第二代 倭の女王〚臺與〛大礼の儀
女王「日女命」(卑弥呼) の宗女「天豊姫」13才は、諸族の長たちに推戴されて女王が都する所「邪馬台の国」(大和の国)において第二代倭の女王〚臺與〛(とよ)として誕生した。時にAD250年春。
父は、尾張氏第七代当主「建諸隅」(たけもろずみ)。母は、葛城氏の諸見己媛(もろみこひめ)。
実兄に「日本得魂」(やまとえたま)がいる
日本得魂の血脈は後代「継体」の皇子「安閑」「宣化」へと繋がっていく。
日本得魂の血脈は後代「継体」の皇子「安閑」「宣化」へと繋がっていく。
〚私論編年 AD237~290年、在位26年 享年54歳〛
『魏志倭人伝』曰く、〝宗女〚臺與〛13歳を建てて王となし国中遂に定まる。政等、檄を以て臺與を告諭す云々〟
巻向の仮宮殿でそれは厳かに口誦(告諭)せられた。曰く、〝国(魏)は汝の後ろ盾にあり。汝は種族をよく束ねよく綏撫(司祭)し、国家鎮護に務めるべし〟と。
張政が倭国滞在中に見たこの国の特異さは、海道を隔てて異民族襲来のなかったことを幸いに、大王位を巡る皇統間の際限ない争いが続き、その間、外国使節朝来にすら満足に対応できず、混迷する先の見えない危うさを抱えたこの国の生末を他事ながら安危していた。だがその混沌としたさ中で唯一光明たるは王権争いに距離を置く新たな司祭王「臺與」の誕生を見たことであり、それは倭人社会がもつ究極の知恵と危機回避の選択であり、奇しくも張政がその役割の一助を与り、皮肉にも遣使本来の主意にあらざれど魏が徳を以て倭へ報じた使者へとその姿を変貌していた。
故に、倭は張政の功績を称えかつ是に如何に応えるべきか!孝元は女王大礼の儀を遡ること茲「軽境原宮」に於いて〝張政ら使節一行の還るを見送るねぎらいの方途〟について国父「建諸隅」ほか族首面々を交えて朝議に諮っていた。
結果、遣使一行を帯方郡まで鄭重に送り届け、且つその足で答礼使を都「洛陽」まで上らせ、魏へ詣るを決断、張政在倭三年に及ぶ倭国大乱鎮定への貢献を魏に対して答謝することとした。
その正使には張政と緊密に連携してきて最も政治的成果を挙げた率善中郎将「和邇日子押人」(掖邪狗)その人を当てることに決した。(梨迹臣こと難升米はこのとき既に鬼籍)。
その規模は、二十余人からなる使節随員と、生口三十名のほか珠玉や異文錦など多数の貢物を添え、倭の威信を懸けた壮挙を裁可した。
孝元は司祭する女王を戴いたがその実態は真ごうことなくこの国を領導していたのである。
[右図は4~5世紀ごろの半島勢力図]
話が反れた、元へ戻す。時にAD250年春、場面は巻向仮宮殿『大礼の儀』
張政が臺與に檄を告諭するに先立つこと国父「建諸隅」は、「天豊姫」の前へ進み出て、邪馬台国女王「日女命」の正当な継承者たるを象徴するシンボリックなレガシー〚金銀錯嵌珠龍文鉄鏡〛を厳かに授け、同時に姫の頭上に女王を象徴する王冠を冠せられ賜うた。これを以て天豊姫は名実ともに倭国を代表する邪馬台国(大和国)に坐ます第二代倭国女王『臺與』となった。
この大礼の儀に臨席した群臣の中で一際注目が集まったのは大彦・彦大日日(※ 1)と大吉備諸進(※ 2)の存在で、各々畏まって昇殿に粛然と控え、孝元もまた垂簾の間に坐ましてこれを総覧していた。並み居る群臣たちはこの場景を眺めて先の女王「日女命」の御宇再来と歓びに沸いた。
国父「建諸隅」は「張政」らが倭を去らんとするこのとき、「孝元」の詔を押し戴いて〝その還るを倭の使者をもって郡まで送らしめ、その長年の労に報いん、加えて台へ詣り答謝す〟この旨遣使一行に説諭した。
時にAD250年春、巻向仮宮殿に於いて。
〝以和為貴〟あの有名な十七条憲法の原点は、それを遡ること354年前のこの「巻向宮」にその精神は宿り、司祭する女王は国を領導する男王の意思を神に聴き且つ神宣し、因って当時の倭人社会の人々を寧撫し同時に人々から尊崇の的となっていた。
(※ 1)
尾張系大王「孝元」の夭折に端を発した王朝交代劇は物部系大王「開化」がこれに取って代わり、邪馬台国女王「臺與」は新たに大王となった彦大日日(開化)の下へ半ば人質婚にも等しい形で真っ先に取り込まれ恭順入妃する運命を辿った。時に臺與(天豊姫)18歳、そして開化の第一子「彦湯産隅」(ひこゆむすび)を生んだ。
この開化の長子は、その血統の高さから世が世であれば皇位継承第一位の資格を備えていた。が しかし、開化は亡き孝元の皇后「伊香色謎」を入内させ開化の第二子となる「崇神」を儲けた。このことによって彦湯産隅は臣籍降下となり、崇神紀10年の「狗奴国」討伐で丹波道からの進攻において功を立て因って勲爵「丹波道主」の称号を賜り、外祖父「建諸隅」の嘗ての支配地「丹波国」へと中央から体よく遠ざけられてしまった。
丹波国における「彦湯産隅」は専ら「丹波道主」と号し、母「臺與」の異母弟で丹波の川上郷(現:久美浜)の地方豪族「川上麻須」の娘「川上麻須郎女」(ますろめ)を娶ってその地に館を構え「日葉酢媛」ら五人の姫君を儲けた。この五人の姫君は、垂仁朝の世になって垂仁の后とその兄による「狭穂彦の乱」が起こり、身ごもっていた皇后「狭穂姫」が焼身自殺するという痛ましい結末に終わった。その死の間際に同皇后の口から後事は「丹波道主」の姫君を迎えられるようわざわざ言い残した。このことで乱に連座した嫌疑が「丹波道主」に及び、為に畏れた丹波道主は五媛を人質同然に差し出し垂仁に降った。その五媛の内、少なくとも一人は垂仁に抗した科で辱めを受けて自害し、今一人は子が産めずに死んだ。父「丹波道主」は親に先立つ娘の死出の旅立ちを嘆き悲しみ、残った後后の「日葉酢媛」も五人の御子を産んだ後早死にした。垂仁の先后を失った荒んだ気持ちが招いた悲劇であった。垂仁はその後、山背の綺戸辺(かにはとべ)ら姉妹を娶っている。綺戸辺は仲哀の母となる両道入姫(ふたじりひめ)を産んだ。
『古事記』に記されている「丹波道主」は、開化の第三皇子「彦坐」の児としている。ここにおいて「彦坐」(ひこいます)系脈に重大な改竄が仕組まれていることを私は観た。以下、それについて若干この項でも触れておかなければならない。
「彦坐」の母は「和邇日子押人」の娘「姥津媛」(ははつひめ)である。外祖父「和邇日子押人」の母は云わずと知れた女王「日女命」である。そして崇神とは一歳年下の異母弟ということになる。その弟「彦坐」が『古事記』によれば事もあろうに「丹波道主」を児とする。一方で兄「崇神」は「垂仁」を児とする。ならば丹波道主と垂仁は同世代ということになる。その丹波道主は「日葉酢媛」を児とする。垂仁もまた「景行」を児とする。であるなら日葉酢媛は景行と同世代ということになる。景行の御世に日葉酢媛が垂仁の后となるこの矛盾は、その背景に不都合な真実(史実)が潜んでいることを意味し、そのことから目を反らさんがために仕組まれた系譜である!、ということがこのことから透けて見えてくるのである。[別紙-9 その1 ]
同様に彦坐が母の妹である叔母を娶らねばならない宿命的或いは政略的必然性(直接的因果関係)は特に見当たらないがそれは兎も角として、その系脈が突然「三上氏」血脈へと変幻する不気味さに私は思わず震撼する。その震撼する中身とはそも何ぞや?である。
崇神朝に到り、「彦坐」が若狭の「狗奴国」を討伐して凱旋する帰途、その系族近江の「三上氏」反抗の芽を事前に摘んでおくため同氏嫡女「息長水依媛」を人質に取って妃とした。その血脈の四世孫に「息長足媛」即ち『神功皇后』が出現して開化を祖とする「巻向王統」を顛覆させるまでに繋がる。
この秘められた怖ろしい系脈の根っこには三上氏嫡女「息長水依媛」が居て、その怨念と復讐の鬼気迫る呪われた系譜であることの露わとなることを恐れた『古事記』はそれを隠蔽せんがために彦坐と叔母をわざわざ不自然に結びつけた、同時に複雑にして不必要な多くの妃を彦坐にくっ付けて誤魔化し造作した、それが『古事記』に付記された奇っ怪な系譜となって表されているのである。
巻向の仮宮殿でそれは厳かに口誦(告諭)せられた。曰く、〝国(魏)は汝の後ろ盾にあり。汝は種族をよく束ねよく綏撫(司祭)し、国家鎮護に務めるべし〟と。
張政が倭国滞在中に見たこの国の特異さは、海道を隔てて異民族襲来のなかったことを幸いに、大王位を巡る皇統間の際限ない争いが続き、その間、外国使節朝来にすら満足に対応できず、混迷する先の見えない危うさを抱えたこの国の生末を他事ながら安危していた。だがその混沌としたさ中で唯一光明たるは王権争いに距離を置く新たな司祭王「臺與」の誕生を見たことであり、それは倭人社会がもつ究極の知恵と危機回避の選択であり、奇しくも張政がその役割の一助を与り、皮肉にも遣使本来の主意にあらざれど魏が徳を以て倭へ報じた使者へとその姿を変貌していた。
故に、倭は張政の功績を称えかつ是に如何に応えるべきか!孝元は女王大礼の儀を遡ること茲「軽境原宮」に於いて〝張政ら使節一行の還るを見送るねぎらいの方途〟について国父「建諸隅」ほか族首面々を交えて朝議に諮っていた。
結果、遣使一行を帯方郡まで鄭重に送り届け、且つその足で答礼使を都「洛陽」まで上らせ、魏へ詣るを決断、張政在倭三年に及ぶ倭国大乱鎮定への貢献を魏に対して答謝することとした。
その正使には張政と緊密に連携してきて最も政治的成果を挙げた率善中郎将「和邇日子押人」(掖邪狗)その人を当てることに決した。(梨迹臣こと難升米はこのとき既に鬼籍)。
その規模は、二十余人からなる使節随員と、生口三十名のほか珠玉や異文錦など多数の貢物を添え、倭の威信を懸けた壮挙を裁可した。
孝元は司祭する女王を戴いたがその実態は真ごうことなくこの国を領導していたのである。
ただ、こうしている間にも海道を隔てて朝鮮半島倭地「任那の地」では北方系諸民族(辰族ら難民)の南下によって蚕食が徐々に進み、やがてそれから105年後のAD355年、辰韓六国が連合して新羅が建国(独立)するに及び、倭はこれの対応に仲哀と神功の間で齟齬が生じもたつき、その八年後漸くにして失地回復のためにいわゆる〚神功皇后新羅征伐〛で形容される本邦倭軍による組織的本格的半島出兵が行われるようになるのである。それは歴史的必然であり、倭が一方的に半島を侵略したなどとする真逆な史観は当たらないのである。
[右図は4~5世紀ごろの半島勢力図]
話が反れた、元へ戻す。時にAD250年春、場面は巻向仮宮殿『大礼の儀』
張政が臺與に檄を告諭するに先立つこと国父「建諸隅」は、「天豊姫」の前へ進み出て、邪馬台国女王「日女命」の正当な継承者たるを象徴するシンボリックなレガシー〚金銀錯嵌珠龍文鉄鏡〛を厳かに授け、同時に姫の頭上に女王を象徴する王冠を冠せられ賜うた。これを以て天豊姫は名実ともに倭国を代表する邪馬台国(大和国)に坐ます第二代倭国女王『臺與』となった。
この大礼の儀に臨席した群臣の中で一際注目が集まったのは大彦・彦大日日(※ 1)と大吉備諸進(※ 2)の存在で、各々畏まって昇殿に粛然と控え、孝元もまた垂簾の間に坐ましてこれを総覧していた。並み居る群臣たちはこの場景を眺めて先の女王「日女命」の御宇再来と歓びに沸いた。
国父「建諸隅」は「張政」らが倭を去らんとするこのとき、「孝元」の詔を押し戴いて〝その還るを倭の使者をもって郡まで送らしめ、その長年の労に報いん、加えて台へ詣り答謝す〟この旨遣使一行に説諭した。
時にAD250年春、巻向仮宮殿に於いて。
〝以和為貴〟あの有名な十七条憲法の原点は、それを遡ること354年前のこの「巻向宮」にその精神は宿り、司祭する女王は国を領導する男王の意思を神に聴き且つ神宣し、因って当時の倭人社会の人々を寧撫し同時に人々から尊崇の的となっていた。
(※ 1)
尾張系大王「孝元」の夭折に端を発した王朝交代劇は物部系大王「開化」がこれに取って代わり、邪馬台国女王「臺與」は新たに大王となった彦大日日(開化)の下へ半ば人質婚にも等しい形で真っ先に取り込まれ恭順入妃する運命を辿った。時に臺與(天豊姫)18歳、そして開化の第一子「彦湯産隅」(ひこゆむすび)を生んだ。
この開化の長子は、その血統の高さから世が世であれば皇位継承第一位の資格を備えていた。が しかし、開化は亡き孝元の皇后「伊香色謎」を入内させ開化の第二子となる「崇神」を儲けた。このことによって彦湯産隅は臣籍降下となり、崇神紀10年の「狗奴国」討伐で丹波道からの進攻において功を立て因って勲爵「丹波道主」の称号を賜り、外祖父「建諸隅」の嘗ての支配地「丹波国」へと中央から体よく遠ざけられてしまった。
丹波国における「彦湯産隅」は専ら「丹波道主」と号し、母「臺與」の異母弟で丹波の川上郷(現:久美浜)の地方豪族「川上麻須」の娘「川上麻須郎女」(ますろめ)を娶ってその地に館を構え「日葉酢媛」ら五人の姫君を儲けた。この五人の姫君は、垂仁朝の世になって垂仁の后とその兄による「狭穂彦の乱」が起こり、身ごもっていた皇后「狭穂姫」が焼身自殺するという痛ましい結末に終わった。その死の間際に同皇后の口から後事は「丹波道主」の姫君を迎えられるようわざわざ言い残した。このことで乱に連座した嫌疑が「丹波道主」に及び、為に畏れた丹波道主は五媛を人質同然に差し出し垂仁に降った。その五媛の内、少なくとも一人は垂仁に抗した科で辱めを受けて自害し、今一人は子が産めずに死んだ。父「丹波道主」は親に先立つ娘の死出の旅立ちを嘆き悲しみ、残った後后の「日葉酢媛」も五人の御子を産んだ後早死にした。垂仁の先后を失った荒んだ気持ちが招いた悲劇であった。垂仁はその後、山背の綺戸辺(かにはとべ)ら姉妹を娶っている。綺戸辺は仲哀の母となる両道入姫(ふたじりひめ)を産んだ。
『古事記』に記されている「丹波道主」は、開化の第三皇子「彦坐」の児としている。ここにおいて「彦坐」(ひこいます)系脈に重大な改竄が仕組まれていることを私は観た。以下、それについて若干この項でも触れておかなければならない。
「彦坐」の母は「和邇日子押人」の娘「姥津媛」(ははつひめ)である。外祖父「和邇日子押人」の母は云わずと知れた女王「日女命」である。そして崇神とは一歳年下の異母弟ということになる。その弟「彦坐」が『古事記』によれば事もあろうに「丹波道主」を児とする。一方で兄「崇神」は「垂仁」を児とする。ならば丹波道主と垂仁は同世代ということになる。その丹波道主は「日葉酢媛」を児とする。垂仁もまた「景行」を児とする。であるなら日葉酢媛は景行と同世代ということになる。景行の御世に日葉酢媛が垂仁の后となるこの矛盾は、その背景に不都合な真実(史実)が潜んでいることを意味し、そのことから目を反らさんがために仕組まれた系譜である!、ということがこのことから透けて見えてくるのである。[別紙-9 その1 ]
同様に彦坐が母の妹である叔母を娶らねばならない宿命的或いは政略的必然性(直接的因果関係)は特に見当たらないがそれは兎も角として、その系脈が突然「三上氏」血脈へと変幻する不気味さに私は思わず震撼する。その震撼する中身とはそも何ぞや?である。
崇神朝に到り、「彦坐」が若狭の「狗奴国」を討伐して凱旋する帰途、その系族近江の「三上氏」反抗の芽を事前に摘んでおくため同氏嫡女「息長水依媛」を人質に取って妃とした。その血脈の四世孫に「息長足媛」即ち『神功皇后』が出現して開化を祖とする「巻向王統」を顛覆させるまでに繋がる。
この秘められた怖ろしい系脈の根っこには三上氏嫡女「息長水依媛」が居て、その怨念と復讐の鬼気迫る呪われた系譜であることの露わとなることを恐れた『古事記』はそれを隠蔽せんがために彦坐と叔母をわざわざ不自然に結びつけた、同時に複雑にして不必要な多くの妃を彦坐にくっ付けて誤魔化し造作した、それが『古事記』に付記された奇っ怪な系譜となって表されているのである。
(※ 2)
備前香登に橋頭保(軍営)を敷いた大吉備諸進は、女王「臺與」大典の儀に漸く間に合い、孝霊の第二子「彦五十狭芹」(ひこいさせり)を伴って大和へ凱旋した。並み居る群臣の中でひときわ際立った存在で女王大礼の場に臨んでいた「彦五十狭芹」(吉備津彦)は、このとき11才。
この「大典」の後、皇子「彦五十狭芹」は孝霊(上皇)の宮室に迎えられ父母体面を果たしている。この時期が孝昭王統の絶頂期であった。大吉備諸進は針間へ帰任するとき彦五十狭(桃太郎伝承)は生みの親より育ての親「大吉備諸進」に懐き共に針間へ還って行った。これが孝霊親子の今生の別れとなった。
※ 「彦五十狭芹」の母は建諸隅の妹「倭国香姫」であり、大王「孝元」(孝元の生母は細媛)とは異母弟となる。つまり、女王「臺與」とは従弟同士で臺與が二つ年上になる。なお、臺與に冠せられた珠玉の数々や異文錦の装束などは全て倭人の手による倭人の工房で作られたものばかりである。
序でに申すなら、約1万3千年前から縄文晩期まで続いた富山県小矢部市の重層する桜町遺跡からは精巧な木組みを用いた高床式建物(約4千年前建築)やその加工材が多量に出土している。このことは当時すでに正確な尺度があったことを意味し、稲作も含めてこれらの文化が半島渡来人によって列島へもたらしたとする従来からの誤った固定観念を覆えすにたる確かな証左となった。(左の写真は、群馬県埋蔵文化財調査センター発掘情報館の資料からお借りして転写掲示しているものです)
2015/5/30日 著作 小川正武