由碁理
大丹波王「由碁理」(ゆごり)は、大和尾張邑を本拠地とする尾張氏第七代当主「建諸隅」(たけもろずみ)である。 父「建田背」は大丹波の領袖でその妹が宇那比姫こと「日女命」である。従って、「建諸隅」は邪馬台国女王「日女命」の甥にあたり、同時に景初二年(AD238年)魏へ朝貢した副使「都市牛利」当時40歳その人である。
【私論編年 AD198~254年、57歳薨去】
因みに尾張氏始祖は「大国主命」の第二皇子「味耜高彦根」であり、「建諸隅」の愛娘は「天豊姫」と称されて魏志倭人伝に登場してくる邪馬台国女王「臺与」(トヨ)その人である。
〝塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりこれを告諭す。卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更に相誅殺し、当時千余人を殺す。云々〟 『魏志倭人伝』 抜粋
時は、AD248年央。
昨秋、魏の「張政」が來倭。張政は來倭したものの遣使目的が果たせぬまま「孝霊」治世下、在地豪族「河内青玉繁」の接遇を受けながら難波館に踏みとどまっていた。そして恐れていたことが遂に起こった。それは「日女命」殯の最中にもかかわらず「大彦・彦大日日」兄弟が兵を起こして孝霊の宮都を包囲したからだ。そして彼らが掲げる大義とは〝尾張氏系(孝昭)王統の孝霊は女王「日女命」が崩じた後はそれを輔佐する世襲権は既になくいまや傀儡であること、大王位に復帰すべき真の継承者は三輪氏系(懿徳の曾孫)王統の裔たる吾らにこそ正義在り〟というもので積年の鬱積した不満が孝霊退位を迫る露骨な軍事行動となって現れた。これを後押ししたのが物部氏と倭氏で、対する和邇氏と葛城氏は手薄になっていた磯城の「庵戸宮」(いおとのみや) に兵を出して王宮を十重二十重と固めてこれに備え、厳しく対応していた。〚別紙-7〛
当時、尾張氏当主「建諸隅」(50歳)は、都を離れて山背の水主に本営を置き玖賀国(狗奴国)に対峙していた。一方、淡海の豪族「三上氏」は玖賀国の「海部氏」とは傍系で且つ又「物部氏」とも代々通婚を重ねて親密な関係を維持していた。それゆえに「尾張氏」の建諸隅は玖賀国と対峙する反面、野洲の「三上氏」向背にも警戒しその分中央への影響力が削がれていた。この力の不均衡を埋めるために孝霊朝から期待されていたのが播磨の地を収めていた孝霊の兄「大吉備諸進」の來援であった。がしかし大吉備諸進もまた「温羅の吉備」王と千種川を挟んで攻防を繰り返しており直ちに反転して緊迫する畿内へ駆けつける余力はなかった。
「温羅の吉備」王は江南の呉と通じ、その先進文化を取り入れて独自に発展し、倭を奉ろわぬ国として狗奴国同様 邪馬台国と敵対関係にあった。(※ 1)
河内国の領袖「河内青玉繁」は、愛娘「埴安媛」を「孝霊」の皇太子「彦国牽」(ヒコクニクル) の妃に納めることに成功(日女命を服喪して翌年に婚儀)し、王統内訌で揺れる孝霊朝に忠誠を誓った。倭国を構成する他の部族長は旗幟を鮮明にせずこの成り行きをおどろおどろしく見守っていた。
将軍「大彦」率いる軍勢が磯城の都を攻めあぐねていたころ、「建諸隅」は本営水主から大軍を率いて南下、孝霊の王宮を目指して動き出した。これを察知した大彦の主力は物部軍と合流して北上、木津の吐帥 (はぜ)ヶ原の手前で布陣した。建諸隅軍は梅雨寒い払暁、木津川を渡河、朝靄を衝いて大彦軍へ勇躍突進し瞬く間に両軍の間で夥しい死傷者が出た。だが数刻が過ぎても戦いに決着がつかず両軍とも次第に後方へ退き、再び河を挟んで対峙するも、やがて動きが止まって膠着した。(※ 当時の邪馬台国の戸数七万戸は老若男女少なく見積もっても凡そ35万人の人口規模) 曰く、国の大人は皆四・五婦、下戸も或は二・三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、淨訟少なし‥租賦を収む。邸閣有り、市有り有無を交易す、云々 【魏志倭人伝】 〚写真上は木津の湿地帯、吐帥ヶ原〛
(尾張氏第七代当主「建諸隅」)
この戦いを観戦する外国武官がいた。云うまでもなく「張政」である。張政は文官であるというより元を糺せば郡境の守備隊長であった。張政が來倭して早やくも一年近くが経過、今は亡き「日女命」の子息「和邇日子押人」の庇護の下、この戦いを静かに遠望していた。そして夥しい屍が河原に累々と横たわる中、軍官の眼差しでこの事態収拾に思いを巡らせていた。
素より彼の遣わされた本分(法)から彼がそれを逸脱することは許されず、その中で彼が如何に為せば魏の皇帝の徳(礼)を発揮し得る行為に繋がるか!を探っていた。成果なき倭からの帰還は皇帝の威厳と体面を著しく汚し、化外慕礼する倭国との友邦関係にもヒビが入りかねない、そのことを張政は腐心していた。
張政は「温羅の吉備」王が呉と通じていることを掴んでいた。それは中国事情に精通する率善中郎将「和邇日子押人」から直接聞かされていたこともあったが同時に、在一年の独自諜報から得た確信でもあった。当然「温羅の吉備」王が倭の敵であることは魏にとっても敵であることに変わりなく、二方面に敵を抱える倭が大王位を巡って内紛している様は魏にとっても大変由々しい事態で、その時局収拾に向けた策を張政自身 遣使の立場をむわきまえた上で模索していた。
※ 張政は帯方郡の一官吏に過ぎず皇帝直属の勅使ではない。張政は使節一行を取り仕切る統括責任者であった筈だ(勅使といえどもその管轄下にあった)。だが当該勅使の名は魏志倭人伝のどこにも標されていない。故に私は便宜上「張政」を勅使に仮託している。この註は前項にも重複記載した。
「大彦」の外祖父「大矢口宿禰」は吐帥の戦局に思いを馳せながら76歳の天寿を全うした。同宿禰は自らの寿命を悟ったとき、息子たちを枕元に呼び〝我ら氏族は建国以来、三輪氏・尾張氏の後塵を拝してきたが吾が始祖こそ原大和の国主(長髄彦)に繋がる由緒ある血筋であること。初代神武から専ら武門の司を担ってきた栄誉ある世襲家であること。今次の内訌がたとえどちらに傾こうとも物部氏が爾後ともに存立していくために三輪氏・尾張氏に伍して皇家姻族に列し、両王家を凌駕しなくてはならないこと〟この悲願を託して逝った。
大彦の伯父「欝色男」は登美に在って物部氏第六代宗主を踏襲、その弟「大綜杵」は大彦に随従して戦場に臨んでいた。
大彦の同母弟「彦大日日」(後の開化天皇)は母「欝色謎」と共に登美の地に匿われていた。(※ 2)
張政は「吐帥の戦い」で損耗甚だしい両軍の惨状を見て、再度の合戦は当面遠のいたと察知。尚且つ旗幟を鮮明にしている「和邇氏」と「河内氏」の軍兵が無傷で中央に控えている情勢は明らかに孝霊朝に分があると判断した。
軍官出身の張政はこの力学的軍事情勢の節目を決して見逃さなかった。両軍の均衡が孝霊朝に優位に傾いた瞬間を捉えて張政の動きは素早く且つ能動的で大胆であった。その能動的で大胆な行動とはそも一体何を指すのであったか!?
AD250年、建諸隅は娘「天豊姫」が二代目「邪馬台国女王」に推戴された後、文字通り国父の威厳をもって倭国豪族連合の頂点に君臨した。同年夏、過去三年に亘る遣使「張政」が果たした倭国滞在中の貢献に対し、女王「臺与」の名において国を挙げて張政送別を壮挙した。
魏志倭人伝曰く、〝臺与、倭の大夫 率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。〟と
この大任を仰せつかったのは和邇日子押人その人であり、張政一行を郡治まで送り届け、更に魏の帝都「洛陽」にまで足を延ばして朝貢した。(※ 3)
国父「建諸隅」はその四年後に崩じた、享年57歳。
(※ 1)
「温羅の吉備」とは、私に確証があるわけではないがその祖先は紀元前に秦の圧政から逃れた徐福王が徐族全体を率いて蓬莱の地を目指して東渡した際、船団が潮に流され分散していったその一部が命辛々吉備に辿り着いた、辿り着いた人々は在地の人々と混じり合ってその中から王を立てた。 そうした人々ではなかったか!。吉備(山陽)の人々のDNA鑑定結果では江南の人々の Y染色体が30%余を占めているとか!この「王」は独立性が高く倭に服属することを由とせず抵抗した。ここに孝昭期(孝霊の祖父)以降 邪馬台国は「温羅の吉備」王征伐に乗り出していくことになるが長年に亘って手を焼く相手となった。同時代、既に「温羅の吉備」国は江南と交易を通じて文化的に鉄製農耕器具すら自前で生産していた節があり、また支配層が亡くなれば墳丘墓に独特の特殊器台を立てて、その器台に壺土器を据えて供物を添えお祭りしていた様子さえ覗えた。(上の参考写真は岡山の特殊器台)
(※ 2)
「欝色男」(うつしこお)が物部氏第六代宗主であることの初代からの嫡宗の流れを以下に示した。
①宇摩志麻治--②彦湯支--③大禰--➃出石心--⑤大矢口宿禰--⑥欝色男
因みに初代 宇摩志麻治の父は「大国主命」、母は「御炊屋媛」(ミカシキヤヒメ)、御炊屋媛の兄は神武と戦った原大和の国主「長髄彦」(ナガスネヒコ)。
一方、「建諸隅」(たけもろずみ)が尾張氏第七代宗主であることの初代からの嫡宗の流れを合わせて以下に示した。
①味耜高彦根--②天村雲--③天忍人--➃天戸目--⑤建斗米--⑥建田背--⑦建諸隅
因みに初代 味耜高彦根の父は「大国主命」で異母弟が宇摩志麻治である。加えて、三輪氏始祖「事代主」は父を同じくする味耜高彦根の兄にあたる。この大王位継承を巡る各王家後裔の争いは元を手繰れば皆「大国主命」(出雲王朝最後の大王)に辿り着く同根なのである。
(※ 3)
倭が朝貢する際、生口献上という他に例を見ない特異な慣習がつづく。帥升がAD107年に後漢へ朝貢した際も生口160人という一団を献上している。この時期は神武が大和盆地南部を制圧していた時期と重なる。が、しかし当時はまだ神武が倭国を統一していたわけではない。むしろこの時期は畿内諸豪族と緊張関係にあって武力によって制覇することの限界に深刻に直面し、それに代わる一大デモンストレーションとして後漢の権威を背景に帰服せしめんとする東遷勢力の企図が働き、原郷筑紫ヒムカの奴国大夫「天押雲」(帥升)たちに戦略的朝貢が発動され、それが挙行されたものであった。そのとき後漢「安帝」から下賜された「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が邪馬台国の権威を高める神器となった。このシンボリックな鏡は女王の呪術的政権と共に崇神の手によって葬り去られ大和の地から忽然と消え失せて帥升の末裔が住む原郷へと潜に還って行った。
〚第一章 邪馬台国 その八〛から抜粋。 (写真は同鏡の断片)
AD250年、掖邪狗が生口30人を朝貢の折 献上している。ここに生口の慣習を通して「帥升」と「和邇日子押人」が各々連環していることが解る。このことから倭国王「帥升」は奴国の大夫「天押雲」であり、帥升の父がAD57年の漢委奴国王の印綬にある大夫「天児屋根」(遠祖中臣氏)で、「難升米」(梨迹臣)と伊聲耆(伊世理)が共々魏に正使として遣いした名門「中臣氏」であることから歴代中臣氏は遣使朝貢の正使を務める専権的家柄或は司であったことがここから透けて見えてくるのである。
2015/2/6日 著作者 小川正武