2015年4月20日月曜日

孝元天皇「彦クニクル」【巻向王統その5】 第二章       

              
第八代大王 孝元
〚大日本根子彦国牽天皇/おおやまとねこひこくにくるすめらみこと〛
母は細媛(くわしひめ)。后は、伊香色謎。妃に埴安媛。伯父は大吉備諸進。
兄弟に、倭迹迹日百襲姫・彦五十狭芹彦(吉備津彦)・彦狭島・稚武彦(吉備臣の祖)等がいる。
[私論編年 AD230~254年、在位5年、25歳崩御]

時はAD249年。この年、彦クニクル19歳。
「吐帥ヶ原」の合戦後、勅使「張政」が発した〚檄文〛が功を奏し、大王位継承を巡る内乱は、豪族連合による〚共立女王〛樹立に向けた機運が一挙に高まった。「張政」は自ら発した告諭に縛られ直後の帰還は品位に悖ると踏ん張り、この大乱の帰趨を見届けてのち帰朝する構えを見せ、事の顛末をじっと注視していた。

そうした状況下、孝霊は「孝昭」王統の揺るぎない継承の意思を態度で表し、太子「彦クニクル」(19歳)へ譲位することで「彦大日日」へ王権を明け渡すことのない姿勢を断固示し、以て自らは退位(42歳)した。同時に次期女王には讃岐に身を秘す愛娘「百襲姫」(12歳)を立てんと諮り「大彦」を甚く牽制した。だが、大彦(27歳)にとってこの「ネコ彦フト二」(孝霊)専横の策動は受け容れ難く、不満息巻く大彦に対し伯父「欝色男」(54歳)は必死になってこれのなだめ役に回り〝されば、百襲姫に代わる誰が適任か〟と問われれば大彦も答えに窮した。
梨迹臣はこの倭国大乱の渦中にあって独り中庸の人物として衆望厚く、その梨迹臣が欝色男に向かって建諸隅の愛娘「天豊姫」(12歳)を次期女王に推した。天豊姫こそ日女命の宗女であり、この少女を奉ることで相食む大彦と建諸隅 両者の敵愾心を解消させ和解へと導きたい、そう願う私心なき献策であった。同時にそれは豪族連合の収斂した意見でもあり大彦はそれをやむなく受容するのほかなかった。

一方、この間の気になる「大吉備諸進」(44歳)の動静はといえば、諸進は中央の騒乱を睨みながらも眼前の夷敵「温羅の吉備」国との戦いに息が抜けず軍兵を自ら率いて吉井川の手前まで進出していた。 [別紙ー8]

この諸進の動きは武門の司「欝色男」にとっても大変気懸かりな存在で「吐帥ヶ原」の戦いが痛み分けに終わった今、これ以上の事を構えつづけることの不利を冷徹に読んでいた。
この年、「彦クニクル」の妃「埴安媛」は同太子の第一子「武埴安彦」を宿していた。
※ 「温羅の吉備」国は稲作・漁撈・製塩・蹈鞴製鉄等々が盛んで、大吉備諸進(ヤマト朝廷軍)が吉井川へ進出したこの頃は、既に何代目かの覇者「温羅の吉備王」の「楯築墳丘墓」が築造されていて人々は特殊器台を同墳丘墓に据えて同覇者を祭祀していた(「別紙-8」赤い矢印)。 顧みれば魏使「梯儁」來倭(240年)から数えて既に10年からの歳月を費やした倭軍の吉備進出であった。

将軍「大彦」といえども武門の司 物部氏の後ろ盾がなければ単独では到底「孝昭王統」の孝霊には対抗し得ず、物部氏当主「欝色男」は大彦の苦渋に満ちた内諾を取り付けて梨迹臣に対し正式に「天豊姫」を次期女王へ推戴する旨の同意を伝えた。

「和邇日子押人」は梨迹臣からこの報に接するや直ちに「建諸隅」を水主本営に訪ね和睦を取りまとめるべく果敢に動いた。想えば65年前、曽祖父「天忍男」の懸命な働きによって共立女王「日女命」誕生を見た往時の生みの苦しみを今また我が身が担う運命的な巡り合わせに身の引き締まる思いであった。建諸隅は従兄弟の和邇日子押人の働きに深く謝すもなお懸念は姫12歳と若少、為に日女命の男弟「孝安」に倣い同姫の輔弼に「孝元」を当て自らはその後ろ盾となることに同調を求め体制の盤石を図った。

「百襲姫」は孝霊と倭国香媛(建諸隅の妹)との間で授かった娘であり、「天豊姫」は建諸隅の愛娘という関係で両姫は同年齢であった。建諸隅は愛娘の女王擁立を当然視し、孝元朝との微妙なパワーバランスを図った。
欝色男の弟「大綜杵」(42歳)は亡き父「大矢口宿禰」の遺志を継いで吾娘「伊香色謎」(17歳)を太子「彦クニクル」へ納め因って大王家姻戚に加わると共に物部氏安堵を図り且つ「彦クニクル」(孝元)の臣下として改めて恭順の姿勢を示した。

翌年、時はAD250年。
張政は倭国内訌が漸く鎮まり、共立女王「臺与誕生」の合意醸成を見届けるに及んで自らの使命もほぼ完遂したことを覚えた。翻ってみれば正始八年(247)春に郡を発って丸三年、異国の地に来て思いがけなくも目まぐるしい日々の連続を過ごし、この間、寄留地では過不足ない河内青玉繁の篤い接遇を享け、さらに朝廷の太宰の臣「和邇日子押人」との密接な意思疎通と相俟って何処へ行くにも身の安全確保を得て、激動する皇都およびその辺々の地で繰り広げられるドラスチックな場面に度々立会い、過ぎ去ってみればあっと言う間のまるで白昼夢を観ていたかのような三年間であった。

「彦クニクル」(孝元)は、王宮を軽境原(かるのさかいはら)へ遷して即位した。この地は国造「倭氏」の支配地であったが建諸隅の意向が色濃く反映した選地であった。ここへ楔を打ち込むことによって大彦に与力する倭氏を威圧するのに十分であった。倭氏は建諸隅の示威に恐懼した。 (※ 1)
 同時期、女王「臺与」の司祭王たるに相応しい館もこれまた大彦・彦大日日が牙城としていた「巻向」へ移し、同様に大彦・彦大日日をも威圧した。そして文字通り国父となった「建諸隅」は洛陽の規模には及びもつかないが巻向を大きく区画整理し、河川を大改修し、高床式の壮麗な楼閣を建設し、「女王」の坐ます「神の宮殿」造りを目指した。本よりそれは孝元の名によって大号令(勅令)が発せられたものであり、この巻向宮こそ「日女命」の室秋津洲宮を凌ぐ第二の室秋津洲宮たる「国家安寧」「五穀豊穣」「祖先崇拝」を専ら祭祀する「巻向宮」となった。その景観たるや宮室・楼観とも城柵、厳かに設け常に人あり、官婢千人を以て傅かせ、兵を持して守衛せしめた。
後代になって、祭祀を専らとする象徴は伊勢神宮に移り「政と神道」は分離するがその根源はこの「巻向宮」ではなかったか!。この年はその大規模造営が始まった年であった。  

孝元は祭祀を主体(司)する「巻向宮」とは別に「政」を主宰する都「軽境原宮」で政を専ら行い、玖賀国(狗奴国)との争いは内訌によって国が疲弊した分、立て直すことが最優先され玖賀国との戦いは敢えて避けた。大王になった孝元(20歳)は生まれながらの病弱であったが国父の「建諸隅」と大臣の「和邇日子押人」を両翼に据えた重厚な陣容を誇っていた。(※ 2)
孝元は翌年、物部氏との和解の絆に欝色男の弟「大綜杵」の娘「伊香色謎」を迎え入れ、河内氏より身分が上だった同姫を后とした。そして翌々年 伊香色謎との間で「彦太忍信」(ひこふつおしのまこと)を儲けた。

それから五年が過ぎて、、時はAD254年。

あれほど盤石を誇った孝元朝の基盤も鶴翼の臣が崩じた後は、その威光は釣瓶落としのごとく凋落して嘗ての面影はなくなり色褪せたものとなっていた。

この年、国父「建諸隅」は57歳で崩御した。これに失意したか病が急変したか(とかく血統重視で近親婚が重なり血の薄さが虚弱体質に繋がる、そのことがとても気にかかる)知る術もないが「孝元」もまた国父の後を追うかのように逝った。それまで孝元を力強く支えていた「和邇日子押人」もその前年、二度に亘る洛陽遣使の疲労が重なり体力を蝕んだか帰朝一年後(253年)に64歳で亡くなっていた。 孝霊は孝元即位の翌年既に45歳で崩御されていた。こうして時代は非情にも年と共に移り変わり、世代は確実に次世代へと代替わりしていた。
孝元の残された二人の遺児はこの年、第一皇子の「武埴安彦」は4才、第二皇子の「彦太忍真」(※ 3)は2才とまだまだよちよち歩き、倭氏の支配地に都を置く孝元の王宮では取り残された若き后妃たちはその後どのような運命が待ち構えていたのであろうか。

(※ 1)
話を遡ることAD158年、「③安寧」崩御の後、跡目相続に時の大臣「出雲醜」(物部氏)は皇太后「渟名底仲媛」(三輪氏)の意を忖度して皇太子「孝昭」(尾張氏)を差し置いて皇太后の実子「懿徳」を大王の座へ据えた。その時の朝議の司(議長職)であったのが「志麻津見」(倭氏)で、最終的に倭氏は三輪氏王統継承支持へ回りそれがために大勢は決した。これがその後の〚倭国大乱〛の発端となった。

ではなぜ倭氏は三輪氏歴代王統の擁立に与力したのか!その奇縁浅からぬ発端を神武東征時に話を遡らせて語らねばならない。

神武が出雲王朝の脾臓ともいうべき大和盆地南部の一角を衝いて制圧した砌(AD92年)、配下の珍彦(うずひこ)が葛城邑にいち早く侵入して「剣根」の館に身を隠していた事代主(三輪氏祖)の高貴な姫君二姉妹を捕えて神武に捧げて手柄とした。この二姉妹の姉「媛蹈鞴五十鈴姫」は後に神武の后となり「綏靖」を生み、妹「五十鈴依姫」はその綏靖の后となって「安寧」を産んだ。そして安寧もまた二姉妹の実兄「天日方奇日方」(亦名 鴨王)の娘「渟名底仲媛」を后として「懿徳」を生んだ。
夫「安寧」の死によって皇太后となった「渟名底仲媛」(三輪氏)は吾子「懿徳」の擁立を図るのに余念がなかった。倭氏が三輪氏支持に回った底流には斯かる父「珍彦」即ち「椎津根彦」(倭氏祖)による神武と三輪氏を結ぶ重要な架け橋を果たしていたからであった。為に、珍彦は神武に取り立てられ真っ先に倭国造に任ぜられていた。その経緯から以来、倭氏係累は代々三輪氏王統支持を標榜する流れとなっていた。

AD240年(正始元年/魏年号)、時の朝議の司「邇支倍」(倭氏)は、魏使「梯儁」來倭の砌、倭を代表して難波津の迎賓館「難波館」に梯儁一行を出迎え、日女命の宮都「室秋津洲宮」まで同道の道案内をしている。男弟「孝安」がそれを楼門で引き継ぎ勅使を奥宮にいざない日女命に引見せしめた。因みにそのときの「邇支倍」(にしば)とは、魏志倭人伝に出てくる〝女王の都する所・・官に「伊支馬」あり云々〟この「伊支倍」(いしま)こそ邪馬台国の筆頭官にして時の朝議の司「邇支倍」(議長職)その人であった。建諸隅(尾張氏)が倭氏の三輪氏へ寄せる動きを牽制するのは斯かる所以からである。云わば三輪氏にとって皮肉にも嘗ての三輪氏姫君二姉妹を拉致した略奪者今や転じて頼もしき与力となっていた、それが倭氏であった。禍福は糾える縄の如し!


※ 因みに倭氏の歴代宗主が三輪氏に関わった事跡を見ると、

 (初 代)珍彦は、三輪氏の高貴な姫君二人出雲王朝の皇女を葛城で奪い神武に
      献じた功にり、倭国造に任ぜら椎根津彦の名を賜る。
(第二代)志麻津見は、三輪氏王統の「懿徳」擁立に加担したときの筆頭高官・さし
     づめ朝議の司。
(第三代)武速持は、豪族連合による「日女命」(尾張系)共立時の筆頭高官・さし
     づめ朝議の司。
(第四代)邇支倍は、倭国を代表して魏使「梯儁」を難波津に出迎えた当時の筆頭高
     官・朝議の司。
(第五代)飯手宿禰は、孝元朝に臣従した朝議の司で、支配地が割かれてそこに都が
     敷かれた。

(※ 2)
女王『臺與』は天上の人(司祭王)に祀り上げられ、倭国の盟主(宗主)として人々の求心力(シンボル)となった。
片や、男王『孝元』は政治を担う大王として起立した。この二元政治は、皇位を巡る長年の抗争から、それを回避する倭人の巧妙な知恵から生まれた。
当時、世界では類例をみないこうした稀有な仕組みがここでは実現していた。

(※ 3)
孝元の皇位継承者「彦太忍信」は開化の王権簒奪(開化から観れば王権奪還)によって臣戚降下となった。その孫の「武内宿禰」は応神擁立の最大の立役者となり、その族裔からは蘇我稲目・馬子・蝦夷などが現れて時の王朝に比肩する影の大王(国父)となっていた。稲目・馬子・蝦夷の名は何れも蔑称であるがこれとて反蘇我勢力(藤原氏)が科した和風諱号であった。

『記紀』は「誉田別」(ほむたわけ)の父を「仲哀」とする。しかし、その出生には相当の疑義疑惑があり、史実から隠蔽された真の父は「武内宿禰」と観るのがむしろ自然である。即ち「応神」の父は「武内宿禰」である。
そして、この武内宿禰を嫡流とする女性を母に戴くその後の歴代天皇は合計11名に上り、その数は藤原氏の入后数に次ぐ数の多さである。その名を以下にまとめて掲げてみた。

17代 履中 母は、葛城磐之媛(いわのひめ) 祖父は、葛城襲津彦(武内宿禰の息子)
18代 反正   母は、           同上         祖父は、葛城襲津彦        (同上)
19代 允恭 母は、      同上                 祖父は、葛城襲津彦   (同上)
22代 清寧 母は、葛城韓媛(からひめ) 祖父は、葛城円大臣(武内宿禰は祖父)
23代 顕宗   母は、葛城荑媛(はえひめ) 祖父は、葛城蟻臣(履中は顕宗の祖父)
24代 仁賢 母は、          同上                  祖父は、葛城蟻臣   (同上)
31代 用明 母は、葛城堅塩媛(きたしひめ)  祖父は、蘇我稲目(武内宿禰の五世孫)
32代 崇峻 母は、葛城小姉君(おあねのきみ) 祖父は、蘇我稲目    (同上)
33代 推古 母は、葛城堅塩媛  (きたしひめ)          祖父は、蘇我稲目    (同上)
41代 持統 母は、蘇我遠智娘(おちのいらつめ)   祖父は、蘇我倉山田石川麻呂
43代 元明 母は、蘇我姪娘(めいのいらつめ)   祖父は、蘇我倉山田石川麻呂

以上の系譜の流れを総覧するに、第八代大王「孝元」の曾孫であった「武内宿禰」は、巻向王統(孝昭王統から皇位を簒奪して樹立した王統)から皇位を奪い返して河内王統を打ち立てた人物である。
即ち、武内宿禰は河内王統の始祖であった。
第14代天皇の「仲哀」という諡号はまさにそれを暗示している


2015/4/20日  著作者 小川正武  

2015年3月1日日曜日

正使 「難升米」 【巻向王統 その4】 第二章


魏が正始六年(245年)に郡に付して倭国へ向けた詔書とは一体どういう内容であったか!。言い換えれば正始八年に「張政」が齎した正始六年当時の郡に留め置かれていた詔書の中味がどういうものであったか、魏志倭人伝にはそれが一言も記されていない。
類推するに景初二年(238年)の魏の「明帝」詔書が参考になる。曰く〝国家(魏)が汝(親魏倭王)の後ろ盾にいることを国中に知らしめよ、そのために汝に好物(権威を象徴する宝物多数)を鄭重に贈らしめるのである〟と標す。この詔書が標すところの〚親魏倭王〛とは、そもそも倭が魏に冊封された訳でもなければ君臣関係に倭が自ら遜った訳でもない、むしろこの場合の主意は兄(魏)が弟(倭)を労り弟が兄を敬う国家レベルの「化外慕礼」の関係、つまり友邦を契る〚遠夷の客〛であった。ところが正始六年の詔書はそれを逸脱していた。その背景には郡太守「弓遵」が戦死するほどの過激な辰韓暴動が起こり、それを鎮圧するため率善中郎将「難升米」(儀礼官位)に向けた出兵要請を督促してきたからだ。これが正始八年に「張政」が倭国へ齎した詔書の中味であった。
魏の支配下にない倭がこの魏のイレギュラー(互いの思惑違い)に直ちに呼応する態勢にはなかった。そして同騒乱は幸いにも二郡によってほどなく鎮圧された。だが魏は郡に南接する倭地の狗耶地方から倭がなぜ郡を助太刀しに駆けつけなかったのか?!、その真意を確かめるため魏は倭へ遣いを急がせた。 「親魏倭王」を差し置いた倭王臣下の「難升米」を直接名指しするこの魏の越権行為は果たしてまともな外交使節であったか?、少帝「曹芳」の後見役「曹爽」と「司馬懿」双頭執政の確執がこうした混乱と勇み足(殊に難升米による第一次戦中遣使が強烈なインパクトを魏に与えていた!)を招いた原因ではなかったか!。この異常さが「張政」來倭在三年に垂んとする遣使目的の蹉跌と長期滞留に繋がった。 (※ 1)
(倭国は中国の周辺国と違ってただの一度たりとも中国及びその周辺国から征服されたことはない。その倭が何をすき好んで中国の冊封国たるを甘んじるや。倭は常に中国の冊封体制の外に在って交易を通じた友邦国たらんとして倭独自のペースで朝貢していた。これはなにも聖徳太子が遣わした「遣隋使」をもちだすまでもないことである。)

梅雨月の晴れ間(248年)、魏使「張政」は磯城の朝堂において群臣居並ぶ中、正装して臨み、率善中郎将「難升米」に対し、魏の皇帝から齎された「詔書・黄幢」の伝授式「拝仮之儀」を挙行した。併せて「張政」自身 独自に作った檄文もそのとき声高らかに読み上げられた。曰く〝余は汝の後ろ盾に在り、その証しとして皇帝の旗印(軍旗)を汝に授ける。汝の敵は外にあり、内なる諍いを収めよ、諍いを収めるに前大王の善き先例あり、疾く照らしむべし〟と。
これを周到にお膳立てしたのが他ならぬ今は亡き女王「日女命」の皇子「和邇日子押人」(第二次副使/率善中郎将)その人であった。
「建諸隅」も「大彦」も吐帥ヶ原で共に対陣していてここにはいない、物部の宗主「欝色男」は父「大矢口宿禰」葬送の直後とあって「彦大日日」と共に登美に居て参列できていない。その他の諸豪族、葛城氏・三輪氏・和邇氏・倭氏・中臣氏・紀氏・河内氏・大伴氏・忌部氏・・等々畿内の主だった群臣たちはみな列席して息を殺してこれを見守り、孝霊は玉座に坐まして垂簾を隔ててこの場景を静かに見守っていた。
(※ 上図は、張政の奉遣「拝仮之儀」)

難升米こと中臣氏の「梨迹臣」(なしとみ) 
第一次魏朝遣使(当時48歳)の正使を務める。
時に、景初二年(AD238年)。 
爵位/率善中郎将。
[私論編年 AD191~250年。享年60歳]
中臣氏系図/①天児屋根⇒➁天押雲⇒③天種子(神武東征に付き随う)⇒➃宇佐津臣⇒⑤大御気津臣⇒⑥伊香津臣⇒⑦梨迹臣(天児屋根の六世孫)

梨迹臣は三上氏の「冨炊屋媛」を娶っていた。その三上氏係累が若狭の海部氏こと玖賀国王(狗奴国男王)という関係であった。

嘗て正使「難升米」を輔佐して朝貢副使(都市牛利)を務めていたのが今まさに吐帥ヶ原で布陣する孝霊朝の総帥「建諸隅」であった。その建諸隅は同時に狗奴国を背にして大彦軍と戦っている最中でもあった。もし三上氏が孝霊朝に背けば忽ち建諸隅軍は南北から挟撃される危うさを抱えていた。この弱点を補うべく建諸隅は息子「日本得魂」(18歳)を山背の水主本営に据えて若狭の狗奴国と淡海の三上氏へ睨みを利かせていた。

過ぐる十年前、難升米は倭の共立女王「卑弥呼」の勅使として、偶然にも魏と公孫氏が遼東で交戦状態に突入している真っ只中をこれに怯むことなく堂々戦中遣使(正使)をやってのけた剛毅な朝貢使であった。これを企図したのは卑弥呼の男弟「孝安」であった。孝安は豪族連合に諮り、その総意を背景に決断し、卑弥呼が最終承認(司祭)を下し、国を挙げての壮挙となった。
洛陽に至る魏の領域は恐ろしく広大で各地には駅伝が敷かれ行き交う人馬は夥しく、共立女王が支配する倭の緩やかな支配体制に比し、一極集中した皇帝権力の絶大さと巨大な文明に遣使らは只々目を見張るばかりであった。
副使「都市牛利」は軍師的立場から正使「難升米」を傍らからよく輔佐した。卑弥呼の勅使「難升米」より身分が遥かに高かった「都市牛利」は、使節全体をコーディネートする統括責任者を兼帯していた。この一行は、朝貢外交という名の交易に止まらない多くのものを収穫して帰朝した。
(※ この使節が倭国へ齎したその後の影響は、孫世代に当たる崇神によるそれまでの共立女王が支配する司祭体制から脱却、政治・軍事体制強化のために中央集権化を断行する萌芽の芽を宿した。)
今、難升米は往時とは立場が代わり、都「磯城」の王宮に在って魏の勅使を迎え入れて、倭を代表する祝典〚詔書・黄幢拝仮之儀〛主賓として厳かに応対していた。

そうした立場に身を置く難升米が何が不足で「都市牛利」(建諸隅)に敵対することがあろうか!。難升米は漢風装束に身を正して魏皇帝の意を介した〚張政の檄文〛を直接拝授しつつ、その今日在る身の今は亡き男弟「孝安」と女王「日女命」の恩寵を深く噛みしめていた。ヤマト王権の居並ぶ群臣たちは張政の発した告諭の内容を理解するや一瞬閃光の如き戦慄が朝堂を走り、うめきにも似た声にならない雄叫びが「オォーッ」とどよめいて忽ち元の静寂に戻り、辺りを見渡せばみな一様に感涙している様で、面々この場景を深く心に刻んでいた。これを静かに見詰めていた孝霊は自身何を思っていたことであろうか!。


梨迹臣の父は中臣の「伊賀津臣」で近江湖北の豪族であった。梨迹臣は孝霊の王宮で祝典[拝仮之儀]の大任を果たした後二年を待たずして「張政」らの還るを見送ることなく先に逝った。男子の本懐を全うした波瀾万丈の60歳であった。

(※ 1)
二郡による辰韓鎮圧の結果、その反動から三韓の多くの亡民たちが魏の圧制から逃れて倭地である半島南部の狗耶韓国(後の伽耶 亦の名 任那)へ逃避してきた。半島の窓口「一大率」はこの流れに抗しきれず新たな脅威の対応に追われた。九州北部の環濠集落がそれまでにも増して濠を重ねて城郭化したのはほぼこの時期と時期をいつにする。そして狗耶韓国へ流れ込んできた人々を在地の倭人たちも阻止しきれず次第にそれら三韓の人々とも融合していった。
後代、「神功三韓征伐」に象徴される倭兵の半島出兵は、この倭地蚕食によって新しく興った倭国にとってなんの正当性もない化外族長(王)の排除と失地回復にあったことは云うまでもない。その後、化外族長らは相次いで倭国へ朝貢してきている。また倭は倭で、「倭の五王」から欽明朝にかけてヤマト王権傘下の全国に散らばった各地の豪族(地祇)苗裔たちが、その時々の倭王の勅命を奉じて半島へ渡り夫々が国際的に活躍し或は逆賊となった族長らを討伐して還ってきている。 5~6世紀にかけて各地の前方後円墳にそれまでの三角縁神獣鏡に代わって金銅冠や環頭太刀が収められているのはこうした臣下(地祇)の功績を或は事跡を、歴代大王が個々に称えて顕彰していたことを如実に物語る。
〝昔より祖彌(そでい)躬(みずか)ら甲冑(かっちゅう)を環(つらぬ)き山川(さんせん)を跋渉(ばっしょう)し、寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず。東は毛人を征すること、五十五国。西は衆夷を服すること六十六国。渡りて海北を平らぐること、九十五国。〟とする雄略上表文は、倭国が朝鮮半島を領有していたことの証しであり、正にこのことは嘗ての〚環古代倭地圏〛のDNAが呼び覚ます各時代を背景にした已むに已まれぬヤマト王権の焦りにも似た半島奪還を目指した一断面の出来事であったに過ぎず、その半島での硬軟入り混じった統治の数々も天智天皇二年(AD663年)の唐・新羅連合軍を相手とする「白村江の戦い」で大敗を喫した後、遂にそれまでの半島牙城から倭は手を引いた。
やがて倭は国号を「日本」と改め、国のかたちとして律令体制に専ら力を注ぎ内なる足元を固めた。
日本古代史において欠史八代と云われた大王たちは大和の国(邪馬台の国)に確実に実在していた。そしてこの国の有史はそこから始まっていたのである


2015/3/1  著作者 小川正武   

    


2015年2月6日金曜日

大丹波王 由碁理」【巻向王統 その3】第二章


由碁理 
大丹波王「由碁理」(ゆごり)は、大和尾張邑を本拠地とする尾張氏第七代当主「建諸隅」(たけもろずみ)である。 父「建田背」は大丹波の領袖でその妹が宇那比姫こと「日女命」である。

従って、「建諸隅」は邪馬台国女王「日女命」の甥にあたり、同時に景初二年(AD238年)魏へ朝貢した副使「都市牛利」当時40歳その人である。
【私論編年 AD198~254年、57歳薨去】

因みに尾張氏始祖は「大国主命」の第二皇子「味耜高彦根」であり、「建諸隅」の愛娘は「天豊姫」と称されて魏志倭人伝に登場してくる邪馬台国女王「臺与」(トヨ)その人である。
               

〝塞曹掾史張政等を遣わし、因って詔書・黄幢をもたらし、難升米に拝仮せしめ、檄をつくりこれを告諭す。卑弥呼以て死す。大いに冢を作る。径百余歩、徇葬する者奴婢百余人。更に男王を立てしも、国中服せず。更に相誅殺し、当時千余人を殺す。云々〟  『魏志倭人伝』 抜粋

時は、AD248年央。
昨秋、魏の「張政」が來倭。張政は來倭したものの遣使目的が果たせぬまま「孝霊」治世下、在地豪族「河内青玉繁」の接遇を受けながら難波館に踏みとどまっていた。そして恐れていたことが遂に起こった。それは「日女命」殯の最中にもかかわらず「大彦・彦大日日」兄弟が兵を起こして孝霊の宮都を包囲したからだ。そして彼らが掲げる大義とは〝尾張氏系(孝昭)王統の孝霊は女王「日女命」が崩じた後はそれを輔佐する世襲権は既になくいまや傀儡であること、大王位に復帰すべき真の継承者は三輪氏系(懿徳の曾孫)王統の裔たる吾らにこそ正義在り〟というもので積年の鬱積した不満が孝霊退位を迫る露骨な軍事行動となって現れた。これを後押ししたのが物部氏と倭氏で、対する和邇氏と葛城氏は手薄になっていた磯城の「庵戸宮」(いおとのみや) に兵を出して王宮を十重二十重と固めてこれに備え、厳しく対応していた。〚別紙-7〛
当時、尾張氏当主「建諸隅」(50歳)は、都を離れて山背の水主に本営を置き玖賀国(狗奴国)に対峙していた。一方、淡海の豪族「三上氏」は玖賀国の「海部氏」とは傍系で且つ又「物部氏」とも代々通婚を重ねて親密な関係を維持していた。それゆえに「尾張氏」の建諸隅は玖賀国と対峙する反面、野洲の「三上氏」向背にも警戒しその分中央への影響力が削がれていた。この力の不均衡を埋めるために孝霊朝から期待されていたのが播磨の地を収めていた孝霊の兄「大吉備諸進」の來援であった。がしかし大吉備諸進もまた「温羅の吉備」王と千種川を挟んで攻防を繰り返しており直ちに反転して緊迫する畿内へ駆けつける余力はなかった。
「温羅の吉備」王は江南の呉と通じ、その先進文化を取り入れて独自に発展し、倭を奉ろわぬ国として狗奴国同様 邪馬台国と敵対関係にあった。(※ 1)

河内国の領袖「河内青玉繁」は、愛娘「埴安媛」を「孝霊」の皇太子「彦国牽」(ヒコクニクル) の妃に納めることに成功(日女命を服喪して翌年に婚儀)し、王統内訌で揺れる孝霊朝に忠誠を誓った。倭国を構成する他の部族長は旗幟を鮮明にせずこの成り行きをおどろおどろしく見守っていた。

将軍「大彦」率いる軍勢が磯城の都を攻めあぐねていたころ、「建諸隅」は本営水主から大軍を率いて南下、孝霊の王宮を目指して動き出した。これを察知した大彦の主力は物部軍と合流して北上、木津の吐帥 (はぜ)ヶ原の手前で布陣した。建諸隅軍は梅雨寒い払暁、木津川を渡河、朝靄を衝いて大彦軍へ勇躍突進し瞬く間に両軍の間で夥しい死傷者が出た。だが数刻が過ぎても戦いに決着がつかず両軍とも次第に後方へ退き、再び河を挟んで対峙するも、やがて動きが止まって膠着した。(※ 当時の邪馬台国の戸数七万戸は老若男女少なく見積もっても凡そ35万人の人口規模 曰く、国の大人は皆四・五婦、下戸も或は二・三婦。婦人淫せず、妬忌せず、盗窃せず、淨訟少なし‥租賦を収む。邸閣有り、市有り有無を交易す、云々 【魏志倭人伝】    〚写真上は木津の湿地帯、吐帥ヶ原〛
          (尾張氏第七代当主「建諸隅」)

この戦いを観戦する外国武官がいた。云うまでもなく「張政」である。張政は文官であるというより元を糺せば郡境の守備隊長であった。張政が來倭して早やくも一年近くが経過、今は亡き「日女命」の子息「和邇日子押人」の庇護の下、この戦いを静かに遠望していた。そして夥しい屍が河原に累々と横たわる中、軍官の眼差しでこの事態収拾に思いを巡らせていた。
素より彼の遣わされた本分(法)から彼がそれを逸脱することは許されず、その中で彼が如何に為せば魏の皇帝の徳(礼)を発揮し得る行為に繋がるか!を探っていた。成果なき倭からの帰還は皇帝の威厳と体面を著しく汚し、化外慕礼する倭国との友邦関係にもヒビが入りかねない、そのことを張政は腐心していた。
張政は「温羅の吉備」王が呉と通じていることを掴んでいた。それは中国事情に精通する率善中郎将「和邇日子押人」から直接聞かされていたこともあったが同時に、在一年の独自諜報から得た確信でもあった。当然「温羅の吉備」王が倭の敵であることは魏にとっても敵であることに変わりなく、二方面に敵を抱える倭が大王位を巡って内紛している様は魏にとっても大変由々しい事態で、その時局収拾に向けた策を張政自身 遣使の立場をむわきまえた上で模索していた。

※ 張政は帯方郡の一官吏に過ぎず皇帝直属の勅使ではない。張政は使節一行を取り仕切る統括責任者であった筈だ(勅使といえどもその管轄下にあった)。だが当該勅使の名は魏志倭人伝のどこにも標されていない。故に私は便宜上「張政」を勅使に仮託している。この註は前項にも重複記載した。

「大彦」の外祖父「大矢口宿禰」は吐帥の戦局に思いを馳せながら76歳の天寿を全うした。同宿禰は自らの寿命を悟ったとき、息子たちを枕元に呼び〝我ら氏族は建国以来、三輪氏・尾張氏の後塵を拝してきたが吾が始祖こそ原大和の国主(長髄彦)に繋がる由緒ある血筋であること。初代神武から専ら武門の司を担ってきた栄誉ある世襲家であること。今次の内訌がたとえどちらに傾こうとも物部氏が爾後ともに存立していくために三輪氏・尾張氏に伍して皇家姻族に列し、両王家を凌駕しなくてはならないこと〟この悲願を託して逝った。
大彦の伯父「欝色男」は登美に在って物部氏第六代宗主を踏襲、その弟「大綜杵」は大彦に随従して戦場に臨んでいた。
大彦の同母弟「彦大日日」(後の開化天皇)は母「欝色謎」と共に登美の地に匿われていた。(※ 2)

張政は「吐帥の戦い」で損耗甚だしい両軍の惨状を見て、再度の合戦は当面遠のいたと察知。尚且つ旗幟を鮮明にしている「和邇氏」と「河内氏」の軍兵が無傷で中央に控えている情勢は明らかに孝霊朝に分があると判断した。

軍官出身の張政はこの力学的軍事情勢の節目を決して見逃さなかった。両軍の均衡が孝霊朝に優位に傾いた瞬間を捉えて張政の動きは素早く且つ能動的で大胆であった。その能動的で大胆な行動とはそも一体何を指すのであったか!?

AD250年、建諸隅は娘「天豊姫」が二代目「邪馬台国女王」に推戴された後、文字通り国父の威厳をもって倭国豪族連合の頂点に君臨した。同年夏、過去三年に亘る遣使「張政」が果たした倭国滞在中の貢献に対し、女王「臺与」の名において国を挙げて張政送別を壮挙した。
魏志倭人伝曰く、〝臺与、倭の大夫 率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二枚・異文雑錦二十匹を貢す。〟と
この大任を仰せつかったのは和邇日子押人その人であり、張政一行を郡治まで送り届け、更に魏の帝都「洛陽」にまで足を延ばして朝貢した。(※ 3)
国父「建諸隅」はその四年後に崩じた、享年57歳。

(※ 1)
「温羅の吉備」とは、私に確証があるわけではないがその祖先は紀元前に秦の圧政から逃れた徐福王が徐族全体を率いて蓬莱の地を目指して東渡した際、船団が潮に流され分散していったその一部が命辛々吉備に辿り着いた、辿り着いた人々は在地の人々と混じり合ってその中から王を立てた。 そうした人々ではなかったか!。吉備(山陽)の人々のDNA鑑定結果では江南の人々の Y染色体が30%余を占めているとか!この「王」は独立性が高く倭に服属することを由とせず抵抗した。ここに孝昭期(孝霊の祖父)以降 邪馬台国は「温羅の吉備」王征伐に乗り出していくことになるが長年に亘って手を焼く相手となった。同時代、既に「温羅の吉備」国は江南と交易を通じて文化的に鉄製農耕器具すら自前で生産していた節があり、また支配層が亡くなれば墳丘墓に独特の特殊器台を立てて、その器台に壺土器を据えて供物を添えお祭りしていた様子さえ覗えた。(上の参考写真は岡山の特殊器台)

(※ 2)
「欝色男」(うつしこお)が物部氏第六代宗主であることの初代からの嫡宗の流れを以下に示した。
①宇摩志麻治--②彦湯支--③大禰--➃出石心--⑤大矢口宿禰--⑥欝色男
因みに初代 宇摩志麻治の父は「大国主命」、母は「御炊屋媛」(ミカシキヤヒメ)、御炊屋媛の兄は神武と戦った原大和の国主「長髄彦」(ナガスネヒコ)。

一方、「建諸隅」(たけもろずみ)が尾張氏第七代宗主であることの初代からの嫡宗の流れを合わせて以下に示した。

①味耜高彦根--②天村雲--③天忍人--➃天戸目--⑤建斗米--⑥建田背--⑦建諸隅
因みに初代 味耜高彦根の父は「大国主命」で異母弟が宇摩志麻治である。加えて、三輪氏始祖「事代主」は父を同じくする味耜高彦根の兄にあたる。この大王位継承を巡る各王家後裔の争いは元を手繰れば皆「大国主命」(出雲王朝最後の大王)に辿り着く同根なのである。

(※ 3)
倭が朝貢する際、生口献上という他に例を見ない特異な慣習がつづく。帥升がAD107年に後漢へ朝貢した際も生口160人という一団を献上している。この時期は神武が大和盆地南部を制圧していた時期と重なる。が、しかし当時はまだ神武が倭国を統一していたわけではない。むしろこの時期は畿内諸豪族と緊張関係にあって武力によって制覇することの限界に深刻に直面し、それに代わる一大デモンストレーションとして後漢の権威を背景に帰服せしめんとする東遷勢力の企図が働き、原郷筑紫ヒムカの奴国大夫「天押雲」(帥升)たちに戦略的朝貢が発動され、それが挙行されたものであった。そのとき後漢「安帝」から下賜された「金銀錯嵌珠龍文鉄鏡」が邪馬台国の権威を高める神器となった。このシンボリックな鏡は女王の呪術的政権と共に崇神の手によって葬り去られ大和の地から忽然と消え失せて帥升の末裔が住む原郷へと潜に還って行った。
〚第一章 邪馬台国 その八〛から抜粋。 (写真は同鏡の断片)

AD250年、掖邪狗が生口30人を朝貢の折 献上している。ここに生口の慣習を通して「帥升」と「和邇日子押人」が各々連環していることが解る。このことから倭国王「帥升」は奴国の大夫「天押雲」であり、帥升の父がAD57年の漢委奴国王の印綬にある大夫「天児屋根」(遠祖中臣氏)で、「難升米」(梨迹臣)と伊聲耆(伊世理)が共々魏に正使として遣いした名門「中臣氏」であることから歴代中臣氏は遣使朝貢の正使を務める専権的家柄或は司であったことがここから透けて見えてくるのである。


2015/2/6日  著作者  小川正武


2015年1月1日木曜日

塞曹掾史 「張政」 【巻向王統 その2】 第二章

           

帯方郡太守「王頎」(キ)は塞曹掾史(さいそうえんし)「張政」を倭へ遣わし、因って詔書・黄幢を「難升米」に拝仮せしめ、檄をつくりこれを告諭した。時に正始八年(AD247年)〚魏志倭人伝〛の一節、

その前年、倭は郡へ遣いを使わし正治六年遣使が実行に到らなかった状を説明した。これを遣わした人物は、孝霊の叔父で時の政治権力の中枢にいた女王卑弥呼の息子にして魏の率善中郎将の肩書をもつ大夫「掖邪狗」その人であった。〝倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず。倭の載斯・烏越等らを遣わし郡へ詣り、相攻撃する状を説く・・〟これを遣わした真の執権者は正にこの稚押彦こと女王日女命の息子「和邇日子押人」(57歳)その人であり、この人物を置いて他にはいない。

魏は「親魏倭王」が遣わした弁明使の報に接するや倭へのその後の動きは迅速であった、それはなぜか?。
半島で諸韓が再三魏に反抗する中、東南大海の倭との連携はそれゆえに戦略的価値が高く藩屏たるを期待した。・・であるにも拘らず先の半島二郡の非常時に倭が全く動かずその期待が見事に外れた。倭は倭で、倭が動けなかった尤もな理由として狗奴国との相攻撃の状を掲げて言い訳とした。
魏は、その真偽を確かめるため張政を倭へ急派させたのである。

遼東の高句麗軍を「王頎」将軍が南から、「毌丘倹」将軍が北から挟撃してこれを撃退した。その戦功によって王頎は「弓遵」亡き後を継いで帯方郡太守に親任された。倭の弁明使が詣郡したのはその王頎が着任した時期とほぼ重なる。
「王頎」は皇帝の勅許を仰ぐべく直ちに官都へ上り倭の状を報告、「曹芳小帝」の執政「曹爽」は、皇帝の名において二年前 郡に留め置かれていた「詔書・黄幢」を改めて王頎に付し、遣倭を裁可。郡治へ戻った王頎は直ちに塞曹掾史「張政」に託して倭へ遣わした。

この「張政」(38歳)の使命は邪馬台国へ到着してからその性質が大きく変遷した。即ち・・・、
張政ら一行は、先の魏使「梯儁」同様、難波津の内湾に南接する邸閣 難波館(なにはのむつみ/外交官舎) に投じて在地豪族「河内氏」の歓待を受けた。時に正始八年秋。(※ 1)
率善中郎将「難升米」こと中臣の「梨迹臣」(56歳)は、その報に接するやいち早く磯城の都から駆けつけて來使一行をもてなしその労をねぎらった。張政は、真っ先に女王「卑弥呼」(日女命)を室秋津洲宮へ表敬したい旨強く望んだ。しかし同女王は既に病に伏して久しく今日明日をも知れぬ重篤の身であった為、張政はこれを断念する仕儀となり卑弥呼引見の栄誉を永遠に失った。そして同女王の皇子「根子彦太瓊」(孝霊) が磯城に遷都して政を執っていることを改めて知った。

張政來倭を遡ること九年前、倭は「難升米」を正使とする遣使朝貢を壮挙した。それが偶然にも戦中遣使であったため魏の明帝曹叡は悦し、大夫「難升米」に一軍の将たる「率善中郎将」の位階を与え魏の藩屏としてこれを組み込んだ。次いで二年後、「梯儁」が來倭して卑弥呼へ「親魏倭王」の印綬を齎し魏の同盟国にこれまた組みこんだ。その梯儁は半島から渡海途上「伊都国」に寄留してそこが近隣諸国が畏憚する倭の副都であり一大軍事拠点であることを突止め、〝半島で一朝有事があればこの倭の軍事支援が大いに期待できる〟ものと踏んで本国魏へその旨帰朝報告を行っていた。

「張政」が倭へ齎したそも「詔書・黄幢」とは、二年前の正始六年当時の半島騒乱状態をそのままに、その主意はそれを反映して率善中郎将に対し辰韓攻撃への指揮権授与と出兵督促であった。決して倭使「載斯・烏越」が説く「狗奴国」へ向けた倭国支援を謳った内容ではなかった。ここに魏と倭の齟齬が生じ、その思惑違いが内在したまま魏使「張政」の今次來倭となっていた。

「張政」來倭の最大のイベントは云うまでもなく率善中郎将「難升米」へ授ける詔書・黄幢拝仮の儀であり、倭は朝野を挙げて歓迎し直ぐにも式典を開催してくれるものと思っていた。倭は倭で〝魏による狗奴国へ向けた倭国支援の強烈な示威表明〟を謳い奉ろわぬ国への威圧喧伝を為すべく急遽倭へ使いを遣わしてくれたものと思い込んでいた。

ところが豈図らんや蓋を開けてみれば双方ともに大きく当てが外れて状況が一変した。即ち、邪馬台国では孝霊朝の宮都「磯城」と懿徳の後裔が本拠地とする「巻向」が互いに王統の正当性を掲げて鋭く対立、皇位争乱の様相を呈しておりその張りつめた緊迫感からとても華やいだ式典が挙行できる環境ではなかった。片や、魏使「張政」の奉遣目的が「親魏倭王」を差し置いた倭国臣下の「難升米」であることに倭は訝り怪しみ、しかもその詔書・黄幢が必ずしも「狗奴国対応」 に向けられたものでないことへの違和感に一層困惑し、その外交的扱いに苦慮して慶賀すべき筈の祝典は全く目途が立たないまま行事は頓挫してしまった。

糅てて加えて難波館で待機していた張政の下へ女王「卑弥呼」崩御の知らせが届き、しかもその驚きは更に君臣の上下関係にも及び、副使「都市牛利」や「掖邪狗」が正使「難升米」や「伊聲耆」に上位する時の支配者であったことを間もなく目の当たりにするのである。(※ 2)

〝卑弥呼以て死す〟「日女命」は室秋津洲宮で伏して七年、77歳の生涯を静かに閉じた。日女命が病めるその間、日女命の孫「孝霊」が事実上の譲位を承けて践祚、都を磯城に移して早や数年が過ぎていた。日女命歿して後、殯(もがり)は一年余つづきその後 遺骸は夫や男弟「孝安」が埋葬されている聖なる山丘、玉手丘(たまてのおか)に篤く葬られた。(※ 3)

掖邪狗こと「和邇日子押人」は都「磯城」に在って甥「孝霊」の後ろ盾となっていた。和邇日子押人の従兄弟「建諸隅」(都市牛利)は山城の水主邑に本営を置き、玖賀国(狗奴国)と対峙していた。一方、孝霊と対立する「大彦・彦大日日」兄弟は物部の「大矢口宿禰」を外祖父にもち、巻向から磐余に跨る大和盆地東南部を根城に国造「倭氏」の積極的な庇護の下、とくに「日女命」が崩じた後は大義名分を失った孝霊に対し、懿徳後裔の若き皇子たちは皇位奪還の抑えがたい衝動にかられてその血気は沸点にまで達していた。ここに尾張氏・葛城氏VS物部氏・倭氏の豪族間同士の亀裂が深まり一触即発の緊張を孕ませていた。 (※ 〝掖邪狗〟ワキヤクは和邇日子押人の音韻ワニヒコを漢人が転化して書き留めたもの。)


「天津彦根 裔」三上氏系譜と『旧事本紀』との間で物部氏の「大矢口宿禰」を巡って大きな相違が観られる。ために伝承考古学においてもこんにち相当混乱を来している。そこで私なりに異なる視点から、その存在を以下のごとく浮き彫りにした。
上図 [別紙-5]〚私論 大王と物部氏の関係図を表す。 

先ず『旧』「天孫本紀」では、ウマシマチ(物部氏祖)の子がヒコユキで、ヒコユキの児がイズモシコと異母弟のイズシココロを標す。「大矢口宿禰」はそのイズシココロを父に冠し、ウツシコオ・ウツシコメ・オオヘソキを儲けている。
ところが『三上氏』系譜 [別紙-6] においては父が異なりヒコユキの子が大禰で大禰の児がイズモシコとイズシココロとなる。だが両系譜とも共通して〝「出雲醜」が懿徳朝(期)の大臣〟であり、〝「出石心」が孝昭朝(期)の大臣〟ということで互いに両者で相違はない。だが「内色許雄」「内色許謎」「大綜杵」「大峯大尼」の父が誰であるのかで両系譜は異なる。ではそのことで伝承考古学において何が問題で何に混乱しているのであろうか・・?。
その答えを出す前に、まず大王治世の期間(年代区分)とそれに対応する物部氏歴代宗主各々の年代とが互いに合致しているかどうか綿密に精査することから始めなければこのことはなにも理解できない。
「内(欝)色許雄」は云うまでもなく孝元の大臣である。その妹「内(欝)色許謎」は⑩崇神にとっては祖母に当たり、崇神はこの祖母のことを尊んで太皇太后の称号を賜り寿ぐのである。さらに内色許謎の異母弟にあたる「大綜杵」もまたその娘「伊香色謎」を開化に入后させ「崇神」の外祖父となり、自身も開化朝(期)の大臣に列するのである。
・・ つまり 「出石心」 の活躍した⑤孝昭の時代 (AD180年代) から出石心の子らは⑥「孝安」治世60年間を一挙に飛び越えてその主たる活躍の場を⑨開化の時代 (AD260年代前後) へ移っているのである。即ち「三上氏」系譜ではこの間の一世代が完全に抜け落ちている。この故意に削除された一世代の空白期間にいったい何が起こっていたのか、そこにこそ真実が潜んでいるのではないか!

然らば、この孝昭から開化へと繋がる物部氏を中継ぎした長期安定政権孝安朝を埋める物部氏の嫡宗(首長)はいったい誰か !  しかもこの人物は好むと好まざるとに関わらず時の皇位抗争に深く関わり、開化の王統回天〚嫡統王家の交代〛への過程を布石しはしなくも短命で終わった尾張系大王「孝元」につづく新たな物部系大王誕生の礎石ともなった孝霊朝(期)における物部氏の重鎮である。
日本古代史に今以て埋もれたまま誰もそのことに気付いていないこの巨大な人物は、さしずめ8世紀初頭に絶大な権力を誇った「藤原不比等」にも匹敵する。しかも不比等はこの人物を意識して 日本紀 編纂に恣意的に深く関わっていた節さえ窺える。その恣意とは、乙巳の変で蘇我蝦夷 (大臣) がそれまでの天皇記や上古歴史書を焼却したことでそれを勿怪の幸いに不都合な真実や系譜の改竄をこのとき大胆にも断行したことを指す。これを詳しく語る紙面は茲にはない。

その名を挙げるのに『旧』「天孫本紀」はなんの蟠りもなく「大矢口宿禰」の名を標している。ところが肝心かなめの『記紀』や「三上氏」系譜ではその名が見当たらない。これはいったいどうした訳であろうか!?。

淡海(近江)の名門「三上氏」は若狭の本宗家「海部氏」の傍流であり、その「海部氏」が崇神朝によって滅ぼされて以後、「三上氏」は巻向王統(開化を祖とする王朝)に対してひたすら恐懼恭順の姿勢を貫き通し大彦の脅威からも免れて生き延びることができた。
物部氏嫡宗らは綏靖から孝昭までは近江へ積極進出し、淡海湖南野洲地方の支配者「三上氏」とも政略的に通婚を重ねていた。ところが〝倭の女王卑弥呼、狗奴国の男王卑弥弓呼と素より和せず〟男弟「孝安朝」(期)の軍事の司であった物部氏当主は三上氏向背の懸念と混沌から同氏との通婚を一時絶った。為に、孝安朝期における三上氏系譜に物部氏との系脈がないのはそのためであった。

では『旧』物部氏系譜ではその間、三上氏との関係をどのように扱ったのであろうか。その繋がりを観るに、孝安朝期における大矢口宿禰の妻は三上氏の「坂戸由良都媛」 (さかとゆらとひめ) と記す。しかしこの媛は孝安期の人ではなくその先代 孝昭期の人であり、三上氏系譜に記されている「出石心」の妻であることに蓋然性をもつ。ならば大矢口宿禰の妻が同媛でないというならいったい誰が大矢口宿禰の妻であったのであろうか?。またどうして大矢口宿禰はその妻の名を隠さなければならなかったのであろうか?正史を編纂する上で不都合な真実がここにも潜んでいるのである。

『旧』「天孫本紀」では大矢口宿禰は妻「坂戸由良都媛」との間に「鬱色男」「鬱色謎」「大綜杵」「大峯大尼」の四子を儲けたと標すが、諄いようであるが「坂戸由良都媛」は大矢口宿禰の父「出石心」の妻であるから当然のこと大矢口宿禰の兒の生母ではない。私に確証はないが物部氏の当主「大矢口宿禰」の妻は「日女命」の異母姉「葛木高田姫」ではないかと思っている。同姫は同時に尾張氏当主「建田背」の異母妹でもあり、宇那比姫こと尊称「邪馬台国女王日女命」は改めて云うまでもなく建田背の同母妹という関係にある。「建田背」は「大矢口宿禰」より年長であったが大差はなく「葛木高田姫 」が物部氏当主「大矢口宿禰」の妻であることにその血統の高貴なことから何ら不自然はない。 
(※  [別紙-6] に掲げる大矢口宿禰の系譜箇所は「天璽瑞宝」から抜粋転用している。)

(※ 建田背の同母兄弟は七人で出生順に、建宇那比・建多乎利・建彌阿久良・建麻利尼・建手和邇・宇那比姫・母は紀伊氏の中名草姫/建田背の異母妹は葛城高田姫・同姫の母は葛城氏の避姫)
蛇足であるが女王「日女命」の生母が紀伊氏の中名草姫ということで思わず連想してしまうのが、その五代前の神武東征砌、神武が浪速で敗退して命辛々和歌ノ浦へ漂着し、その地の名草邑で壮絶な殺戮を繰り広げて兵糧を奪い名草の女酋長が逆らったためその肢体を八つ裂きにして引きづりまわした、そうした忌まわしい過去が過ぎるのは私だけだろうか。これも歴史が織りなす巡り合わせか!。

既に周知のとおり『記紀』は共立女王「卑弥呼」が起立していた王朝「邪馬台国」を官撰正史から完全に抹殺している。大矢口宿禰の妻が日女命の異母姉として同正史に登場してきては甚だ困るのである。そこで『記紀』や「三上氏」系譜は意図的に「大矢口宿禰」の存在までも揉み消し標さなかったのである。
さすがに『先代旧事本紀』「天孫本紀」も卑弥呼に連なる名を標すことをはばかり苦肉にも大矢口宿禰の妻を先代が通婚した相手「坂戸由良都媛」へと巧妙にすり替え、先代当主「出石心」の妻にはこれまた窮して稚拙にも孫世代の三上氏「新河小楯媛」(しんかわこたてひめ) をもってきて糊塗した。こうした矛盾した作為的系譜を編むことによって日本の黎明期を織りなす正確な邪馬台国の痕跡を徹底して葬り去った。そして『記紀』編纂者たちは黄泉の国から今以て古代史研究に携わる多くの人々を手玉に取って高笑いしているのである!。
 
 ◆

思わぬところで紙面を割いてしまった。本題である魏使「張政」のその後を追うこととする・・。
「張政」は、苟も魏皇帝の勅使であったからこの様相を見て遣使目的不調を理由に直ちに本国へ帰還しても十分名分は立った。しかし張政の選択はそうではなかった。倭の内訌する仔細をろくに解らないまま帰朝報告するには時期尚早とみて供回りの者数人を残して後は全部郡へ還した。そして自らはこの推移を見届けて使命が無事完遂するまで居残ることを決意し、邪馬台国が置かれている国情を幅広く見聞することに力を注いだ。この滞在に最も貢献したのが河内氏で、故に河内青玉繁は娘「埴安媛」を「孝元」の下へ入妃させることができた。一方、居残った張政の帰国時の足が心配であったが伊都国の「一大率」は勅使のごとき強大な権能をもつ軍政官であったため、〝郡の倭国へ使いするや皆津に臨みて捜露(監察)し、文書・賜遺の物を伝送して女王に詣しめ、差錯するを得ず〟「倭人条」、伊都国と邪馬台国との交通・伝達は頻繁でまた倭と郡との交易船の往来も頻繁で、魏使「張政」の帰還に際しなんの懸念もなかった。

彼は始め郡界の守備隊長であったが後年、この倭国遣使の功績が認められ「王頎」の後を継いで帯方郡太守に封じられた。彼は倭での役割を無事果たし終えた後、「掖邪狗」らに郡まで送り届けられた。その掖邪狗ら一行はその足で更に郡から洛陽の都へ朝貢しているのである。掖邪狗は篤き人であった。
張政は倭の内訌が原因で遣使本来の目的がなかなか果たせぬまま「邪馬台国」に足かけ三年間も留まった。その間、河内の難波館に仮住まいし畿内各地の状況をつぶさに見てまわり見聞を広げていた。今でいう情報収集であろうか。こうした異例で特異な行動が許されたのは掖邪狗の保護下にあったからに外ならず、張政を郡へ直接送り届けたことで魏の倭への疑念も氷解し、張政の長年の努力も報われた。張政が倭を去る時、河内で儲けたハーフ一児を残して還った。その児は掖邪狗が引き取って取り立てた。これは我がロマンに留めおく。
    塞曹掾史「張政」の『詔書・黄幢』 奉遣拝仮の儀  (板厚30ミリ)

※ 來倭した勅使は皇帝を代理して倭国王と直接接見することができる。ところが建中校尉「梯儁」や塞曹掾史「張政」は帯方郡の一官吏に過ぎず、その実態は使節一行を取り仕切る統括責任者であった筈だ(勅使といえどもその管轄下にあった)。では肝心かなめの勅使は誰か?「魏志倭人伝」のどこにもその名が記されていない、やむなく私は「梯儁」や「張政」を勅使に仮託して説明してきた


(※ 1) 河内氏の領域は今でいう東大阪から藤井寺それに富田林の石川流域にまたがる一大勢力で、漁労が盛んで御食国の一つとして塩や海産物を主に皇都へ貢納していた。此度は遣使一向饗応の大役をも併せ持ち務めていた。その領袖は河内青玉繁で、翌年その娘「埴安媛」を孝元のもとへ納めやがて孝元第一皇子「武埴安彦」の外祖父となった。後年、この武埴安彦は「開化」によって簒奪された王権の奪還を企てて立ち上がるが崇神朝によってあえなく潰え去った。

(※ 2) 第一次副使「都市牛利」は女王日女命の甥「建諸隅」(当時40歳)であり、第二次副使の「掖邪狗」は日女命の息子「和邇日子押人」(当時53歳)であった。この二人は当時の政を司る邪馬台国きっての最高実力者で双璧をなし、にも拘らず第一次正使「難升米」こと中臣の「梨迹臣」(当時47歳)と第二次正使「伊聲耆」こと中臣の「伊世理」(当時48歳)の異母兄弟は共にその臣下でありながら正使を努めるという奇妙な関係であった。このことは中臣本宗家が代々朝貢正使を司る慣わしであったことを意味する。遠くは奴国を与る漢委奴国王「天児屋根」がいて、その子「天押雲」もまた倭国王「升帥」として朝貢正使を努め、転じて「建御雷」となって神話の世界にも現れ、その兒「天種子」は神武に供奉して東行し、軍神「建御雷」は東行する神武らを国許から援けた。
(この項、第一章・邪馬台国【その一】から抜粋)
因みに詣郡(AD246年)の正使「載斯」は梨迹臣の子「建御世狭名」であり、副使「烏越」が建諸隅の子で若き日の「日本得魂」であったであろう。唯、人の世の変転は目まぐるしく、この日本得魂も和邇日子押人の子「彦国姥津彦」も「開化」の王権奪取(嫡宗王統の交代)の煽りを食って臣籍降下となった。私はこれを〚開化の回天〛と仮称する。

(※ 3) 女王「日女命」の御陵地を特定する。
写真左は、女王「日女命」の宮都「室秋津洲宮」から東へ約1~1.5キロ隔てた小高い山、聖なる玉手丘(たまてのおか)が連なる全体の俯瞰図である。この近くには神武が国見した伝承の国見山がありヤマトタケルの御陵もある。そしてその北の端には日女命の男弟「孝安」が眠る御陵があり、孝安の兄で日女命の夫である「天
足彦国押人」もその近くで眠る。そして日女命も同様、その傍らで篤く葬られた。日女命の遺骸は長い殯の末、干からびて一回り小さくなっていたが死してなお不思議な霊力を放し続けて見る人を畏怖させた。
(山陵図と写真は外部資料引用)
その埋葬された陵形は山肌を剥いだ後にその山全体を円錐台に整形を施し、その中腹に方形の台座をしつらえて、その台座の上で嘗て傅いていた大勢の侍女や巫女たちが日々入れ代わり立ち代わり歌舞音曲を奏でて「日女命」の霊を慰め詣らせ祀っていた。この情景を彼方で弔意遥拝しながら見ていた張政は〝徇葬者奴婢百餘人〟と表現した。この徇は殉ではなく日女命を奉斎する祭祀一団の様子を描いた意味であり曰く、〝その死するや棺有れども槨無く、土を封じてツカを作る・・喪主哭泣して他人就いて歌舞飲酒す〟とはまさに当時の倭の普遍的な葬送風景にして女王日女命の死もまたそれの桁外れに大規模なものであり、これを以て奴婢百余人〝殉死〟と解するのはそもそも倭の風俗に馴染まない。


『日女命』以前のそれまでの大王たちの御陵墓は、単に山丘の頂に円墳を造営して埋葬し祀っていたに過ぎない。ところが神宿る〝司祭王日女命〟が崩御したとき人々はその死を非常に不吉な前兆と畏怖し、朝な夕なに陵前で奉祭する行事を怠らなかった。そのとき始めてその大いなる行事に足る広さの台地(鎮魂祭礼の場)を必要とし新たに人工の方形台地を前方部に付け加えた。これが前方後円墳のそもそもの始まりであり、このことを巨視的に捉えれば弥生時代から古墳時代へのエポックメーキングを画期する象徴的出来事となった。即ち、日本独特の特異な陵形をもつ原点原形はここかにはじまったのである


それにしても魏の蔑字は気になる。その源は儒教と神道の文化的風土の違いからくる彼らの持つ異教への嫌悪感・優越感に由来する。まぁ比喩すれば異教ゆえに互いに相手を嫌うのと同質で唯々失笑する外ない。少なくとも日本人は八百万に神が宿る素朴な自然信仰に根差しており、太陽や悠久の山河・先祖・ありとあらゆる神羅万象が畏敬と祈りの対象であり、彼らの因って立つ拠りどころと比べてみてもその精神の高邁さにおいて遥かに超然的で崇高ですらある。

(本項〚別紙-5〛の「彦太忍信」は音読みであるが訓読みでは「ひこふつおしのまこと」と呼称する)

2015年1月1日   著作者  小川正武

2014年8月15日金曜日

孝霊天皇 「ネコヒコフト二」 【巻向王統 その1】 第二章

         

卑弥呼と卑弥弓呼!
この二人は元を質せば〚味耜高彦根〛を祖とする同族であった。
※ 本稿第一章【邪馬臺国 その十九】[別紙-2] に示す系譜の宇那比姫こと女王戴冠後の尊称「日女命」(ヒメミコト)は、魏志倭人伝に出てくる「卑弥呼」その人である。

「卑弥呼」は我が意訳するところ「日の御子」であり、 「日御子」「日巫女」に通じ、即ち 邪馬台国女王「日女命」(ヒメミコト)なのである。
「卑弥弓呼」も同様「日の御彦」であり、「日御彦」に通じ、若狭の国(玖賀国)の男王、即ち 魏志倭人伝に出てくる「狗奴国」男王「ヒミヒコ」なのである。

この二人は敵対していた。
敵対していたが邪馬台国はなぜかこの狗奴国男王のことを畏れて卑弥弓呼 即ち〚日御彦〛(ヒミヒコ) と尊称していた。これは一体どうしたわけであろうか。

女王「日女命」の御世、同女王の兄で大和葛城の高尾張邑に本拠を置く尾張氏の当主「建田背」は豪族連合の頂点に立つリーダー的存在で同時に丹波の国主でもあった。
片や若狭の国の男王「日御彦」は「天御蔭」の曽孫で「海部氏」と称し、尾張氏とは「天村雲」を共に父に戴く異母兄弟でかつまた長子であった。ところが邪馬台国女王「日女命」を擁立することに成功した尾張氏はヤマト王権の頂点に立ちその権能を行使して「海部氏」が領域とする加佐郡 (現在の宮津市から福知山市にかけての由良川水系一帯) を支配下に置いた。ここに邪馬台国と狗奴国の覇権争いが生じた。そして初期本宗家である「海部氏」は崇神朝に至って滅亡の悲運を辿るのである。
些か拙速ではあるがその顛末について先ずは以下要約して述べることとした。

※ 初期本宗家の「海部氏」は「天御蔭」の代で児が分岐して本系を笠水彦(ウケミズヒコ)が継いで若狭の国を治め、そして海部氏傍系となった三上氏が近江へ移り住んで野洲郡を治めた。
初期本宗家の「海部氏」から分岐した「三上氏」は幸いにもヤマト王権との覇権争いから難を免れ後代になってから「神功皇后」を輩出するに至った。その神功皇后に仕えたのが「日女命」五世孫の「武振熊」とその子で、この親子は開化を祖とする巻向王統を討伐した第一等の戦功によって「神功・武内宿禰」から一旦廃姓とされていた「海部氏」に替えて「海部直」を定めて賜り、本系「海部氏」の支配地だった若狭の国に加えて丹波・但馬の国までも引き継ぐこととなった。この後継「海部直」の出自は従って日女命系「和爾氏」であって本系「海部氏」とは血脈を異にしていた。このため天橋立の「元伊勢籠神社」が伝える国宝『海部氏本系図』にはこの間の四世孫から「武振熊」までの系譜が威圧的に削除させられていた。削除された側は削除された命の名は分かっていても公にすることが憚られ恐懼した。ここにヤマト王権は本系「海部氏」を滅ぼした不都合な真実を覆い隠した。本系「海部氏」と争った「尾張氏」は元を質せば本系「海部氏」と同根であった。皮肉にもこの一連の争いの責めを負う形で崇神朝を経た後の「尾張氏」本宗家は丹波から伊賀~愛知尾張へとその支配地を替え、その嘗ての栄光ある勢威は急速に衰えを見せるのである。

若狭の国 狗奴国男王「日御彦」(卑弥弓呼)の始祖は天御蔭の祖父「味耜高彦根」である。味耜高彦根は出雲王朝を出自とする丹波の王で、神武のヤマト王権を必ずしも奉ろわぬ王として最後まで抵抗した王であった。 (※ 1)
※ 本稿第一章【邪馬臺国 その六】 アジスキタカヒコネ 「尾張氏の始祖」の段でその人となりは詳しく記している。

その血を伝統的に引き継ぎ、丹後半島東海岸を含む敦賀湾岸一帯とその内陸、および大江山を含む由良川水系を支配地としていたのがこの本系「海部氏」の玖賀国男王「日御彦」であった。その本拠地は舞鶴の青葉山麓に在った。そして建田背の息子「建諸隅」が丹波の大県主となったころ、都ヤマトと丹波の府を結ぶ丹波道が日御彦が領域とする由良川水系と重なり合いその支配地を巡る争いが更に激しさを増した。そしてその境界領有を巡って双方が雌雄を決する骨肉相食む争いに発展するのである。

※ 日御彦がもしヤマト王権に帰属していた王であったならこうした確執は起こらず、日御彦はさっさと支配地をヤマトへ返納して恭順していたことであろう。逆説的であるがヤマト王権とは対等の独立した王国であったため双方譲れない大きな争いとなった。即ちヤマト王権を奉ろわぬ出雲王朝最後の末裔たちとヤマト王権 (邪馬臺国) との攻防であったのだ。
ただ単に出雲王朝がヤマト王権へ国譲りしたと紐解く神話ほどに史実はそう単純ではなかった。
(※ 1) 「天御蔭」は少なくとも「神武」の孫世代に相当する人物である。このことにまず注意を払うべきではないか。
天御蔭が幼児期に最晩年の歳老いた神武に知古を得て接触を重ねる蓋然性はまずない。天御蔭は「安寧」御世の人で神武が崩じた後に生まれてきた人である。神武が行幸先で出会ったという美しくうら若き女性、豊御富(とよみほ)に言葉をかけるが、その女性を天御蔭が娶ったという『記紀』伝承に私は混乱する  。その混乱は天御蔭が豊御富を娶ったからではなく、その場面に「神武」が時代を超越して幽幻と登場してくることの異世代間挿話への混乱である。[別紙-2]

『記紀』思想に流れる観念は、一貫して単純化した男子一系の高貴で麗しい歴史を描いている。男子一系であったが故のつじつま合わせが上記混乱を招き、重要な系譜の意図的削除や恣意的造作がそこここに見られる。そう!私も男子一系になんの異論もないがその経緯がそんなに生易しく綺麗ごとでは済まされなかったことを歴史の真実は如実に訴えている、そして天皇を祖先に戴く後裔氏族たちが互いの皇統の正当性を競い合った過去2000年間の中で今日に見る万世一系へと収斂していったものと考える。

時代をAD245年に戻す。
この年は魏の正治六年に相当し、前年 魏は西で蜀漢征伐に惨敗を喫し、東では高句麗による嶺東情勢が緊迫し、帯方郡においても東濊・辰韓の対応に迫られていた。この状況から帯方郡太守「弓遵」は倭への南からの策動を促していたが、その最中に崎離営で戦死した。

では倭ではその当時どういう状況であったか!と言えば、日女命(卑弥呼) の甥「建諸隅」47歳は頂点を極めていたものの、都 ヤマトと丹波の国府に繋がる丹波道を遮る玖賀国(狗奴国)に対してその支配権を巡って争っていた最中であった(別紙-4)。

そして「孝霊」38歳は父 孝安が崩じた後を継いで磯城の黒田庵戸宮(くろだのいおとのみや)に遷りその地で政を布いた。しかし、日女命が倒れて男弟の任を離れた孝霊の立場は、共立女王卑弥呼擁立時の「男弟ありて佐けて国を治」める大義名分が損なわれその正当性について懿徳王統の大彦23歳と開化20歳から疑義が惹起され、「孝霊」は単なる傀儡と捉えて物部氏と倭氏の力を背景に現体制への異議申立てを声高に唱えながら対立姿勢を露わにして不穏な動きを見せていた。とても遣使どころではなかったのである。

写真左は唐子・鍵遺跡である。孝霊の都する所であり皇后出自の地でもあった。当時の環濠集落としては国内最大で日女命の王宮「室秋津洲宮」からは北北東約12キロの距離を隔てて所在していた。
「建諸隅」は第一次魏朝遣使を務めた人物で大陸情勢に通じた国際人であった。それが狗奴国との争いに力を削がれ、都の護りがとかく手薄となっていた。
先帝「孝安」がまだ幼かったころ、その兄「天足彦国押人」と従妹の宇那比媛(日女命)がそれぞれ丹波に身を寄せていた。ところが今日に見る「孝霊」の娘「倭迹迹日百襲姫」 8才はその地へ行くことが叶わず、讃岐の水主(みずし)で身を隠していた。讃岐の水主邑(現在の東かがわ市)は伯父「建諸隅」の本営する山城国久世水主邑とも相通じる地名で同姫の終焉の地ともなったことからこの二つの邑の由縁を敢えて探るなら百襲姫の母「倭国香姫」は建諸隅の妹にして、その紐帯から両地を同名にして孤立する百襲姫との連帯を確かめ合っていた、そう私は解する。また同姫の同母弟 彦五十狭芹彦(吉備津彦) 6才は伯父「大吉備諸進」の播磨本営で匿われていた。そうした暗雲たなびく中、立太子を翌年に控えた「彦国牽」(ヒコクニクル)後の孝元 15才はとかく病弱であったが都に留まり和邇日子押人らに護られていた。この和邇日子押人もまた第二次魏朝遣使の副使(掖邪狗)を務めていた。そのときの正使は「伊聲耆」こと中臣氏の「伊世理」であった。その伊世理の父「伊香津臣」は近江湖北に在って「建諸隅」と呼応して北の狗奴国と対峙しつつ、狗奴国の傍系である南の三上氏ともその寝返りを恐れて警戒に当たっていた。(※ 2)
これが245年当時の都 磯城黒田庵戸宮 (※ 3) を取り巻く周辺情勢であった。

(※ 2)
遣使は上古からの慣わしにつづく中臣氏の専権であった。第一次も第二次も魏への朝貢は正使として前面に立って務めていた。第一次正使は「伊世理」の兄「難升米」こと「梨迹臣」であった。この慣例は遠く前漢から続いていたものでありAD57年の後漢入貢の大夫「奴国王」もAD107年の倭国王「帥升」もそれぞれ倭の全権を付託された臣下中臣氏の慣わしであった。このことは、神武東遷後も変わらない本系中臣氏の栄誉であった。更に申せば、物部氏は軍事を司る世襲家であり倭氏は一大率を含む各地国府を統括する司であった。その中で尾張氏は女王「日女命」を輩出した貴族で、ゆえに天子を戴く司の総裁の地位に就けた。ここに、物部氏はいつか尾張氏の地位に取って代わらんとする強い意志が働き、懿徳の血を引く彦大日日(開化)を担ぎ上げんとする伏線を忍ばせた。即ち、孝霊に仕える物部氏の大矢口宿禰は娘の欝色謎を没落して顧みられなくなっていた貴種「奇友背二世」に嫁がせて生ませたのが彦大日日であり、その遠謀は更に同宿禰の孫娘 伊香色謎を彦大日日と同世代の孝元に納め、皇統譜八代目にして漸く尾張氏に並ぶ天皇姻族を物部氏も持つに到るのである。
欝色謎は孝元の一世代前の人であり、AD245年当時はその児 大彦は既に23才、彦大日日(開化)も20才に成長しており、孝元にいたってはそれよりも更に年少の15才で、その孝元が欝色謎(48歳)を后に迎え入れんとする政略的必然性は極めて薄く、むしろ同年代の伊香色謎を入后させることで台頭してくる彦大日日や物部氏の圧力を逸らさんと図った!、そう解するのが自然ではないだろうか。 
 (第一章【邪馬臺国 その19】  私論皇統譜 ミッシングリンク  その1)  参照
ここに於いても不都合な系譜の隠蔽が『記紀』には観てとれるのである。

(※ 3)
唐古・鍵遺跡は巨大環濠を形成し水田稲作集落を営んでいた。一方、優れて工人工房も多数存在していた。人々はみな神の恵みに感謝して銅鐸・鏡・ヒスイなどの祭祀具を加工鋳造しながら自らも用いて祈りと祭りを朝な夕な行っていた。中でもとりわけ注目すべきは仿製鏡である三角縁神獣鏡の製作を一手に担い各地の豪族へ下賜していたことである。  (前章【邪馬台国 その十七】) 参照 
そして人・物・文化が河川流域の船便を通じて頻繁に行きかい、九州・北陸・東海・関東・東北奥州・韓半島それ以遠の中国大陸とも交易が盛んに行われていた。大王の都するところに相応しい要衝の地として紀元前の古き昔から大いに栄えていたのである。

大日本根子彦太瓊尊 (オオヤマトネコヒコフト二ノミコト)
孝安天皇の第二皇子。 后は細媛命(磯城県主大目の娘)
生母は女王「日女命」の皇女「押姫」、押姫の兄が「和邇日子押人」。

孝安天皇第一皇子は「大吉備諸進」。同皇子は祖父「孝昭」の御世に播磨に進出していた地歩を引き継ぎ、父「孝安」の勅命を奉じて更に以西へと版図を広げるべく「温羅の吉備」国を攻めていた。

諡号は、孝霊(こうれい)天皇。 邪馬台国/ヤマト王権第七代大王である。
[私論編年 AD207-251年、249年退位、在位9年。45歳で崩御]
(板厚30ミリ)

※ 物部氏が皇統譜に列した時期は、九代開化が生誕した年を以て以後とみる。(AD225年)


2014/8/15     著作者 小川正武

2013年12月20日金曜日

第一章 (完) 『記紀』に疑義ありて、【邪馬臺国 その十九】 

           
女王「日女命」を輔弼してきた男弟「孝安」が66歳(AD240)で崩御した。その年、日女命は御歳70の古希を迎えようとしていた。顧みて在位53年の永きに亘る祭政を主宰してきた彼女にとって、この不二の男弟を失った痛手は爾後の重責に耐える気力を一気に縮めた。彼女は皇霊奉斎殿で倒れ、以後病床に臥せる人となった。ために、孝安の皇子「ネコ彦フト二」 (孝霊) が代わりに立って、后「細媛」(クワシヒメ)の出生の地である磯城の庵戸宮(いおとのみや)へ都を遷し、その後即位して政を執る仕儀に至った。
そして女王「日女命」といえば、室秋津洲の宮殿から東に朝日が昇る玉手丘 (たまてのおか) の頂に男弟を篤く葬り、それに連なる夫君の陵墓と共に遥拝する癒しの日々へと変わった。
しかし、その華の都の香しい平安の日々は長く続かず、大王位を巡る異なる権力のマグマがやがてこの地で噴き出してくるのである。


私は、『記紀』には幾つかの重大な改竄があって、時の権力者がその編纂過程において不都合な部分を削ぎ取り、或は隠蔽し、或は恣意的に取り繕い糊塗した、そうした不自然な矛盾を見る一人であります。
そこで私は、素人ゆえの強みを生かして、たとえアカデミズムからの論難ありと致しましても あえてそれを意に介さず、先達諸賢の深淵なご意見をも処々取り入れながら、それでもなお自らの存念に従いここに大胆に私見を述べていきたいと思う。


AD60年ころ既に、大和の登美(大和川を挟んで大和盆地北部の地)を治める「長髄彦」は、出雲の国を治める「三輪氏」や丹波の国を治める「尾張氏」らの氏族が、冬の積雪寒冷地を避けて温暖な美しまほろばの国 大和の磯城や高尾張(大和川以南の地)へ移住してきたのを受け容れていた。そうした長閑な営みがつづいた十年後、出雲の族長ニギハヤヒ(大国主命)は長髄彦の妹君『ミカシキヤ姫』との間で「宇摩志麻治」を儲けた。
『記紀』はこの時期を境に、大和へ入ってくる大和以外の人々を「神」と称え「天降る」と表現し、王に関わる個々の人々を「命」(ミコト)と敬い、大和の地を豊葦原瑞穂の国と謳った。
私は本稿ではそうした装飾敬語を極力排して、人物名だけを而も簡略化して(時には漢風諡号・和風諱号によって)記すことに心がけている。


ウマシマチが生まれてから15年後、伝え聞くその青く連なる山々に囲まれし豊穣の地を求めて、神武はその王族と家臣団を率いて筑紫のヒムカから遠く東へ船出していった (※ 1)。
それは命がけの移住であり失敗は族滅を意味した。それゆえに安芸でも吉備でも食糧の現地調達に腐心し、略奪する度に反撃に遭い、その移動の困難さに神武から離れてその地に居着く者も多く出た。激減した移住集団はそれでも神武軍に付き従い大和の入り口河内の内湾 日下へ辿り着いた。そして信貴の龍田から大和へ侵入しようとしたが道険しく引き返した。その動きを察知した長髄彦は生駒の孔舎衙坂(くさかざか)で待ち構え、攻めくる神武軍に激しく応戦してこれを撃退した。

惨敗を喫した神武軍は、兄でそれまでの統率者「五瀬」を失い、南に敗走して和歌ノ浦の名草邑で凄惨な殺戮を繰り広げて兵糧を奪い、紀南海岸を更に転々と南下した。熊野灘で暴風に巻き込まれて難破し、命からがら二木島に漂着。神武は九死に一生を得たものの残る兄弟全部をここで失い一族郎党も全滅の危機に瀕した。が、辛うじて村人(高倉下)らに助けられて息を吹き返した。やがて体力を取り戻した武装集団は海路東進を断念、残った僅か200名足らずで熊野の邑を武力制圧し、帰順してきた八咫烏(建津身)らを矢面にたてて険しい紀伊山地を縦断、吉野から大和へ侵入するのである。
[上の板図は、AD91年ころの大和盆地の勢力図を示す。長髄彦の支配地とそれと対峙した神武の侵入ルートおよび制圧圏を表す]

紀伊山地を下ってきた神武の飢餓集団は吉野川の阿田で兵量を獲得、ひとまず飢えから脱した。先年、その下流域で名草の女酋長が神武軍に逆らって肢体を八つ裂きにされた衝撃はここ川上にも既に伝わっており無防備で小さな阿田の鵜飼集落の抵抗は即邑滅を意味し否応のない帰順であった。神武はこの阿田を兵站地として押さえ、前哨戦での消耗を避けるため潜に迂回して吉野の国栖から宇陀へ侵入、穿(うかち)邑で弟猾(おとうかし)と反目しあう兄猾(えうかし)を血祭にあげ、その肢体をここでもバラバラに切り刻んで引きづり回し弟猾の反抗心を剥ぎ取り、ひなびたこの山間集落をなんなく制圧した。ついで、長髄彦の弟「安日彦/亦の名ヤソタケル」が防衛線を張る音羽三山を遠く眺めて神武は、〝いま見る細螺(しただみ/巻貝のように這い回っている敵兵のこと)を駆逐することは熊野の二木島に這い上がって一命を取り留めた我ら鬼神にとってなんでもないことだ、いざ討ちてしやまむ〟と号令一過、手薄の国見丘を目指して一気に斬りこんだ。不意を突かれた安日彦は惨殺され、音羽三山に広く薄く這い回っていた安日彦の敗残兵は抵抗することなく投降した。忍坂邑の大室に集められた投降兵らは酒を振る舞われて酔ったところを皆殺しにされた。

この一連の残虐さは孤立無援の神武軍のもつ際立った特性で、背景には敵地深く侵入し一たび崩れれば引き返すことのできない極限状況に常に曝され、絶体絶命のなか後顧の憂いを断つための情け容赦のない徹底した敵への見せしめ行為であった。
長髄彦の影響下にある大和盆地 (平野部) はその支配地に多くの有力な豪族を抱え、子女を含めて4~5万の人口を優に擁していた。そこへ僅か200名足らずが侵入(天降る)すれば如何に強力な求心力をもつ神武軍といえども一たび下手を打てば生駒の二の舞は避けられず、その生死を懸けた緊張感はこの武装集団の脳裏深くに叩き込まれた恐怖心でもあった。

安日彦(アビヒコ)を撃破した神武軍は、いよいよ大和盆地へ侵入を開始した。それを阻まんと立ちふさがった磯城の豪族兄磯城(エシキ)は磐余と墨坂に防衛線を張った。その動きを虎視眈々と注視していた神武軍は、支隊を粟原(おおはら)に進め兄磯城をそこへ誘い出し、兄磯城がそこへ移動してくるのを待って東からゲリラ戦で挑み、その間 本隊は墨坂を一撃に蹂躙し、その勢いで忍坂(おっさか)へ駆け下り背後から挟み撃ちにして一挙に殲滅した。このあまりにも酷い狂暴さに恐れをなした在地豪族らは、その被害の甚大さに癖々し、磐余に進駐してきた武装集団の居住地をそこに認めて和睦した。それが畝傍山麓の橿原であった。神武の名「磐余彦」はその地名から名づけられたものであり、「橿原の宮」はその地に常緑高木の橿の木が生い茂っていたことから名づけられたものであった。 (※ 2)
而して『記紀』の国譲り神話の核心部分はこの橿原の一角を譲られたことを以て国の始まりと捉え、神武のことを始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と謳ったのである。 もとよりその地は元々長髄彦の弟「安日彦」の支配する領域であったことは云うまでもない。 
(上の画像は、イワレヒコ/①神武)
小よく大を制した磐余彦が怨敵「長髄彦」と対峙して、これを如何に倒したか!その経緯は本稿シリーズで既に述べている。

 次に、欠史八代の疑義ある皇統譜について焦点を移したいと思う。
九州筑紫に本拠を置くヒムカ大王の孫 神武は、壮年になってから各地の支族や有力な臣下を伴って集団で東方移住を壮挙した。その人数は定かでないが、安芸・吉備に至るまでに半数が彼の地に根を下ろし(出雲侵入で亡くなった人も多くいたであろう)、難波の孔舎衙で大敗してまたその半数を失い、熊野灘の嵐に遭遇してそのまた半数を失って人数は極端に激減していた。生き残ったその武装集団は鬼神の如き団結力を発揮して吉野越えを果たし、大和盆地へ死に物狂いで乱入した。その数はたった200名足らずであったと見る。何の根拠もないが仮にそれ以上であっても以下であっても、飢えを忍び忠誠心を維持し一糸乱れぬ統率力と結束力を発揮しながら初志貫徹することは甚だ困難であったからだ。如こうして神武軍の戦いのスケールとは斯かる局地的なものに過ぎず倭国を統一する規模では到底なく、第十代崇神の断行した統治スケールからは比較にならない局所的孤立的なものであった。しかしたとえ200名足らずといえどもヒムカ大王の孫である神武の尊厳がそのために些かも損なわれることはなく、遠く筑紫の原郷ヒムカ族と繋がっていたことは言うまでもないのである。。。

・・とは言え、神武が橿原の地へ天孫降臨したからといって周囲の豪族を敵に回して更に戦うほどの余力はなく、よそ者である神武が周辺から孤立すれば忽ち自壊することは必定、それを避けんがために神武は積極的に在地豪族の娘を娶り、地元祭神を受け容れて自らが土着化して存立を図った!。神武が日向所生の妻を差し置いて「事代主」の若き姫を娶って正妻(后)としたのはそのためであった。神武軍の酒宴の唄に〝こなみ(前妻)が な(魚) こ(乞)わばたちそばの実の無けくをこきしひゑね うはなり(後妻)が な(魚) こ(乞)わば いちさかき実の多ほけくを こきだひゑね〟と囃し立てる謡あり。前妻「吾平津媛」(アヘラツヒメ)とその息子で共に東征に付き従ってきた神武の第一子 手研耳(タギシミミ)はこれをどんな気持ちで聴いていたであろうか。(※ 3)

    神武が崩御した後、手研耳(タギシミミ)は父 神武の後妻を娶り次期王位に就かんと画策した。それまで母系で繋がっていた在地習俗に背くその冒涜行為は受け容れがたく母 媛蹈鞴五十鈴媛(神武の後妻/三輪氏)の息子 渟名川耳(ヌナカワミミ)は手研耳を誅殺して自ら王位に就いた。以後、皇統譜に筑紫からの入后は絶たれた。私はこれを〚タギシミミの変〛と仮称している。(※後代、征西もしくは巡幸した天皇が九州南部の娘を妃にした例はある)
  (上の画像は第二代大王ヌナカワミミ/②綏靖)

つぎに、稿を仮称〚イズモシコの変〛に進めたい。
物部の「出雲醜」(イズモシコ)は④懿徳に仕える大臣であった。
先帝「③安寧」の御代、安寧は末子継承を往古の仕来たりに倣い「孝昭」を日嗣の御子(皇太子)と定めていた。ところが安寧が49歳(AD158)で崩御した後、事件が起こった。
 (左の画像は第三代大王タマテミ/③安寧)
皇太后になった安寧の后「渟名底仲津媛」

(ヌナソコヒメ/三輪氏)は、腹違いの皇太子「孝昭」を廃止て、吾子「懿徳」を大王位に就けたいと強く望んだ。このときの懿徳(22歳)は、既に兄の娘「天豊津媛」(17歳)を娶っていて一子「武石彦奇友背」(タケシヒコクシトモセ)までも授かっていた。
 (左の画像は第四代大王スキトモ/④懿徳)

一方、「孝昭」(20歳)は尾張氏出自の「世襲足媛/ヨソタラシヒメ」(15歳)を娶っていた。
ここに皇位争いが発生した。大臣「出雲醜」は皇太后の意を酌んで懿徳を皇位に就け
た。ところが、懿徳在位11年目(AD170)に懿徳は35歳で崩御した。そこで孝昭が王位を宣したが、大皇太后になっていたヌナソコナカツヒメは懿徳の遺児「クシトモセ/武石彦奇友背」(13歳)を強く後押しし、為に大王位空位のまま対立は激化、両派で相誅殺しあう場面がそこここで起きた。そうした混乱のさなか、太皇太后は68歳(AD177)で身罷った。
このとき孝昭(39歳)は懿徳の遺臣「出雲醜」を解任し、代わりに世襲職物部の「出石心」(イズシココロ)と后の兄「瀛津世襲」(オキツセソ)を左右に近侍させ既に20歳に成長していた懿徳の忘れ形見「クシトモセ」と激しく対立した。
これを私は〚イズモシコの変〛と名付けている。 (左の画像は、第五代大王カエシネ/⑤孝昭)

こうした国を二分する「倭国大乱」の中、中国では黄巾の乱が発生、遼東では公孫子が台頭してきて後漢の影響力が次第に後退、倭の朝貢外交が頓挫した。そうした中、大乱収拾に乗り出したのが孝昭の后の父「天忍男」(アメノオシオ)であった。

元来、この国の人々は直接対決・徹底抗争を嫌うおおらかな縄文気質をもつ民族であった。だからこそ闖入者「神武」を「大和」が受け容れて共存の道を採ったのである。その血を引き継ぐ丹波の国の支配者で尾張氏長老の「天忍男」(70歳)は豪族会議を開き、〝両派を争いから遠ざけ、大王位空位のままその間の統治権は一旦棚上げにして当面は豪族間の合議に基づく政を執り行い、大王位の帰趨は時間をかけて探ろう〟と提唱(AD180)。その間、両派の利害に関係ないワンポイントリリーフを立てて、とりあえずこの長く続く不毛の争いから脱しようと打開策を示した。そしてピンチヒッターで登場してきたのが『宇那比姫』であった。豪族から共立された宇那比姫17歳(AD188)は、ヤマトの女王「日女命」に祭り上げられ、天忍男はその日を見ることなく他界したが女王「日女命」はその後、男王にも優るとも劣らぬ働きをみせて豪族を見事にまとめあげ統治した。ここに至ってさすがの孝昭も奇友背も急速にその存在感が薄れて退位した。大王位を巡って相争った両者であったがそれを遥かに凌ぐ女王「日女命」の出現は何故に為し得たか!それは彼らの皇祖二神「アマテラス」と「大国主命」を同時に司祭する独占的権威を彼女が持ち得たからであろう。口伝社会の当時と云えどもその情報は瞬く間に全国津々浦々へ行き渡ったのである。
(上の画像は、孝昭の后の父、天忍男。日女命は曾姪孫)

女王「日女命」に仕えた男弟「日本足彦国押人」(孝安)は、日女命の義理の弟にあたり、その兄「天足彦国押人」(アマタラシヒコ クニオシヒト)は日女命の夫であった。その夫は日女命の傍らに侍してよく補佐したが32歳(AD199)という若さで亡くなった。日女命は夫との間で二子を儲けていたが僅か12年足らずの夫婦仲で夫はこの世を去った。その二子の内一人は和爾日子押人で和邇氏の祖となり、一人は孝安の后(押姫)となって第七代大王「孝霊」を生んだ。 
(※ 叔父と姪の近親婚(異世代婚)は現代では民法で禁止されている。がしかし、この時代 その王統継承の正当性を示さんがために、たとえ近親婚であっても当該貴種の血を引き継ぐことは最も重要な慣わしであった。この例は第二代「綏靖」にも当てはまることで如何にその出自の血統が大切であったかを物語っている。綏靖の后の姉が神武の后であったことからもその血脈の維持継承が皇家にとってどれほど重要であったかが窺い知れる。)
 〚上の画像は、日女命の義理の弟 「日本足彦国押人」(ヤマトタラシヒコクニオシヒト)⑥孝安〛

上の板図は、〝私論皇統譜 『記紀』の系図に改竄ありて〟の概要図を表す。以下、それを説明する。

⒈ ④代と⑤代が同世代、
⒉ ⑥代と「武石彦奇友背」が同世代、
⒊ ⑦代と奇友背の「太子」が同世代、
⒋ ⑧代と⑨代が同世代、
⒌ ⑩代と武埴安彦が同世代、
 6. ⑪代と狭穂彦が同世代、
という関係を表している。

『記紀』編纂者はこの各世代間を父子関係とし、兄弟間で熾烈な継承争いがあったこしを隠蔽した。そして年代年齢を徒に引き伸ばし『邪馬台国』を歴史から完全に葬り去った。私はこうした〝欠史八代〟といわれる皇統譜を少しでも現実的に系統だって明らかにしたい、そう思っている者の一人である。

上の板図は、〝私論皇統譜 ミッシングリンクを解明する(その 1)〟を表す。特に「クシトモセ二世」を取り巻く相関関係を描いている。同時にAD254年央の「孝元」朝から「開化」に禅譲される過渡期をも表している。

 ※ 『日本書記』は「懿徳」の后が「孝昭」を生んだという。亦 一云【天皇母弟、武石彦奇友背命】ともいう。この意味は懿徳の母「ヌナソコナカツヒメ」の弟、武石彦奇友背が孝昭の父だとも聞こえる?。だとするなら武石彦奇友背の父は必然的に鴨王ということになるから孝昭は神武の血脈から外れる!。ここに懿徳と孝昭が血脈を異にしていることを暗示する。この王統分裂はまさに懿徳と孝昭の間で起こり両者が親子関係ではなく父を同じくする異母兄弟であったことを意味した。この異母兄弟は母系直系か末子嫡系かで安寧崩御後 継嗣争いに発展、その渦中で不都合な立場に置かれた懿徳の嫡子「武石彦奇友背」が記紀編纂時の権力者らによって歴史から消し去られた。そして皇統譜における兄弟間の激しい王朝交替劇があったことをひた隠しに隠した。ところが『先代旧事本紀』「天皇本紀」や『日本書紀』は同権力者の目を畏れるがごとく また贖うがごとくその名を曖昧模糊に付記し、『古事記』もまたその欠くべからざる重要な人物「多芸志比古命」の存在を後世への手懸りとして残した。即ち、奇友背の児は物部氏の嫡女を娶りその子が第九代大王「開化」となって新たな王統「巻向王統」の開祖となるのである。

 この『記紀』編纂者たちの巧妙な系譜のすり替えを今日の権威ある史学会が認めることはまずない。なぜならそれを立証するにたる逸文が見当たらないからである。ここに趣味を生かした素人というフリーな立場から、独自見解が発表できる私の強味があった!。その強みを生かして更に大胆に申し上げるなら、列島での異民族による騎馬民族征服などというものはなかったし、九州邪馬台国もなかった。神武とそれにつづく後裔大王の貴種は悉く大国主命の閨閥やその支族苗裔たちによって独占されつづけ、遠く源郷ヒムカ族を出自とする神武一身の血は、ヤマトの地に天降ってから瞬く間に在地豪族(地祇)の中へ同化吸収されていったのである。

※ 小よく大を制したが結果は邪馬台国(大和)がヒムカ九州を併呑したことをその後の歴史は物語っている。しかし神武を祖とするこの創始血統(天皇家)は確実に現在に続いているのである。

※ではなぜ正史であるはずの『日本書紀』がこれほど重大な事実を隠さねばならなかったのか?、それは天皇を祖先とする氏族同士が互いに覇を競って争い、敗れた側が歴史の表舞台から消え去った。勝った側は正史からその痕跡を完全に葬り去りたかった!簡単に云ってしまえばそういうことに帰結する。


上図 【別紙-1】は〚(私論)初期皇統譜の流れ〛を示す。

上図 【別紙-2】は〚(私論)神武⇔孝安の地祇の流れ〛を示す。

懿徳亡き後(AD170)、その一子「クシトモセ」(13歳)の擁立派と鋭く対立する孝昭(32歳)は一歩も譲らず互いに誅殺しあう場面が何年もつづいた。そして、クシトモセ最大の後見人であった祖母の太皇太后ヌナソコナカツヒメが崩御した。力の均衡が破れて王統分裂の危機がますます迫る中、それに割って入り楔を打ち込んだのが大国主命の曽孫「天忍男」(別紙-2)であった。 そして天忍男は豪族会議を重ねて忍耐強く合意形成を図った。やがてそれが共立女王誕生に結びつき、AD188からAD247にかけて約60年間、同女王の下で長期安定政権が生まれて祭政が粛々と営まれた。この間、外交においても特筆すべき事績が今日に残されている。
然るに『記紀』はその輝かしい事績はおろか皇統譜までも〝不都合な真実〟としてこれを恣意的かつ確信的に隠蔽した。
その隠蔽とはそも一体なにを指しているのか、日女命の御代に皇統譜に一体なにが起こっていたのであろうか?!、

                ◆                      

孝昭の日嗣の御子「孝安」は、日女命の男弟として亡き兄に代わって事実上の執政を行い40年間辣腕を振るっていたが66歳(AD240)で崩じた。翌年、孝安に代わってその皇子「孝霊」(34歳)がその後を引き継ぐが、そのころ懿徳の孫「クシトモセ二世」(51才)はウマシマチの四世孫「欝色迷」(ウツシコメ)を娶っていて二子を儲けていた。兄は「大彦」(当時19歳)、弟は後の「⑨開化」(16歳)で血気盛んな青年に育っていた。一方、孝霊にも日嗣の御子で後の「⑧孝元」(11歳)がいたが虚弱な面は否めず、日女命が倒れた後の孝霊専制政治に対してクシトモセ二世からの不満は次第に露わになった。孝霊治世7年目に日女命が崩じるやその喪が明けるのをまって王位継承を巡る争いが一段と高まり遂に孝霊はその坐を追われ大王位は空位同然(AD249)となった。ところが『記紀』はこの間のそうした事実は一切伏せて父子相続が恙なく連綿と続いていたことを企図し、斯かる騒乱がまるでなかったかの如く糊塗し、『クシトモセ二世』の名を『女王日女命』の名 同様その存在を系図上からも史実からも完全に消し去った。

   
物部氏は神武のヤマト王権開闢以来、大王家の九世代目にして漸く「開化」の生母となる女性「欝色迷」(ウツシコメ)を皇統譜に送り込んだのである。

左図は〚私論 皇統譜 (その2)〛を示す。
下図はその拡大図を二分割にして表しています。
『記紀』による上古天皇生歿年に関し、干支を基準とすることは凡そ有史実年とは懸け離れた神話的紀年が混濁していて採用できない。
ここに私の〚私論編年〛および〚私論 皇統譜〛が史実に相当程度の蓋然性をもつ。勿論、素人見解であるがゆえに頭から否認される識者も中にはおられるであろう。しかしそうした偏狭は史実に立脚していれば問題ではなく、私なりの所見を勇断をもって発表することはそれなりに重大な意味をもっているものと自負している。
上の板図は、〝私論皇統譜 ミッシングリンクを解明する (その2)〟を表す。

懿徳の曾孫「大彦」と「開化」の二兄弟は、その王統嫡流の正統性をかざして孝霊朝に挑み、86年前とは真逆の立場で王位奪還を目指した。この強気の背景には懿徳朝大臣「出雲醜」の姪孫「欝色謎」(物部氏)を母に戴き、同じく懿徳朝高官「武速持」を父に戴く「邇支倍」(倭氏)が同王統路線を強く支持して隠然と後ろ盾になっていたからである。
過ぐる「天忍男」のときは数年かかって事態収拾に当たったが、今回それに代わる調停者が居らず「天忍男」の曾孫「和邇日子押人」(55歳)は、孝霊に近侍していて武闘派「大彦」(23歳)と対峙して高地性和邇邑(天理の東部)に頑強な二重砦を構えて戦いに備えていた。時にAD245年央のころ。

※ 和邇日子押人はこの二年前、第二次魏朝遣使の副使(掖邪狗)を務めていた。しかしこの年の魏朝からの遣使策動(出兵要請)には何ら応えることができず魏朝を失望させる結果となった。それは物部氏・倭氏 VS  尾張氏・葛木氏という豪族連合二派の間で次期大王位を巡る激しい対立抗争がこのとき 既に再燃されつつあったからである。
 下の板図は、〝私論皇統譜 ミッシングリンクを解明する (その3)〟を表す。
縄文時代16,000年を経て弥生時代へ文化が移行したが、その900年の内たったの200年間 それが神武から崇神に至る幻の古代国家「邪馬台国」であった。そのことをここに凝縮して表している。(※ 4)
邪馬台国は大王家が分裂して争いがつづく中、半島経営の関心が遠のき狗耶韓国の倭人社会は次第に置き去られ力の空白が生じた。そして、半島を南下してくる夥しい異民族らの攻勢によって次第に同化吸収されていく運命を辿った。

の像は、日女70歳と甥の娘 天豊姫4歳 (後の臺与) のある日のスナップ   
倭の風習である柏手(かしわで)を打っているしぐさであろうか幼い天豊姫、それに寄り添い静かに見守る日女命(宇那比媛)!  背景は魏志倭人伝の一節である。[時、AD241年/魏の正始二年に当る]

(※ 1)
神武は筑紫ヒムカ大王の末裔であった。紀元前の或る時期、出雲王朝の強盛時代にその勢いに押されて日向へ一時身を隠した同女王「アマテラス」は、稲作に適さない痩せたその疎開地で苦しむ民人を見て、いつか東方のもっと豊かな土地を与えたいと強く望んでいた。やがて時代が下り神武の時代になって、力をつけてきた筑紫ヒムカ族は筑紫野の出雲族を吸収し亦は駆逐し、その膨張する勢力を駆って東方進出へと乗り出した。時に紀元86年ころで祖母アマテラスの遺志を実行に移した。天孫と謳われる由縁はまさにこれを起源とする。

(※ 2)
紀元前をはるかに溯ること大和(唐子・鍵遺跡)は瀬戸内海や日本海の交易ルートを通じて既に北部九州はおろか半島や大陸とも繋がっていた。
神武の武装集団が大和へ侵入してきたとき「長髄彦」率いる地元の防人がこれを阻止したが、もしこれが大国主命のように穏やかに降臨していればまた状況は

変わっていたかもしれない。神武が小規模で盆地南部へ忽然と闖入してきたとき、その異常行動をいぶかる長髄彦は、侵入者神武を未開の得体のしれない兇賊と捉えて遣いを立てて尋問(AD91)した。神武は抗弁し「大国主命」となんら変わらない先進文化(鉄器/宝剣)をもった優れた民であることを立証してみせた。当時、不幸なことに大国主命は世継ぎの孫娘二人が兇賊が席巻する地で行方知れずであることに憤怒し、防人の長であった「長髄彦」にその敗戦の責めを一身に負わせて死を賜わり憤死させた。
上の画像は、大国主命。左の画像は長髄彦

いつの時代にもあるこうした不条理は、多くは人間の内に宿る弱さから他者を不幸に追いやる身勝手から生じる、けれどもそれを乗り越えて「長髄彦」を伯父に戴く〚宇摩志麻治〛(物部氏)の末裔たちは逞しくも雄々しく栄えていった。

(※ 3)
イワレヒコは、在地豪族の「剣根」(葛木氏)の下に匿われていた高貴な姫(大国主命の孫娘)をいち早く后として迎え入れ、そうすることによって敵対する周辺諸豪族との融和懐柔に努め、自らの脆弱な勢力基盤を急いで立て直し存立を図った。その姫こそ「事代主」(三輪氏)の娘「ヒメタタライスズ媛」であった。

(※ 4) 
倭の海人たちは常に複数の外洋船を仕立てで渡海し盛んに交易を行っていた。列島からは主として水産加工物を、半島からは鉱物資源を主に移入していた。半島の南部は狗耶韓国という倭を構成する一国であり倭人が多く住んでいた。三韓亡民がその狗耶韓国へ流入しだしたのは正始6年(245年)に起きた韓族の反乱による郡太守「弓遵」の戦死と、その後の帯方・楽浪二郡による韓族討滅によって生じた流民であり、それらが狗耶韓国の倭人と混血し、その二世三世が垂仁朝以降、本州を目指して渡来してきた。
私はそれまでのこの地域を〚環古代倭地圏〛亦は〚弥生時代倭人圏〛と名付けている。 〚私論皇統譜 (その3)〛

〈註〉
ここにお示しの見解は、あくまでも私の趣味の域を出ない素人判断を述べているに過ぎない。従って、定説通説と大きく異なっていてもその責を負うものではありません。なお、各項目の中で第三者の図書等を便宜上一部引用している箇所がございます、何卒ご理解ご了解ください。なおこの〈註〉記は以後、省略致します。

別途 My heart〚肖像木彫り〛作品集あり、  ブログアドレス http://kibori-2.blogspot.com

2013/12/21     著作者 小川正武