観松彦香植稲尊(ミマツヒコカエシネノミコト)
以下、カエシネと略称する。
后は、尾張氏出自の世襲足媛(ヨソタラシヒメ)。同后にとって尾張氏の始祖 味耜高彦根は曾祖父にあたる。同時に大国主命の四世孫でもある。
邪馬台国の日嗣の御子はもとより嫡系男子に限られていた、それも末子継承であった。
しかも草創期のこの王朝の性格として同時に母方の血筋が大変重く尊んじられ、母系出自 (三輪氏) の后が何代にも亘って連綿とつづいていくことが望まれていた。
事実、神武から三輪氏の母方である二代綏靖・三代安寧・四代懿徳 へとつづいていたのである。
ところが・・・
ところが・・・第五代大王「カエシネ」のとき、その母の出自がそれまでと少し異なっていた。 どう異なっていたか、その内容をつまびらかにみると、カエシネの
父は、③安寧 (シキツヒコタマテミ)。
母は、師木(磯城)県主の祖、賦登麻和詞の娘で飯日媛(イイビヒメ)であった。
次に、カエシネの兄弟関係を見てみると、
長兄は、息石耳命(オキソミミ)。母は、鴨王(三輪氏)の娘「渟名底仲媛」で事代主の孫娘。
次兄は、④懿徳「スキトモ」尊。母は、同じく渟名底仲媛(ヌナソコナカツヒメ)。
次に本人、⑤孝昭「カエシネ」尊。スキトモとは二歳ほど年下の異母弟であった。 (※ 1)
「⑤カエシネ」の后の世襲足媛(ヨソタラシヒメ)は、父が天忍男(アメノオシオ)、曾祖父は尾張氏の始祖「 味耜高彦根」。従って、世襲足媛は始祖の三世孫にあたる。
「⑤カエシネ」は安寧の日嗣の御子であった。『先代旧事本紀』巻第七、天皇本紀に
〝観松彦香殖稲尊(カエシネ)は磯城津彦玉手看天皇(③安寧/タマテミ)の皇太子である〟と記述している。『記紀』編纂者は、父「スキトモ」、子「カエシネ」の関係に置き換えて改竄したが物部氏の書「旧事本紀」は、その真相をそっと忍ばせて今日に伝えたかったのであろう。
「カエシネ」が20歳の時、尾張氏の世襲足媛15歳を娶った。
異腹の兄「④スキトモ」はそのころ既に同母の長兄である息石耳(オキソミミ)の一人娘「天豊津媛」を娶って一子・武石彦奇友背(タケシヒコ クシトモセ )をもうけていた。
「③安寧」はAD158年に崩御した。皇太后になった「ヌナソコナカツヒメ」は後継大王に実子の次男「スキトモ」を強く推した。次男息子と長兄の娘の結びつきは母系出自の三輪氏継承を意味した。時の政権中枢にいた侍臣「大祢」と大臣「出雲醜」(イズモシコ)は皇太后の意思を忖度し、尾張氏の媛を娶った皇太子を差し置いてこれを無理やり実現させた。この大祢と出雲醜は共に兄弟で宇摩志麻治(物部氏)を始祖に戴く孫であった。 (※ 2)
■ 軍事と政事の大権を一手に握っていた時の執権者物部氏の「出雲醜」らに逆らえず「カエシネ」も「尾張氏」もこれに沈黙せざるを得なかった。しかし力でねじ伏せた王位継承には正当性がないとする不満が次第に高まり邪馬台国の中でこれに異を唱える怒れる猛者たちも現れ国を二分する争いとなった。それが先代「スキトモ」治世中の暗雲漂う出来事であった。
■ ところがスキトモ在位11年目のAD170年、スキトモは35歳で俄かに崩御した。そこでカエシネ(32歳)は第五代大王を自ら宣した。しかしこの時も「太皇太后」(60歳)になっていたヌナソコナカツヒメは尚も母系嫡孫に拘り遺児「クシトモセ」13歳をスキトモにつづく王に強く望まれ「カエシネ」の王位をまたもや阻むのである。そして事実上大王位空位のまま先代スキトモ治世時の混乱にも増して豪族内部でもいよいよ二派に分裂して大きな騒乱となった。その対立激化は一段と地域的広がりをみせ、やがて収拾がつかなくなっていった。そんな中、カエシネは橿原の宮から南西4キロの地、 后の生国 掖上池心宮へ都を移した。この倭国騒乱は遠く洛陽にまで鳴り響いていたのである。
■ そうした混沌のさ中、太皇太后はAD177年に68歳で身罷った。カエシネは人心が乱れる中、前任の大祢と出雲醜を解任し代わりの「大臣」に出石心命(イズシココロ、出雲醜の歳の隔たった異母弟)を、「大連」に尾張氏の瀛津世襲命(オキツヨソ)を親任し左右に近侍させた。しかし依然「スキトモ朝」の遺臣大祢と出雲醜は尚もクシトモセを擁立してカエシネと鋭く対立、ここに至って決定的に倭国は分裂し時として誅殺しあい、この内乱は北部九州にまで飛び火した。それが『後漢書』「桓霊の間 倭国大乱」が指し示す内乱であった。
出雲醜の軍事的脅威に対抗するためカエシネは、神武遺命でもある軍事総裁の物部職(世襲制)を出雲醜から奪い、カエシネに心を寄せる出石心に代えて任用、出雲醜の力を削いだ。継嗣争いは既に②綏靖朝の
タギシミミの変があるがそれに次ぐものとしてこの⑤孝昭朝のこの内乱を私は
『イズモシコの変』と仮称した。
諡号は、孝昭(こうしょう)天皇。邪馬台国/ヤマト王権第五代大王である。
【私論編年 AD138ーAD193年、在位17年間、50歳で退位、56歳崩御】
倭国大乱の只中、他方では物部氏の湖北進出がみられ、その地を婚姻を通じて中臣氏の伊香津臣(児の梨迹臣は後に遣魏正使を務めている)に与え、更に濃尾や北越方面へも進出。尾張氏などの勢力も淡海湖西へ進出、後にその地は和爾氏が支配。湖東は三上氏が若狭の本系「海部氏」から分岐して進出していた。 (※ 3)
■ 同時期 目を転ずれば、大陸では大規模な「黄巾の乱」(AD184年)が発生。AD189年 後漢朝の公孫度が遼東太守となる。公孫度は漢の威信が低下する中それに乗じて半島南部へ急速に勢力を伸ばし楽浪郡を支配下に置き郡冶を仕切って統率の拠点とした。次いで嫡子公孫康はAD204年さらに南下、帯方郡の土着の韓・濊族を討ち併せて北部九州などから交易を通じて集住していた倭地倭人
らも帰服せしめ、直接倭国をも脅かせる緊迫した情勢となった。 馬韓弁韓それに辰韓の沿岸部には既に紀元前から倭人の集落が点在していた。それは国境の定かでない古代の半島と山陰・北部九州の間に出来ていたごく自然で平和的な倭人の領域、つまり狗耶韓国という名の倭地があった。私はこれら海域を総称して
環古代倭地圏と名付けている。 王家が分裂して内乱に明け暮れた孝昭朝であったが、やがて和解の日が訪れた。それは思いもよらない従妹の出現によってであった。その名は「宇那比姫」、宇那比姫は大国主命の六世孫として生まれてきて行き詰った王統譜の瓦解を寸前に救った。この宇那比姫こそ倭国30国から共立され女王 「日女命」(ひめみこと)その人であった。いわゆる魏志倭人伝に登場してくる邪馬台国女王「卑弥呼」(ひみこ)その人である。そしてAD193年、⑤カエシネはそれを見届けるかのように安らかに崩御した。このとき日女命は22才であった。
(板厚30ミリ)
(※ 1) 安寧の第三皇子の名を『記紀』は単に「磯城津彦」とうそぶく。この呼称は単に〝磯城の男子〟と云う程度のもので実名ではない。当時、皇位継承権は末子継承が当然の慣わしであった、この第三皇子もそれを約束されていた。しかし『記紀』は、その名を明かすことの甚だ不都合を感じてこれを潜に隠蔽し、それに代わる名詞「磯城津彦」を使って系譜を改竄した。その不都合な名とは「カエシネ」(第五代邪馬台国大王 孝昭)のことであった。このカエシネの時、王位継承を巡って兄スキトモとカエシネの間で熾烈な継嗣争いが起こった、『記紀』編纂者はこのことをひた隠しに隠したかった。そして懿徳と孝昭の〝親子の王統は恙なく継承された〟と謳いたかったのである。
(※ 2) 長子が司祭を司り、末子が統治権を継承したという先代「綏靖」の故事を「安寧」が踏襲し「孝昭」を当然の如く太子に立てた、これがいわゆる『桓霊の間 倭国大乱』の端緒になったのである。
(※ 3) 皇太后が崩じた後の数年間、「カエシネ」政権もやや安定期を迎え、その間、播磨の国へ勢力を伸ばしヤマトの支配権を広げていた。その名「ミマツヒコカエシネ」は飾磨郡で大三間津彦として表れ、讃容郡では弥麻都比古の名で表れている。カエシネがこの地に足場を築いていたことが後年、播磨の西の国でヤマトに奉ろわぬ原吉備国(温羅の吉備)との戦いに発展し、後年 魏志倭人伝に登場してくる魏使「梯儁」が海路はるばる來倭のまさにその時、孫で孝霊の兄に当たる「大吉備諸進」がその吉備国と内陸で戦っていたのである。
2013/2/21 著者 小川正武