この二人は元を質せば〚味耜高彦根〛を祖とする同族であった。
※ 本稿第一章【邪馬臺国 その十九】[別紙-2] に示す系譜の宇那比姫こと女王戴冠後の尊称「日女命」(ヒメミコト)は、魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」その人である。
「卑弥呼」は我が意訳するところ「日の御子」であり、 「日御子」「日巫女」に通じ、即ち 邪馬台国女王「日女命」(ヒメミコト)なのである。
「卑弥弓呼」も同様「日の御彦」であり、「日御彦」に通じ、若狭の国(玖賀国)の男王、即ち 魏志倭人伝に出てくる「狗奴国」男王「ヒミヒコ」なのである。
この二人は敵対していた。
敵対していたが邪馬台国はなぜかこの狗奴国男王のことを畏れて卑弥弓呼 即ち〚日御彦〛(ヒミヒコ) と尊称していた。これは一体どうしたわけであろうか。?
女王「日女命」の御世、同女王の兄で大和葛城の高尾張邑に本拠を置く尾張氏の当主「建田背」は豪族連合の頂点に立つリーダー的存在で同時に丹波の国主でもあった。
片や若狭の国の男王「日御彦」は「天御蔭」の曽孫で「海部氏」と称し、尾張氏とは「天村雲」を共に父に戴く異母兄弟でかつまた長子であった。ところが邪馬台国女王「日女命」を擁立することに成功した尾張氏はヤマト王権の頂点に立ちその権能を行使して「海部氏」が領域とする加佐郡 (現在の宮津市から福知山市にかけての由良川水系一帯) を支配下に置いた。ここに邪馬台国と狗奴国の覇権争いが生じた。そして初期本宗家である「海部氏」は崇神朝に至って滅亡の悲運を辿るのである。
些か拙速ではあるがその顛末について先ずは以下要約して述べることとした。
※ 初期本宗家の「海部氏」は「天御蔭」の代で児が分岐して本系を笠水彦(ウケミズヒコ)が継いで若狭の国を治め、そして海部氏傍系となった三上氏が近江へ移り住んで野洲郡を治めた。
初期本宗家の「海部氏」から分岐した「三上氏」は幸いにもヤマト王権との覇権争いから難を免れ後代になってから「神功皇后」を輩出するに至った。その神功皇后に仕えたのが「日女命」五世孫の「武振熊」とその子で、この親子は開化を祖とする巻向王統を討伐した第一等の戦功によって「神功・武内宿禰」から一旦廃姓とされていた「海部氏」に替えて「海部直」を定めて賜り、本系「海部氏」の支配地だった若狭の国に加えて丹波・但馬の国までも引き継ぐこととなった。この後継「海部直」の出自は従って日女命系「和爾氏」であって本系「海部氏」とは血脈を異にしていた。このため天橋立の「元伊勢籠神社」が伝える国宝『海部氏本系図』にはこの間の四世孫から「武振熊」までの系譜が威圧的に削除させられていた。削除された側は削除された命の名は分かっていても公にすることが憚られ恐懼した。ここにヤマト王権は本系「海部氏」を滅ぼした不都合な真実を覆い隠した。本系「海部氏」と争った「尾張氏」は元を質せば本系「海部氏」と同根であった。皮肉にもこの一連の争いの責めを負う形で崇神朝を経た後の「尾張氏」本宗家は丹波から伊賀~愛知尾張へとその支配地を替え、その嘗ての栄光ある勢威は急速に衰えを見せるのである。
若狭の国 狗奴国男王「日御彦」(卑弥弓呼)の始祖は天御蔭の祖父「味耜高彦根」である。味耜高彦根は出雲王朝を出自とする丹波の王で、神武のヤマト王権を必ずしも奉ろわぬ王として最後まで抵抗した王であった。 (※ 1)
※ 本稿第一章【邪馬臺国 その六】 アジスキタカヒコネ 「尾張氏の始祖」の段でその人となりは詳しく記している。
その血を伝統的に引き継ぎ、丹後半島東海岸を含む敦賀湾岸一帯とその内陸、および大江山を含む由良川水系を支配地としていたのがこの本系「海部氏」の玖賀国男王「日御彦」であった。その本拠地は舞鶴の青葉山麓に在った。そして建田背の息子「建諸隅」が丹波の大県主となったころ、都ヤマトと丹波の府を結ぶ丹波道が日御彦が領域とする由良川水系と重なり合いその支配地を巡る争いが更に激しさを増した。そしてその境界領有を巡って双方が雌雄を決する骨肉相食む争いに発展するのである。
※ 日御彦がもしヤマト王権に帰属していた王であったならこうした確執は起こらず、日御彦はさっさと支配地をヤマトへ返納して恭順していたことであろう。逆説的であるがヤマト王権とは対等の独立した王国であったため双方譲れない大きな争いとなった。即ちヤマト王権を奉ろわぬ出雲王朝最後の末裔たちとヤマト王権 (邪馬臺国) との攻防であったのだ。
ただ単に出雲王朝がヤマト王権へ国譲りしたと紐解く神話ほどに史実はそう単純ではなかった。
(※ 1) 「天御蔭」は少なくとも「神武」の孫世代に相当する人物である。このことにまず注意を払うべきではないか。
天御蔭が幼児期に最晩年の歳老いた神武に知古を得て接触を重ねる蓋然性はまずない。天御蔭は「安寧」御世の人で神武が崩じた後に生まれてきた人である。神武が行幸先で出会ったという美しくうら若き女性、豊御富(とよみほ)に言葉をかけるが、その女性を天御蔭が娶ったという『記紀』伝承に私は混乱する 。その混乱は天御蔭が豊御富を娶ったからではなく、その場面に「神武」が時代を超越して幽幻と登場してくることの異世代間挿話への混乱である。[別紙-2]
『記紀』思想に流れる観念は、一貫して単純化した男子一系の高貴で麗しい歴史を描いている。男子一系であったが故のつじつま合わせが上記混乱を招き、重要な系譜の意図的削除や恣意的造作がそこここに見られる。そう!私も男子一系になんの異論もないがその経緯がそんなに生易しく綺麗ごとでは済まされなかったことを歴史の真実は如実に訴えている、そして天皇を祖先に戴く後裔氏族たちが互いの皇統の正当性を競い合った過去2000年間の中で今日に見る万世一系へと収斂していったものと考える。
時代をAD245年に戻す。
この年は魏の正治六年に相当し、前年 魏は西で蜀漢征伐に惨敗を喫し、東では高句麗による嶺東情勢が緊迫し、帯方郡においても東濊・辰韓の対応に迫られていた。この状況から帯方郡太守「弓遵」は倭への南からの策動を促していたが、その最中に崎離営で戦死した。
では倭ではその当時どういう状況であったか!と言えば、日女命(卑弥呼) の甥「建諸隅」47歳は頂点を極めていたものの、都 ヤマトと丹波の国府に繋がる丹波道を遮る玖賀国(狗奴国)に対してその支配権を巡って争っていた最中であった(別紙-4)。
そして「孝霊」38歳は父 孝安が崩じた後を継いで磯城の黒田庵戸宮(くろだのいおとのみや)に遷りその地で政を布いた。しかし、日女命が倒れて男弟の任を離れた孝霊の立場は、共立女王卑弥呼擁立時の「男弟ありて佐けて国を治」める大義名分が損なわれその正当性について懿徳王統の大彦23歳と開化20歳から疑義が惹起され、「孝霊」は単なる傀儡と捉えて物部氏と倭氏の力を背景に現体制への異議申立てを声高に唱えながら対立姿勢を露わにして不穏な動きを見せていた。とても遣使どころではなかったのである。
写真左は唐子・鍵遺跡である。孝霊の都する所であり皇后出自の地でもあった。当時の環濠集落としては国内最大で日女命の王宮「室秋津洲宮」からは北北東約12キロの距離を隔てて所在していた。
「建諸隅」は第一次魏朝遣使を務めた人物で大陸情勢に通じた国際人であった。それが狗奴国との争いに力を削がれ、都の護りがとかく手薄となっていた。
先帝「孝安」がまだ幼かったころ、その兄「天足彦国押人」と従妹の宇那比媛(日女命)がそれぞれ丹波に身を寄せていた。ところが今日に見る「孝霊」の娘「倭迹迹日百襲姫」 8才はその地へ行くことが叶わず、讃岐の水主(みずし)で身を隠していた。讃岐の水主邑(現在の東かがわ市)は伯父「建諸隅」の本営する山城国久世水主邑とも相通じる地名で同姫の終焉の地ともなったことからこの二つの邑の由縁を敢えて探るなら百襲姫の母「倭国香姫」は建諸隅の妹にして、その紐帯から両地を同名にして孤立する百襲姫との連帯を確かめ合っていた、そう私は解する。また同姫の同母弟 彦五十狭芹彦(吉備津彦) 6才は伯父「大吉備諸進」の播磨本営で匿われていた。そうした暗雲たなびく中、立太子を翌年に控えた「彦国牽」(ヒコクニクル)後の孝元 15才はとかく病弱であったが都に留まり和邇日子押人らに護られていた。この和邇日子押人もまた第二次魏朝遣使の副使(掖邪狗)を務めていた。そのときの正使は「伊聲耆」こと中臣氏の「伊世理」であった。その伊世理の父「伊香津臣」は近江湖北に在って「建諸隅」と呼応して北の狗奴国と対峙しつつ、狗奴国の傍系である南の三上氏ともその寝返りを恐れて警戒に当たっていた。(※ 2)
これが245年当時の都 磯城黒田庵戸宮 (※ 3) を取り巻く周辺情勢であった。
(※ 2)
遣使は上古からの慣わしにつづく中臣氏の専権であった。第一次も第二次も魏への朝貢は正使として前面に立って務めていた。第一次正使は「伊世理」の兄「難升米」こと「梨迹臣」であった。この慣例は遠く前漢から続いていたものでありAD57年の後漢入貢の大夫「奴国王」もAD107年の倭国王「帥升」もそれぞれ倭の全権を付託された臣下中臣氏の慣わしであった。このことは、神武東遷後も変わらない本系中臣氏の栄誉であった。更に申せば、物部氏は軍事を司る世襲家であり倭氏は一大率を含む各地国府を統括する司であった。その中で尾張氏は女王「日女命」を輩出した貴族で、ゆえに天子を戴く司の総裁の地位に就けた。ここに、物部氏はいつか尾張氏の地位に取って代わらんとする強い意志が働き、懿徳の血を引く彦大日日(開化)を担ぎ上げんとする伏線を忍ばせた。即ち、孝霊に仕える物部氏の大矢口宿禰は娘の欝色謎を没落して顧みられなくなっていた貴種「奇友背二世」に嫁がせて生ませたのが彦大日日であり、その遠謀は更に同宿禰の孫娘 伊香色謎を彦大日日と同世代の孝元に納め、皇統譜八代目にして漸く尾張氏に並ぶ天皇姻族を物部氏も持つに到るのである。
欝色謎は孝元の一世代前の人であり、AD245年当時はその児 大彦は既に23才、彦大日日(開化)も20才に成長しており、孝元にいたってはそれよりも更に年少の15才で、その孝元が欝色謎(48歳)を后に迎え入れんとする政略的必然性は極めて薄く、むしろ同年代の伊香色謎を入后させることで台頭してくる彦大日日や物部氏の圧力を逸らさんと図った!、そう解するのが自然ではないだろうか。
(第一章【邪馬臺国 その19】 私論皇統譜 ミッシングリンク その1) 参照
ここに於いても不都合な系譜の隠蔽が『記紀』には観てとれるのである。
(※ 3)
唐古・鍵遺跡は巨大環濠を形成し水田稲作集落を営んでいた。一方、優れて工人工房も多数存在していた。人々はみな神の恵みに感謝して銅鐸・鏡・ヒスイなどの祭祀具を加工鋳造しながら自らも用いて祈りと祭りを朝な夕な行っていた。中でもとりわけ注目すべきは仿製鏡である三角縁神獣鏡の製作を一手に担い各地の豪族へ下賜していたことである。 (前章【邪馬台国 その十七】) 参照
そして人・物・文化が河川流域の船便を通じて頻繁に行きかい、九州・北陸・東海・関東・東北奥州・韓半島それ以遠の中国大陸とも交易が盛んに行われていた。大王の都するところに相応しい要衝の地として紀元前の古き昔から大いに栄えていたのである。
大日本根子彦太瓊尊 (オオヤマトネコヒコフト二ノミコト)
孝安天皇の第二皇子。 后は細媛命(磯城県主大目の娘)
生母は女王「日女命」の皇女「押姫」、押姫の兄が「和邇日子押人」。
孝安天皇第一皇子は「大吉備諸進」。同皇子は祖父「孝昭」の御世に播磨に進出していた地歩を引き継ぎ、父「孝安」の勅命を奉じて更に以西へと版図を広げるべく「温羅の吉備」国を攻めていた。
諡号は、孝霊(こうれい)天皇。 邪馬台国/ヤマト王権第七代大王である。
[私論編年 AD207-251年、249年退位、在位9年。45歳で崩御]
(板厚30ミリ)
※ 物部氏が皇統譜に列した時期は、九代開化が生誕した年を以て以後とみる。(AD225年)
2014/8/15 著作者 小川正武