ニギハヤヒ(大国主命)の第三子。
味耜高彦根命から数えて五世孫に卑弥呼(日女命)が現れ、七世孫に台与が登場する。
[私論編年 AD62-AD116、55歳で身罷る]
アジスキタカヒコネは今も葛城の地に鎮座まします「雷様」と言われている。国譲りのとき、闖入者ヒムカ天孫族にとって一切まつらわぬ神として立ちふさがっていたからだ。反抗的な神であったが重要な位置を占める有力な神であったために記紀神話においてもこの神を抹殺するわけにはいかなかった。
AD92年ころ、神武軍が吉野の山中から忽然として現れ宇陀から葛城(現・御所市)へ雪崩込んだ。不意を突かれた土豪たちはつぎつぎとその軍門に下った。そうした混乱の中、葛城の高尾張邑(同市東部地域)に居を構えていたアジスキタカヒコネは辛くも添下(そえしも:現・奈良市)へ退くことができた。
そして、年月が過ぎた11年後、「天雅彦(アメノワカヒコ)の変」が起きた。その粗筋は以下のようだった。
神武がアジスキタカヒコネの治める国を平定するため息子「天穂日」を派遣したが行方がわからなくなってしまった。そこで次に「天雅彦」を派遣した。
しかしこの神もアジスキタカヒコネの妹の「下照姫」を娶ってその国に住み着いてしまった。怪訝に思った神武は雉女を放って様子を探らせに行かせた。ところが雉女は天雅彦に矢で射殺されてしまう。神武は天雅彦がてっきり囚われの身であると思い違いし救出のヘコ(兵)を差し向けた。天雅彦もまたてっきり討ちとりにきたと思い違いし立ち向かうが逆に胸に矢を受けてその場で絶命した。
天雅彦の死を嘆き悲しむ下照姫の泣声でその死を知った寄せ手のヘコたちはその屍を無理やり奪って神武のもとへ走り、喪屋を建てて葬儀した。
アジスキタカヒコネは天雅彦とは生前極めて良好な関係であったため、その葬儀の弔いに身分を隠して訪れた。ところが天雅彦の親族たちはアジスキタカヒコネが天雅彦にあまりにもよく似ていたため「まだ死なないで居られた」と手を取って喜び泣いた。アジスキタカヒコネは「私を死人とまちがえるとはっ!」と怒って、剣を抜いて喪屋を切り倒して立ち去った。 (上の図は、その憤怒の一場面)
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また、「出雲風土記」に以下の記述が残されている。
「味耜高彦根命、御須髪(みひげ)八握に生(は)ふるまで、昼夜哭き坐して辞通(かよ)わざりき」。
成人になり髭が伸びても赤児のように泣き止まず言葉も話せない~の意味。正常に言語活動が話せない、意思疎通ができない、今でいう発達障害だったのだろうか?。否それだけではなさそうな。国譲りの過渡期に多くの姻族を亡くした悲しさもさりながら、父祖代々が営々築いてきたこの国を禅譲しなくてはならなくなった羽目がそうしたいびつな身体表現となって表れてしまったのではなかったか。
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時代が100年下って日女命(卑弥呼)の時代、日女命(日巫女)は神勅を下して曰く「今ここに、一宮を創建し祀らわば、国中安泰・諸人守護・五穀豊穣と到さん」…と。そこで人々は神殿を建立し、味耜高彦根命と事代主命を左右相殿として祀った。斯くして高嶋の鎮守の社は地元では「雷様」と畏怖の念をもって呼ばれるようになった。現在の本殿は室町時代に再建されたもので、主祭神は味耜高彦根命・配祀には下照姫と天雅彦命が祭られているという。この伝承は史実の反映と思われる。
(板厚30ミリ)
私は想うのです、赤児はなぜあんなに泣くのだろうかと!、お腹が空いているときはもちろんのこと、どこか具合が悪いときもそうだろう、でもそれだけだろうか!・・と、それはこの世に生まれてきたことの業、理不尽で不条理な世の中の業、無垢で無知ゆえの業、々々…、そうした不安と悲しみが同時にない交ぜになって体が慟哭しているのではないのか・・と。この神の慟哭もまた宿痾の業を前にしてその悲しさを物語っているのではありますまいか。
2012/12/10 著作者 小川正武