安寧の第二王子。后は天豊津媛命(安寧の第一王子の娘)
諡号は、懿徳(いとく)天皇。邪馬台国/ヤマト王権第四代大王である。
[私論編年 AD136-AD170、大王在位12年、35歳で崩御]
母は鴨王の娘で、后は実兄の娘であった。そのため「スキトモ」は初代神武以来、三輪氏直系姻族が四代もつづく極めて近親婚に近い大王であった。
因みに、鴨王(カモノキミ)亦の名を天日方奇日方(アメノヒカタクシヒカタ)は、その父「事代主」を三輪氏始祖に戴く地祇でもあった。スキトモにとって孫にあたる「奇友背二世」(クシトモセ二世)は不可解にも記紀からは完全に抹殺された人物であった。そのことは裏返せばそれだけ記紀にとって大変不都合で重要な位置を占める人物であったに違いない。私はそこをぜひ燻り出したいのである。
ところで・・・この王には弟が居た。その名を「カエシネ」(孝昭)と称した。「記紀」ではこの弟のことを「スキトモ」(懿徳)の子に位置付けているが実は二歳くらい年下の異母弟なのである。『先代旧事本紀』卷第七、天皇本紀に〝観松彦香殖稲尊(五代孝昭)は磯城津彦玉手看天皇(三代安寧)の皇太子である〟とも記述している。
この弟カエシネは尾張氏の始祖、味耜高彦根(アジスキタカヒコネ)を曾祖父とする姫を娶り二人の子供を儲けていた。その一人は、天足彦国押命でこの皇子も後に又従妹の宇那比姫(卑弥呼)を娶った。もう一人は弟で日本足彦国押命と称し、後に倭国連合に共立された女王「日女命」(卑弥呼) を補佐する立場になる第六代「孝安天皇」である。このように神武が建国したヤマト王権の初代から『大国主命』の三兄弟である三輪氏と尾張氏それに物部氏が天皇家へ后妃の供給氏族として互いに時代の覇を競うことになり、それがドラスチックに継体朝へと繋がり、持統~桓武~今上へと連綿とつづく世界にも類例をみない皇統譜が今に存在するのである。
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話は73年前に遡る神武東征の砌り、神武軍は軍舟を阿岐津(広島)に留め、中国山地を越えて出雲国を激しく攻めた。この戦で守備に当たっていたニギハヤヒの王子二人の内、一人は諏訪へ逃げ延び後の一人は散華した。
この戦況を遠く見ていた大和の登美に座しますニギハヤヒ(大国主命)は、神武東征軍襲来を満を持して待ち構えていた。
一方、神武軍は何年も安芸に留まり出雲との攻防を繰り返していたがなかなか決着がつかない苦しい消耗戦を強いられていた。しかもなお敵本陣は無傷のまま登美に在り、ゆえに出雲国平定を完全に果たせ得ぬまま神武は大和攻めを急いだ。
ところが河内国日下(ヒノモト・日本の語源)に臨んで待ち構えていた在地の「長髄彦」率いるヘコ(兵)共を侮って侵入したが逆に完膚無きまでに叩き潰された。
敗走した神武軍は紀伊半島を転々と漂着を繰り返し辛くも熊野までたどり着き、その地でようやく態勢を立て直すことができた。
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・・やがて、八咫烏の先導を得て急峻な紀伊山地を行軍、吉野から宇陀へ侵入、忍坂(桜井)を東から突く形で奇襲し、その過激で残虐な戦法は見事功を奏し、大和盆地南部の一角磐余の地を占拠した。磐余に隣接する高尾張邑や磯城郡に居た出雲朝の王族子女らは、やむなく王都としていた北部登美へ逃避した。そして神武と大国主は大和川河川を境に南北で対峙することになり、やがて大国主は最終決着が着かぬままその地を離れて出雲国へと還っていってしまった。
『記紀』編纂者の作成意図は万世一系を主眼とした。為に孝昭(カエシネ)の父を懿徳(スキトモ)と為し、この間の嫡子継承が恙なしと糊塗した。しかし事実は相違して、皇太后は異腹の皇太子「カエシネ」を廃し、吾子「スキトモ」を王位に就けた(AD159)。それを佐けたのが亡き「タマテミ」(安寧)の大臣物部の「出雲醜」であった。ここにカエシネとスキトモの王統の正当性を巡る争いが発生、掖上と軽曲峡の間で互いに誅殺しあう場面が起こった。これを私は「イズモシコの変」と名付けている。
神武東征軍との戦いで出雲から諏訪へ脱出したニギハヤヒの王子 「建御名方神」は、それを手助けして海路信濃川の河口まで逃したのは出雲王朝の衛星国 但馬(海部氏)の軍舟であった。その地で建御名方神は先住民のモレヤ(守矢氏)と戦ってこれを破った、そこで戦ったつわものどもは出雲のヘコ(兵)たちであった。当時既に但馬国は日本海側の海上交通の中心的存在で、北国越三州をはじめ山陰から北部九州に至るまで外洋舟を用いて沿岸伝いに地乗航法で盛んに往来していた。半島の狗耶韓国(倭地)に集住する倭人らとの間でも盛んに交易が行われていた。浦島太郎の御伽噺や羽衣伝説はそうした当時の但馬の華やかでそれでいてちょっぴり物悲しい出来事が反映した物語であったのかもしれない。 更に申せば筑紫ヒムカ族の王アマテラスを日向の高天原へ追いやったのも斯かる勢力(出雲王朝)の進出ではなかったか。そのアマテラスの孫の神武が東遷したことによりアマテラス(天照)を祖神と崇めるようになり神武をその天孫族(皇孫)と称えて呼称するようになったのであろう。
線刻画は出石の袴狭遺跡から出土した板絵を写し取ったものという。
2012/11/10 著者 小川正武