2016年5月6日金曜日

吉備氏「稚武彦命」 【巻向王統 その10】 第二章


女王「臺與」西晋訪台(AD266年)以後のこと。
任那宗主国の倭王「開化」は西晋外交の躓きと斯盧国の台頭による任那蚕食に直面し、以って西晋との外交から距離を置き、代わって鉄資源の供給地である内なる半島任那を重視、この地を再三脅かす夷敵に対抗するため庸徴の改革を強く迫られた。
故に従前の地祇族長らが共立した女王の行う祭政の下では男弟「輔弼者倭王」の威令は如何ともしがたい脆弱性をもち、その制度的限界からこの旧弊依存から脱却して西晋の如き中央集権的支配体制を図らんとする倭王「開化」の焦りにも似た欲求が生じた。次代を担う「開化」の嫡子「崇神」がこの父の影響を強く受けていたことは当然である。

尾張王朝の終焉前後について、
孝霊の実兄「大吉備諸進」の陵は浦間茶臼山古墳だと私は観ている。この御陵は上道郡(吉備東端)に在り、大吉備諸進が吉備冠者「温羅」と対決した本営跡地と仮推する。その養子の西道将軍「彦五十狭芹彦」(孝霊の第二皇子)はこの地から西進して備中「中山」に橋頭保を築いて温羅を討った。温羅を討ったのち彦五十狭芹彦は「吉備津彦」と名乗り、養父を奉って所縁のこの地に陵を築造した。
岡山県の吉井川西方にそれは鎮座する。規模は墳長138m/高さ13.8m/の前方後円墳。
前方後円墳の祖形は邪馬台国初代女王「日女命」の陵を発祥とする。任那倭人(半島汎任那の国々)を含めたあらゆる時代の古の倭人たちは女王「日女命」の陵に倣って陵墓造営を旨とした。規模に大小はあるものの倭人悉くがこれを崇拝し祖先神を奉った。倭人、身丈は小なれど大いなる精神とエネルギーを宿す民族であった。

時代は「臺與」西晋訪台を遡ること6年前(AD260年)、当時、吉備津彦による温羅退治があった。臺與御陵(大市古墳)の築造はそれから数えて30年後の290年代前半である。この間、吉備文化(特殊器台や埴輪)が大和の地へ深く浸透していたことが分かる。このことは新興「吉備氏」の影響(勢力)が大きく都で根を下ろして大王家と結びついていたことを物語っている。

西道将軍「吉備津彦」が「温羅」を討ったAD260年は、開化5年に相当する。崇神紀10年(AD285年)はそれから25年後の出来事である。ゆえに記紀が示唆する四道将軍(派遣軍)に「吉備津彦」は当たらない。「崇神紀10年」は狗奴国討伐の大がかりな編成が都でなされ、為に畿内が手薄になる中、「吉備津彦」46才は逆に吉備国から東進して帝都警護を名目に大和へさかのぼり、その実態は、実姉「倭迹迹日百襲姫」と亡き先帝「孝元」の嫡子「彦太忍信」の身辺警護を主目的に予て不穏な動きをみせていた河内青玉繁の裔「武埴安彦」に備えていた。都の玄関口浪速の地勢を占める豊穣な豪族「河内氏」の向背は都にとって一大脅威であったからだ。

その「彦太忍信」といえば同年33才を数え、「難升米」の孫娘「稲津媛」を娶っていた。難升米(中臣氏)は魏志倭人伝に出てくる遣使で、「稲津媛」の母方は今を時めく物部氏の出であった。「彦太忍信」の事蹟は定かでないが狗奴国討伐に誉名はなく、「開化」崩御(275年)の後、相次いで「欝色謎」「大綜杵」も後を追うように亡くなり、それら陵墓築造の任を専らに尾張王統の種は雌伏して命脈を保ち息づいた。この功績は懸かって「倭迹迹日百襲姫」の庇護と献身が大きく、やがて歴史は「孝元」を曽祖父とする「彦太忍信」の孫「武内宿禰」へと繋がり、「武内宿禰」は河内王統の始祖となった。

〚武内宿禰の系図〛孝霊(高祖父)⇛孝元(曽祖父)⇛彦太忍信(祖父)⇛武雄心(父)⇛武内宿禰(本人)

〚別紙12-1〛は、“私論「孝元」と「開化」は同世代” を表わす。
『記紀』と「私論」ではここでも皇統譜が一世代異なる。「開化」「大彦」は物部系王統の兄弟、一方「孝元」「倭迹迹日百襲媛」「吉備津彦」らは尾張系王統の異母兄弟。彼らは「孝元」の遺児「武埴安彦」が引き起こした反乱によって登場してくるみな差ほど歳の変わらぬ同世代人なのである。


次代の「崇神」と「彦太忍信」もまた同世代である。世が世であれば「孝元」の皇太子と目されていた「彦太忍信」は、その血筋の高貴性から「崇神」と双璧を為し、一歩誤れば凶事を呼び込む薄氷の立場であった。叔母「倭迹迹日百媛」はこれを養子として迎え入れ幼少から育て上げた。そして同姫の弟「吉備津彦」が「武埴安彦」の乱を前後して都へ進出して以後は、その勢威に与って漸く安泰し、晩年になって「稲津媛」を娶った。この「彦太忍信」の事蹟は『記紀』に記載がないが、女王「臺與」崩御の290年代初頭、崇神の勅命によって所謂「箸墓古墳」(私はこの陵を大市古墳と呼ぶことにしている) の築造を命ぜられ総奉行を担ったと私は仮推する。
「彦太忍信」から観た「臺與」とは、曾祖母「日女命」の「建諸隅」の娘という立ち位置から一入誉れ高き伯母であった。皮肉にも「大市古墳」築造さ中に「崇神」が崩御した。「崇神」殯の後、「大市古墳」に引続き「崇神」の陵も築造が着手され「彦太忍信」がその総奉行を担った。
諄いようであるが「彦太忍信」の嫡子「武雄心」は「彦太忍信」36才にして漸く授かった児である。その「武雄心」は長じて「景行」に供奉して九州まで遠征している。また、「武雄心」の子「武内宿禰」は長じて棟梁の臣まで上り詰め、時の政を牛耳るまでに至っていた。この間、帝都の地である大和にはなぜか景行・成務・仲哀の三天皇が殆ど不在であった。この不可思議な現象をどう見るかである。

話を再び「開化」の御世AD260年に戻す。
当時、「稚武彦」18才は兄「吉備津彦」と共に出征して吉備の冠者「温羅」の首を刎ねた。そして兄は吉備国を与り、弟は針間国を与った。兄の母は弟の母の姉という関係であったから出自は同じ尾張氏で気の合った異母兄弟であった。

※ 同兄弟の幼少期は、倭国大乱の影響から都を離れて針間の伯父「大吉備諸進」に身を寄せる謂わば疎開児童の身の上であった。後継ぎのいない孝霊の兄「大吉備諸進」夫妻は孝霊の子息兄弟を我が児のように慈しみ育て上げそして後事を託した。

AD264年の斯盧国懲罰について。
AD263年、この年は「于老の変」(倭国が于老を焼殺刑に処す)後、10年目の節目に当たり、倭国の修交使が10年振りに修交のため斯盧国を訪れた。ところが于老の妻に招かれた饗応の席で騙し討ちに遭い倭臣は気の毒にも焼殺された。怒った倭国は斯盧国懲罰のために兵を出した。時に翌264年、「吉備津彦」が吉備冠者「温羅」を征伐した四年後の出来事である。
当時、倭は開化の御世で尾張氏「日本得魂」34才は既に家運凋落(版図縮減して久しく)して出兵おぼつかず、「吉備津彦」25才は封地経営に忙しく吉備国を空けること能わず、開化の兄「大彦」42才もまた嫡統王家の交代9年目と言えども未だに不測に備えて都を警護する要石であった。必然、派遣の将は南巡の謂れも深い今は亡き「和邇日子押人」の嫡子「彦国姥津」44才と新進気鋭の若武者吉備の「稚武彦」22才を置いて外になく、彼らは俄か仕立ての編成も慌しく伊都国から渡海していった。その兵力たるやたかだか500人内外であった。

無論、そこには「一大率」武官ほか「金官加羅国」の任那武人も加わり先導したことは云うまでもない。
この弔い軍は海路浦項(ポハン)に上陸し、途中斯盧国兵の抵抗を受けつつも彼の首都慶州「金城」を包囲攻撃した。時の斯盧国王「味鄒」(みすう)は素より倭軍襲来の今日あることを知り予め籠城戦に備えていた。「味鄒」王の後年の戦歴は百済と境を接する相次ぐ攻防戦でほぼ勝利していた。この「味鄒」の此度の倭軍相手の金城籠城は、倭軍の兵糧の尽きるのを待つ戦術で終始した。この「味鄒」は「金氏王統」の始祖として『三国史記』に登場し、高い評価を受けていた。

「味鄒」の遠祖は「金閼智」(あっち)である。古の或る時、倭人「瓢公」(ここう)が金色の木箱が木の枝に引っかかっているのを見つけて中から男の子を拾い上げた。この高貴な出と思われる赤子は故あって捨て子にされ「瓢公」の目の届くところへ敢えて置かれていた。「瓢公」はその子を「閼智」と名付けて育てた。「閼智」の出自は汎任那に君臨する出雲王朝所縁の男子であった。その男子は許されざる仲で密かに産み落とされた落胤であった。「瓢公」は恐らくその許されざる所縁を知っていたがゆえに亡くなるまでその出生の由来素性を明らかにすることはなかった。

「閼智」から数えて7代目が「味鄒」である。この間、混血が進み倭人の血は薄れて忘れ去られ母系氏族(濊貊)の血脈が連綿とつづきそれが斯盧国のアイデンティティとなっていた。
同様に「朴氏」の遠祖は初代斯盧国王「赫居世」である。この「赫居世」は丹波の出である。丹波は古より「尾張氏」の支配地である。出雲王朝時代は同王朝と密接不可分な王族であった。「赫居世」はその支族で汎任那に属する慶州に先住していた王族とみるのがごく自然である。

倭の弔い軍が「于老」の老妻を懲罰したかどうかは知る術がない。だが弔い軍が斯盧国の首都を震撼させ、修交使倭臣が犠牲となった殉難の地で同倭臣を鄭重に弔ったことは疑う余地がない。倭軍はそれを以って由として彼の地を堂々と引き上げていった。
AD264年、倭国修交使殉難の場で弔意に臨む吉備氏「稚武彦命」倭軍副将。

稚武彦命 (わかたけひこのみこと)

〚私論編年 AD242年~305年 享年64歳〛
父は孝霊天皇、母は「蠅伊呂杼」(はえいろど)
姉は「倭迹迹日百襲媛」、兄は「吉備津彦」、「孝元天皇」は異母兄。
母の姉は「倭国香媛」で、母の兄は第七代尾張氏当主「建諸隅」。

「開化期」で活躍した「稚武彦」は、吉備平定後は播磨の国を与り国邑の長として君臨した。
『記紀』はその娘が「景行」の后に召されたという。私はここに世代間乖離の問題を提起する。
〚別紙12-1〛は同世代に属する人名を夫々表わす。同図の「稚武彦」は「吉備津彦」「開化」「倭迹迹日百襲姫」と同じく第二世代に属し、主に260年代に活躍した人物である。目を転じれば「景行」は第五代世代に属し、その主たる活躍時期は330年代である。ここに「稚武彦」と娘「播磨稻日大郎姫」との間に、「崇神」「垂仁」「景行」三代に亘る70年間の乖離が横たわる。もし、「稚武彦」に娘がいるとすればその娘は第三世代に属し「崇神」期の人物であるはずだ。「崇神」期から観た「景行」は孫世代である。孫世代の「景行」が果たして「稚武彦」の娘(閉潮した姥桜)と結ばれて「日本武尊」を産ませたであろうか、いくら手の早い「景行」(征討途上各地で子女80人を儲けたという)といえどもそれは考えにくい。ではこの世代間の矛盾は一体どう捉えたらよいのであろうか。
「稚武彦」の孫に「吉備武彦」がいる。吉備武彦は「景行朝」の御世に「日本武尊」(18才)の東征に供奉している。そのときの吉備武彦の年齢は39才と観る。その根拠は、「播磨稻日大郎姫」がその18年前に17才にして22才の「景行」に召されて「日本武尊」を産んだ。・・だとすれば、同姫は必然的に吉備武彦とほぼ同年代の40才前後とみるのが自然である。
〚別紙12 その3〛の図は「日本武尊」東征18才のとき、「景行」40才、東征に供奉した副将「吉備武彦」39才、「播磨稻日大郎姫」35才と為る。

・・であるなら「吉備武彦」は崇神期に生まれ、垂仁期に青年期を過ごし、景行期に壮年期を迎え、脂の載りきった熟年で若き「日本武尊」に供奉して東征を輔佐した。吉備武彦が崇神期に生を受けたとみればその関連で「播磨稻日大郎女姫」もまた崇神期に生を受けたことを意味する。この二児が誕生した当時、稚武彦の年齢は既に50代半ばを過ぎている。50代中半で播磨稻日大郎姫を産ませる可能性にいささか無理がある。私見では「稚武彦」30才のとき稚武彦が「稚武彦二世」を儲けた。同二世が長じて21才のとき同二世の子「吉備武彦」が生まれ、同二世25才のとき「播磨稻日大郎姫」が生まれた・・と為れば系統に無理はなくなる。
即ち、『記紀』記載に一世代が抜け落ちたかそれとも意図的に削除隠蔽したか今では知る由もないがその名前不詳の「稚武彦二世」なる人物こそ景行・成務・仲哀・三代大王が古の都大和を飛び出して征討に明け暮れ(寧所に暇なく)或は大和の地を敢えて離れて遷都した背景を知る上で、大変重要な(都ヤマトの中枢に在って兵站の要である軍奉行を担っていた)立場ではなかったかと観られる。

〚別紙12-2〛「AD264年、斯盧国誅伐当時における大和の主要人物の年齢構成」 をまとめてみた。「開化」39才のとき「稚武彦」22才、「彦太忍信」12才、「崇神」7才、「倭迹迹日百襲姫」と女王「臺與」が27才とする各年代別年齢比較対象を概観した。

本項冒頭に「任那宗主国倭王開化」を掲げた。現在、朝鮮半島と呼ばれる半島は縄文時代は倭人が主たる先住民族であった。弥生時代に出雲王朝が成立し、半島と列島を跨る「環古代倭地圏」を形成していた。その支配体制は文物交流を通じた緩やかな親任統治であった。半島の汎呼称は「任那」とされ、その任那には多くの国々があり夫々の国には倭人の族長または邑王がいて出雲王朝と紐帯した関係で結ばれていた。この当時の半島のことを私は「任那半島」と敢えて唱える。中国の『史記』『三国志』の編纂者らは海東に隔絶して歴史の暗闇に隠れていた「任那半島」「任那先住倭人」のことを露ほども知らずその存在は認識の外であった。認識にない歴史は無かったに等しく永遠の彼方へ葬り去られてしまった。あたかも南北アメリカ大陸が発見(15世紀末)されるまでは、同大陸の存在や歴史文明が無かったかのごとく、同じようなことが任那半島においても現象面で起こっていた。この不幸な宿弊は今日に到っている。


「神武」は、筑紫(北部九州)で挙兵し出雲王朝の本拠地「ヤマト」を転戦の末、生き残った僅かな兵で急襲した。この乾坤一擲の吉野奥地からの逆さ攻めは功を奏し、出雲王朝の皇女(嫡女)を生け捕り、同皇女との間で「神武」は「綏靖」を産ませた。これがそれ以後に続く「ヤマト王権」の源流となって今日に引き継がれた。
『記紀』は日本史編纂に当たってその不都合な真実を隠蔽して〚出雲王朝〛を壮大な神話の世界へ封じ込め且つ又祟りを怖れて祖先神として篤く祭り上げて糊塗した。


紀元前、秦(始)皇帝の圧政から逃れた斉(山東省)の徐族一団は海路東渡 (紀元前219年) して倭国へ辿り着き根を下ろした。その地で帰化して倭人と交われば三代以後は徐族もまた倭人になりきる。神武はその末裔の一人でヒムカ王に繋がったと仮推する。当時、倭人は任那半島から九州~東北に跨る広範な環古代倭地圏を形成し縄文時代から引き継がれた高い文化を維持して分布していた。古代大和盆地は四周を山に囲まれた天然の要害で、数多くの水路を通じて交通が発達し倭国(出雲王朝)の政を司る中心地でもあった。この出雲王朝は同時に山陰・北陸・畿内・東北は云うに及ばず任那半島の任那諸国をも包含する交易を通じた一大海洋国家を形成していた。その王朝の発祥の地は出雲ではなく大和葛城であった。
邪馬台国の尾張氏は天足(あまたらし)・天豊姫(あめのとよひめ)・大海媛(おおあまひめ)・分家の海部氏(あまべうじ)・などと海洋民族を暗示する出雲王朝伝統の冠名を引き継いだ皇族であった。尾張氏の「氏」名は葛城(大和)の本貫地「高尾張邑」に由来する。

地祇とは、その皇族と紐帯で結ばれた大和の分岐氏族のことで各地を治める邑王あるいは族長らを差した総称であった。それらの地祇があるときから大和国に集住して政を行っていた。出雲の国はその当時の交易のハブ的存在で大いに栄えてその強大な勢力は一時期「大和国」を凌駕した。だが、冬期の日本海の気候は荒々しく特に雪害はその果たすべき統治の機能をしばしば停滞させた。為に政の中心地は気候温暖にして要害の地「大和」の地を必然とした。

(※ 紀元前に存在していた出雲王朝の首都〚葛城〛、現在の奈良県御所市。御所市の名称自体それを暗示する。この図は第一章「宇那比姫」から転用重複している)。

この安定した出雲王朝の政体系(国の姿)を覆す一大事件が紀元90年頃に皇都中核で起こった。「神武」による吉野奥地からの不意を突いた皇都襲撃がそれである。地祇らは「尾張氏」の兄「三輪氏」の嫡女「媛蹈鞴五十鈴媛」が「神武」の子「綏靖」を産んだことから、その「綏靖」を次期大王に立てて新たな体系を引き継がせた。これが出雲王朝の「国譲り」と謂われる所以である。国譲りで面目を欠いた地祇諸侯は「神武」の庶流長子「手研耳」(たぎしみみ)を「綏靖」自らが誅殺したことで、以後 地祇の系累をもってその後の血脈を織りなし、神武以外の「神武」の原郷からの血は一切絶たれた。そして地祇の合意による共立女王「日女命」(尾張氏)がやがて出現した。「日女命」の生母は紀伊氏の「中名草姫」である。名草の名で思い出されるのが「神武」東征途次の和歌の浦に上陸して糧食を奪い抵抗した同地「名草」の女酋長を切り刻んだ伝承である。「日女命」の母方の出はまさにその紀ノ國の名草邑からの出であった。「出雲王朝」に代わる「ヤマト王権」(邪馬台国)の出現は斯かる経緯を経て誕生していた。
だがこの異脈(神武)の王統に馴染まない地祇が少なからずいた。その代表格が若狭の「玖賀国」(狗奴国)であり、在出雲の神々(地祇)や任那の出雲王朝系累の邑王らであった。
若狭の「玖賀国」は尾張氏と同格の「海部氏」本宗家(分岐氏族、祖・天御蔭命)そのものであった。ゆえに尾張氏は「玖賀国」(狗奴国)を畏れていた。
私は「神武」橿原即位がAD93年、出雲王朝がその「神武」に国譲りしたのがそれから15年後のAD108年と仮推する。この間、三輪氏も海部氏も物部氏は勿論のこと、尾張氏さえも「神武」に人質として囚われていた「出雲王朝」の「嫡女」を救い出さんとして「神武」と対峙していた。そして神武の子「綏靖」は同108年、14才に成長していた・・、「神武」は「出雲王朝」が国譲りしたその翌年、69歳で崩御した・・と観ているのである。


「蘇我氏」本宗家が滅亡した「乙巳の変」(AD645年)で、嫡子「入鹿」暗殺の報に接した父「蝦夷」は悲憤のあまり、それまでの貴重な天皇紀や上古歴史書を焼却した。
『記紀』を編纂した「太安万侶」や「舎人親王」らはそのことを勿怪の幸いにこの倭国黎明期前夜の旧事に口を噤んで〚出雲王朝史〛を没却し、原史倭国を〚神代紀〛に祭り上げて事蹟の数々を記憶の彼方へ遠ざけ、微かな残像だけを今に伝えた。
(近年の埋蔵文化財発掘の目覚ましい成果がその全貌は明らかにしつつある)。


2016/5/14   著者 小川正武  

【追記雑感】
「神武東征」以前の「大和」『葛城』の地は出雲王朝の首都であった。「出雲の国」は半島任那を挟んで交易(物流・経済)中継地として倭の中心的役割を果たし、独自文化も発達して首都「大和」に比肩する副都を形成して大いに栄えていた。
「神武」襲来時の「大和」には出雲王朝の大王「大国主命」がいてその子供に異腹の皇子三人がいた。長子は「事代主」(三輪氏始祖)で、次子が「味耜高彦根」(尾張氏始祖)、次いで三子が「宇摩志麻治」(物部氏)であった。「事代主」の娘「媛蹈鞴五十鈴媛」とその妹「五十鈴依媛」が「神武」に捕らえられて人質になる中、大王「大国主命」の命でその責めを問われて詰め腹を切らされたのが宇摩志麻治の伯父「長髄彦」(大和の登美邑の族長)であった。宇摩志麻治の母「御炊屋媛」(みたきやひめ)はその長髄彦の妹であった。その母「御炊屋媛」が亡くなる前、味耜高彦根と宇摩志麻治を枕元に呼んで、神武と媛蹈鞴五十鈴媛との間で授かった「綏靖」の成長を拠りどころに、 “神武と講和して以後は「綏靖」を盛り立てよ” と遺言してこの世を去った。
(※ この前後の詳述は本稿第一章に既に記載していることからここでは紙面を省く)

ことほと左様に「神武」出現は大和の国を根底から揺さぶり出雲王朝崩壊のきっかけとなった。斯くして邪馬台国開闢は「神武」天皇を開祖とした。
第十代「崇神」天皇(宇摩志麻治を始祖とする物部系)は、この邪馬台国をぶっ壊して、改めて大和王権を打ち立てた。そして〚御肇国天皇〛(はつくにしらすすめらみこと)と称されるようになった。

※  因みに「崇神」天皇の高祖父は三輪氏系「懿徳」天皇である。
諄いようであるが「三輪氏」「尾張氏」「物部氏」の始祖三兄弟は「出雲王朝」の大王「大国主命」を父に戴く。その「大国主命」は大和の国「葛城氏」を出自とする。「大国主命」は長じて出雲国を与り、後に倭の大王となって〚環古代倭地圏〛に君臨した。後代、任那四郡を百済に譲って倭の臣民(任那先住民族)を裏切った「雄略」はその「葛城氏」本宗家をも滅亡させた。 以後の「葛城氏」は分岐氏族(分家筋)である。 
「雄略」の孫の若き「武烈」が精神を病んだのは「雄略」の非道な数々が直接間接に遠因起因する。「武烈」はまた父方の祖父「市辺押磐皇子」が「雄略」に無惨な殺されかたをした裔でもあることから深く傷つき自己嫌悪に陥り自己否定した真に心悼む〚河内王朝〛最後の大王であった。「武烈」がその血脈ゆえに懊悩して、継嗣誕生を望まず己が孕ませた妃の腹を裂いた末、破滅していった狂気の姿に私は泪する。そして時の大連「大伴金村」(遠祖は神武東征に供奉)は〚河内王統〛を見限った。その後の国史顛末は、「雄略」路線を引き継いだ「継体」王統(大和王朝)が、任那倭人に優先する百濟擁護に終始してやがて父祖伝来の任那の地、任那半島を失うことになった。  


2016年3月17日木曜日

崇神次妃 「葛木高千名姫」【巻向王統 その9】 第二章 

葛木高千名姫(かつらぎたかちなひめ)

尾張氏第八代当主「日本得魂命」の愛娘「葛木高千名姫」は、崇神に恭順入妃して「豊鋤入姫」と「八坂入彦」をお生みになった。

〚私論編年 AD257-314
日本武尊生誕年 AD314年まで御存命の砌には数えて享年58歳にあいなる。
この姫は、娘の豊鋤入姫が崇神の命に従って斎皇女(いつきのみこ)となり、祟る天照大神(日女命)を鎮魂せんと僅か13才から健気にも奉斎するその姿をさぞかし心を痛めて見守っていた生涯ではなかったか。「開化」を祖とする巻向王統とは、斯かる斎王の人身御供(じんしんくぎ)の上に成り立っていた謂わば尾張系前王朝の神霊を極めて畏怖する王朝だったのである。

「葛木高千名姫」の御名は同姫の生誕地に因んで命名された本名とみられ、亦の名「大海媛」(おおあまひめ)とは尾張氏本宗家代々の嫡女に冠せられた普遍的通称名であり、また同姫の「八坂振天伊呂邊」(やさかふるあまいろべ)という御名は崇神朝へ入内した後に尊称された名とみるのがごく自然であろう。その出生地は「葛木高尾張邑」と言い、所在地は現在の曽我川が南北に走る奈良盆地南西部に位置したであろう尾張氏本貫地であった。

※ 尾張氏本貫地の詳しい場所は、第一章【邪馬臺国 その十四】
『私論 邪馬台国女王「卑弥呼」室秋津洲宮の所在地』で示す。

「葛木高千名姫」の父「日本得魂」もまた、孫の「豊鋤入姫」が「天照大神」を奉斎する地が定まらず所縁の丹波と大和の地を彷徨う苦悩する姿をまざまざ見て、その生末を按ずる祖父であった。日本得魂は先帝「開化」によってその勢威を大きく削がれ、支配地は丹後の加佐郡に縮小していた。「日本得魂」の事績は崇神の御世になってから崇神の異母弟「彦坐」(27才)に供奉(285年)して積年の宿敵「玖賀耳御笠」を自らの手で討ち取って永年に亘る邪馬台国の宿弊を取り除いたことであった。 「玖賀耳御笠」の地は加佐郡と境を接する若狭の青葉山を本拠地とした。その地はいわゆる魏志倭人伝でいう「狗奴国」を指し、この頭目(海部氏本宗家)を誅殺したことで「日本得魂」の使命はあらかた燃焼していた。「日本得魂」(やまとえたま)は「彦坐」(ひこいます)とは親子ほどの歳の差で当時としては既に老境の55才に達し余生は専ら孫娘の「豊鋤入姫」のために力を注いだ。


上の図〚別紙11-1〛の題字は、私論[箸中山古墳、被葬者「台与」と崇神が託した斎王二姫の顛末」。

今に遺る田口神社(加佐郡・現 舞鶴市朝来)は「日本得魂」が「豊鋤入姫」のために御田を奉り、更に校倉を建てて穀実を蔵した場所の跡地だと伝わる。人々はその倉を御田口の祠(ほこら)と称した。(当時は未曾有の飢饉地獄であった。)
『記紀』はこの「豊鋤入姫」をなぜか紀ノ國の「遠津年魚眼眼妙媛」(とおつあゆめまうはしひめ)を母とする。しかし、同姫の血脈はまごうことなく尾張氏・日本得魂の孫にあたる。逆に尾張氏母系とされる「渟名城入姫」こそ豊受大神(尾張氏・建諸隅)が奉斎されることを拒んだ異脈の斎王であり、ゆえに半ば廃人と化して短い生涯を閉じた。
「渟名城入姫」と「豊城入彦」は紀氏母系を暗示する共通の御名(おんみょう)をそこに観る。『記紀』はここにおいても系譜の改竄を企図した疑いが濃厚である。ではなぜそのような母方の族系が異なる姫の出自をすり替えなければならなかったのであろうか。

この疑問を解くに「女王臺與廃位」が深く関っていると観るのである。初代女王「日女命」を大叔母に戴く「臺與」は「日女命」亡き後、再び国が乱れる中、二代目共立女王(13才)に推戴されて邪馬台国を一つにまとめる象徴となった。だが運命の悪戯か5年後「臺與」を輔弼していた「孝元」が俄かに夭折してその権力に空白が生じるやそれに乗じて「懿徳」の曾孫「開化」がその地位を奪取した。為に都では動揺が走り一触即発の緊張した場面から、あわや第三次倭国大乱が差し迫っていた。「開化」はそれを未然に鎮めるため「臺與」を共立した地祇面々(諸族の首長)を納得させる大義名分を必要とし、「臺與」の輔弼者「孝元」の正当な後継者たる環境づくりを何より急いだ。

一方、女王を共立した地祇(国邑の長)による共通理念は倭国鎮護であったことはいうまでもない。「孝元」の従姉妹「臺與」(18才)は、「孝元」早世により有力な後ろ盾を失い孤立する中、残された皇位継承者「彦太忍信」(3才)の安危に心を砕いた。

そして「開化」の採った選択は「臺與」入妃の実現であった。「臺與」もまた、国乱れて合い争うことを望まず、「孝元」の忘れ形見「彦太忍信」擁護と地祇から推戴された女王の権威維持を拠りどころに「崇神」へ降嫁入妃することに同意した。「開化」は「孝元」の喪が明けて「臺與」との間で第一皇子「彦湯産隅」を儲けたことで「開化」はこの頃から初めて押しも押されぬ倭の大王となったのである。

・・だがしかし、「開化」が大義名分とした「孝元」に代わる女王「臺與」の輔弼者たる正当な立場は、時として「臺與」の権威に劣後して倭王としての威厳をしばしば毀損した。
「臺與」は開明的な女王であった。「臺與」は還俗して「開化」の皇妃となった後も伊都国の一大率を通じて帯方郡や任那諸国と交流を重ね「洛陽」情勢は云うに及ばず「伯済」「斯盧」といった国情収集にも努めていた。一大率は女王の命に従って「斯盧国」による任那侵犯にしばしば軍事的行動を起こして出兵していた。この女王「臺與」の威令は先代女王「日女命」から引き継がれた伝統であり「開化」といえどもこれをたやすく冒すことはできない慣例慣習となっていた。

AD265年、中国では魏が滅びて新たに「晋」王朝が成立した。帯方郡太守「張政」からこのことをいち早くしらされた女王「臺與」は、翌年「開化」をいざなって「晋」の都「洛陽」を親善訪問(化外慕礼)した。この女王主導の外交は「晋」王朝の布く朝貢外交に馴染まず、倭の女王「臺與」と男弟「開化」は儀礼的爵位を受けたに留まって外交的成果は観るべきものがなく化外慕礼外交は倭による一方的願望に終始した。倭によるこの「化外慕礼」とは兄が弟を労り弟が兄を敬う国家レベルの友邦の契りを結ぶ乙女チックな外交であった。だが案に相違して「晋王朝」は単なる「遠夷の客」として倭王を扱い、そのため倭王男弟の威信はいたく傷ついた。
この外交の場における主導的立場を取った「臺與」の「開化」に優越する絶対的立場は、地祇による共立女王擁立という隠然たるバックボーンに依拠した権能であった。このバックボーンを凌ぐ大王は次代の崇神登場まで待たねばならなかった。
〚汝、忍びずして吾に羞(はじみ)、吾還りて汝に羞せむ〛怖ろしい言霊である。

「開化」が崩御(275年)した後、開化の継嗣「崇神」は、この旧弊たる共立女王を悦ばず倭王に越権する「臺與」の任を解いてその一連の威信財(女王日女命から継承した数々のレガシー)を破却すると共に「臺與」を丹後(たにはのみちのしり)の余社郡へ追放した。そして、それまでの邪馬台国の文化文物(銅鐸・銅矛)を威令を以って廃棄一掃することを国々に命じた。物部氏を後ろ盾とした巻向王統はこの時期、諸族の地祇を凌駕する圧倒的勢威を誇示するに到っていた。崇神による専横的維新断行がなされた所以である。


上に掲げる図〚別紙11-3〛は3世紀中葉の倭国における王朝交代劇の時間軸を表わす。

倭が遣わせた使者「葛那古」は斯盧国の長老「昔于老」から倭王とその妃を愚弄する辱めをうけて帰国(251年)した。それを切っ掛けに任那宗主国の倭国大王は大いに怒り、于老を焼殺刑に処した。当時、斯盧国は北の高句麗と講和を行い、伯済との交戦に集中する政策を採っていた。于老はその戦場の常勝将軍であったが、その驕りが暴言となって表れ自らの身の破滅を招いた。倭と斯盧国との相克は斯盧国の度重なる任那侵攻とこのような些細な不祥事が重なって次第に抜き差しならない深刻な対立へと展開していった。

崇神による「開化崩御」直後の果敢にしてやむざる維新断行は、任那における「斯盧国」の勃興と、任那への侵犯浸食といった険しい国難に起因していた。女王が司祭するそれまでの政には統率力動員力に限界があり、地祇(諸族の長)たちによる国々の委任統治だけでは権力が集中せず、民を庸し兵を徴する全国規模の統治態勢を敷く基盤強化を強く迫られていた。崇神の和風諡号〚御肇国天皇〛(はつくにしらすすめらみこと)の尊号はこの維新断行を以って大和国(やまとのくに)開闢を意味し、大和国の開祖とした所以である。
ゆえに『記紀』はそれ以前の王朝はすべからく神代の霞みへと追いやって史実から遠うざけて遂にうやむやにした。


崇神紀10年(AD285年)、この年、狗奴国討伐の編成が都でなされ湖西高島から若狭へ向かう軍都督に崇神の異母弟「彦坐」が、山背から丹波を抜けて若狭へ向かう軍都督に崇神の異母兄「彦湯産隅」が任ぜられ、挟撃する形で攻め上った。これによって狗奴国首領「玖賀耳御笠」は「日本得魂」によって討ち取られ「海部氏本宗家」は壊滅した。この間隙を縫って孝元第一皇子「武埴安彦」の軍が二手に分かれて空同然になっていた皇都へ攻め上り、崇神の膝下を大いに震撼させた。これを救ったのが皮肉にも「倭迹迹日百襲姫」の実弟「吉備津彦」(46才)であり、和邇日子押人の孫にして彦坐の従兄にあたる「彦国葺」であった。前王統の子弟たちといえども皇祖本流でないこの「武埴安彦」を倭の新たな大王に戴くことを由としなかった。

この年を前後して都では来る年も来る年も毎年凶作(飢饉地獄)がつづき、農民は疲弊して苦役に耐えかねて多くが農地を放棄して流離した。為に王権は糧食不足に陥りみるみるうちに求心力を失い「武埴安彦」の叛乱を招いて自らの権威を大きく失墜させた。この失墜こそが尾張系前王朝の祟りであると視て「崇神」は震撼した。そして怒れる神(皇祖神)を強く意識して恐懼した。「崇神」の漢風諡号はまさに祟られしその性質を如実に物語る。

崇神は大殿の間に同床する皇祖神「天照大神」(日女命)と「豊受大神」(建諸隅)二神の勢いを畏れて娘の「豊鋤入姫」に「天照大神」の神霊を託し、「渟名城入姫」には「豊受大神」の神霊を託して宮外へ遠うざけた。然れども皇祖神の怒りを鎮めること能わず「豊鋤入姫」の方は次代の「倭姫」に斎王は引き継がれたが「渟名城入姫」の方は髪落骸痩の果て落命した。『記紀』は巻向王統を祟る皇祖神が尾張系前王統の「日女命」と「建諸隅」であることを覚られまいとして覆い隠した。ゆえに尾張氏母系の「豊鋤入姫」を紀氏出自にすり替えて祟っているのが前王統であることの不都合な真実から眼を逸らさんと強権をもって系譜を改竄した。

「臺與」が丹波の余社郡で身罷った(54歳)のと同じ年(AD290年)、「渟名城入姫」もまた僅か15才で早世した。怒れる皇祖神は尾張母系の崇神皇女は受け容れたものの紀氏母系の崇神皇女は受け容れることがなかった。わが娘(皇女)を御供(くぎ)してなおこの非情に祟る神々を前におののく崇神は、「臺與」の怨霊を祓い清めて護国豊穣と巻向王統の子孫繁栄のために「臺與」殯の後、臺與が嘗て司祭していた神殿跡地(巻向宮)に臺與御陵(世にいう大市陵)を造営して篤く埋葬し崇りを鎮め詣らせ奉った。

『記紀』はこの大市御陵(箸中山古墳)の由来を「倭迹迹日百襲姫」の墓だと捏造して(同姫の事跡は没落三輪氏の子孫を探し出して取り立てた功績はあるが、為に崇神から巨大陵墓を以って奉斎される立場には少なくともない)後世を欺いた。勝者の論理がここにも秘匿されている。「古事記」編纂者らは恐らく古代中国における虐げられた農民の反乱が当時の支配者の貴婦人を猟奇惨殺した伝承を単に引用したものである。
“神に化身した蛇と結婚し、箸でほとを突いて死んだ“ とする奇想天外な「倭迹迹日百襲姫伝説」は、子供騙しの話としてはおもしろいが深淵な幽玄の世界(神話)に留めておくべき内容であって同姫にとっては甚く失礼な烙印であり、これをさも事実であるかの如く受け止めて史実に反映させているところにそもそもの思考停止を観る。
※わたしはこの陵墓を単に「臺與御陵」(とよごりょう)と親しみを込めて命名する。そして古墳名もその故地に倣って簡潔に「大市古墳」(おおいちこふん)と改称したい。史実は塗り替えられた歴史書に優る。いつの日か私の先見が実証される日がくるものと確信する。
まぁどこからか素人の分際で生意気な奴だという声が聞こえてきそうであるがどこ吹く風である。

尾張氏「日本得魂命」の嫡女「葛木高千名姫」


著者・制作   小川正武   2016/03/18


【追記雑感】
女王「臺與」が「開化」を伴って西晋を親善訪問(AD266年)したことは既に本項で述べた。嘗て、大市古墳(箸中山古墳)の周濠から木製の鐙(あぶみ)が出土していた。この木製の鐙は西晋時代の戦場で使われ始めた。「臺與」訪台の砌、この木製の鐙は先進馬具(武具)として晋朝から親善女王の手を経て倭国へ齎されたものであろう。 大市古墳の被葬者が誰であるかを物語る傍証である。

三輪氏の後裔「大田田根子」(おおたたねこ)は大物主すなわち「大国主命」を祀る祭主に任ぜられた。彼は「大国主命」を祖とする三輪系8世孫である。当時、飢饉と疫病が蔓延するなか「崇神」は河内の陶邑に住む大田田根子を呼び出して三輪氏所縁の地「三輪山」で祖先神の祟りを鎮めさせるために創祀奉斎を命じた。


〚三輪氏系図〛(始祖)「大国主命」⇛①事代主(神武と前期は対峙)⇛②天日方奇日方⇛③健飯勝⇛➃健甕尻⇛⑤豊御気主⇛⑥大御気主⇛⑦健飯賀田須⇛⑧大田田根子・・
因みに「崇神」は「大国主命」から数えて9世孫にあたる。
〚崇神系図〛(始祖)「大国主命」⇛①事代主(神武へ後期は国譲り)⇛②姫蹈鞴五十鈴姫(神武の后)⇛③綏靖⇛➃安寧⇛⑤懿徳⇛⑥高石彦奇友背⇛⑦奇友背二世(物部氏欝色謎が妃)⇛⑧開 化⇛⑨崇 神・・

倭氏の後裔「市磯長尾市」(いちしのながおち)は、渟名城入姫の跡を継いで祟る倭大国魂神(同神、豊受大神=建諸隅)を祀る祭主に任ぜられた。

彼は初代「珍彦」(うずひこ)から数えて6世孫にあたる。彼の血筋は初代から一貫して三輪系王統を支持する勢力で、懿徳曾孫「開化」擁立に際してもその果たした役割と功績は大きく、為に尾張(孝昭)王統の怨念を買っていた。倭迹迹日百襲姫は崇神治世下の都を覆う数々の天災は前王統(尾張氏祖先神)の祟りであることを夢に託(かこつ)けて神宣し、それを鎮め贖う者は倭氏当主「市磯長尾市」を置いて外にはいないことを崇神に奏上した。ゆえに、市磯長尾市は「大和神社」(おおやまとじんじゃ)に倭大国魂神を創祀奉斎して鎮魂に是務めた。

〚倭氏系図〛(始祖)「珍彦」(亦名、椎根津彦)(神武の東征に供奉、功名大にして初代倭国造に登用)⇛①志麻津見⇛➁武速持⇛③邇支倍(伊支馬)⇛➃飯手宿禰⇛⑤御物宿禰⇛⑥市磯長尾市・・


因みに、本項「葛木高千名姫」は「大国主命」から数えて9世孫にあたる。

〚尾張氏系図〛(始祖)「大国主命」⇛①味耜高彦根(神武に強硬対峙)⇛➁天村雲⇛③天忍人⇛➃天戸目⇛⑤建斗米⇛⑥建田背⇛⑦建諸隅(由碁理)⇛⑧日本得魂⇛⑨葛木高千名姫・・

崇神の第一子「豊城入彦」の生母は紀ノ國(和歌山)を出自とする。

この豊城は長じて東国へ遠征し、彼の地に統治の確かな橋頭保を築いた。豊城の子「八綱田」(やつなた)は垂仁の御世になって「狭穂彦」を討った。豊城の孫「彦狭島」(ひこさしま)は東方十二国を平定して上毛野国造に封じられた。坂東武者の源流である。毛野国(けのくに)は紀ノ國(きのくに)が訛って変化したに過ぎずその地が豊城入彦皇子の印した地であることを示唆する。

この毛野国からやがて任那半島(現・朝鮮半島)へ新羅・高句麗征伐のために幾度となく多くの兵士が送り込まれた。古墳が関東で最も多いのはそのためである。ところが同地古墳群の埋蔵物に中央からの威信財が他の国々に比べて極端に少ないのは巻向王統と異なる河内王統との間で何らかの確執(わだかまり)が内在していたことを物語る。毛野国は河内王統に臣従していたが先祖を遡れば巻向王統の遺臣たちであった。河内王統が任那防衛に優先する百済重視策を採って兵を徴していたことが異議申し立てに繋がりそうした結果を招いたと観るのである。



稲荷山古墳出土の鉄剣銘文は「大彦」を示唆する。「大彦」は「崇神」にとって外祖父にあたり、崇神(娘婿)の命に従って北陸・東北経由で彼の地へ遠征した。何れにしてもこの巻向歴代王朝〚開化・崇神・垂仁・景行・成務・仲哀 六代天皇〛は九州・北陸・東海・東北を制覇して慌しく時代を駆け抜けていった王統であった。故にその後の倭国の動きは民力の大結集が可能となりそのエネルギーは巨大古墳群を出現させ、任那防衛のために或は百済救援のために動員された。即ち、大彦や豊城が制覇した関東以北から、或は吉備津彦ら兄弟によって制覇した吉備西道から将又景行や日本武尊らによって制圧した九州・東海から勃興新羅や高句麗と戦う本邦討伐軍の一翼を担う夫々が重要な供給地となっていった。



2015年12月29日火曜日

開化天皇 「彦大日日」【巻向王統 その 8】第二章


漢風諡号 第九代 開化天皇

御 名 稚日本根子彦大日日尊 (わかやまとねこ ひこおおひひ の すめらみこと)
第四代倭国大王「懿徳」(スキトモ)の曾孫である。
父は彦奇友背二世。 『記紀』はその御名を秘匿隠蔽せり。
母は、「欝色謎」。 欝色謎の父は第五代物部氏当主「大矢口宿禰」
后は、「伊香色謎」。 伊香色謎の父は大矢口宿禰の第二子「大綜杵」
〚私論編年 生没年 AD225~275年、 在位21年、 崩御51歳〛

事蹟一 ;  それまでの尾張氏系王統から物部氏系王統へ、嫡統王家の
                交代(王権の回天)を断行する。

第八代大王「孝元」の早世に伴い、それを機に長年の宿願であった大王位奪還を一気に成し遂げる。為に、それまで四代《孝昭⇒孝安⇒孝霊⇒孝元》続いていた尾張氏王統の流れは絶たれた

この結果、「懿徳」嫡孫(三輪系)から、より物部氏の血脈色濃い新たな大王家が出現した。即ち、開化の母は物部氏「欝色謎」であり、開化の后は母の異母兄で物部氏の「大綜杵」の娘「伊香色謎」であった。そして開化と伊香色謎の間に「崇神」が生まれた。その崇神は成長してのち開化の同母兄「大彦」の娘「御間城姫」を皇后に迎えて「垂仁」をお生みになった。この間、豪族物部氏の権力は絶頂期に達していた。ゆえに崇神は崇神元年正月に生母「伊香色謎」を尊んで皇太后と申し上げ、祖母「欝色謎」を尊んで大皇太后の称号を贈られて共に長寿を寿ぎ且つ物部系大王が永久に続いていくことを賀詞し、同床共殿には「天照大神」と「豊受大神」を祭って祈願した。

私はこの王統を仮に〚巻向王統〛と標し、この王統交代劇を「開化の回天」と仮称した。

下記〚別紙-9 その2〛は尾張系王統から物部系王統への王統交代劇を表している系譜である。その主意は、孝元と開化は父子関係ではなくそれぞれ嫡統王家が異なっていることを示す。けだし、両氏族ともその始祖を遡ればみな同じ出雲王朝最後の大王「大国主命」に辿り着く同根(異母兄弟)なのである。


事蹟二 ;  中国『晋』成立の翌年(AD266年)、開化(41歳)は「臺與」(29歳)の夫君として臺與と共に洛陽を直接訪台した。当時としては型破りな前代未聞の親善外交をやってのけた。
『梁書』(636年)に曰く、「復立 卑弥呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並び受中国爵命」

冊封体制下の晋朝は、「倭国女王」夫妻の〚化外慕礼〛(兄弟国レベルの外交)を色濃く滲ませた来朝を内心慶ばず、これをどのように遇するか始めは戸惑いをみせていた。一方の倭国は、使君帯方太守「張政」からの通報を得て中国で易姓革命が行われたことをいち早く知らされ、それを受けて自ら率先して晋訪台を敢行し、化外慕礼の誠を態度で表して見せた。倭国女王夫妻のこうした国を空けた大胆な「洛陽訪台」は16年前の答礼使「和邇日子押人」以来の壮挙で、これに一番驚いたのは「張政」その人であったが倭国内訌の弊がこれを以て全て払拭された証しだと捉えて「張撫夷」が功を奏したうれしい驚きと享けとめ、このとき臺與29歳の成長した姿に感慨一入であった。


翻って晋朝が倭国女王夫妻を如何に遇したか知る術もないが、対等外交で臨んでくる倭国の姿勢は煙たい存在(恐らく華夷体面上、前例にはしたくなかった!)で、この倭に対して晋は当たり障りのない勳爵をお二方に贈ることで体面を保ち鄭重にお引き取り戴いて静かに幕引きとした。

この事蹟は中国史書『梁書』『通典』の行間にその記録が僅かに残るに過ぎないが、当時の倭国女王夫妻による革新的で進取の気性に富んだ中華帝国「晋」との対等外交の “気概や如何に” と云わんばかりの意気込みがこの短い文面から窺い知れてなかなか興味深く、史実に立脚した日本史の一断面がリアルに見てとれるのである。

AD254年、それは突然の衝撃であった。前年に斯蘆国の「昔宇老」誅伐がありその余波覚めやらぬ中、第八代大王「孝元」が俄かに崩御、享年25歳の早世であった。為に王都に激震が走り遺された皇后「伊香色謎」(22歳)とその正嫡「彦太忍信」はまだ2歳、妃「埴安媛」(24歳)とその皇子「武埴安彦」は4歳という幼さであった。皇位継承資格第三位に当たる孝元の異母弟「吉備津彦」は遠く「温羅の吉備」と対峙する初陣間もない少年(15歳)で伯父であり同時に養父である「大吉備諸進」(針間国守)に随身して都と距離を置く人となっていた。


この間隙を衝いていち早く立ち上がり王都を制したのが「彦大日日」(29歳)であった。「彦大日日」は孝元の王宮「軽境原宮」警護を名目に行動を起こし、同王宮を占拠して同后妃とその皇子たちを匿った。同時に大彦(彦大日日の実兄)もまた諸族(豪族連合)の統合のシンボルたる女王「臺與」の坐す神殿「巻向宮殿」を抑えて布陣し、王都を完全に制圧して尾張氏・和爾氏・葛城氏ら反勢力の出鼻を挫き俄然圧倒的優位な立場に立った。

物部氏・倭氏・三輪氏らの豪族を背景に彦大日日は、その優位を生かして葬送儀礼を取り仕切り、孝元ご遺骸を殯宮に安置し奉り、然るのち “孝元ご陵墓造営”(剣池嶋上陵)を高らかに宣布して自らが正当な次期継承大王たるを内外に誇示するに至った。

(※ 私は人質入妃・恭順入后の表現を敢えて文飾しない。それがより当時の実態に即していると思うからである)。

然れども前王統支持勢力は依然侮りがたく、もし針間から「吉備津彦」が踵を返して俄かに攻め上ってくることがあれば、忽ち同王統支持勢力が足下に駆けつけ他の日和見的豪族も参集して趨勢は一挙に攻守所を変えるところとなりかねず、それを牽制しつつ都を鎮めるにはなお力不足を覚え因って彦大日日は「孝元」后妃とその皇子二児を半ば軟禁状態(人質)にして我が掌中に留め置き、御自らは一年間の心喪を経たのち女王「臺與」との婚儀を調える旨天下に知らしめ、旧来勢力の反抗の目を事前に摘む硬軟使い分けた策を次々に打ってそれらの機先を制した。


翌年、喪が明けるのを待って彦大日日は物部氏の本貫地「登美国」の東部、御蓋山の麓に新たな都「春日率川宮」(かすがのいざかわのみや)を築いてその地で即位(255年)した。第九代倭国大王「開化」の誕生であった。王都がそれまでの十市郡から距離を隔てた遥か北の添上郡へ遷ったということは、それだけ開化朝(巻向王統)の初期段階における基盤がまだ脆弱で物部氏の勢力圏(庇護下)に置かれ(選ばれ)たということを意味した。


嘗て「神武」東征の砌、神武軍が出雲王朝の深奥の桃源郷ともいうべき「葛城」の東麓を急襲して、同王朝秘玉の皇女二姫を奪って人質とした。同王朝の脾臓ともいうべき彼の地を突かれたその責めを負って「大国主命」から死を賜った原大和の蕃王「長髄彦」は無念の最期を遂げていた。この叔父「長髄彦」を哭いて処断したのが物部氏の始祖「宇摩志麻治」であった。「欝色雄」はその五世孫に当たる。

系図は〚宇摩志麻治⇒①彦湯支⇒➁出雲醜⇒③出石心⇒➃大矢口宿禰⇒⑤欝色雄〛
「開化」の御世になって漸く「長髄彦」の名誉回復が図られ物部氏第六代当主「欝色雄」は長髄彦王の本貫地「富雄」において御陵「丸山古墳」の造営にとりかかり、登祢神社(奈良市石木)を創建して篤く祀った。同様に磐余が本貫地であった同弟「安日彦王」を祀って等祢神社(桜井市桜井)を創建してここでも篤く祀った。長髄彦と安日彦はヤマト王権開闢以前の出雲王朝を奉じる〚原大和〛(大阪摂津から奈良盆地北部と東南部一体にかけての地方豪族)の支配者であった。

更に申せば、「開化」の皇后の実兄「伊香色雄」は崇神の御世になってから物部氏の始祖「宇摩志麻治」を奉って石上神宮を創建した。登祢神社創建当時はAD260年代であり、石上神宮の創建はその20年後のAD280年代である。因みに280年代は若狭の国「玖賀耳御笠」(狗奴国)の討伐と「武埴安彦」叛乱を鎮めた前後に当たり如何に物部氏の勢力が当時の「大王家」と結びついて強大であったかが偲ばれるのである。


逆説的に云えば「欝色雄」が遠祖「長髄彦」王と「安日彦」王を奉斎するまで没後168年間待たねばねばならなかったという過酷さを意味し、その次の世代の「伊香色雄」が物部氏始祖「宇摩志麻治」王を奉斎するまで同王没後148年間待たねばならなかったということである。
◆1◆
開化の政略と三皇女の入妃

《第一皇妃》、 
開化は即位すると同時に諸族の象徴的存在であった「臺與」を真っ先に入内(人質入妃)させ、翌年に第一子「彦湯産隅」を儲けた。 このことで臺與の兄「日本得魂」(尾張氏第九代当主)をまず帰順せしめた。

《第二皇妃》、 
第一子を儲けた同年、開化は母方(物部氏)の姪「伊香色謎」を娶り(恭順入妃)、翌年に第二子「崇神」を儲けた。崇神を儲けたことによって物部氏と同族意識を持った新たな王統がここに確立した。私はこれを便宜上「巻向王統」と仮称した。

《第三皇妃》、 
第二子を儲けた同年、開化は女王「日女命」の孫娘「姥津媛」(和爾氏)を娶り(人質入妃)、翌年に第三子「彦坐」を儲けた。これによって姥津媛の兄「彦国姥津」(和邇日子押人の嫡子)を帰順せしめた。こうして前王統の係累をすべからず取り込み、且つ物部氏の「大綜杵」「伊香色雄」「大峯」らを大臣・大祢に取り立てて脇を固め朝政を専制することで開化はもはや押しも押されぬ第九代倭国大王となっていた。それは開化即位から三年目のことである。

彦国姥津の開化への帰順は、あたかも物部氏の始祖「宇摩志麻治」が「神武」に帰順したときの状況とよく似ていて小よく大を制していた。単一民族の王朝交代劇の特徴がここから観られるのである。

(※ 和邇日子押人は母「日女命」の代で尾張氏本宗家から和爾氏へ分岐した)。

名実共に倭国大王となった開化は、三妃の内「崇神」を生んだ「伊香色謎」こそ最も吾が身内に近い母方親族と尊び、先妃「臺與」を差し置いて後妻を立てて異例の正后とした。「孝元」の后であった物部氏「伊香色謎」は奇しくも開化の皇后として大きな宿命を担って二度の務めを果たし、物部系王統に大きく貢献した。


◆2◆
孝元の遺児、その後

時はAD244年、孝霊の皇女「倭迹迹日百襲姫」(7歳)は、女王「日女命」(卑弥呼)の死後、再び争乱が繰り返される大和国を出でて四国東讃の「安戸の浦」に向かい、その地に水主御殿を造営して住まわれた。翌年、母方の伯父「建諸隅」は山背の水主邑に陣を構えて北に若狭の「海部氏」に備え、南に物部氏が庇護する三輪西麓巻向の「彦大日日」と対峙する緊迫した中、倭はこの年の魏への遣使を中止していた。



時が過ぎてAD257年(崇神出生年)、父「孝霊」も伯父「建諸隅」も今や早や亡く、世は「開化二年」の御宇になっていた。この年、伊香色謎は開化の第二子「崇神」をお生みになり、図らずも開化の正后となられていた。このことで孝元の嫡子「彦太忍信」(5歳)が害されることを恐れた母「伊香色謎」は同皇子の助命嘆願と同皇子の依って立つ受け皿に八方手を尽くされていた。
それに応えたのが「彦太忍信」の若き叔母「倭迹迹日百襲姫」(20歳)であった。同姫はその養育を買って出て開化へ恭順を示し、住み慣れた東讃水主邑を後にして開化の眼の届く大和の古巣「黒田蘆戸(いおど)宮」にお戻りになり、同皇子を引き取り後見人として無事成人するまで育て上げることができた。だが、それもこれも偏に「彦太忍信」の庇護者たるを弁え、時の為政者猜疑心の目が及ばないよう細心の注意を払っていたからにほかならず、ゆえに国政の困難な時の状況もよく見えていて、女王「臺與」蟄居の後を埋める神託はこの「倭迹迹日百襲姫」が図らずも担うこととなっていた。
晩年は再び東讃の水主邑で余生を送りその地で薨去なされた。


※ 「倭迹迹日百襲姫」の母は尾張氏当主「建諸隅」の妹「倭国香媛」(やまとのくにかひめ)である。「彦太忍信」の父「孝元」は倭迹迹日百襲姫にとっては父「孝霊」を同じくする異母兄に当たる。同姫は孝元の忘れ形見「彦太忍信」養育に人生の大半を奉げた。そして「臺與」とは年齢を同じくする母方のいとこ同士という関係から「臺與」が還俗して後は、臺與は国事に務め郡太守「張政」との良好な関係を維持し因って魏の国情にも精通した秀才ぶりを発揮して、晋朝成立間もないAD266年には、開化と共に訪台して前代未聞の善隣外交を行った。その結果評価は兎も角として次代の崇神登場によって能くも悪くも臺與主導の神託政治は忽ち廃止され、それに伴う旧弊たる前時代的な因習や銅鐸文化は強権をもって一掃された。為に、崇神の維新断行によって臺與は都を追われ丹波国余社(よさ)に蟄居の身となり晩年はその地で哀れにも寂しく薨去した。

一方、孝元の第一子「武埴安彦」(7歳)とその母「埴安媛」は共に軽境原宮に残され依然禁足が解けず、こころ穏やかならざる不安で不自由な日々を送っていた。だがその転機が訪れたのは幸いにも「倭迹迹日百襲姫」が「彦太忍信」を黒田の蘆戸宮へ引き取ったことが切っ掛けで同母子共々やっと下郷が許され河内の国へと帰っていった。


※ 「孝元」の妃「埴安媛」は、河内の豪族「青玉繁」を父に戴き、その父の経済基盤は強大で大和へは贄(にえ)を経常的に貢進(主として海産物)し、とりわけ魏の使節を接遇した隠れた功績は評価が高く、その青玉繁を敵に回す不利を避けた「開化」の聖断は、幸か不幸か崇神の代になって「武埴安彦」の叛乱を萌芽する要因をこのとき既に抱え込んでいた。


◆3◆
孝元の遺臣、その後

この頃、孝霊の皇子「彦五十狭芹彦」(18歳)は吉備の『山中』(備中)に進出していて倭を奉ろわぬ吉備冠者「温羅」とその一味に対峙していた。彦五十狭芹彦(後の吉備津彦)は聡明で、「温羅」独りを除かんとしてヤマト(倭)に心寄せる吉備近郷の有力者と渉りをつけていた。それは吉備の民草が徒に戦耗するのを避けんとする既に先の治世を見越した布石であった。加えて姉君「倭迹迹日百襲姫」が東讃水主邑を離れて王権簒奪者「開化」が治める大和国へ還っていた身を案じ、その安危に備えた兵力温存を同時に秘めた戦略でもあった。そうした吉備津彦の危惧をよそに皇后の意思を忖度して手を差し伸べた聖女「倭迹迹日百襲姫」に対し開化朝は鄭重にこれを都へ迎え入れ、姉を気遣う吉備津彦のそれは幸いにも杞憂に終わった。故を以て吉備津彦の開化朝への帰順に繋がっていた。(※ 若輩「彦五十狭芹彦」は伯父「大吉備諸進」が吉備進攻で腐心した戦略的薫陶を受けていた。)

一方、明暗を分けたのが尾張氏「日本得魂」で、六年前 山背の水主に布陣して父「建諸隅」の副将として彦大日日(開化)と対峙し、女王「臺與」共立を以って矛を収めた開化は辛酸をなめたその当時を忘れず、尾張氏本宗家から大丹波の宰(丹波・丹後・但馬の総帥)を召し上げ、丹後の加佐郡一国のみを残してその強大な権力を削いだ。為に尾張氏本宗家第八代当主「日本得魂」は大きくその権勢が毀損(格下げ)され、栄華を誇っていた絶頂期から瞬く間に転げ落ちて嘗ての勢威は見る影もなく凋落した。

時の私論編年は、崇神出生年AD257年(開化2年)を基準に、開化32歳、日本得魂27歳と見定める。
嫡統王家の交代による祟りを怖れた「開化」は、女王「日女命」とその甥「建諸隅」を邪馬台国の皇祖神と畏み崇め奉り、同床共殿に篤く祭った。

時代が「崇神」の御世に移っても同様、その国事行為は引き継がれた。

崇神には大皇太后「欝色謎」・皇太后「伊香色謎」・皇后「御間城姫」御三方ともお健やかに何れも物部氏を出自とする同族で仲睦ましく暮らされ、揃って皇祖神「二神」をお詣りするのが慣わしになっていた。ところが或る時から国では百姓の流離や背乱が相次いで起こり、この災厄は共殿に鎮座する二神の祟りが所以なりとひどく脅え参らせ、御三方のご心労は極みに達し、その状態を畏れ多いとした「崇神」は皇女「豊鋤入姫」に皇祖神「日女命」(天照大神)を託し、皇女「渟名城入姫」には「建諸隅」(豊受大神)を託して同床共殿の間から祓い給い、神籠(ひもろぎ)の地を尋ね委ねて祀らせ奉った。

吾が子(皇女二姫)を斎宮に立ててまで『同床二神』と決別した「崇神」は、それは同時に先の邪馬台国からの決別をも意味した。ゆえにその気概は諡号にも表れて〚御肇国天皇〛(はつくにしらすすめらのみこと)となってヤマト王権の新たな王朝を切り拓いていく強い意志をもって数々の維新断行を行い、大和国初代天皇を名乗られた。


(思うに『記紀』編纂者たちは是以後を以って日本国開闢紀元としたのではないか、そしてそれ以前の為政者たちを神代の神々として祭り上げた。だがその神々には隠しようのない歴史的事蹟があり、それを示す現実の神社が数々残され多くの古墳があり複数の外国史書があり各々豪族の系譜があり何より発掘考古学の大きな発展と共に科学的検証がより可能になり歴史的事実が明らかになってきている。

そのことが逆に尾張氏守護神「建諸隅」の憤怒を買い神籠(ひもろぎ)の地が定まらず各地を転々と遷奉することとなり、託された斎宮は哀れにも憔悴しきるのである。この斎宮お二方の出自は『記紀』系譜とは異なり、「豊鋤入姫」は皇祖神「日女命」を奉斎して点々とするが「渟名城入姫」は皇祖神「建諸隅」から受け容れられず “髪落・體痩”して半ば廃人と化す。 この伝承から「渟名城入姫」の出自は尾張氏ではなく生母が紀伊氏の遠津年魚眼眼妙媛であることを暗示している。

一方、崇神の異母兄「彦湯産隅」(号を丹波道主と称す)は憤怒と化した尾張氏守護神「建諸隅」の祟りを恐れて鎮魂の社を丹波の比治真名井原(比沼麻奈為神社)に建てて奉斎した。この祭神を『記紀』は「豊受大神」(とよけおおかみ)と名を准え「丹波道主」の皇女「八乎止女」(やおとめ)を斎宮とした。「八乎止女」は「建諸隅」の曾孫でもあった。そして時代が下って「雄略」の御宇、「雄略」はこの「建諸隅」こと「豊受大神」を丹波の地から伊勢外宮へ遷し奉ったのである。



『記紀』は「建諸隅」の御名を豊受大神に仮託して伊勢外宮の祭神としたが、その言で云えば女王「日女命」もまた天照大神の名に仮託して伊勢内宮の祭神とした。外宮に先んじて内宮の創建であったが、故に「雄略」の夢枕に現れた「日女命」は甥「建諸隅」を遠き丹波から傍近く(伊勢)へ呼び寄せよ!と命じられたのである。むべなるかなである。
(左の姿絵は倭国30余国が共立した邪馬台国女王「日女命」である。同女王は同時に出雲王朝最後の大王「大国主命」の六世孫でもある。) 
更に付言すれば、宇佐神宮の三殿は「日女命」を真ん中に挟んで左右に「応神」と「神功皇后」を配す。

この祭神は神代の神ではなく史実に基づいた実在した現人神であった。
(写真右は宇佐神宮三殿の配置絵図)
当時の古代人は、謂れなき蔑称「卑弥呼」の名を隠避してその御名を「比売大神」と准えて「日女命」を暗示した。「比売大神」の名によって今日に伝えられた女王「日女命」は、神武以前の異界の神々アマテラスオオミカミ・スサノウノミコトとは次元を異にした。
「開化の回天」以後は、人皇の女王「日女命」を神名「天照大神」(あまてらすおおかみ)に仮託して指し示し、人皇「建諸隅」を神名「豊受大神」(とよけおおかみ)に仮託して指し示した。

神功皇后も応神天皇も元を遡れば女王「日女命」の嫡裔である。
ゆえに、三殿の真ん中に「日女命」が堂々鎮座するのは、これまたむめなるかなである。

古代ヤマト神話にまつわる数多くの神々はそれぞれ出雲王朝往時の人々が本邦や九州それに任那半島を跨いで躍動(環古代倭地圏)していた縄文人・ 弥生人そして古墳時代の人々(日本人)の様子を垣間見せる。即ち、雄大に展開する神話の世界は紀元前における日本の原風景をそのままに気宇壮大なスペクタクルを描いてみせる伝承風景にほかならない。そういう意味で伊勢内宮・外宮の御祭神が天照大御神であり豊受大神であるということは、出雲王朝の守護神と大和王朝の守護神がオーバーラップして、同時にそれらの八百万の神々がいて日本の安寧と豊穣を共に願って鎮座する。更に申せば、この入子構造の日本神話は、時代が下って「持統」女帝の御世になってからも新たに加わり「持統」が天照に准えられ嫡孫「軽皇子」(文武)がニニギノミコトに准えられて〚天孫降臨説話〛が更なる重層的深みを増していた。 
(※ 因みに持統女帝の治世は7世紀末である)。

和邇日子押人の嫡子「彦国姥津」は同時に開化妃「姥津媛」の実兄で、祖母「日女命」の実兄(尾張氏第六代当主「建田背」)を祖父にもつ臺與とは彦国姥津の方が歳の差のひらいた齢上のまたいとこ(再従妹)という関係であった。当然、人質入妃という性格を宿す「臺與」の降下還俗とその生末に心を痛めていた。そして和爾氏「彦国姥津」の妹「姥津媛」の子「彦坐」が次代の崇神期、玖賀国(狗奴国)を討滅(285年)して恩賞に若狭を拝領、同年の彦国姥津は老いて65になっていてその子「彦国葺」将軍は、「木津の吐帥」(はせ)の古戦場上流で反逆者「武埴安彦」率いる浪速の軍勢を迎え撃ち皇都進入を阻止して軍功を挙げていた。この和爾氏「彦国葺」は更に次期「垂仁朝」では「五奉行」の一人に数えられ巻向王統を支える重鎮となっていた。
そして女王「日女命」の血脈「和爾氏」は中央に留まり続け、その血脈に通じる後裔から「河内王統」が出現した。和爾氏が中央に居続けたことが河内王統実現を容易ならしめた有力な要因の一つでもあった。



◆4◆
開化の三皇子
崇神紀十年(AD285年)の「彦坐」は御年27歳、「日本得魂」は55歳であった。
この年、日本得魂は往年の宿敵「玖賀耳御笠」(狗奴国男王)をその御手で討っていた。その行軍は湖北から敦賀へ抜け玖賀国(狗奴国)の牙城青葉山へ征西するルートを辿り遂に若狭一円を平定した。この古代最大の戦乱はヤマト王権(邪馬台国女王 日女命)を奉ろわぬ出雲王朝係累最後にして最大の王を誅したことを意味した。この討伐を勅令したのが開化第二皇子「崇神」であり、第三皇子「彦坐」は討伐軍都督となって巻向から湖北ルートで北進した。「彦坐」の血筋といえば「日女命」を曾祖母に戴き、「臺與」を伯母にもつ尾張王統に繋がる名門であった。また「開化」の兄「大彦」は高齢を押して「彦坐」に供奉していた。
「彦坐」の四世孫は「神功皇后」に当たる。「彦坐」は討伐途次、淡海(近江)の「三上氏」向背を恐れて三上氏嫡女「息長水依媛」を質に取っていた。そして「玖賀国」(狗奴国)平定後、凱旋して「息長水依媛」を妃として迎え入れた。其の四世孫が「息長足姫」こと「神功皇后」なのである。

一方、同時並行して山背から丹波道を抜けて由良川沿いを下り東進して「玖賀国」を目指すもう一つの動きをする優勢な皇軍があった。その都督は開化第一皇子「彦湯産隅」で、同皇子は玖賀国領域の残党を駆逐しつつ丹波一円を平定した。その軍功により崇神から「丹波道主」の勳爵を賜り、それを機に「彦湯産隅」は丹波峰山の五箇舟岡に府を置いて、以後は専ら「丹波道主」の号を名乗って都を離れた。そして「日本得魂」に代わって丹波の宰となった。為に、日本得魂は尾張氏本貫地〚大丹波〛を失い、それまでの本宗家の威信は大きく傷ついた。


「日本得魂」の父「建諸隅」は同時に「丹波道主」の母「臺與」の父でもあった。故に丹波道主にとって「建諸隅」は母方の祖父という近い尊属であった。このヤマト王権の守護神「建諸隅」(豊受大神)の領国を奪いあまつさえ嫡統王家を交代せしめた開化朝とそれにつづく巻向王統は、いまや憤怒の形相を露わにした豊受大神に震え上がり、相次ぐ災厄を前におののき畏怖した。

丹波道主は、自ら開いた府(五箇舟岡)の近くに「建諸隅」を祭神とする〚比沼麻奈為神社〛を創建して娘である「八乎止女」(やおとめ)姫を斎女(巫女)として仕えさせその魂魄を鎮め参らせ祀った。その祭神のことを神名に准えて「豊受大神」と尊称した。(右上は守護神建諸隅)



開化第二子の「崇神」は生まれながらの大王であった。彼の高祖父「懿徳」は神武以来四代続く三輪氏母系嫡孫であった。懿徳の父「安寧」は末子継承の当時の理に倣って懿徳の異母弟「孝昭」を日嗣の御子に立てていて亡くなった。ところが懿徳の生母で安寧の皇后「渟名底仲姫」(三輪氏)は実子「懿徳」を大王位に就けんと画策し、時の大臣物部氏の「出雲醜(色)」(いずもしこ)はそうした皇太后の意思を忖度して孝昭に優先して懿徳を大王位に就けた。ここに皇位を巡る永年に亘る内訌(イズモシコの変)が惹起し、倭国大乱(後漢桓帝・霊帝治世の間146-189)として遠く中国にまで伝わった。
(左上は第四代懿徳大王)
そして懿徳が崩じた後、懿徳嫡子に代えて「孝昭」が毅然と第五代倭国大王に為った。されども懿徳嫡統との内訌は依然解消されず尾を引き倭国は引続き乱れた。(この間、任那の統治能力が大きく削がれていた)為に倭国の長期安定をなにより願う諸族の長たちは抗争に明け暮れる内紛を倦み、両嫡統王家の緩衝体として共立女王「日女命」を擁立することで鎮静化を図り、よってやっと倭国大乱を収めることができた。
この巫女的女王を実務面で支えたのが孝昭の皇子「孝安」であった。「孝安」は「魏志倭人伝」に出てくる男弟であった。 
(卑弥呼が既に子の居る未亡人であったことを陳寿は知る由もなく、ここでも史実に正確性を欠いた魏志倭人伝の誤謬が視てとれるのである)。
日女命の子は「和邇日子押人と押姫」。押姫の子が「孝霊」なのである。

この孝昭にはじまる皇統も四代つづき尾張氏血脈が深く関った。そして皇統譜に出遅れていた物部氏の血脈濃い「開化」が遂に第九代大王と為って登場した。諄いようであるが崇神はその開化の子であり、崇神の祖母は物部氏「欝色謎」であり、崇神の母は物部氏「伊香色謎」であり、崇神の皇后は同母伯父で物部氏「大彦」の娘という関係であった。崇神の父「開化」を大王位へ押し上げた遠大な画策者は物部氏本宗家第五代当主「大矢口宿禰」であり、この人物こそ物部氏の中興の祖といってよく、同宿禰は斜陽を嘆く懿徳嫡孫を愛娘の「欝色謎」と見合わせ孫「大彦」と「開化」を掌中に入れ、女王「日女命」亡き後、男弟が輔佐する大義名分が失効した機会を逃さず遂に物部氏による倭国大王実現へ導いたのである。「開化」が同宿禰の墳墓を造営したであろう古墳の場所は不明であるが恐らく「藤原不比等」に匹敵するこの人物のそれは今後の探究に待つしかない。
第九代 開化天皇


◆5◆
任那半島の情勢

「開化」の時代、任那半島では、新羅が高句麗と講和して百済と戦っていた。その主戦場は槐谷(忠清北道槐山郡)・烽山(慶尚北道栄州市)など半島中部のせめぎ合いで一進一退を繰り返していた。戦局がやや有利に展開していた百済は新羅に和を申し入れていたが新羅は高句麗との連携をバックにこれを黙殺して強気であった。
新羅のこうした一連の侵略は自前の鉄資源(鉄産地)獲得のためであり、その主産地が京畿道と慶尚南道に集中していた。新羅(当時は斯蘆国)は半島南部に盤踞する倭勢力とは全面的に対抗し得ず、勢い百済を攻めていた。だが、任那倭人にとっても新羅の脅威は日増しに増していて、加羅産の鉄素材や鉄器を採掘加工して洛東江を下る途中で奪われる危険に絶えず曝されながらも、金海~対馬~北部九州ルートを経て列島各地へ舶載していた。同様に「臺與」主導の交易外交も功を奏して任那西岸の多島海を行き交い帯方楽浪二郡へも盛んに鉄を齎せていた。即ち、倭人または倭系官吏が任那各地の通関関所で各々交易を監理監督していたことがここからも見てとれるのである。


著者・制作  小川正武  2015/12/29



〚追記雑感〛『記紀』編纂者たちは「御肇国天皇」(第十代崇神)以前の『邪馬台国』の存在をなぜか日本古代史から抹殺した。
そして豊鋤入姫と渟名城入姫お二方の斎宮がその謎に深く関わる。両斎王が献身したその神々こそ日本古代史に隠された真相を語っていた。本稿ではその一片をほぼ明らかにしたつもりである。
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2015年9月28日月曜日

答礼使「和邇日子押人」【巻向王統 その7】 第二章



父は、第六代大王「孝安」の同母兄「天足彦国押人」。
母は、宇那比姫こと女王「日女命」。
宇那比姫の同母兄は尾張氏「建諸隅」
御名は、和邇日子押人(わにひこおしひと)命
〚私論編年 生没年AD190~253年 享年64歳〛
第七代大王「孝霊」は17歳年下の甥で、和邇日子押人の妹「押媛」は
孝霊の母に当たる。

〚事蹟〛
一、第二次遣魏副使「掖邪狗」/234年(魏帝曹芳・正始四年)
二、第二代倭国女王〚臺與〛擁立/250年・倭国大乱鎮定に大きく貢献。
三、第四次遣魏正使〚答礼使・全権大使〛/250年(魏帝曹芳・嘉平二年)

250年夏、「張政」ら還るを見送る倭の船団は舳艫が斜めに突き出た大型外洋船で少なくとも十数隻の船団を組んで難波津を出航した。
 此度の国を挙げての壮途は倭国大乱収拾の貢献(魏朝使節による告諭効果)に報いるもので、張政本来の使命「魏の藩屏(外藩)たる倭国からの軍事対応」即ち、出兵要請の思惑が見事に外れたことによる魏朝からの「尋問有之」とする密命を帯びて來倭した彼らの因って立つ面子とその擁護、それを倭の答礼使が洛陽へ直接罷り出ることによって『彼らが如何に魏の徳を以って倭国大乱終息に寄与したか』を説くことで誠意は通じ且つ又、倭が魏の冊封国(藩属国)でないことを示すのに充分であった。

魏はこの組し難い海東の国 倭国に手こずり、その後の中国歴代王朝も界外の脅威無き「倭国」に関心が薄れ爵位は地続きの近隣属国に比して劣後した。属国でない倭は、半島任那が上古から倭国と一体不可分の領域であることを国際的にも知らしめんとして動き為に一時期中国の爵位を必要とした。だがその行為は徒労に帰し『倭の五王』(正確を期すれば倭の六王)以後はその爵位に殆ど関心をもたなくなっていた。その結果、倭は中国王朝と疎遠となりそれがために文化的交流も途絶えた。その後、こともあろうに倭は一旦滅亡した百済を再興させその百済から大陸文化の導入を図る策に転じ、それと引き換えに任那の地を百済に割譲するという俄かには信じがたい外交政策に転じ、この愚かな売国的国策が雄略初期(任那倭人とっては最悪)に早くも起こり継体から欽明にかれてその路線は引き継がれていった。
己んぬる哉、在任那の各邑首や王族・在任那の倭の臣民らはその結果倭から離反していった。倭の紐帯から離れたそれらの人々は父祖伝来の土地を或はその邑落を護り懸命に自立自助自衛を図るが、その中で遂に力尽きて百済にいいように取り込まれ、新羅に無惨に蹂躙され、高句麗に一敗地に塗れて敗れ去った。そして汎任那全土では少なくとも百数十万人(梯儁來倭AD240年当時の本邦列島倭人総人口は少なくとも凡そ100万人/20万戸と推定、それから起算して272年後のAD512年任那四郡割譲時の半島倭種倭人総人口推定値)はいたであろう倭人は時間軸2千年の潮流の中で半島から淘汰され、いつしか倭のY染色体(父系)は半島から次第に消えていき遂にはその存在すら見えなくなった。そして半島の主人公の座はそれまでの倭人から三韓に取って代わられた。ヤマト王権はこの間、なにをしていたのか、『記紀』はひたすら神功皇后に象徴される『三韓征伐』の実態とその流れの片鱗を今日に伝えている。にも拘らず一部には〝三韓の地を倭(神功)が侵略した〟などと曲解する輩もいる。史実は真逆で〝侵略者「三韓」を懲らしめるために神功皇后自らが甲冑に身を纏い親征し給うた〟実際に起こった出来事なのである。それは用意周到に準備され本邦倭軍はいうに及ばず在任那の各旱岐(邑首または王)らが率いる軍も加わって国母の下、末端の兵士までみな奮い立って我先に新羅へ攻め上り、神功が彼の地に上陸した時は既に戦いは終わっていて新羅王は浜辺でひれ伏して国母『神功』を出迎え倭国を奉ったのである。これが真相である。〚神功皇后の三韓征伐〛は斯かる歴史的快挙を刻んで今日に残している。この史実を認めたがらない立場の人々が国家規模でいることはその心情に於いて理解できなくもないが、だからと言って真逆な史観がまかり通ることは甚だもって言語道断で、ここにおいても史実を故意に歪め覆い隠そうとする心痛むミッシングリンクが潜んでいるのである。 
(※ 1)【別紙-10 その5】

そして皮肉なことにその「三韓」もまた現代コリアンの祖である「高麗」によって簒奪されて歴史の彼方へ追いやられていった。現代コリアンと新羅人との言語が異なる所以も正にそこにある。現代コリアンの祖が 『檀君神話』 を信奉するシベリア系華北の人々(北方ツングースを祖族とする)であることはむべなるかなである。
それに比べ、日本の祖先神は天(あま)照らす大いなる大御神(女神)を戴く。この神は海の幸・山の幸・豊穣の大地を賛美して天地自然・先祖を畏み敬い崇める摂理・哲学に根差し、今日なお全国各地各神社において朝な夕な生きとし生ける万物霊長(八百万の神々)に深々と頭(こうべ)を垂れて尊崇の念を表している。こんな荘厳な営みを日々行っている民族が現代においてどこの国にあろうか!
そして倭は国名が『日本』と変わった後も皇統は間断なくつづき、初代「神武」から 「今上天皇」まで第125代を数えて今日に到っている。驚くべきことである。

因みに日本人のY染色体のDNA型はハプログループD1b系統で日本人・アイヌ・沖縄に固有にみられるタイプで朝鮮・中国には稀にしかみられない縄文人特有のY染色体だとされ、日本人にのみ高頻度で確認されている型だと学術的にも証明されている。
片やコリアンのそれはエヴェンキ族・華北の人々に多くみられるY染色体の特徴をもち明らかに日本人とは似て非なるルーツであることが今では解っている。

要するに、古代半島の主人公は倭人であったということである。ところが前漢時代の漢四郡設置以後の漢の衰勢によってその地方での力の空白が生じ、それに乗じて北方民族がどっと流れ込んできた。さらにその流れは加速し半島中原以南の地、即ち汎任那へも押し寄せ汎任那の地を瞬く間に蹂躙していき、遂には先住民族であった倭人を呑み込みつつ滅ぼすまでに至った。その北方民族とは百済人であり高句麗人であり、新羅人であった。これら三種族は紛れもなくその出自は北方扶余族を共通の祖とする何れも漢四郡以降に半島中原に進出してきてそれまでの先住民(主に倭人・流民である辰族と称させる漢民族)らと混住混在が急速に進みその人口爆発によって勃興した新興民族であった。
ゆえに檀君神話を戴く現代コリアンが〝古代半島はコリアンの祖先が主人公であった?任那などなかった?任那日本府などもなかった?などとする手前勝手でとんでもない幻想学説がまるで病理のようにこんにち蔓延しているのは甚だもって不幸なことである。韓国が捏造する戦略的主張が如何に根拠のない砂上の楼閣であるかは既に本論によって以下完膚なきまでに論破している。よって韓国の歴史歪曲は全て破綻していることを韓国人は恥じて素直に自戒ずべきである!また韓国の為政者も事大主義に走らず襟を正して自らの民族史にもっと謙虚に向き合う勇気をもたねばならない。そのことからコリアンの真の誇りが生まれてくるのではないか。

(※ 1)〚別紙-10 その5〛

継体期の時代、高句麗に滅ぼされた百済は倭に任那四郡を求め、倭は友誼の証しとしてこれを下賜(512年)した。為にそれまでの汎任那の倭人たちは父祖伝来の本貫地を突如として失い不条理にも百済の属民と化した。これらの任那倭人はその地をよく護り、同時に百済をもよく援け高句麗や新羅と戦い続け寧処に遑あらず、幾多の合戦のたびに幾万もの兵たちがその地に屍を累々と曝した。その挙句の果ての任那割譲・百済隷属は任那倭人にとって受け容れ難く百済・倭軍を相手に戦いを挑み次々と敗れ去っていった。栄山江流域に前方後円墳がいまなお数多く横たわって見えるのはそれら任那の名立たる倭人たち強者の死を悼んで築造された墳墓にほかならない。この故事を知って同古墳に佇めば心中涙しない日本人はいない。その任那四郡を亡国百済のためとはいえ倭が百済へ突然割譲した措置は、その地に古代から住んでいた各邑落(国々)の幾万幾十万もの倭人の悲憤を買い人心はみな倭から離れていった。とりわけ任那倭人と紐帯の深かった竺紫君岩井(筑紫君「磐井」)は倭中央の国策に異議申し立ての反旗を翻し反抗したがそれは已むに已まれぬ当然の行動であった。その磐井が物部荒甲(もののべのあらかい)と大伴金村(おおとものかなむら)によって討たれた(527年)後は、任那諸国は頼みの綱を失いみるみるうちに衰亡の一途を辿った。

即ち、筑紫磐井の乱はそのまま任那諸国と二重写しの性格を宿し、金官加羅国がこうした背景の下、任那頽勢を立て直す策を悉く失い、到頭倭に見切りをつけて新羅へ降った(532年)。そして同王の曾孫「金庾信」(きんゆしん)が唐と連合して百済・高句麗を半島から蹴散らし、倭軍と白村江の戦いで大勝利(663年)し半島統一を遂に成し遂げ新羅の恩寵に報いた。 当然の成り行きと必然の結末であった。

この金官加羅国の曾孫「金庾信」の「金」(倭人) は金閼智(濊貊) の「金」とは出自が全く異なる。

倭の中央が半島を宗主国然としていた気の緩み(対外的音痴)と性善説にたつ先天的善意(戦略なき稚拙な自己犠牲=良くも悪くも倭人のもつ特性である)が汎任那と任那倭人の消滅という重大禍根事を招いた。

そして陳寿の冒した半島瑕疵(認識未完の誤謬記述)は今以てその宿弊はつづいている。
このことが隣国の固定観念を助長させ任那の存在がまるでなかったかの如く巧みに自国民を洗脳し、おかしな歴史ねつ造に狂奔している。国家ぐるみのこうした驚くべき半島古代史捏造が現に今も世界中に喧伝なされているのである。この狂気の沙汰を称して日本では諺に〝無理が通れば道理が引っ込む〟〝ウソも三弁云えば本当になる〟という喩えのとおり、まるで駄々っ子レベルの自我が押し通せている様は只々唖然として呆れかえるばかりである。思うにこの意図するところは、太平洋戦争以後の自国の民族主義的イデオロギーに根差した国家戦略が最優先され、史実を歪曲して憚らず、〝こう有りたい、有ってほしかった、有らねばならない〟とする民族的願望に応えて国家構想が練られ、独善で非合理な観念のもと虚偽や欺瞞が仕組まれ、それが自国民の自己満足をくすぐり熱烈に歓迎されていることにますます自信を深め、いまや国家ぐるみで自作自演した自画像に陶酔しきっている。こうした恥ずべき幻想史をいくら世界へばら撒こうとも事実は不変であり常識ある人々はこれをは認めることはなく、一個人としての私も〝みっともないから頭を冷やして少しは大人になれよ〟とご忠告申し上げて警鐘を鳴らすしかない。

〚※「陳寿の誤謬」とは、詳しくは第一章 魏使梯儁【邪馬台国 その十八】において検証は既にし終えている〛


前年、魏では専横を振るっていた「曹爽」が司馬懿によって粛清され皇帝「曹芳」19歳もまた傀儡となっていた。こうした不穏な中での倭使洛陽訪台であった。死期が迫っていた司馬懿がこれをどのように遇したか知る術はないが後年、張政は王頎に代わって帯方郡太守に任命され(王キは263年天水太守に転封)その後、相次ぐ高句麗の侵攻にも立ち向かい内に善政を布いて288年その地で没(80歳)した。彼の塼室漢墓には〚使君帯方太守張撫夷〛と銘が刻まれている。因って張政の評価しるべし!。
答礼使「和邇日子押人」命 (AD251年 62歳)

◆1◆
 途次巡行

答礼使(送魏客使)一行は帰国途次、帯方郡に迎えられ張政らとの最後の名残の宴がもたれて漢土を後にした。次いで南の馬韓の地を訪れ倭族の主だった邑の首長らと歓談した。当時、馬韓には55もの邑落があってその中の一国「伯済国」が勢いを増していたがその国王「古尓王」(こにおう)に一行が表敬したかどうかは知る術もない。さらに任那の西岸を下って群山の港津に立ち寄り、その地「久麻那利」の邑首佐伯伴造祖(奴国出自)他、哆唎・牟婁の邑首らの出迎えを受けその際、国情をつぶさに聴いた。そして辺山半島の岬に建つ「竹幕神殿」へ立ち寄り、此度の使節使命無事完遂の報告をすると共にその後の帰航の安全も祈願した。
そもそもこの御屋(宮)は、先の女王「日女命」が倭人の通航すこぶる多い西の多島海において海人の護り神として特に岩礁の多い岬の突端に創建せしめたものであった。海洋氏族の長「凡海氏」(おおあまうじ)はこの御屋の神官を兼ねた扶安伴造を任じ、和邇日子押人ご臨港に際しては供奉してその成功を共に歓び賀詞し奉った。この凡海氏(阿曇氏)の後裔からは第40代天武天皇の長子「高市皇子」を生んだ妃「尼子娘」(あまこのいらつめ)が出ている。因みに天武の御名は「大海人」(おおあま)である。

◆2◆
中国「周」の時代と『任那の位置』

「山川経」(せんがいきょう)に『蓋国在鉅燕南倭北倭属燕』という記述がある。この「燕」(紀元前1100~紀元前222年)は、中国が秦によって統一されるまで現在の北京から遼東半島にかけて支配し栄えていた強国であった。そして意味するところは、「蓋国(後の高句麗)は強大な燕の南、倭の北にある。倭は燕に属す」と標す。亦『論衡』にも曰く〝周のとき、天下太平にして、倭人来たりて暢草を献ず〟と・・ 即ち、倭は紀元前はるか昔から燕(中国)と交流していたのである。そのことを隣国との相対関係とその位置情報をこの地理書(史書)は完結明瞭に今日へ伝えている。この時代、即ち日本では縄文晩期から弥生時代にかけてであった。この当時、出雲王朝は既に列島(本邦)とこの半島の中原以南を一体的に緩やかな統治を布いていた。この一体的に統治が及んでいた範囲を私は便宜上〚環古代倭地圏〛または〚縄文時代倭人圏〛あるいは時代が下るとともに〚弥生時代倭人圏〛と解りやすく仮称している。
そして列島では半島のことを『任那』と凡庸に呼んでいた。任那は任那で『任那』のことを倭の一地方として任那と自称していた。だがこの倭名『任那』は対外的には半島自体が歴史の夜明け前であったため世界史に知られることはなくずっと埋もれたままで史上に登場してくるのが遅れた。その間、半島中原以南の汎任那は専ら倭人社会のみぞ知る地域的倭称に留まっていた。
(中国魏書『三国志』においてすら任那の認識が決定的に欠けていた)
その任那の地も北方の高句麗が興起して漢四郡が衰退していくのと反比例して、半島の中原にも大小の部族が興って互いに覇を競うようになった。それが三韓に繋がっていくわけでその過程で、汎任那の地をも徐々に蚕食されていった。

そんな汎任那が異民族の侵入を受けて版図が混沌としていた最中の西暦一世紀も後半、出雲王朝から汎任那を引き継いだ『ヤマト王権』歴代大王家は、このことによって好むと好まざるとにかかわらずこの半島倭地失地回復に重い命題を背負うこととなり、そのことで半島との亀裂に絶えず悩み続けるという御難つづきの歴史を辿ることとなった。

時代は後漢後期に移り公孫氏が楽浪郡を割って南に帯方郡を設置したとき、その地に集住していた倭人は公孫氏に取り込まれていた。倭は倭人保護のため遣使(192年)した。遣使を受けた後漢臣下の公孫度はそれに応えて印璽に代わる宝刀「中平銘鉄刀」ほか多数の武具を下賜した。それは「日女命」(卑弥呼)が共立された4年後(21歳)のことと重なり、同宝刀は後漢「霊帝」から「公孫氏」へ、公孫氏から「日女命」へ下賜され、そして日女命から六代後裔の神功皇后に供奉した和爾氏「建振熊」へと渡り、「東大寺山古墳」全長140メートルの前方後円墳に副葬されるという厳粛な引き継ぎが行われ納まるべきところへ収まっていた。
因みに同宝剣「中平銘鉄刀」を引き継いだ嫡系は、日女命⇒和邇日子押人⇒彦国姥津⇒彦国葺⇒大口納⇒難波宿禰⇒建振熊命(東大寺山古墳被葬者)。     

己んぬる哉、『ヤマト王権』は、羅唐同盟軍との「白村江の戦い」(663年)で敗れ、それ以後は半島から手を引き、百済遺民を受け容れた。そうした数奇な運命を重ねつつ倭の嘗ての汎任那(半島先住民たる縄文人の大いなる故国)は消えていった。その原点原形はこの原始古地図から全ては始まっていたのである。  

〚別紙-10 その2〛環古代倭地圏 亦名 弥生時代の倭人圏
上の図は〚周〛の時代、主に半島を中心に描かれた地理書。

◆3◆
汎任那と出雲王朝

時は紀元前197年、燕王に封じられていた「盧綰」は高祖「劉邦」(漢王朝の始祖)に背き北方の匈奴へ亡命していた。その部下で燕人の「衛満」もまた東へ逃れて清川江を渡り、先に戦乱を逃れてきていた秦・燕・斉・趙などの亡民漢族を糾合して箕子朝鮮の王険城(現・平壌)をまんまと乗っ取り、これを王都(前194年)とした。
漢はこの衛満を後に遼東太守の外臣に取り込み、より東方からの異民族侵入を防ぐのに利用した。

一方、王険城を簒奪された名門箕子朝鮮(殷の支族後裔)は事実上瓦解し、箕準は残党を連れて南の地(現・京畿道)へ逃れその地(後の馬韓)で僅かに韓王を名乗った。ところがその地は秦の苦役から逃れてきていた秦族のほか、燕や斉で服属させられまたは虜囚となっていた漢族らも三々五々流れ来ていた。これに困惑した韓王準はそれら難民を更に東界の地(後の辰国)へと追いやった。

箕準が韓王を名乗った地には、既に先住倭人の邑落が其処茲に点在していた。即ち、臣雲新国は出雲系民・乾馬国は丹波系民と思われ倭が中国と交易する中継地点に盤踞していた。為に箕準はやむなくその地に代わる東界の未開の地を流民に与えていたのである。つまり、韓王の糧道を支えていたのは主に半島の弥生人であり倭人だったのである。

やがてその「箕準」の家系は滅絶するがその後も、この倭人たちは同地の遺民や異族たちと混血が進み、すなわち魏書でいう馬韓人と標される人々(倭種)になっていくのである。 馬韓は代々東界の秦族の上に辰王を立てる慣わしであったが、既述のとおり漢三郡が廃止されたことによって彼の地は力の空白が生じそこが「夷狄更相攻伐」『三国志』の説く地と化し辰国は分裂、その分裂した国の中から辰韓(新羅の前身)が勃興し、それまでの辰王(馬韓の倭種)は辰韓にとって相容れない存在となり、以後辰韓は馬韓(百済の前身)から離反し馬韓と覇を競うようになるのである。 
〚別紙-10 その3 《C-2》〛の図はその流れを表す。

下記絵図は〚私論 紀元前195年、半島俯瞰図〛を表す。
この半島の呼称は『任那半島』こそ古代史的に最も相応しく、因って以下は任那半島と仮称する。

 同時代(前195年ころ)、任那半島はいわゆる『魏志韓伝』が記述する三韓などはまだ存在せず僅かに半島のことは韓(楽浪にいた漢人韓氏の名に由来していて、その漢族も任那半島中原以南は皆目暗く殆ど未知の地であった。)というに止まり、識別し難い漢族の流民や北方異民族の逃避地が半島北部に点在していたに過ぎない。(新羅は後503年に国号がやっと正式に定まる)
一方、任那半島中南部は『任那』を自称する出雲王朝の版図(現・忠清道・慶尚道・全羅道)が大きく存在していた。そしてその地には倭人である金官加羅国の始祖『首露王』や新羅(斯蘆)始祖『赫居世』(かくきょせ)や『脱解』(タレ)『瓢公』(ホゴン)といった草創期に居た倭人メンバーなどが続々歴史のあけぼのと同時に明るみに照らし出されてくるのである。それらはみな『三国史記』や『三国遺事』に記録されている歴っきとした倭人(出雲王朝の係累や族苗たち)を出自とする人たちなのである。このことを見落として或は故意に無視して半島古代史を語る者がいるとするならば、それはどこの国であろうとどのような権威ある識者であろうと半島古代史を論ずる資格はないのである。

『大国主命』というのは〚出雲王朝〛の大王に冠せられた尊号で、その意味するところは環古代倭地圏を包含する〝大国(おおくに)の貴き帝〟ということで『ニギハヤヒ』もまたその御宇に名前で呼ぶのは畏れ多いと専ら同尊号を用いてその大王を特定していたのである。

◆4◆
漢四郡の消長と汎『任那』の変遷

前108年、前漢「武帝」は衛氏朝鮮を滅ぼし、その勢いで半島四郡を置いた。ところがその後「玄莬郡」が夷貊に攻められ、為に郡役所は遠く高句麗の界西へ移さざるを得なくなった。また真番郡も臨屯郡も同様に 北方異民族の反抗により直轄統治が難しくなり三郡は僅か33年間で廃止された。〚別紙-10 その3〛の図《A-1》から《B-1》はその間の消長過程を表す。

前37年、高句麗の朱蒙(東明王)は卒本(チョルボン)で建国し、その第三子「温祚」は高句麗を離反して前30年に漢山(後の百済)で国を起こした。この時期、任那半島中央部は権力の空白地帯となり北方民族が南下、「温祚」もこの地を目指し然したる抵抗も受けずに居城を定めることができた。〚別紙-10 その3〛《A-2》《B-2》はそれを示す。
同時期、半島中南部には上古から先住倭人(縄文人から弥生人に到る時間軸の中で)の国が存在していた。これを出雲王朝は『任那』と称し、その任那の各邑落には出雲王朝から統治を付託されていた邑首(旱岐・国守)がいて代々その地を治めていた。

半島には1万5千年前から5千年前までの石器時代の遺跡が殆ど存在しない。この5千年間、半島は無人であった。恐らく半島北部の白頭山が太古から何度も巨大噴火を起こしておりそれまでの少数民族は生存できず跡形もなく絶滅していたからであろう。そして無人の半島に5千年前から縄文土器が出土してくるのである。同時代、倭人は列島のみに存在していたのではなく半島をも含めた〚環古代倭地圏〛に住んでいたのである。そして長江の稲作文化が暖流に乗って列島に伝搬され、次いで半島縄文人にも齎された。こうした史実は、倭人こそ有史以来半島の原住民(主人公)であったことを雄弁に示唆しているのである。


AD204年、公孫氏による帯方郡分地の後、後漢は「黄巾の乱」等で国が乱れる中、半島でも不安定になり、任那北辺の地へも北方民族の侵出が相次ぎ混住混在の様相を呈しその波は更に南の地へと向かっていった。

この204年のころは既に倭は「出雲王朝」から「ヤマト王権」へと国譲りが行われほぼ一世紀が経過していた。この間、汎任那の各邑落を代々治めていた旱岐(国守)は、多くはヤマト王権に服属していた。だが中には混血が進んで倭人から倭種へ、倭種から夷種へと変化して「斯蘆国」(後の新羅)のごとく倭人とは似て非なるヤマト王権を奉ろわぬ国も出現して、やがて百済・高句麗なども領土拡大の覇権争いに加わり、倭の戦略なき任那経営はそれに翻弄されつづけ、殊に継体期から欽明期にかけては悉く国策が躓き数々の重大な失態を重ね大任那を誇っていた嘗ての版図(忠清道・全羅道・慶尚道)は、あるときは百済に、あるときは新羅に乗ぜられまたは間隙を衝かれ、遂に百済・新羅を臣民としていたころのあの汎任那の地はAD562年に到って到頭半島の最後の牙城であった〚任那之倭宰〛(みまなのやまとのみこともち)即ち『任那日本府』(倭の任那半島における統治機関)すら失うこととなった。

〚別紙-10 その3〛〚私論 漢四郡の消長と任那の変遷〛
『魏志』「倭人条」が記述する「狗邪韓国」とは、〚邪馬台国〛(倭)が半島における唯一支配する国だけだと捉え狭く錯覚していたに過ぎない。倭の正面にスポットライトが当てられ蔭になっていた潜在部分に横たわる『汎任那』の倭を見落としていた。ここに陳寿は倭の「汎任那」が半島に存在していたことを終生認識できなかった。にも拘らず一方では『魏志韓伝』が記述するところの三韓(馬韓・辰韓・弁韓)では、押並べて風習・風俗・言語で異なるところがあるものの類似共通する部分もあるとした上でこれら三種を表層的に識別して半島の認識を総括していた。ここに陳寿の誤謬が潜んでいるのである。

これら三種が三韓へと面的に広がりをみせていった地域は、まず半島中部(中原)から始まり「汎任那」の北辺を徐々に浸食し時間的空間的経過を辿りながら「汎任那」の東岸深部まで及んだ。図〚別紙-10 その3〛《A-2》《B-2》《C-2》はその流れを表す。
漢三郡廃止のころからその胎動は既に始まっていた。漢から見た東夷諸族(半島から見た北方民族)や漢族の流民らが時には夷狄更相攻伐する無秩序で混沌とした様相を呈しながら、その中から混血と異種同士の収斂が進み、その地域的特性から新たな人種の識別が可能となった。それを『三国志』「魏志東夷伝」が「三韓」と標した。
果たしてこの陳寿が認識していた概念に瑕疵がなかったか、即ち、半島倭人=狗邪韓国とのみ認識が止まっていた陳寿は、汎任那の潜在的存在とその地が先住民族である倭人の土地だという歴史的根幹を知ることなくただ単に地域的表層的違いだけを捉えてこれを三韓とした。そして三韓の地がほぼ汎任那であった(占めていた)ことに気付くことなく、また倭人と弁韓・弁辰が倭人と倭種程度の僅差であったことも知らずして『三国志』魏書は後漢書も含めその他の中国古代史の規範となっていた『三国志』「魏志東夷伝」は)重大な瑕疵を宿した。

 『魏志東夷伝』は任那という倭への属性を知らず、任那が「狗邪韓国」を含めた倭地であるということに最後まで気付かず、任那の存在が認識されないまま〚東夷伝〛から汎任那の概念が真空のこどく完全に抜け落ちてしまった。
陳寿のこの種、誤謬は本著【邪馬臺国 その十八】[陳寿が撰した道程の誤謬と破綻]においても既に指摘しているところであり、それがここにおいても同様に生じており、そのことが任那の歴史的認識を大変遅らせ不幸にも版図任那の後退期に至って初めてその一端が窺い知れることとなり、ために任那の存在価値が故意か否かに関わらず不当に矮小化されてしまった。この根幹部分の矮小化こそが汎任那で雄飛していた嘗ての半島の主人公『倭人』(弥生人)の実態とその躍動していた時代の史実を異常なまでに歪めてしまっていた。

◆5◆
昔于老の失言

【BC57年】
赫居世(かくきょせ)倭名『彦世』は六村の長に推されて初代「斯蘆国」(後の新羅)の王となった。  『三国史記』「新羅本紀」
〚出雲王朝が大任那を領有し、国守“旱岐”を国々に置いていた〛

  ⇩
【BC50年】
倭人達が兵を率いて辺境を侵入してきたが、始祖(彦世)に神徳があることを聞いて直ぐに帰ってしまった。「新羅本気」
『出雲王朝が斯蘆国を容認し、宗主国として臨んでいた時代』

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【AD4年】
第二代「南解王」(彦世の長男)は、「脱解」(だっかい)の才を愛でて引き立て娘を嫁がせて第四代王に就かせた。この「脱解」は丹波を出自とする倭人であった。「新羅本紀」
〚大任那の北部東部で異民族の混住混在が顕著になっていた時代〛

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【AD14年】
倭人が兵船100艘余で攻め寄せてきた。これに対して六郡の精兵を派遣して応戦した。しかし、楽浪軍の陣に流星が落ちて賊軍は恐れて引き上げた。「新羅本紀」
〚斯蘆国の王が “濊貊” を族系とする妃を娶って次第に王室の種質が「倭」種から “濊貊” へと変貌し、出雲王朝と敵対的になっていった時代〛

倭人が濊(女)妻を娶り、その児がまた濊(女)妻を娶ればその孫は母方へのアイデンティティをこよなく抱く、斯様にして倭国(父)への帰属意識は次第に薄れ、母系樹立の自己に目覚める。これが斯盧国に起こった。

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【AD65年】
瓢公(ここう)が聡明な子「金閼智」(あっち)を世継ぎとして養育した。
閼智の7世に第13代王「味鄒」(みすう)が出た。金氏王統の始祖である。
因みに瓢公もまた倭を出自とする。「新羅本紀」
朴氏脱解は瓢公の屋敷を奪って「月城」(歴代新羅の王城)とした。
            
「瓢公」(倭人)と孫世代の「脱解」(倭人)との間で金氏閼智(濊貊)の族系を巡り深刻な内部亀裂のあったことがここから窺い知れる。
〚出雲王朝の版図 汎任那が大きく揺らぎはじめていた時代〛

そして金氏始祖「閼智」の子孫で第17代新羅王「奈勿尼師今」(なこつにしきん)7年(AD363のとき、神功皇后の新羅征伐が起こり、同王は降伏して子の「未斯欣」を倭へ人質として差し出した。
   この時代はヤマト王権の「河内王統」草創期にあたる。
この未斯欣は第19代新羅王「訥祇麻立干」(とつぎまりつかん)である。

  ⇩
【AD73年】
倭人が木出島に侵入してきたので一等官の「羽鳥」を派遣して抗戦したが、羽島は戦死した。 「新羅本紀」
斯蘆国はいまや出雲王朝と対決し、任那の国々を脅かしつづけた

  ⇩
   ⇩
【AD232年】
倭人が首都「金城」を攻め入る。「新羅本紀」
この時代は出雲王朝からヤマト王権へ統治委譲がなされ、早やくも139年が経過していた。この年は、女王「日女命」(卑弥呼)在位44年目に入っており御年61歳、男弟「孝安」は御年57歳であった。〛


長期安定政権の「日女命」がこの間に行ったと思われる事蹟建造物は少なくとも三つある。その一つめは、大国主命を奉って気宇壮大な「出雲大社」を建立したこと。
(※ 今から5000年前に、既に青森の三内丸山では巨大立柱建造物が作られていた。出雲大社はその立柱建造物の3200年後の建造物である。)

同様に二つめは、尾張氏父祖「味耜高彦根」を奉って「髙嶋神殿」(現 御所市)を建立していたこと。
三つめに、任那西岸に面する辺山半島の岬に海の守り神「竹幕神殿」を建立したことである。
因みに「日女命」の出自は「尾張氏」である。尾張氏歴代嫡女は、その固有名詞とは別に通称名で崇めて呼ばれ「大海媛」と尊称されていた。恐らく縄文時代からつづく「環古代倭地圏」において知れ渡っていた王家「出雲王朝」の遠祖の流れを汲む血筋ではなかったかと側聞するのである。

  ⇩
【AD233年】
5月及び7月には新羅は倭軍の侵攻を受けた。7月の際には「昔于老」(せきうろう)は沙道(浦項)で迎え撃ち、兵船を焼き払って倭人を壊滅させた。この功により于老は官位一等の「舒弗邯」(ソブラン)という最高位に就いて軍事の統括責任者となっていた。 「新羅本紀」

  ⇩
【AD251年】
倭国の使臣「葛那古」が来朝して客館に滞在していた。于老はその接待の役に任ぜられていた。彼は倭の使臣に戯れてあろうことか「近いうちに汝の王を塩作りの奴隷として王妃を炊事婦にする」と暴言を吐いた。

  ⇩
【AD253年】
于老の無礼を聞いた倭王は大いに怒り、将軍「于道朱君」を派遣して新羅を攻めてきた。于老は、倭軍の陣に赴いて失言をわびたが倭人は許さず、于老は捕えられて焼き殺されてしまった。 
『三国史記』「列伝于老条」(誅殺はAD253年のこと)
※ 于老は第10代奈解尼師今の長子であり、第16代訖解尼師今の父にあたる。

『三国史記』の編者「金富軾」は、昔于老を評して〝戦えば必ず勝ち、敗れることの無かった策謀の士〟としながらも〝ただ一言の過ち(失言)で自らの命を失い、新羅と倭国との開戦を招いたことで、功績が記されなくなった〟としている。

 ◆6◆
任那南巡の変

本使一行は更に半島南岸の加羅海を東航し、狗耶国の倭館へ一時寄留した。
本使が前回遣使(243年)の時以来、二郡(楽浪・帯方)に滅ぼされた辰韓難民、多くは濊貊らが任那半島を南下、任那各地に混住混在がみられる中、本使「和邇日子押人」はその憂慮に鑑み同使節随員二十余名を各邑都の国首(旱岐)の下へ遣わし、状況の把握とその国情を巡察せしめた。

本使「和邇日子押人」は大王「孝元」の外祖父にあたり、女王「臺與」は従姪という関係にある。
文字通り倭国の国務を背負って立つ最高責任者の立場に在り、半島任那の脅威に曝されている不安定な国情を憂いて任那諸国へ随員を使者として遣わせていたものと思われる。
上の絵図は答礼使一行往還当時(AD251年)の任那半島俯瞰図。

この任那の版図は、その後の高句麗の南下・新羅の勃興によって変化する。さらに後五百年代における倭の百済への任那割譲(512年)によって版図は著しく縮小され、その過程で幾百万もの嘗ての汎任那の先住倭人(縄文人から弥生人へ文明的に経年進化していったひとたち)は任那半島から淘汰されていった。
因みに本使一行の任那の倭館は「魏志倭人伝」でいう狗邪国、即ち「三国史記」に出てくる駕洛国、後の金官加羅国(現・金海市)を指す。 狗邪国(狗邪韓国)=駕洛国=伽耶国=加羅国はいずれも任那の地域的別称で、漢人・倭人によって呼び名も異なり亦、各時代の勢力地図の伸縮によっても広義にも狭義にも変化した。いずれにせよ倭国の任那半島における領域地名の一部であったに過ぎない。

そして変事は起こった。使臣「葛那古」が「斯蘆国」を表敬してその国の筆頭高官「昔于老」の応接を受けていた。当時、飛ぶ鳥落とす勢いの常勝将軍にして有力な王族でもあった于老は接遇に際してこともあろうに戯れて倭の大王「孝元」とその皇后「伊香色謎」を卑しめ于老が下で奴隷として虐げるてみせるがごとき暴言を吐き、甚だしく同大王の尊厳を傷つけた。この無礼に色をなす葛那古の態を于老は嗤って取りあわず使臣が憤然と還るを悠然と見送った。そして二年後、倭は将軍「于道朱君」(うじしゅくん)が斯蘆国へ派遣されこの「于老」を捕らえて焼き殺した。『新羅本紀』「列伝昔于老条」沾解(てんかい)王7年(AD253年)の時。私はこれを 「任那南巡の変」と仮称する。

これには後日談があり、曰く〝 味鄒(みすう)王のとき、倭国の大臣が來聘(らいへい)した。于老の妻は国王に頼んで私的に倭国の使臣を饗応した。使臣がひどく泥酔したところを壮士に命じて庭に引きずりおろして焼き殺し、恨みを晴らした。これが原因で倭国は斯蘆国の首都金城を攻撃したが勝てずに引き上げた 〟というのである。さもありなん!、 
因みにAD253年は倭の女王「臺與」16歳、在位して三年目にあたりこの「任那南巡の変」に如何なる神宣を下したのであろうか。
 《鉄は国家なり》で象徴される鉄はこの時代、通貨に兌換できる貴重な産物であった。倭はこれを遠くは中国『周』の時代、遼東の「燕」まで取りに行っていた。朝貢はそれを得るための交易手段であった。今、任那の地は伽耶地方においてその鉄の一大生産拠点となっており、そこで加工された鉄塊は洛東江を下り駕洛国の港津を経由して列島(主に奴国)へ国家管理の下、輸入されていた。その用途は農耕生産具であり漁撈具・木工具であり何よりも武具製作に欠かせない必需素材であった。任那はその鉄原産国として倭にとって死活的に重要な供給地であり、斯蘆国がこの地を脅かすことはヤマト王権にとって討伐すべき国となっていた。

ヤマト王権が前王朝から受け継いだ任那経営とは如何なるものであったか。それまでの在任那を代々引き継いできた旱岐諸侯(国守)の身分をそのままに、緩やかな間接統治を布き彼らをよく懐柔し大きく宗主国として臨んでいた。そこへ異質の「斯蘆国」が敵対的に出現(王統系譜の倭系から婚姻による濊貊化)し、北に伯済が興り、強大な高句麗がその伯済を不倶戴天の敵として更に北方から現れ、その三つ巴の覇権争いの主たる舞台(攻防の地)が汎任那で繰り広げられたのである。このことによってヤマト王権は北方民族三分派を相手とする渦中へ巻き込まれていった。そしてその攻防は凡そ五百年間つづき倭地であった汎任那はこの間に完全に消滅してしまった。

半島の倭の諸国が五百年もの長きに亘って侵略者「三韓」と三つ巴の戦いを強いられていた古代史を日本人なら誰しも記憶に留めておかなければならない。
なぜなら、現代コリアンは歴史認識において倭が三韓(任那半島)へ一方的に侵入しただとか任那は存在しなかっただとかコリアンが半島の先住民であっただとか主客転倒も甚だしい古代史歪曲を意図的に作為し、しかも次代を担う若きコリアンの教育の場においてすら同歪曲史観で洗脳し世界へも喧伝している。この独善的民族主義の悪辣さから決して目を逸らさないためにもである。

倭は大きな代償(任那四郡割譲)を払って百済を取り込んだ。取り込んだつもりであったが逆に百済に取り込まれ更に四郡以外の任那の地を次々と百済に奪われた。任那先住倭人はこの不条理に反旗して倭を見限り倭と百済に勝ち目のない戦いを挑みつづけて死んでいった(栄山江前方後円形墳)。
そして倭は任那を失い最後には百済までも失って半島から手を引いた。『記紀』神話は斯かる版図の多くを失った前史を隠蔽せんがために創られた。創られたそれらの神々は恐らく前史の人々とヤマト王権との間で何らかの繋がりがあったように思われてならない。そして邪馬台国女王の存在は歴史の彼方へと葬り去られ、後に不都合で巨大な古墳「箸墓古墳」だけがその名残を今に語りかけていた。
上の図は、第一章(その19)から重複掲載している。


◆7◆

任那『松鶴洞古墳』改変改竄、
韓国古代史学者の民族主義的イデオロギー迎合に視る
奇っ怪な功名心と歪んだ愛国心

考写真 その1〛任那半島の栄山江前方後円(形)墳出現の行程
 『日本紀』継体6年(512年)、任那四郡が亡国百済に割譲された。その時期を前後して凡そ70年乃至100年間の長きに亘る期間、ここ栄山江流域から海南地方にかけて集中して倭独特の埋葬形式である前方後円(形)墳が続々造営されていった。これは一体何を意味するのであろうか!そしてその被葬者たちは一体誰なのであろうか?。(図は外部資料を引用している)

475年、百済は王都「漢城」が高句麗の攻撃を受けて落城し、蓋歯王・太后・王子らみな刑殺されて百済は滅亡した。ただ独り難を逃れた王子「文周」は雄略から久麻那利(熊津)を下賜されて国の再興を援けられた。更に武寧王の時代、武寧王は倭王「継体」の関心を買うため中国「梁」と文化的関係を深め、中国五経博士を倭へせっせと貢ぎ、見返りに任那四郡を求めた。この百済戦略に魅せられ(乗せられて)た倭はこれと引き換えに任那四郡を与えるという俄かには信じ難い売国行為が行われるのである。この取り返しのつかない禍根は一倭王の下で決断され在任那四郡の倭人(半島の主人公たる弥生人)の百済隷属と任那倭人の棄民を意味した。この不条理に憤った任那倭人や在任那の王族支族らは当然の如くヤマト王権から人心が離れ、百済に抵抗しヤマト王権に反旗した。そして倭に抵抗し百済に反抗して次々と倒れていった。
(雄略が下賜した久麻那利(熊津)の位置は「別紙-10 その4」にその所在を表している)
任那四郡以外の任那の人々も他人事でない倭国中央の裏切り(国策の誤り)に共に怒り共に戦い多くが戦死した。そして任那の人々は戦死した武将を悼み弔った。その地は栄山江流域から海南地方にわたり前方後円(形)墳築造した。その多くは旱岐・国守または邑首長らであった。
一方、慶尚南道・固城(コソン)の松鶴洞1号墳の被葬者は誰か、についてはそれを特定する術はないが思うに星川皇子の叛乱に加勢した「吉備田狭」か或は時の伽耶王かそれとも中央から派遣された倭将であったか何れにせよその遺骸は、その地で手厚く葬られたはずだ。同被葬地は固城湾の北、鎮海湾(チンへマン)の西に位置して倭軍の一大軍事拠点として或は任那日本府が加羅から移動して臨時に置かれた府として地理的にも重要な要衝の地であり、凄まじい戦いがここ「小伽耶国」でも繰り広げられていたことが想起される。斯かる任那倭人と大和倭人の倭人同士の相討つ(あたかも西南戦争の如し)利敵消耗戦は、互いが退勢するばかりでその虚を突いて強勢になっていた新羅の任那蹂躙があり、大和中央に巧みに取り入り大王家を味方につけていた百済の更なる任那収奪があり、任那を襲った二重三重の断末魔が任那前方後円(形)墳群に如実に現れていてその痛恨事を今に伝えている、この痕跡が残っただけでも僅かに救いである。
(※ 松鶴洞古墳の被葬者が「伽耶王」か「吉備田狭」かそれとも「大和派遣軍倭将」か、いずれにせよ任那倭人か本邦倭人かの違いであって先祖を遡ればこれらは何れもみな縄文人から弥生人のルーツにもつ同胞であって、決して百済人でもなければ新羅人でもない、況や高句麗人でもないのである。)

考写真 その2〛 固城(コソン)松鶴洞(ソンハクトン)一号墳
 上の写真は松鶴洞1号墳の1984年頃の写真である。それに先立つ1914年、考古学者「鳥居龍蔵」による松鶴洞1号墳の実地調査が行われ「前方後円墳」の半島での存在が示されていた。

〚松鶴洞一号墳測量図〛
上の測量図は、1983年に韓国・嶺南大学教授「姜仁求」(カンイング)氏による外形の精密な測量調査が実施され、 「韓国の前方後円墳」 という題で論文が発表されていた、その文献の和訳資料である。

日本の考古学者 森浩一氏も現地踏査して〝私はこれを見た瞬間前方後円墳に間違いないと直感しました。松鶴洞古墳は見事なという形容詞をつけていいほどの上位の前方後円墳〟と言い遺した。

一方、異なる見解として松鶴洞一号墳は〝近接した二基の円墳を前方後円墳と見誤った〟とした学者がいた。その名は・・、

          李進熙 (明治大学教授)
          斎藤忠 (東京大学名誉教授)
          江坂輝弥 (慶應大学教授)・・・ら

李進熙は任那日本府はなかったと強弁する人物である。そして2000年から翌年2001年にかけて韓国・東亜大学による同古墳の発掘調査が行われ、同大学教授沈奉謹(シンボングン)は論文を発表して、〝松鶴洞一号墳は前方後円墳ではなく、三基の円形墳が築造時期で異にしながら互いに連結・重複しているものである〟と白々しく大見得を切った。下の写真はその変わり果てた現在の松鶴洞一号墳である。

松鶴洞一号墳発掘調査後の写真〛
築造時期(古代と現代の錯綜した感覚)で異にしながら互いに連結(噛み合わさり)、重複(墳墓の上に墳墓が重なり合い)しているものである、それが松鶴洞一号墳である。【沈奉謹の発掘調査成果】 ・・と公表しているのである。文化財を徒に傷つけ被葬者を冒涜するこれが現代韓国人のなりふり構わぬ民族主義イデオロギーに邁進する古代史歴史観である。儒教の国のすることであろうか!

近代社会において、同じ場所で古墳の形が変わったり数が増えていくこの不可思議さよ?この欺瞞の造作を前にして何をか言わん、

私は中国・韓国をことさら悪くいうつもりはない、本稿ミッシングリンクを探究していている中で『記紀』に潜む勝者の論理矛盾にも鋭く批判的検証を行ってきている、その意味で全く中庸である。 

著作 小川正武 2015/10/2日   


〚追記雑感〛中国4000年の歴史というが、その間王朝は何度も変わり文化や言語も変わった。早い話、清国は満州族であり漢民族ではない。日本人はほぼ同一民族で今年皇紀2675年を数える。この国は資源の乏しい国でありながら近代において、いち早く西洋列強に伍して強国となり清国を負かし眠れる漢民族を揺り動かし、膨張主義に走る帝政ロシアから朝鮮を護った。ところが軍国主義の行きつくところ太平洋戦争へと突き進み惨敗を喫した。けだし結果として日本は日本という母体を傷つけながら東南アジア諸国を列強の植民地主義から解放し独立国を生んだ。毛沢東は日本軍が国民党軍と戦っていたことに感謝していた。鄧小平は日本の技術・資本・民力を熱烈歓迎して全面的に改革開放し、日本はそれに応えて中国発展のための経済的基盤づくりに世界最大の貢献を果たした。しかるに日本を凌駕する経済規模に発展するやいなや、江沢民は手のひらを返して反日教育を徹底し、つづく胡錦濤・習近平もその戦略路線を引き継ぎ徒に日中間に波風を立てて意図的に悪感情を蔓延させた。そして毛沢東でさえ観念になかった抗日戦勝記念を捏造して中国国民を扇動し今日徒に日中間に無意味な敵愾心を煽っている。当時の日本軍は毛沢東の中共軍とは戦っていない。戦っていた相手は中国蒋介石の国民党軍なのである。中共政府が戦勝記念日を謳いたいのなら毛沢東の中共軍が〚国共内戦〛に勝利して建国したことを紀元とすべきである。毛沢東の中共軍がさも日本と戦って日本に勝利して建国したなどとする論理矛盾は全く正当性を欠いている。むしろ毛沢東は日本軍へ積極的に働きかけ重慶の蒋介石を共に倒しましょうと工作していたのである。しかるにその史実を抹殺して事実を歪曲してこれを世界規範に仕立て上げようと画策しているのが今の中共政府なのである。日本を殊更悪玉に仕立てあげることによって共産党一党独裁を正当化し、中国国民の不満のはけ口を日本へ向かわしめ〝未来志向〟を求める日本に恫喝姿勢で臨んでいる。この卑劣で力を頼みとし力に溺れて亡んでいった数々の中華古代史が明らかなように今や懸念となっている。