父は綏靖天皇。母は、事代主の次女「五十鈴依姫」
后は鴨王の娘、渟名底仲媛命 (ヌナソコナカツヒメノミコト)。
后は、事代主の孫で、姪にあたる。
児は長兄に「オキソミミ」、次男に「スキトモ」(懿徳)を儲けた。
妃は、師木(磯城)県主の娘「飯日媛」(イイヒヒメ)。
その児が三男の「カエシネ」(孝昭)である。
祖父「神武」が崩じた翌年、綏靖の児 タマテミが生まれた。(タギシミミの変は同年央に起こった)
(左図は、安寧 こと タマテミ )
タマテミ15歳のとき鴨王 亦の名を天日方奇日方 (※ 1) の娘「ヌナソコナカツヒメ」を娶り第一子「息石耳」(オキソミミ)を儲けた。
タマテミ26歳のとき第二子「耜友」(スキトモ)が授かった。
タマテミ28歳のとき、磯城県主の娘「飯日媛」との間で第三子「香殖稲」(カエシネ)を儲けた。(※ 2)
そしてタマテミ31歳のとき、第一子のオキソミミ(16歳)が「天豊津姫」を産んだ。タマテミの初孫である。
タマテミ42歳のとき、タマテミは古の倣いに従い「王統の末子継承」にカエシネ(14歳)を皇太子に立てた。『先代旧事本紀』「天皇本紀」。
こうした中、心中穏やかでない后のヌナソコナカツヒメは傍系カエシネの立太子を慶ばず祖父「事代主」に直系する我が児の末子継承を強く望んた。そしてそれに応えるかのようにスキトモ(20歳)は、兄オキソミミの娘「天豊津姫」(15歳)を娶り翌年「クシトモセ」を生んだ、時に156年。そしてタマテミ49歳(AD158)のときタマテミが崩御、皇太后になったヌナソコナカツヒメはタマテミの遺臣で大臣であった「物部の出雲醜」らの佐を得て喪が明けるのを待って「スキトモ」(23歳)を強引に後継王位に就かせた。
この当時、外に目を向ければ中国の皇帝は後漢第11代「桓帝」の時代で、宦官に魏の祖となる曹操の祖父「曹騰」がいて権能を振るっていた。
神武東遷後 半世紀が経つタマテミの御代、タマテミは磯城の娘を相次いで后妃に迎え入れて王権の基盤を固めていた。磯城は神武東遷前は「事代主」の支配地であったが東遷後はこの地を退いて出雲へ還御した。居残った娘たちがタマテミに后妃として納まっていた。
磯城の東に朝日が昇る荘厳な三輪山は出雲の王「大国主命」を象徴する霊山であった。タマテミはその祖神を崇める豪族「三輪氏」に祭祀権を与えることで積極的融和を図った。磯城とは現在の巻向・柳本方面で三輪山の西麓に位置する。
諡号は、安寧(あんねい)天皇。邪馬台国/ヤマト王権第三代大王である。(左図は、安寧 こと タマテミ )
タマテミ15歳のとき鴨王 亦の名を天日方奇日方 (※ 1) の娘「ヌナソコナカツヒメ」を娶り第一子「息石耳」(オキソミミ)を儲けた。
タマテミ26歳のとき第二子「耜友」(スキトモ)が授かった。
タマテミ28歳のとき、磯城県主の娘「飯日媛」との間で第三子「香殖稲」(カエシネ)を儲けた。(※ 2)
そしてタマテミ31歳のとき、第一子のオキソミミ(16歳)が「天豊津姫」を産んだ。タマテミの初孫である。
タマテミ42歳のとき、タマテミは古の倣いに従い「王統の末子継承」にカエシネ(14歳)を皇太子に立てた。『先代旧事本紀』「天皇本紀」。
こうした中、心中穏やかでない后のヌナソコナカツヒメは傍系カエシネの立太子を慶ばず祖父「事代主」に直系する我が児の末子継承を強く望んた。そしてそれに応えるかのようにスキトモ(20歳)は、兄オキソミミの娘「天豊津姫」(15歳)を娶り翌年「クシトモセ」を生んだ、時に156年。そしてタマテミ49歳(AD158)のときタマテミが崩御、皇太后になったヌナソコナカツヒメはタマテミの遺臣で大臣であった「物部の出雲醜」らの佐を得て喪が明けるのを待って「スキトモ」(23歳)を強引に後継王位に就かせた。
この当時、外に目を向ければ中国の皇帝は後漢第11代「桓帝」の時代で、宦官に魏の祖となる曹操の祖父「曹騰」がいて権能を振るっていた。
神武東遷後 半世紀が経つタマテミの御代、タマテミは磯城の娘を相次いで后妃に迎え入れて王権の基盤を固めていた。磯城は神武東遷前は「事代主」の支配地であったが東遷後はこの地を退いて出雲へ還御した。居残った娘たちがタマテミに后妃として納まっていた。
磯城の東に朝日が昇る荘厳な三輪山は出雲の王「大国主命」を象徴する霊山であった。タマテミはその祖神を崇める豪族「三輪氏」に祭祀権を与えることで積極的融和を図った。磯城とは現在の巻向・柳本方面で三輪山の西麓に位置する。
[私論編年 AD110-AD158、大王在位23年、49歳で崩御]
■ (写真は、宇佐神宮の西大門)
紀元前1~前2世紀ころ、日本には既に出雲王朝が出雲に存在していた。その版図は本邦は云うに及ばず韓半島中原以南(任那)全域に及んでいた。そして近畿・東海から濃尾・越三州と跨る支配地では交易が盛んに行われていた。その一方で北部九州へも進出、勢力を伸張していた。当時、その北部九州には既に大きな勢力のヒムカ族が居たが、そのヒムカ族の王アマテラスは出雲王朝の勢力に押されて日向の山地へ身を隠した。それでも北部九州に留まった同王の末裔たちは、時代が下ると共に次第に力を蓄えるに至り、紀元一世紀後半ようやく九州宇佐から舟軍を率いて出雲征伐(東方遠征)へと乗り出した。そして宇佐はヒムカ天孫族にとって出陣の地・戦勝祈願の聖地となった。宇佐神宮は斯くして時代が遥かに下った第48代称徳天皇(女帝)の御世〝道鏡お告げ〟のごとく一旦皇統を揺るがす一大事のときはこれを阻止する神託を示して皇室を守護する宋廟となっていた。 (※ 3)
(東征出立地をことさら日向とした記紀は、故事アマテラスの遺志を忖度した表れ)
(板厚30ミリ)(東征出立地をことさら日向とした記紀は、故事アマテラスの遺志を忖度した表れ)
大王「タマテミ」は出雲醜(イズモシコ)を大夫に、大祢(オオネ)を侍臣とした。二人は共に宇摩志麻治(物部氏)の孫で朝政の大権を掌握していた。この宇摩志麻治を祖とする物部氏の本拠地は河内を含む登美を中心とした添下郡(現・奈良盆地北部)一帯で、いわゆる旧出雲王朝の都だった要衝の地であった。
一方、怒れる祖・味耜高彦根を祖とする尾張氏は旧出雲王朝の衛星国であった丹波国を受け継ぎ、同時に中央に在っては葛城の高尾張邑(現・玉手から観音寺町にかけての曽我川に沿った周辺一帯と思しき) を本拠地としていた。
他方、事代主を祖とする三輪氏の本拠地は磯城郡に在り、三輪山の西麓一帯で、同時に出雲国を領していた。
こうした三者三様の背景の下、長髄彦の地盤を引き継いで強大な軍事力を持った物部氏と、水運をほぼ独占して栄える海洋の覇者 丹波の国を治める尾張氏、そして大王家に相次いで姫を入后させ 大王家と繋がりをますます深化させ、その地歩を着々固めていく三輪氏、共にこの三兄弟はその勢威を歴史的に競うことになるのである。
(※ 1)
タマテミの「后」の父「鴨王」は、同時にタマテミの母の兄でもあった。
同后の祖父は「事代主」である。事代主は三人の子に恵まれたが内一人が男子であるから后の父「 天日方奇日方」 と「鴨王」は異名同人であることがわかる。
また『古事記』は「カエシネ」の母「飯日媛」のことを「皇后」と記している!私見であるがこの飯日媛は神武に敗れた磯城の豪族「兄磯城」(えしき)の孫娘でなかったかと観ている。
(※ 2)
『記紀』はタマテミの第三子のことを「磯城津彦」という代名詞で潜り込ませた。第三子である「カエシネ」がここへ実名で登場してくることは『記紀』にとって甚だ不都合であった。何故か!
それは、カエシネの腹違いの兄スキトモのことをカエシネの父に仕立て上げなければならなかった事情に因る。なぜならスキトモ とカエシネの〝兄弟同士が大王位を巡って熾烈な争があった〟とする歴史的事実を隠ぺいしたかったからである。『記紀』はその狙いどおりこの改竄によって〝万世一系何事もなく父子相続が恙なく連綿と続いた〟とする皇統譜を歴史に刻むことが出来た。つまりこのときの磯城津彦とは「カエシネ」を仮託した抽象代名詞であった。
飯日媛の父は磯城県主「太真稚彦」(フトマワカヒコ)という、その出自が神武と戦った「兄磯城」(えしき)に繋がる人物(孫)とみているのは、飯日媛の生んだ孝昭が以後、ヤマト王権主流である尾張氏王統へと形成されていったからである。
(※ 3) 宇佐神宮には祭殿が三つある。その真ん中にある御柱は「日女命」こと宇那比媛が祀られている。で、両側に侍る御柱は神功と応神の親子である。開化によって血統の交代が為されたが、その開化を祖とする巻向王統を倒した神功親子が日女命を弔っている!そのような構図が観てとれる。伊勢神宮がアマテラスを主祭神としているのと対比して王家の歴史的変転が見て取れてとてもおもしろい。深みのある史実が今も宇佐神社に現存していて静かに我らへ語らいつづけながら鎮座しているのである。
2012/11/1 著者 小川正武