2012年11月22日木曜日

大国主命 「ニギハヤヒ」 【邪馬臺国 その五】 第一章



饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
スサノオの六世孫

諡号は、大国主命(オオクニヌシノミコト) 
大いなる大国を治める大王の意
出雲王朝/第六代大王である。
[私論編年 AD36-AD102、登美国在位22年、67歳で崩御]

出雲王朝にとって、大和は大王の都する処であった。その都の南部一帯が突如として武装集団に襲われ瞬く間にその一角が占拠された。しかも次代を担う王子や姫君らが捕われるという一大失態事に見舞われ同王朝はそのことに震撼し動揺してその基盤が根底から揺るぎだす出来事となった。
必然的に北部大和は敵と対峙する最前線となった。そこで、ニギハヤヒは「味耜高彦根」(アジスキタカヒコネ)と「宇摩志麻治」(ウマシマチ)を守りに残して、自らは「事代主」(コトシロヌシ)を従えて出雲へ還御、態勢の立て直しを図った。時にAD92年。

葛城の豪族「剣根」(※ 1)は「大国主命」とは傍系姻族であり匿っていた大国主の孫娘ヒメタタライスズ姫とイスズヨリ姫は共に剣根の叔母「玉依姫」を母とした。その葛城のまほろばの地も瞬く間に武装集団によって強襲制圧されたのである。
それでも出雲王朝は、南部大和の地こそ突如として失ったものの依然版図は山陰・近畿の大半に及んでいて神武の武装集団はその中の一角を占拠したに過ぎなかった。

・・・しかし、人の寿命は贖うすべがなくAD102年ごろ、ニギハヤヒは出雲の宮(中つ国)で身罷った。この悲報は瞬く間に日本中を駆け巡り、全国から長たちが続々参集、わけても邪馬台国に組み込まれた葛木氏や鴨氏らも続々駆けつけて殯宮でニギハヤヒの霊を鎮めた。これが出雲における神有月の神祀のはじまりではなかったか。
服喪に集まったこれら神々は、過去五百有余年の永きに亘って出雲王朝が築いてきた言わば地方に分散した有力な姻族たちであった。
写真上は、出雲西谷墳墓群の一つで四隅突出型墳丘墓である。大国主命の埋葬地にも比定されている。 

時代が100年ほど下って日女命(卑弥呼)の時代、日女命(日巫女)は先祖の『大国主命』(ニギハヤヒ)の御霊を鎮めるため、鬼道の導きに従い国家神道の規模で祀ることを命じ、斯くの如き壮大な出雲大社を建立させた。女王日女命の神勅が如何に絶大なものであったかがこれからも推測される。「日女命」という存在なくしてこのような建造物は出来得なかった。

大国主命の人徳を偲ぶ伝説で有名なのは「因幡の白ウサギ」であろう。粗筋は、隠岐の島に住んでいた兎が因幡の多気岬へ渡りたいと思い、鰐を騙して渡ったがウソがばれて皮を剥がされて泣いていた、そこへ通りかかった大国主命が治療して助けたというおとぎ話。

(板厚30ミリ)
                   

(※ 1)  葛城山東麓に勢力を張る三嶋溝杭を父にもつ娘(玉櫛媛)は、大国主の息子「事代主」の妻であった。この夫婦の間には「ヒメタタライスズヒメ」と「イスズヨリヒメ」それに「天日方奇日方」(鴨王)の三人の子を儲けていた。神武の宇陀からの奇襲は青天の霹靂であった。当時、事代主は父の傍に仕え登美に居た。その子たちは叔父「味耜高彦根」の館がある尾張邑に疎開していた。先年、難波津で兇賊の来襲があって河内から登美地方が不安定になっていたからであった。ところが兇賊は予期せぬところから突如として現れてあれよあれよという間もなく無防備な盆地南部を瞬く間に席巻、事代主の子らは辛くも三嶋溝杭を祖父にもつ葛城剣根の館へ逃げこんだ。しかし兇賊はその地へも侵入してきて同子女らを捕えて何処かえ連れ去ってしまった。このことが遠因となって「長髄彦」は詰め腹を切らされる羽目になるのである。

剣根は、後にヒメタタライスズ姫を后とした神武から支配地安堵の「葛城国造」に任ぜられている。


2012/11/22   著者 小川正武

                           

2012年11月10日土曜日

懿徳天皇 「スキトモ」 【邪馬臺国 その四】 第一章

大日本彦耜友尊 (オオヤマトヒコスキトモノミコト)
安寧の第二王子。后は天豊津媛命(安寧の第一王子の娘)

諡号は、懿徳(いとく)天皇。邪馬台国/ヤマト王権第四代大王である。
[私論編年 AD136-AD170、大王在位12年、35歳で崩御]

母は鴨王の娘で、后は実兄の娘であった。そのため「スキトモ」は初代神武以来、三輪氏直系姻族が四代もつづく極めて近親婚に近い大王であった。

因みに、鴨王(カモノキミ)亦の名を天日方奇日方(アメノヒカタクシヒカタ)は、その父「事代主」を三輪氏始祖に戴く地祇でもあった。スキトモにとって孫にあたる「奇友背二世」(クシトモセ二世)は不可解にも記紀からは完全に抹殺された人物であった。そのことは裏返せばそれだけ記紀にとって大変不都合で重要な位置を占める人物であったに違いない。私はそこをぜひ燻り出したいのである。

ところで・・・この王には弟が居た。その名を「カエシネ」(孝昭)と称した。「記紀」ではこの弟のことを「スキトモ」(懿徳)の子に位置付けているが実は二歳くらい年下の異母弟なのである。『先代旧事本紀』卷第七、天皇本紀に〝観松彦香殖稲尊(五代孝昭)は磯城津彦玉手看天皇(三代安寧)の皇太子である〟とも記述している。
この弟カエシネは尾張氏の始祖、味耜高彦根(アジスキタカヒコネ)を曾祖父とする姫を娶り二人の子供を儲けていた。その一人は、天足彦国押命でこの皇子も後に又従妹の宇那比姫(卑弥呼)を娶った。もう一人は弟で日本足彦国押命と称し、後に倭国連合に共立された女王「日女命」(卑弥呼) を補佐する立場になる第六代「孝安天皇」である。このように神武が建国したヤマト王権の初代から『大国主命』の三兄弟である三輪氏と尾張氏それに物部氏が天皇家へ后妃の供給氏族として互いに時代の覇を競うことになり、それがドラスチックに継体朝へと繋がり、持統~桓武~今上へと連綿とつづく世界にも類例をみない皇統譜が今に存在するのである。

話は73年前に遡る神武東征の砌り、神武軍は軍舟を阿岐津(広島)に留め、中国山地を越えて出雲国を激しく攻めた。この戦で守備に当たっていたニギハヤヒの王子二人の内、一人は諏訪へ逃げ延び後の一人は散華した。

この戦況を遠く見ていた大和の登美に座しますニギハヤヒ(大国主命)は、神武東征軍襲来を満を持して待ち構えていた。
一方、神武軍は何年も安芸に留まり出雲との攻防を繰り返していたがなかなか決着がつかない苦しい消耗戦を強いられていた。しかもなお敵本陣は無傷のまま登美に在り、ゆえに出雲国平定を完全に果たせ得ぬまま神武は大和攻めを急いだ。
ところが河内国日下(ヒノモト・日本の語源)に臨んで待ち構えていた在地の「長髄彦」率いるヘコ(兵)共を侮って侵入したが逆に完膚無きまでに叩き潰された。
敗走した神武軍は紀伊半島を転々と漂着を繰り返し辛くも熊野までたどり着き、その地でようやく態勢を立て直すことができた。

・・やがて、八咫烏の先導を得て急峻な紀伊山地を行軍、吉野から宇陀へ侵入、忍坂(桜井)を東から突く形で奇襲し、その過激で残虐な戦法は見事功を奏し、大和盆地南部の一角磐余の地を占拠した。磐余に隣接する高尾張邑や磯城郡に居た出雲朝の王族子女らは、やむなく王都としていた北部登美へ逃避した。そして神武と大国主は大和川河川を境に南北で対峙することになり、やがて大国主は最終決着が着かぬままその地を離れて出雲国へと還っていってしまった。

『記紀』編纂者の作成意図は万世一系を主眼とした。為に孝昭(カエシネ)の父を懿徳(スキトモ)と為し、この間の嫡子継承が恙なしと糊塗した。しかし事実は相違して、皇太后は異腹の皇太子「カエシネ」を廃し、吾子「スキトモ」を王位に就けた(AD159)。それを佐けたのが亡き「タマテミ」(安寧)の大臣物部の「出雲醜」であった。ここにカエシネとスキトモの王統の正当性を巡る争いが発生、掖上と軽曲峡の間で互いに誅殺しあう場面が起こった。これを私は「イズモシコの変」と名付けている。


神武東征軍との戦いで出雲から諏訪へ脱出したニギハヤヒの王子 「建御名方神」は、それを手助けして海路信濃川の河口まで逃したのは出雲王朝の衛星国 但馬(海部氏)の軍舟であった。その地で建御名方神は先住民のモレヤ(守矢氏)と戦ってこれを破った、そこで戦ったつわものどもは出雲のヘコ(兵)たちであった。当時既に但馬国は日本海側の海上交通の中心的存在で、北国越三州をはじめ山陰から北部九州に至るまで外洋舟を用いて沿岸伝いに地乗航法で盛んに往来していた。半島の狗耶韓国(倭地)に集住する倭人らとの間でも盛んに交易が行われていた。浦島太郎の御伽噺や羽衣伝説はそうした当時の但馬の華やかでそれでいてちょっぴり物悲しい出来事が反映した物語であったのかもしれない。 更に申せば筑紫ヒムカ族の王アマテラスを日向の高天原へ追いやったのも斯かる勢力(出雲王朝)の進出ではなかったか。そのアマテラスの孫の神武が東遷したことによりアマテラス(天照)を祖神と崇めるようになり神武をその天孫族(皇孫)と称えて呼称するようになったのであろう。

線刻画は出石の袴狭遺跡から出土した板絵を写し取ったものという。

                     
2012/11/10    著者 小川正武


2012年11月1日木曜日

安寧天皇 「タマテミ」 【邪馬臺国 その三】 第一章

磯城津彦玉手看尊 (シキツヒコタマテミノミコト)
父は綏靖天皇。母は、事代主の次女「五十鈴依姫」
后は鴨王の娘、渟名底仲媛命 (ヌナソコナカツヒメノミコト)。

后は、事代主の孫で、姪にあたる。
児は長兄に「オキソミミ」、次男に「スキトモ」(懿徳)を儲けた。
妃は、師木(磯城)県主の娘「飯日媛」(イイヒヒメ)。
その児が三男の「カエシネ」(孝昭)である。

祖父「神武」が崩じた翌年、綏靖の児 タマテミが生まれた。(タギシミミの変は同年央に起こった)     
 (左図は、安寧 こと タマテミ )

タマテミ15歳のとき鴨王 亦の名を天日方奇日方 (※ 1) の娘「ヌナソコナカツヒメ」を娶り第一子「息石耳」(オキソミミ)を儲けた。

タマテミ26歳のとき第二子「耜友」(スキトモ)が授かった。

タマテミ28歳のとき、磯城県主の娘「飯日媛」との間で第三子「香殖稲」(カエシネ)を儲けた。(※ 2)

そしてタマテミ31歳のとき、第一子のオキソミミ(16歳)が「天豊津姫」を産んだ。タマテミの初孫である。
タマテミ42歳のとき、タマテミは古の倣いに従い「王統の末子継承」にカエシネ(14歳)を皇太子に立てた。『先代旧事本紀』「天皇本紀」。

こうした中、心中穏やかでない后のヌナソコナカツヒメは傍系カエシネの立太子を慶ばず祖父「事代主」に直系する我が児の末子継承を強く望んた。そしてそれに応えるかのようにスキトモ(20歳)は、兄オキソミミの娘「天豊津姫」(15歳)を娶り翌年「クシトモセ」を生んだ、時に156年。そしてタマテミ49歳(AD158)のときタマテミが崩御、皇太后になったヌナソコナカツヒメはタマテミの遺臣で大臣であった「物部の出雲醜」らの佐を得て喪が明けるのを待って「スキトモ」(23歳)を強引に後継王位に就かせた。
この当時、外に目を向ければ中国の皇帝は後漢第11代「桓帝」の時代で、宦官に魏の祖となる曹操の祖父「曹騰」がいて権能を振るっていた。

神武東遷後 半世紀が経つタマテミの御代、タマテミは磯城の娘を相次いで后妃に迎え入れて王権の基盤を固めていた。磯城は神武東遷前は「事代主」の支配地であったが東遷後はこの地を退いて出雲へ還御した。居残った娘たちがタマテミに后妃として納まっていた。
磯城の東に朝日が昇る荘厳な三輪山は出雲の王「大国主命」を象徴する霊山であった。タマテミはその祖神を崇める豪族「三輪氏」に祭祀権を与えることで積極的融和を図った。磯城とは現在の巻向・柳本方面で三輪山の西麓に位置する。
諡号は、安寧(あんねい)天皇。邪馬台国/ヤマト王権第三代大王である。
 [私論編年 AD110-AD158、大王在位23年、49歳で崩御]

■ (写真は、宇佐神宮の西大門)
紀元前1~前2世紀ころ、日本には既に出雲王朝が出雲に存在していた。その版図は本邦は云うに及ばず韓半島中原以南(任那)全域に及んでいた。そして近畿・東海から濃尾・越三州と跨る支配地では交易が盛んに行われていた。その一方で北部九州へも進出、勢力を伸張していた。当時、その北部九州には既に大きな勢力のヒムカ族が居たが、そのヒムカ族の王アマテラスは出雲王朝の勢力に押されて日向の山地へ身を隠した。それでも北部九州に留まった同王の末裔たちは、時代が下ると共に次第に力を蓄えるに至り、紀元一世紀後半ようやく九州宇佐から舟軍を率いて出雲征伐(東方遠征)へと乗り出した。そして宇佐はヒムカ天孫族にとって出陣の地・戦勝祈願の聖地となった。宇佐神宮は斯くして時代が遥かに下った第48代称徳天皇(女帝)の御世〝道鏡お告げ〟のごとく一旦皇統を揺るがす一大事のときはこれを阻止する神託を示して皇室を守護する宋廟となっていた。 (※ 3)
(東征出立地をことさら日向とした記紀は、故事アマテラスの遺志を忖度した表れ)
(板厚30ミリ)

大王「タマテミ」は出雲醜(イズモシコ)を大夫に、大祢(オオネ)を侍臣とした。二人は共に宇摩志麻治(物部氏)の孫で朝政の大権を掌握していた。この宇摩志麻治を祖とする物部氏の本拠地は河内を含む登美を中心とした添下郡(現・奈良盆地北部)一帯で、いわゆる旧出雲王朝の都だった要衝の地であった。

一方、怒れる祖・味耜高彦根を祖とする尾張氏は旧出雲王朝の衛星国であった丹波国を受け継ぎ、同時に中央に在っては葛城の高尾張邑(現・玉手から観音寺町にかけての曽我川に沿った周辺一帯と思しき) を本拠地としていた。

他方、事代主を祖とする三輪氏の本拠地は磯城郡に在り、三輪山の西麓一帯で、同時に出雲国を領していた。

こうした三者三様の背景の下、長髄彦の地盤を引き継いで強大な軍事力を持った物部氏と、水運をほぼ独占して栄える海洋の覇者 丹波の国を治める尾張氏、そして大王家に相次いで姫を入后させ 大王家と繋がりをますます深化させ、その地歩を着々固めていく三輪氏、共にこの三兄弟はその勢威を歴史的に競うことになるのである。

(※ 1)
タマテミの「后」の父「鴨王」は、同時にタマテミの母の兄でもあった。
同后の祖父は「事代主」である。事代主は三人の子に恵まれたが内一人が男子であるから后の父「 天日方奇日方」 と「鴨王」は異名同人であることがわかる。
また『古事記』は「カエシネ」の母「飯日媛」のことを「皇后」と記している!私見であるがこの飯日媛は神武に敗れた磯城の豪族「兄磯城」(えしき)の孫娘でなかったかと観ている。

(※ 2)
『記紀』はタマテミの第三子のことを「磯城津彦」という代名詞で潜り込ませた。第三子である「カエシネ」がここへ実名で登場してくることは『記紀』にとって甚だ不都合であった。何故か!
それは、カエシネの腹違いの兄スキトモのことをカエシネの父に仕立て上げなければならなかった事情に因る。なぜならスキトモ とカエシネの〝兄弟同士が大王位を巡って熾烈な争があった〟とする歴史的事実を隠ぺいしたかったからである。『記紀』はその狙いどおりこの改竄によって〝万世一系何事もなく父子相続が恙なく連綿と続いた〟とする皇統譜を歴史に刻むことが出来た。つまりこのときの磯城津彦とは「カエシネ」を仮託した抽象代名詞であった。
飯日媛の父は磯城県主「太真稚彦」(フトマワカヒコ)という、その出自が神武と戦った「兄磯城」(えしき)に繋がる人物(孫)とみているのは、飯日媛の生んだ孝昭が以後、ヤマト王権主流である尾張氏王統へと形成されていったからである。

(※ 3) 宇佐神宮には祭殿が三つある。その真ん中にある御柱は「日女命」こと宇那比媛が祀られている。で、両側に侍る御柱は神功と応神の親子である。開化によって血統の交代が為されたが、その開化を祖とする巻向王統を倒した神功親子が日女命を弔っている!そのような構図が観てとれる。伊勢神宮がアマテラスを主祭神としているのと対比して王家の歴史的変転が見て取れてとてもおもしろい。深みのある史実が今も宇佐神社に現存していて静かに我らへ語らいつづけながら鎮座しているのである。

2012/11/1   著者 小川正武

                

2012年10月17日水曜日

綏靖天皇 「ヌナカワミミ」 【邪馬臺国 その二】 第一章

神渟名川耳尊 (カムヌナカワミミノミコト)
神武の第五皇子(末子)。后は神武の后の妹である五十鈴依媛 (イスズヨリヒメ) 。従って同后の父は「事代主命」。大国主命は外祖父にあたる。

同母兄に神八井耳命(カムヤイミミ)と日子八井命(ヒコヤイ)がいた。一方、神武には庶流長子で朝政に長けた手研耳 (タギシミミ) がいた。神武崩御後、タギシミミは母である神武の后を妻にし王位を奪おうと画策、弟たちの殺害を企てた。この陰謀を母の発した歌から察知した兄弟たちは片丘 (現、奈良・王寺町) に逆襲してこれを討った。 その際、兄カムヤイミミは恐怖のあまり手足が震えて矢が放てず、代わってヌナカワミミが射て止めを刺した。カムヤイミミはこの失態を恥じて弟ヌナカワミミに王位を譲って自らは神官になって仕えた。

母、媛蹈鞴五十鈴媛の詠んだ歌 
“狭井河から雲が立ち登って、畝傍山では大風が吹く前触れとして木の葉がざわめいている”

この変事の背景は、筑紫から付き従ってきた神武の長子と大和出自の后から生まれた弟らとの熾烈な王位争いであった。ではなぜ神武の臣たちはこの争いで長子の側に付かず沈黙してしまったのであろうか!?。
神武崩御(AD109)の前年、登美国の王「宇摩志麻治」はそれまで対峙していた神武と和解の道を選び臣下の礼をとった。その訳は義兄「事代主」の娘が既に神武の后に収まりその御子「ヌナカワミミ」らが大きく成長していたからである。当初、神武の勢力は大和盆地中央をほぼ東西に流れる大和川を境にその南部に限られていて北辺に盤踞する豪族ウマシマチ・アジスキタカヒコネ・それに事代主それらと敵対しつづけていけば神武の存立基盤を危うくしかねない、しかも支配地の一角を占める葛城地域は、神武の后「媛蹈鞴五十鈴媛」を従姉妹とする豪族「剣根」の本幹地でもあった。神武がその地を力ずくで奪い取って東征時の功臣に分け与えて葛城氏を敵にまわすことはとても能わず、むしろこれを積極的に取り込んで王統存立の基盤づくりに先ず専念した。神武亡き後、神武の庶子長子が誅殺されたが神武の遺臣功臣たちがあえて沈黙を守った所以はまさにこうした背景があったからである。

斯くして北辺の巨大豪族物部氏(宇摩志麻治)は神武に降り、世襲初代軍事の大臣に就任して在地(地祇)出自であるヌナカワミミの強力な後ろ盾となった。
 (※ 1) そして神武東征時の功臣たちは新しい大王 (※ 2) に忠誠を誓った。(※ 3)

その頃、北部九州は神武の大和移動とそれにつづく後方支援の負担から疲弊しきっていた。その負担に喘ぐ熊襲たちはしばしば反乱を起こし、加えて筑紫出自の「タギシミミ」が都で誅殺された報も伝わり、それら動揺を抑えるためにヌナカワミミは次兄ヒコヤイを筑紫に派遣すると共に、老いた神つ臣「天押雲」に代えて筑紫の鎮撫に当たらせた。
瀬戸内海を挟んで東西に呼応しうる版図を広げたヤマト王権であったが、なお西日本各地には「邪馬台国」にまつろわぬ国や豪族たちが数多く点在していた。

ヌナカワミミは、葛城の高丘宮(現・御所市)へ都を移し、后は同母の妹で歳の差9歳もある叔母「五十鈴依媛」(イスズヨリヒメ)を娶った。前王朝の姫君姉妹を先代神武につづいて娶ったこの二代目大王は、それだけ大王家の基盤が大和の地ではまだまだ盤石でなかったことを物語っていた。

諡号は、綏靖 (すいぜい) 天皇。
邪馬台国/ヤマト王権第二代大王である。
 [私論編年 AD94-AD135、大王在位25年、崩御42歳]

兄 カムヤイミミはタギシミミの反逆事件から三年後に薨じ、畝傍山北墓に葬られた。後裔に朝臣多氏 (おおし) 一族がおり繁栄し、古事記を編纂した太安万侶も輩出している。

次兄ヒコヤイ命は、祭神として草部吉見神社 (熊本・阿蘇・高森) に祭られている。
(板厚30ミリ)

綏靖治世の時代、中国では安帝(帥升朝貢当時の皇帝)が巡察先で客死(AD125)した。このとき順帝はまだ10歳で、順帝の母を殺害した閻太后が翌年に亡くなり、14歳で元服した順帝は宦官たちにその一族を殺させた。宦官に擁立された順帝は功労者宦官たちを候に封じ養子を認め財産を引き継ぐことを認めた。やがいこの厚遇の宦官禍が発端になって後漢が傾く一因となった。国の北辺では鮮卑族が跳梁跋扈し遼東・玄菟を侵略、高句麗や羌などが活発にうごめいていた。

『記紀』神話に表れる出雲のスサノオは、筑紫のニニギに先立つこと150年前、西日本を網羅して緩やかな出雲文化圏を築いていた。しかし、スサノオから六代目のニギハヤヒ (大国主命)のとき、筑紫のヒムカ族が新天地を求めて東行した。
ここに二つの勢力が大和の地で衝突、相次ぐ敗退で少数尖鋭化した神武軍は飢餓と孤立の中、全滅覚悟の捨て身の襲撃を重ねつつ、遂に磐余の地に寸土の楔を打ち込んだ (AD92)。宇摩志麻治が神武に降ったのはそれから実に15年後のことであり、神武朝が名実ともに成立したのはそのときに始まる。

(※ 1) イスズヨリ姫とヌナカワミミは叔母甥の関係にあり異世代婚であった。王統継嗣に絡んで母系相続を願った神武の后ヒメタタライスズ媛の意向が強く反映された妻問婚でもあった。この婚姻形態は現代では奇異に映るかもしれないが当時の支配層にとっては、王統を継ぐ血統の正当性を重視する証しとしてこうしたことは普遍的であったようだ。

(※ 2) 当時、大王という称号があったかなかったか定かでない。本稿ではひとまず豪族連合を束ねる中心的シンボルを指してそう表記している。 太宰職にしても国造にしても然り。

(※ 3) 降臨初期の神武の版図が大和南部に限られていたことは先にも述べた。北辺の圧力に抗して15年間、神武はその間 無為に過ごしていたわけではなく橿原に坐まして臣らを和泉住吉・紀伊・淡路・阿波へと遣わし版図を広げていた。そして阿波(アワ)に遣わされた天富命はその地を開拓した後、同地に住む忌部氏一族(※ 4)を引き連れて更に肥沃な土地を求めて航路東進し房総半島の南端に上陸、その地を拓いて祖神「天太玉命」を祭った、それが安房神社の由緒に記されている。

 (※ 4) この忌部氏から後代、「稗田阿礼」が出ている。『古事記』の国史編纂では中臣氏と共にこの稗田阿礼が従事していたことが明記されている。


2012/10/17     著者 小川正武


2012年9月29日土曜日

神武天皇「イワレヒコ」【邪馬臺国 その一】 第一章


九州筑紫の地にアマテラスを祖神と崇める豪族 ヒムカ族がいた。その王「イワレヒコ」は、45才のとき東方の豊葦原瑞穂の国を目指して軍を率いて舟出、瀬戸内海を東進した。やがて難波(なにわ)の津に上陸、生駒の麓 日下(くさか)から大和(やまと)に向かおうとした、ところが土地の豪族「長髄彦」(ナガスネヒコ)の軍衆に遮られて退却の余儀なきに至った。 
【左図はそのときの場面、安達吟光画を参考に彫る】
 

イワレヒコはこの戦いがもとで兄の「五瀬」を失うがそれにもめげずに紀伊半島を迂回して熊野から宇陀へ入り、つぎつぎと土豪を制圧して桜井の磐余(イワレ)へ進出、遂に長髄彦を倒して漸く大和の一角に地歩を固めた。九州宇佐を出発して以来六年余を費やして漸く橿原の畝火(うねび)の宮で即位(AD93)した。

諡号を神武天皇、亦の名を神日本磐余彦尊(カムヤマトイワレヒコノミコト)。
邪馬台国/ヤマト王権初代大王。
[ 私論編年 AD41-AD109、大王在位17年、崩御69歳 ]

※ 因みに、ヤマト王権を後々まで支えることになる物部氏の始祖は、この長髄彦の妹「御炊屋姫」と饒速日 亦の名「大国主命」の間に生まれた児「宇摩志麻治」(第三子)である。
宇摩志麻治には異母の兄で「味耜高彦根」(大国主命の第二子)がいた。この味耜高彦根 は尾張氏の始祖となり後々『記紀』から隠蔽された女王「日女命」(卑弥呼)それに「天豊姫」(台与)を輩出することとなるのである。
亦、大国主命の第一子「事代主」は三輪氏の始祖となり、その娘「媛蹈鞴五十鈴姫」は神武の后となる。
この始祖三兄弟は三者三様にヤマト王権創成期の中核を担いその後の皇統譜を多彩に彩り、古代日本の輝かしい史実として確かに実在し、かつまたダイナミックに躍動していたのである。


日本における西暦一世紀のころは、既に西日本はおろか北陸・東海・関東にわたって水稲・土器・青銅器の文化が発達し、それと並行して人と物とが盛んに行き来していた。そして、集落・部族から発展した豪族たちが各地に興り、それぞれ国を形成していった。それが筑紫であり、吉備・出雲・丹波・葛城らであった。これら族の長(おさ)たちは、韓半島の倭地を含む日本の地勢をおよそ俯瞰できていた。そればかりか中国王朝の興亡までも詳しく知り得ていた。それはなぜか!、

前漢書に曰く〝楽浪海中に倭人あり、分ちて百余国と為し、歳時をもって来たりて献見す…(漢書地理志燕地)〟と。また、AD08年に、王莽(おうもう)が「新」を建国するが、その貨幣「貨泉」が壱岐・福岡・京丹後・岡山・大阪住吉など各地から出土しており、当時貨幣経済を持たない倭国へ少なからぬ難民が流入してきたことがこのことからも窺いしれる。更に申せば、神武東征(東方移住)は見方を変えれば東遷の性格をもち、戦乱と興亡の相次ぐ大陸と距離を置くことで大和は北部九州より国の都として優れて立地していた。

神武東遷後、大和国は皇都となり、伊都国は陪都となった。伊都国における「一大率」の設置は、筑紫ヒムカ孫の主体が東へ移動したことによる西の軍事的空白を埋めるためのものであった。この「一大率」の役割は、九州鎮西とその国々を監察することを目的とし、同時に半島と大陸に対する外交・防衛を担う情報収集機関「大宰の府」として 地理的にもその役割を担う邪馬台国(ヤマト王権) にとって重要な統治機構であった。

西暦107年(安帝の初年)、倭王帥升が後漢へ遣使[後漢書]。この遣使を「帥升」に命じた大王こそ大和の地に根付きいて五年、原郷筑紫ヒムカを凌ぐ勢いを持った「神武」その人であったろう。更にそれを遡ること 西暦57年の「漢委奴国王」とは、当時 筑紫ヒムカの大王(神武の父)に仕えていた大夫「天児屋根」(遠祖中臣氏)を指し (※ 1)、その子「天押雲」こそ「帥升」その人であり『記紀』神話に出てくる神名「建御雷」に相違なく、その息子「天種子」が神武に供奉して東行し、建御雷は筑紫の国元を護りながら神武を後方支援していた (※ 2)。そして『魏志倭人伝』に登場してくる「難升米」は、帥升から数えて五世孫の中臣の「梨迹臣」(ナシトミ)であり、このいわゆる上古「中臣氏」は大王との絆が深く元を質せば外戚だったものが降下して支えていたものと見る。

 (※ 1)
この二つの遣使の間には50年もの開きがある。が、時系列的には「天児屋根」25歳(AD57)のときに授かった児(天押雲)であれば、神武が東征当時(AD86) 天押雲は29歳の青壮期、後漢遣使の時は50歳の熟年期に相当する。後漢遣使の帰朝報告を神武に奏上した帰途、宇摩志麻治と共に出雲の国王「事代主命」に臨んだのが翌年の51歳(AD108)とすれば、この二つの後漢遣使とその両方に跨る親子関係にはなんの不自然もなく、宇摩志麻治もまた天神地祇の誓約の場に立ち会って〚邪馬台国〛建国の大任を果たしていたこととも符合する。因みに「事代主命」の孫「綏靖」はAD108年当時、14才に成長していたことになる。

 (※ 2)
この下りを神話風に言解くせば、高天原のアマテラス神が出雲神のニギハヤヒの許へ天津臣タカミカヅチと地祇臣ウマシマチを遣わして曰く〝天孫イワレヒコが降臨したヤマトの地はイワレヒコに賜りたい、代りとして出雲神の血脈は未来永劫受け継ぐことをウケイ(誓約)し、御霊は末代に亘ってお祀りしましょう・・〟と告げているのである。実際、天神・地祇合体の貴種は現代にも引き継がれ、ゆえに皇室にとって伊勢神宮と出雲大社は斬っても切れない〚天つ神・国つ神〛を奉祭する相関関係になっている。有史以来つづく気宇壮大でロマンに富んだ王統譜が驚くべきことに今に引き継がれているのである!。

             (板の大きさ : 210×480×30)


2012年9月29日   著者・制作  小川正武

2007年 著者近影