸隅は息子「日本得魂」(18歳)を山背の水主本営に据えて若狭の狗奴国と淡海の三上氏へ睨みを利かせていた。

過ぐる十年前、難升米は倭の共立女王「卑弥呼」の勅使として、偶然にも魏と公孫氏が遼東で交戦状態に突入している真っ只中をこれに怯むことなく堂々戦中遣使(正使)をやってのけた剛毅な朝貢使であった。これを企図したのは卑弥呼の男弟「孝安」であった。孝安は豪族連合に諮り、その総意を背景に決断し、卑弥呼が最終承認(司祭)を下し、国を挙げての壮挙となった。
洛陽に至る魏の領域は恐ろしく広大で各地には駅伝が敷かれ行き交う人馬は夥しく、共立女王が支配する倭の緩やかな支配体制に比し、一極集中した皇帝権力の絶大さと巨大な文明に遣使らは只々目を見張るばかりであった。
副使「都市牛利」は軍師的立場から正使「難升米」を傍らからよく輔佐した。卑弥呼の勅使「難升米」より身分が遥かに高かった「都市牛利」は、使節全体をコーディネートする統括責任者を兼帯していた。この一行は、朝貢外交という名の交易に止まらない多くのものを収穫して帰朝した。
(※ この使節が倭国へ齎したその後の影響は、孫世代に当たる崇神によるそれまでの共立女王が支配する司祭体制から脱却、政治・軍事体制強化のために中央集権化を断行する萌芽の芽を宿した。)
今、難升米は往時とは立場が代わり、都「磯城」の王宮に在って魏の勅使を迎え入れて、倭を代表する祝典〚詔書・黄幢拝仮之儀〛主賓として厳かに応対していた。

そうした立場に身を置く難升米が何が不足で「都市牛利」(建諸隅)に敵対することがあろうか!。難升米は漢風装束に身を正して魏皇帝の意を介した〚張政の檄文〛を直接拝授しつつ、その今日在る身の今は亡き男弟「孝安」と女王「日女命」の恩寵を深く噛みしめていた。ヤマト王権の居並ぶ群臣たちは張政の発した告諭の内容を理解するや一瞬閃光の如き戦慄が朝堂を走り、うめきにも似た声にならない雄叫びが「オォーッ」とどよめいて忽ち元の静寂に戻り、辺りを見渡せばみな一様に感涙している様で、面々この場景を深く心に刻んでいた。これを静かに見詰めていた孝霊は自身何を思っていたことであろうか!。


梨迹臣の父は中臣の「伊賀津臣」で近江湖北の豪族であった。梨迹臣は孝霊の王宮で祝典[拝仮之儀]の大任を果たした後二年を待たずして「張政」らの還るを見送ることなく先に逝った。男子の本懐を全うした波瀾万丈の60歳であった。

(※ 1)
二郡による辰韓鎮圧の結果、その反動から三韓の多くの亡民たちが魏の圧制から逃れて倭地である半島南部の狗耶韓国(後の伽耶 亦の名 任那)へ逃避してきた。半島の窓口「一大率」はこの流れに抗しきれず新たな脅威の対応に追われた。九州北部の環濠集落がそれまでにも増して濠を重ねて城郭化したのはほぼこの時期と時期をいつにする。そして狗耶韓国へ流れ込んできた人々を在地の倭人たちも阻止しきれず次第にそれら三韓の人々とも融合していった。
後代、「神功三韓征伐」に象徴される倭兵の半島出兵は、この倭地蚕食によって新しく興った倭国にとってなんの正当性もない化外族長(王)の排除と失地回復にあったことは云うまでもない。その後、化外族長らは相次いで倭国へ朝貢してきている。また倭は倭で、「倭の五王」から欽明朝にかけてヤマト王権傘下の全国に散らばった各地の豪族(地祇)苗裔たちが、その時々の倭王の勅命を奉じて半島へ渡り夫々が国際的に活躍し或は逆賊となった族長らを討伐して還ってきている。 5~6世紀にかけて各地の前方後円墳にそれまでの三角縁神獣鏡に代わって金銅冠や環頭太刀が収められているのはこうした臣下(地祇)の功績を或は事跡を、歴代大王が個々に称えて顕彰していたことを如実に物語る。
〝昔より祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。〟とする雄略上表文は、倭国が朝鮮半島を領有していたことの証しであり、正にこのことは嘗ての〚環古代倭地圏〛のDNAが呼び覚ます各時代を背景にした已むに已まれぬヤマト王権の焦りにも似た半島奪還を目指した一断面の出来事であったに過ぎず、その半島での硬軟入り混じった統治の数々も天智天皇二年(AD663年)の唐・新羅連合軍を相手とする「白村江の戦い」で大敗を喫した後、遂にそれまでの半島牙城から倭は手を引いた。
やがて倭は国号を「日本」と改め、国のかたちとして律令体制に専ら力を注ぎ内なる足元を固めた。
日本古代史において欠史八代と云われた大王たちは大和の国(邪馬台の国)に確実に実在していた。そしてこの国の有史はそこから始まっていたのである


2015/3/1  著作者 小川正武   

    


2015年2月6日金曜日

大丹波王 由碁理」【巻向王統 その3】第二章


由碁理 
大丹波王「由碁理」(ゆごり)は、大和尾張邑を本拠地とする尾張氏第七代当主「建諸隅」(たけもろずみ)である。 父「建田背」は大丹波の領袖でその妹が宇那比姫こと「日女命」である。

従って、「建諸隅」は邪馬台国女王「日女命」の甥にあたり、同時に景初二年(AD238年)魏へ朝貢した副使「都市牛利」当時40歳その人である。
【私論編年 AD198~254年、57歳薨去】

因みに尾張氏始祖は「大国主命」の第二皇子「味耜高彦根」であり、「建諸隅」の愛娘は「天豊姫」と称されて魏志倭人伝に登場してくる邪馬台国女王「臺与」(トヨ)その人である。
               

〝塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりこれを告諭す。卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更に相誅殺し、当時千余人を殺す。云々〟  『魏志倭人伝』 抜粋

時は、AD248年央。
昨秋、魏の「張政」が來倭。張政は來倭したものの遣使目的が果たせぬまま「孝霊」治世下、在地豪族「河内青玉繁」の接遇を受けながら難波館に踏みとどまっていた。そして恐れていたことが遂に起こった。それは「日女命」殯の最中にもかかわらず「大彦・彦大日日」兄弟が兵を起こして孝霊の宮都を包囲したからだ。そして彼らが掲げる大義とは〝尾張氏系(孝昭)王統の孝霊は女王「日女命」が崩じた後はそれを輔佐する世襲権は既になくいまや傀儡であること、大王位に復帰すべき真の継承者は三輪氏系(懿徳の曾孫)王統の裔たる吾らにこそ正義在り〟というもので積年の鬱積した不満が孝霊退位を迫る露骨な軍事行動となって現れた。これを後押ししたのが物部氏と倭氏で、対する和邇氏と葛城氏は手薄になっていた磯城の「庵戸宮」(いおとのみや) に兵を出して王宮を十重二十重と固めてこれに備え、厳しく対応していた。〚別紙-7〛
当時、尾張氏当主「建諸隅」(50歳)は、都を離れて山背の水主に本営を置き玖賀国(狗奴国)に対峙していた。一方、淡海の豪族「三上氏」は玖賀国の「海部氏」とは傍系で且つ又「物部氏」とも代々通婚を重ねて親密な関係を維持していた。それゆえに「尾張氏」の建諸隅は玖賀国と対峙する反面、野洲の「三上氏」向背にも警戒しその分中央への影響力が削がれていた。この力の不均衡を埋めるために孝霊朝から期待されていたのが播磨の地を収めていた孝霊の兄「大吉備諸進」の來援であった。がしかし大吉備諸進もまた「温羅の吉備」王と千種川を挟んで攻防を繰り返しており直ちに反転して緊迫する畿内へ駆けつける余力はなかった。
「温羅の吉備」王は江南の呉と通じ、その先進文化を取り入れて独自に発展し、倭を奉ろわぬ国として狗奴国同様 邪馬台国と敵対関係にあった。(※ 1)

河内国の領袖「河内青玉繁」は、愛娘「埴安媛」を「孝霊」の皇太子「彦国牽」(ヒコクニクル) の妃に納めることに成功(日女命を服喪して翌年に婚儀)し、王統内訌で揺れる孝霊朝に忠誠を誓った。倭国を構成する他の部族長は旗幟を鮮明にせずこの成り行きをおどろおどろしく見守っていた。

将軍「大彦」率いる軍勢が磯城の都を攻めあぐねていたころ、「建諸隅」は本営水主から大軍を率いて南下、孝霊の王宮を目指して動き出した。これを察知した大彦の主力は物部軍と合流して北上、木津の吐帥 (はぜ)ヶ原の手前で布陣した。建諸隅軍は梅雨寒い払暁、木津川を渡河、朝靄を衝いて大彦軍へ勇躍突進し瞬く間に両軍の間で夥しい死傷者が出た。だが数刻が過ぎても戦いに決着がつかず両軍とも次第に後方へ退き、再び河を挟んで対峙するも、やがて動きが止まって膠着した。(※ 当時の邪馬台国の戸数七万戸は老若男女少なく見積もっても凡そ35万人の人口規模 曰く、国の大人は皆四・五婦、下戸も或は二・三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、淨訟少なし‥租賦を収む。邸閣有り、市有り有無を交易す、云々 【魏志倭人伝】    〚写真上は木津の湿地帯、吐帥ヶ原〛
          (尾張氏第七代当主「建諸隅」)

この戦いを観戦する外国武官がいた。云うまでもなく「張政」である。張政は文官であるというより元を糺せば郡境の守備隊長であった。張政が來倭して早やくも一年近くが経過、今は亡き「日女命」の子息「和邇日子押人」の庇護の下、この戦いを静かに遠望していた。そして夥しい屍が河原に累々と横たわる中、軍官の眼差しでこの事態収拾に思いを巡らせていた。
素より彼の遣わされた本分(法)から彼がそれを逸脱することは許されず、その中で彼が如何に為せば魏の皇帝の徳(礼)を発揮し得る行為に繋がるか!を探っていた。成果なき倭からの帰還は皇帝の威厳と体面を著しく汚し、化外慕礼する倭国との友邦関係にもヒビが入りかねない、そのことを張政は腐心していた。
張政は「温羅の吉備」王が呉と通じていることを掴んでいた。それは中国事情に精通する率善中郎将「和邇日子押人」から直接聞かされていたこともあったが同時に、在一年の独自諜報から得た確信でもあった。当然「温羅の吉備」王が倭の敵であることは魏にとっても敵であることに変わりなく、二方面に敵を抱える倭が大王位を巡って内紛している様は魏にとっても大変由々しい事態で、その時局収拾に向けた策を張政自身 遣使の立場をむわきまえた上で模索していた。

※ 張政は帯方郡の一官吏に過ぎず皇帝直属の勅使ではない。張政は使節一行を取り仕切る統括責任者であった筈だ(勅使といえどもその管轄下にあった)。だが当該勅使の名は魏志倭人伝のどこにも標されていない。故に私は便宜上「張政」を勅使に仮託している。この註は前項にも重複記載した。

「大彦」の外祖父「大矢口宿禰」は吐帥の戦局に思いを馳せながら76歳の天寿を全うした。同宿禰は自らの寿命を悟ったとき、息子たちを枕元に呼び〝我ら氏族は建国以来、三輪氏・尾張氏の後塵を拝してきたが吾が始祖こそ原大和の国主(長髄彦)に繋がる由緒ある血筋であること。初代神武から専ら武門の司を担ってきた栄誉ある世襲家であること。今次の内訌がたとえどちらに傾こうとも物部氏が爾後ともに存立していくために三輪氏・尾張氏に伍して皇家姻族に列し、両王家を凌駕しなくてはならないこと〟この悲願を託して逝った。
大彦の伯父「欝色男」は登美に在って物部氏第六代宗主を踏襲、その弟「大綜杵」は大彦に随従して戦場に臨んでいた。
大彦の同母弟「彦大日日」(後の開化天皇)は母「欝色謎」と共に登美の地に匿われていた。(※ 2)

張政は「吐帥の戦い」で損耗甚だしい両軍の惨状を見て、再度の合戦は当面遠のいたと察知。尚且つ旗幟を鮮明にしている「和邇氏」と「河内氏」の軍兵が無傷で中央に控えている情勢は明らかに孝霊朝に分があると判断した。

軍官出身の張政はこの力学的軍事情勢の節目を決して見逃さなかった。両軍の均衡が孝霊朝に優位に傾いた瞬間を捉えて張政の動きは素早く且つ能動的で大胆であった。その能動的で大胆な行動とはそも一体何を指すのであったか!?

AD250年、建諸隅は娘「天豊姫」が二代目「邪馬台国女王」に推戴された後、文字通り国父の威厳をもって倭国豪族連合の頂点に君臨した。同年夏、過去三年に亘る遣使「張政」が果たした倭国滞在中の貢献に対し、女王「臺与」の名において国を挙げて張政送別を壮挙した。
魏志倭人伝曰く、〝臺与、倭の大夫 率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。〟と
この大任を仰せつかったのは和邇日子押人その人であり、張政一行を郡治まで送り届け、更に魏の帝都「洛陽」にまで足を延ばして朝貢した。(※ 3)
国父「建諸隅」はその四年後に崩じた、享年57歳。

(※ 1)
「温羅の吉備」とは、私に確証があるわけではないがその祖先は紀元前に秦の圧政から逃れた徐福王が徐族全体を率いて蓬莱の地を目指して東渡した際、船団が潮に流され分散していったその一部が命辛々吉備に辿り着いた、辿り着いた人々は在地の人々と混じり合ってその中から王を立てた。 そうした人々ではなかったか!。吉備(山陽)の人々のDNA鑑定結果では江南の人々の Y染色体が30%余を占めているとか!この「王」は独立性が高く倭に服属することを由とせず抵抗した。ここに孝昭期(孝霊の祖父)以降 邪馬台国は「温羅の吉備」王征伐に乗り出していくことになるが長年に亘って手を焼く相手となった。同時代、既に「温羅の吉備」国は江南と交易を通じて文化的に鉄製農耕器具すら自前で生産していた節があり、また支配層が亡くなれば墳丘墓に独特の特殊器台を立てて、その器台に壺土器を据えて供物を添えお祭りしていた様子さえ覗えた。(上の参考写真は岡山の特殊器台)

(※ 2)
「欝色男」(うつしこお)が物部氏第六代宗主であることの初代からの嫡宗の流れを以下に示した。
①宇摩志麻治--②彦湯支--③大禰--➃出石心--⑤大矢口宿禰--⑥欝色男
因みに初代 宇摩志麻治の父は「大国主命」、母は「御炊屋媛」(ミカシキヤヒメ)、御炊屋媛の兄は神武と戦った原大和の国主「長髄彦」(ナガスネヒコ)。

一方、「建諸隅」(たけもろずみ)が尾張氏第七代宗主であることの初代からの嫡宗の流れを合わせて以下に示した。

①味耜高彦根--②天村雲--③天忍人--➃天戸目--⑤建斗米--⑥建田背--⑦建諸隅
因みに初代 味耜高彦根の父は「大国主命」で異母弟が宇摩志麻治である。加えて、三輪氏始祖「事代主」は父を同じくする味耜高彦根の兄にあたる。この大王位継承を巡る各王家後裔の争いは元を手繰れば皆「大国主命」(出雲王朝最後の大王)に辿り着く同根なのである。

(※ 3)
倭が朝貢する際、生口献上という他に例を見ない特異な慣習がつづく。帥升がAD107年に後漢へ朝貢した際も生口160人という一団を献上している。この時期は神武が大和盆地南部を制圧していた時期と重なる。が、しかし当時はまだ神武が倭国を統一していたわけではない。むしろこの時期は畿内諸豪族と緊張関係にあって武力によって制覇することの限界に深刻に直面し、それに代わる一大デモンストレーションとして後漢の権威を背景に帰服せしめんとする東遷勢力の企図が働き、原郷筑紫ヒムカの奴国大夫「天押雲」(帥升)たちに戦略的朝貢が発動され、それが挙行されたものであった。そのとき後漢「安帝」から下賜された「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が邪馬台国の権威を高める神器となった。このシンボリックな鏡は女王の呪術的政権と共に崇神の手によって葬り去られ大和の地から忽然と消え失せて帥升の末裔が住む原郷へと潜に還って行った。
〚第一章 邪馬台国 その八〛から抜粋。 (写真は同鏡の断片)

AD250年、掖邪狗が生口30人を朝貢の折 献上している。ここに生口の慣習を通して「帥升」と「和邇日子押人」が各々連環していることが解る。このことから倭国王「帥升」は奴国の大夫「天押雲」であり、帥升の父がAD57年の漢委奴国王の印綬にある大夫「天児屋根」(遠祖中臣氏)で、「難升米」(梨迹臣)と伊聲耆(伊世理)が共々魏に正使として遣いした名門「中臣氏」であることから歴代中臣氏は遣使朝貢の正使を務める専権的家柄或は司であったことがここから透けて見えてくるのである。


2015/2/6日  著作者  小川正武


2015年1月1日木曜日

塞曹掾史 「張政」 【巻向王統 その2】 第二章

           

帯方郡太守「王頎」(キ)は塞曹掾史(さいそうえんし)「張政」を倭へ遣わし、因って詔書・黄幢を「難升米」に拝仮せしめ、檄をつくりこれを告諭した。時に正始八年(AD247年)〚魏志倭人伝〛の一節、

その前年、倭は郡へ遣いを使わし正治六年遣使が実行に到らなかった状を説明した。これを遣わした人物は、孝霊の叔父で時の政治権力の中枢にいた女王卑弥呼の息子にして魏の率善中郎将の肩書をもつ大夫「掖邪狗」その人であった。〝倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯・烏越等らを遣わし郡へ詣り、相攻撃する状を説く・・〟これを遣わした真の執権者は正にこの稚押彦こと女王日女命の息子「和邇日子押人」(57歳)その人であり、この人物を置いて他にはいない。

魏は「親魏倭王」が遣わした弁明使の報に接するや倭へのその後の動きは迅速であった、それはなぜか?。
半島で諸韓が再三魏に反抗する中、東南大海の倭との連携はそれゆえに戦略的価値が高く藩屏たるを期待した。・・であるにも拘らず先の半島二郡の非常時に倭が全く動かずその期待が見事に外れた。倭は倭で、倭が動けなかった尤もな理由として狗奴国との相攻撃の状を掲げて言い訳とした。
魏は、その真偽を確かめるため張政を倭へ急派させたのである。

遼東の高句麗軍を「王頎」将軍が南から、「毌丘倹」将軍が北から挟撃してこれを撃退した。その戦功によって王頎は「弓遵」亡き後を継いで帯方郡太守に親任された。倭の弁明使が詣郡したのはその王頎が着任した時期とほぼ重なる。
「王頎」は皇帝の勅許を仰ぐべく直ちに官都へ上り倭の状を報告、「曹芳小帝」の執政「曹爽」は、皇帝の名において二年前 郡に留め置かれていた「詔書・黄幢」を改めて王頎に付し、遣倭を裁可。郡治へ戻った王頎は直ちに塞曹掾史「張政」に託して倭へ遣わした。

この「張政」(38歳)の使命は邪馬台国へ到着してからその性質が大きく変遷した。即ち・・・、
張政ら一行は、先の魏使「梯儁」同様、難波津の内湾に南接する邸閣 難波館(なにはのむつみ/外交官舎) に投じて在地豪族「河内氏」の歓待を受けた。時に正始八年秋。(※ 1)
率善中郎将「難升米」こと中臣の「梨迹臣」(56歳)は、その報に接するやいち早く磯城の都から駆けつけて來使一行をもてなしその労をねぎらった。張政は、真っ先に女王「卑弥呼」(日女命)を室秋津洲宮へ表敬したい旨強く望んだ。しかし同女王は既に病に伏して久しく今日明日をも知れぬ重篤の身であった為、張政はこれを断念する仕儀となり卑弥呼引見の栄誉を永遠に失った。そして同女王の皇子「根子彦太瓊」(孝霊) が磯城に遷都して政を執っていることを改めて知った。

張政來倭を遡ること九年前、倭は「難升米」を正使とする遣使朝貢を壮挙した。それが偶然にも戦中遣使であったため魏の明帝曹叡は悦し、大夫「難升米」に一軍の将たる「率善中郎将」の位階を与え魏の藩屏としてこれを組み込んだ。次いで二年後、「梯儁」が來倭して卑弥呼へ「親魏倭王」の印綬を齎し魏の同盟国にこれまた組みこんだ。その梯儁は半島から渡海途上「伊都国」に寄留してそこが近隣諸国が畏憚する倭の副都であり一大軍事拠点であることを突止め、〝半島で一朝有事があればこの倭の軍事支援が大いに期待できる〟ものと踏んで本国魏へその旨帰朝報告を行っていた。

「張政」が倭へ齎したそも「詔書・黄幢」とは、二年前の正始六年当時の半島騒乱状態をそのままに、その主意はそれを反映して率善中郎将に対し辰韓攻撃への指揮権授与と出兵督促であった。決して倭使「載斯・烏越」が説く「狗奴国」へ向けた倭国支援を謳った内容ではなかった。ここに魏と倭の齟齬が生じ、その思惑違いが内在したまま魏使「張政」の今次來倭となっていた。

「張政」來倭の最大のイベントは云うまでもなく率善中郎将「難升米」へ授ける詔書・黄幢拝仮の儀であり、倭は朝野を挙げて歓迎し直ぐにも式典を開催してくれるものと思っていた。倭は倭で〝魏による狗奴国へ向けた倭国支援の強烈な示威表明〟を謳い奉ろわぬ国への威圧喧伝を為すべく急遽倭へ使いを遣わしてくれたものと思い込んでいた。

ところが豈図らんや蓋を開けてみれば双方ともに大きく当てが外れて状況が一変した。即ち、邪馬台国では孝霊朝の宮都「磯城」と懿徳の後裔が本拠地とする「巻向」が互いに王統の正当性を掲げて鋭く対立、皇位争乱の様相を呈しておりその張りつめた緊迫感からとても華やいだ式典が挙行できる環境ではなかった。片や、魏使「張政」の奉遣目的が「親魏倭王」を差し置いた倭国臣下の「難升米」であることに倭は訝り怪しみ、しかもその詔書・黄幢が必ずしも「狗奴国対応」 に向けられたものでないことへの違和感に一層困惑し、その外交的扱いに苦慮して慶賀すべき筈の祝典は全く目途が立たないまま行事は頓挫してしまった。

糅てて加えて難波館で待機していた張政の下へ女王「卑弥呼」崩御の知らせが届き、しかもその驚きは更に君臣の上下関係にも及び、副使「都市牛利」や「掖邪狗」が正使「難升米」や「伊聲耆」に上位する時の支配者であったことを間もなく目の当たりにするのである。(※ 2)

〝卑弥呼以て死す〟「日女命」は室秋津洲宮で伏して七年、77歳の生涯を静かに閉じた。日女命が病めるその間、日女命の孫「孝霊」が事実上の譲位を承けて践祚、都を磯城に移して早や数年が過ぎていた。日女命歿して後、殯(もがり)は一年余つづきその後 遺骸は夫や男弟「孝安」が埋葬されている聖なる山丘、玉手丘(たまてのおか)に篤く葬られた。(※ 3)

掖邪狗こと「和邇日子押人」は都「磯城」に在って甥「孝霊」の後ろ盾となっていた。和邇日子押人の従兄弟「建諸隅」(都市牛利)は山城の水主邑に本営を置き、玖賀国(狗奴国)と対峙していた。一方、孝霊と対立する「大彦・彦大日日」兄弟は物部の「大矢口宿禰」を外祖父にもち、巻向から磐余に跨る大和盆地東南部を根城に国造「倭氏」の積極的な庇護の下、とくに「日女命」が崩じた後は大義名分を失った孝霊に対し、懿徳後裔の若き皇子たちは皇位奪還の抑えがたい衝動にかられてその血気は沸点にまで達していた。ここに尾張氏・葛城氏VS物部氏・倭氏の豪族間同士の亀裂が深まり一触即発の緊張を孕ませていた。 (※ 〝掖邪狗〟ワキヤクは和邇日子押人の音韻ワニヒコを漢人が転化して書き留めたもの。)


「天津彦根 裔」三上氏系譜と『旧事本紀』との間で物部氏の「大矢口宿禰」を巡って大きな相違が観られる。ために伝承考古学においてもこんにち相当混乱を来している。そこで私なりに異なる視点から、その存在を以下のごとく浮き彫りにした。
上図 [別紙-5]〚私論 大王と物部氏の関係図を表す。 

先ず『旧』「天孫本紀」では、ウマシマチ(物部氏祖)の子がヒコユキで、ヒコユキの児がイズモシコと異母弟のイズシココロを標す。「大矢口宿禰」はそのイズシココロを父に冠し、ウツシコオ・ウツシコメ・オオヘソキを儲けている。
ところが『三上氏』系譜 [別紙-6] においては父が異なりヒコユキの子が大禰で大禰の児がイズモシコとイズシココロとなる。だが両系譜とも共通して〝「出雲醜」が懿徳朝(期)の大臣〟であり、〝「出石心」が孝昭朝(期)の大臣〟ということで互いに両者で相違はない。だが「内色許雄」「内色許謎」「大綜杵」「大峯大尼」の父が誰であるのかで両系譜は異なる。ではそのことで伝承考古学において何が問題で何に混乱しているのであろうか・・?。
その答えを出す前に、まず大王治世の期間(年代区分)とそれに対応する物部氏歴代宗主各々の年代とが互いに合致しているかどうか綿密に精査することから始めなければこのことはなにも理解できない。
「内(欝)色許雄」は云うまでもなく孝元の大臣である。その妹「内(欝)色許謎」は⑩崇神にとっては祖母に当たり、崇神はこの祖母のことを尊んで太皇太后の称号を賜り寿ぐのである。さらに内色許謎の異母弟にあたる「大綜杵」もまたその娘「伊香色謎」を開化に入后させ「崇神」の外祖父となり、自身も開化朝(期)の大臣に列するのである。
・・ つまり 「出石心」 の活躍した⑤孝昭の時代 (AD180年代) から出石心の子らは⑥「孝安」治世60年間を一挙に飛び越えてその主たる活躍の場を⑨開化の時代 (AD260年代前後) へ移っているのである。即ち「三上氏」系譜ではこの間の一世代が完全に抜け落ちている。この故意に削除された一世代の空白期間にいったい何が起こっていたのか、そこにこそ真実が潜んでいるのではないか!

然らば、この孝昭から開化へと繋がる物部氏を中継ぎした長期安定政権孝安朝を埋める物部氏の嫡宗(首長)はいったい誰か !  しかもこの人物は好むと好まざるとに関わらず時の皇位抗争に深く関わり、開化の王統回天〚嫡統王家の交代〛への過程を布石しはしなくも短命で終わった尾張系大王「孝元」につづく新たな物部系大王誕生の礎石ともなった孝霊朝(期)における物部氏の重鎮である。
日本古代史に今以て埋もれたまま誰もそのことに気付いていないこの巨大な人物は、さしずめ8世紀初頭に絶大な権力を誇った「藤原不比等」にも匹敵する。しかも不比等はこの人物を意識して 日本紀 編纂に恣意的に深く関わっていた節さえ窺える。その恣意とは、乙巳の変で蘇我蝦夷 (大臣) がそれまでの天皇記や上古歴史書を焼却したことでそれを勿怪の幸いに不都合な真実や系譜の改竄をこのとき大胆にも断行したことを指す。これを詳しく語る紙面は茲にはない。

その名を挙げるのに『旧』「天孫本紀」はなんの蟠りもなく「大矢口宿禰」の名を標している。ところが肝心かなめの『記紀』や「三上氏」系譜ではその名が見当たらない。これはいったいどうした訳であろうか!?。

淡海(近江)の名門「三上氏」は若狭の本宗家「海部氏」の傍流であり、その「海部氏」が崇神朝によって滅ぼされて以後、「三上氏」は巻向王統(開化を祖とする王朝)に対してひたすら恐懼恭順の姿勢を貫き通し大彦の脅威からも免れて生き延びることができた。
物部氏嫡宗らは綏靖から孝昭までは近江へ積極進出し、淡海湖南野洲地方の支配者「三上氏」とも政略的に通婚を重ねていた。ところが〝倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず〟男弟「孝安朝」(期)の軍事の司であった物部氏当主は三上氏向背の懸念と混沌から同氏との通婚を一時絶った。為に、孝安朝期における三上氏系譜に物部氏との系脈がないのはそのためであった。

では『旧』物部氏系譜ではその間、三上氏との関係をどのように扱ったのであろうか。その繋がりを観るに、孝安朝期における大矢口宿禰の妻は三上氏の「坂戸由良都媛」 (さかとゆらとひめ) と記す。しかしこの媛は孝安期の人ではなくその先代 孝昭期の人であり、三上氏系譜に記されている「出石心」の妻であることに蓋然性をもつ。ならば大矢口宿禰の妻が同媛でないというならいったい誰が大矢口宿禰の妻であったのであろうか?。またどうして大矢口宿禰はその妻の名を隠さなければならなかったのであろうか?正史を編纂する上で不都合な真実がここにも潜んでいるのである。

『旧』「天孫本紀」では大矢口宿禰は妻「坂戸由良都媛」との間に「鬱色男」「鬱色謎」「大綜杵」「大峯大尼」の四子を儲けたと標すが、諄いようであるが「坂戸由良都媛」は大矢口宿禰の父「出石心」の妻であるから当然のこと大矢口宿禰の兒の生母ではない。私に確証はないが物部氏の当主「大矢口宿禰」の妻は「日女命」の異母姉「葛木高田姫」ではないかと思っている。同姫は同時に尾張氏当主「建田背」の異母妹でもあり、宇那比姫こと尊称「邪馬台国女王日女命」は改めて云うまでもなく建田背の同母妹という関係にある。「建田背」は「大矢口宿禰」より年長であったが大差はなく「葛木高田姫 」が物部氏当主「大矢口宿禰」の妻であることにその血統の高貴なことから何ら不自然はない。 
(※  [別紙-6] に掲げる大矢口宿禰の系譜箇所は「天璽瑞宝」から抜粋転用している。)

(※ 建田背の同母兄弟は七人で出生順に、建宇那比・建多乎利・建彌阿久良・建麻利尼・建手和邇・宇那比姫・母は紀伊氏の中名草姫/建田背の異母妹は葛城高田姫・同姫の母は葛城氏の避姫)
蛇足であるが女王「日女命」の生母が紀伊氏の中名草姫ということで思わず連想してしまうのが、その五代前の神武東征砌、神武が浪速で敗退して命辛々和歌ノ浦へ漂着し、その地の名草邑で壮絶な殺戮を繰り広げて兵糧を奪い名草の女酋長が逆らったためその肢体を八つ裂きにして引きづりまわした、そうした忌まわしい過去が過ぎるのは私だけだろうか。これも歴史が織りなす巡り合わせか!。

既に周知のとおり『記紀』は共立女王「卑弥呼」が起立していた王朝「邪馬台国」を官撰正史から完全に抹殺している。大矢口宿禰の妻が日女命の異母姉として同正史に登場してきては甚だ困るのである。そこで『記紀』や「三上氏」系譜は意図的に「大矢口宿禰」の存在までも揉み消し標さなかったのである。
さすがに『先代旧事本紀』「天孫本紀」も卑弥呼に連なる名を標すことをはばかり苦肉にも大矢口宿禰の妻を先代が通婚した相手「坂戸由良都媛」へと巧妙にすり替え、先代当主「出石心」の妻にはこれまた窮して稚拙にも孫世代の三上氏「新河小楯媛」(しんかわこたてひめ) をもってきて糊塗した。こうした矛盾した作為的系譜を編むことによって日本の黎明期を織りなす正確な邪馬台国の痕跡を徹底して葬り去った。そして『記紀』編纂者たちは黄泉の国から今以て古代史研究に携わる多くの人々を手玉に取って高笑いしているのである!。
 
 ◆

思わぬところで紙面を割いてしまった。本題である魏使「張政」のその後を追うこととする・・。
「張政」は、苟も魏皇帝の勅使であったからこの様相を見て遣使目的不調を理由に直ちに本国へ帰還しても十分名分は立った。しかし張政の選択はそうではなかった。倭の内訌する仔細をろくに解らないまま帰朝報告するには時期尚早とみて供回りの者数人を残して後は全部郡へ還した。そして自らはこの推移を見届けて使命が無事完遂するまで居残ることを決意し、邪馬台国が置かれている国情を幅広く見聞することに力を注いだ。この滞在に最も貢献したのが河内氏で、故に河内青玉繁は娘「埴安媛」を「孝元」の下へ入妃させることができた。一方、居残った張政の帰国時の足が心配であったが伊都国の「一大率」は勅使のごとき強大な権能をもつ軍政官であったため、〝郡の倭国へ使いするや皆津に臨みて捜露(監察)し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣しめ、差錯するを得ず〟「倭人条」、伊都国と邪馬台国との交通・伝達は頻繁でまた倭と郡との交易船の往来も頻繁で、魏使「張政」の帰還に際しなんの懸念もなかった。

彼は始め郡界の守備隊長であったが後年、この倭国遣使の功績が認められ「王頎」の後を継いで帯方郡太守に封じられた。彼は倭での役割を無事果たし終えた後、「掖邪狗」らに郡まで送り届けられた。その掖邪狗ら一行はその足で更に郡から洛陽の都へ朝貢しているのである。掖邪狗は篤き人であった。
張政は倭の内訌が原因で遣使本来の目的がなかなか果たせぬまま「邪馬台国」に足かけ三年間も留まった。その間、河内の難波館に仮住まいし畿内各地の状況をつぶさに見てまわり見聞を広げていた。今でいう情報収集であろうか。こうした異例で特異な行動が許されたのは掖邪狗の保護下にあったからに外ならず、張政を郡へ直接送り届けたことで魏の倭への疑念も氷解し、張政の長年の努力も報われた。張政が倭を去る時、河内で儲けたハーフ一児を残して還った。その児は掖邪狗が引き取って取り立てた。これは我がロマンに留めおく。
    塞曹掾史「張政」の『詔書・黄幢』 奉遣拝仮の儀  (板厚30ミリ)

※ 來倭した勅使は皇帝を代理して倭国王と直接接見することができる。ところが建中校尉「梯儁」や塞曹掾史「張政」は帯方郡の一官吏に過ぎず、その実態は使節一行を取り仕切る統括責任者であった筈だ(勅使といえどもその管轄下にあった)。では肝心かなめの勅使は誰か?「魏志倭人伝」のどこにもその名が記されていない、やむなく私は「梯儁」や「張政」を勅使に仮託して説明してきた


(※ 1) 河内氏の領域は今でいう東大阪から藤井寺それに富田林の石川流域にまたがる一大勢力で、漁労が盛んで御食国の一つとして塩や海産物を主に皇都へ貢納していた。此度は遣使一向饗応の大役をも併せ持ち務めていた。その領袖は河内青玉繁で、翌年その娘「埴安媛」を孝元のもとへ納めやがて孝元第一皇子「武埴安彦」の外祖父となった。後年、この武埴安彦は「開化」によって簒奪された王権の奪還を企てて立ち上がるが崇神朝によってあえなく潰え去った。

(※ 2) 第一次副使「都市牛利」は女王日女命の甥「建諸隅」(当時40歳)であり、第二次副使の「掖邪狗」は日女命の息子「和邇日子押人」(当時53歳)であった。この二人は当時の政を司る邪馬台国きっての最高実力者で双璧をなし、にも拘らず第一次正使「難升米」こと中臣の「梨迹臣」(当時47歳)と第二次正使「伊聲耆」こと中臣の「伊世理」(当時48歳)の異母兄弟は共にその臣下でありながら正使を努めるという奇妙な関係であった。このことは中臣本宗家が代々朝貢正使を司る慣わしであったことを意味する。遠くは奴国を与る漢委奴国王「天児屋根」がいて、その子「天押雲」もまた倭国王「升帥」として朝貢正使を努め、転じて「建御雷」となって神話の世界にも現れ、その兒「天種子」は神武に供奉して東行し、軍神「建御雷」は東行する神武らを国許から援けた。
(この項、第一章・邪馬台国【その一】から抜粋)
因みに詣郡(AD246年)の正使「載斯」は梨迹臣の子「建御世狭名」であり、副使「烏越」が建諸隅の子で若き日の「日本得魂」であったであろう。唯、人の世の変転は目まぐるしく、この日本得魂も和邇日子押人の子「彦国姥津彦」も「開化」の王権奪取(嫡宗王統の交代)の煽りを食って臣籍降下となった。私はこれを〚開化の回天〛と仮称する。

(※ 3) 女王「日女命」の御陵地を特定する。
写真左は、女王「日女命」の宮都「室秋津洲宮」から東へ約1~1.5キロ隔てた小高い山、聖なる玉手丘(たまてのおか)が連なる全体の俯瞰図である。この近くには神武が国見した伝承の国見山がありヤマトタケルの御陵もある。そしてその北の端には日女命の男弟「孝安」が眠る御陵があり、孝安の兄で日女命の夫である「天
足彦国押人」もその近くで眠る。そして日女命も同様、その傍らで篤く葬られた。日女命の遺骸は長い殯の末、干からびて一回り小さくなっていたが死してなお不思議な霊力を放し続けて見る人を畏怖させた。
(山陵図と写真は外部資料引用)
その埋葬された陵形は山肌を剥いだ後にその山全体を円錐台に整形を施し、その中腹に方形の台座をしつらえて、その台座の上で嘗て傅いていた大勢の侍女や巫女たちが日々入れ代わり立ち代わり歌舞音曲を奏でて「日女命」の霊を慰め詣らせ祀っていた。この情景を彼方で弔意遥拝しながら見ていた張政は〝徇葬者奴婢百餘人〟と表現した。この徇は殉ではなく日女命を奉斎する祭祀一団の様子を描いた意味であり曰く、〝その死するや棺有れども槨無く、土を封じてツカを作る・・喪主哭泣して他人就いて歌舞飲酒す〟とはまさに当時の倭の普遍的な葬送風景にして女王日女命の死もまたそれの桁外れに大規模なものであり、これを以て奴婢百余人〝殉死〟と解するのはそもそも倭の風俗に馴染まない。


『日女命』以前のそれまでの大王たちの御陵墓は、単に山丘の頂に円墳を造営して埋葬し祀っていたに過ぎない。ところが神宿る〝司祭王日女命〟が崩御したとき人々はその死を非常に不吉な前兆と畏怖し、朝な夕なに陵前で奉祭する行事を怠らなかった。そのとき始めてその大いなる行事に足る広さの台地(鎮魂祭礼の場)を必要とし新たに人工の方形台地を前方部に付け加えた。これが前方後円墳のそもそもの始まりであり、このことを巨視的に捉えれば弥生時代から古墳時代へのエポックメーキングを画期する象徴的出来事となった。即ち、日本独特の特異な陵形をもつ原点原形はここかにはじまったのである


それにしても魏の蔑字は気になる。その源は儒教と神道の文化的風土の違いからくる彼らの持つ異教への嫌悪感・優越感に由来する。まぁ比喩すれば異教ゆえに互いに相手を嫌うのと同質で唯々失笑する外ない。少なくとも日本人は八百万に神が宿る素朴な自然信仰に根差しており、太陽や悠久の山河・先祖・ありとあらゆる神羅万象が畏敬と祈りの対象であり、彼らの因って立つ拠りどころと比べてみてもその精神の高邁さにおいて遥かに超然的で崇高ですらある。

(本項〚別紙-5〛の「彦太忍信」は音読みであるが訓読みでは「ひこふつおしのまこと」と呼称する)

2015年1月1日   著作者  小川正武