饒速日命(ニギハヤヒノミコト)
スサノオの六世孫
諡号は、大国主命(オオクニヌシノミコト)
大いなる大国を治める大王の意
出雲王朝/第六代大王である。
[私論編年 AD36-AD102、登美国在位22年、67歳で崩御]
出雲王朝にとって、大和は大王の都する処であった。その都の南部一帯が突如として武装集団に襲われ瞬く間にその一角が占拠された。しかも次代を担う王子や姫君らが捕われるという一大失態事に見舞われ同王朝はそのことに震撼し動揺してその基盤が根底から揺るぎだす出来事となった。
必然的に北部大和は敵と対峙する最前線となった。そこで、ニギハヤヒは「味耜高彦根」(アジスキタカヒコネ)と「宇摩志麻治」(ウマシマチ)を守りに残して、自らは「事代主」(コトシロヌシ)を従えて出雲へ還御、態勢の立て直しを図った。時にAD92年。
葛城の豪族「剣根」(※ 1)は「大国主命」とは傍系姻族であり匿っていた大国主の孫娘ヒメタタライスズ姫とイスズヨリ姫は共に剣根の叔母「玉依姫」を母とした。その葛城のまほろばの地も瞬く間に武装集団によって強襲制圧されたのである。
それでも出雲王朝は、南部大和の地こそ突如として失ったものの依然版図は山陰・近畿の大半に及んでいて神武の武装集団はその中の一角を占拠したに過ぎなかった。
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・・・しかし、人の寿命は贖うすべがなくAD102年ごろ、ニギハヤヒは出雲の宮(中つ国)で身罷った。この悲報は瞬く間に日本中を駆け巡り、全国から長たちが続々参集、わけても邪馬台国に組み込まれた葛木氏や鴨氏らも続々駆けつけて殯宮でニギハヤヒの霊を鎮めた。これが出雲における神有月の神祀のはじまりではなかったか。
服喪に集まったこれら神々は、過去五百有余年の永きに亘って出雲王朝が築いてきた言わば地方に分散した有力な姻族たちであった。
写真上は、出雲西谷墳墓群の一つで四隅突出型墳丘墓である。大国主命の埋葬地にも比定されている。
時代が100年ほど下って日女命(卑弥呼)の時代、日女命(日巫女)は先祖の『大国主命』(ニギハヤヒ)の御霊を鎮めるため、鬼道の導きに従い国家神道の規模で祀ることを命じ、斯くの如き壮大な出雲大社を建立させた。女王日女命の神勅が如何に絶大なものであったかがこれからも推測される。「日女命」という存在なくしてこのような建造物は出来得なかった。
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大国主命の人徳を偲ぶ伝説で有名なのは「因幡の白ウサギ」であろう。粗筋は、隠岐の島に住んでいた兎が因幡の多気岬へ渡りたいと思い、鰐を騙して渡ったがウソがばれて皮を剥がされて泣いていた、そこへ通りかかった大国主命が治療して助けたというおとぎ話。
(板厚30ミリ)
(※ 1) 葛城山東麓に勢力を張る三嶋溝杭を父にもつ娘(玉櫛媛)は、大国主の息子「事代主」の妻であった。この夫婦の間には「ヒメタタライスズヒメ」と「イスズヨリヒメ」それに「天日方奇日方」(鴨王)の三人の子を儲けていた。神武の宇陀からの奇襲は青天の霹靂であった。当時、事代主は父の傍に仕え登美に居た。その子たちは叔父「味耜高彦根」の館がある尾張邑に疎開していた。先年、難波津で兇賊の来襲があって河内から登美地方が不安定になっていたからであった。ところが兇賊は予期せぬところから突如として現れてあれよあれよという間もなく無防備な盆地南部を瞬く間に席巻、事代主の子らは辛くも三嶋溝杭を祖父にもつ葛城剣根の館へ逃げこんだ。しかし兇賊はその地へも侵入してきて同子女らを捕えて何処かえ連れ去ってしまった。このことが遠因となって「長髄彦」は詰め腹を切らされる羽目になるのである。
2012/11/22 著者 小川正武